2022年12月26日月曜日

「クリスマスの光」(日曜日のお話の要約)

主の降誕礼拝(白)(2022年12月25日)
イザヤ書 52章7-10節(1148)ヨハネ福音書 1章1-14節(163)


 みなさん、クリスマスおめでとうございます。

 昨夜はこの場所でクリスマスイブ礼拝を行い、「世界ではじめのクリスマス」と題して、イエス様が生まれた夜のお話をいたしました。
 イエス様がお生まれになった「世界ではじめのクリスマス」は2000年前の出来事ですが、日本で最初に祝われたクリスマスは、いつだったでしょうか。答えは今から470年前、西暦1552年、安土・桃山時代のことです。

 日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師、フランシスコ・ザビエルが、山口県に滞在中、人々を集めてお祝いしたと言われています。1560年には、京都で、100人の日本人キリスト教信者が集まり、クリスマス礼拝が行われたとも記されています。
 戦国時代、合戦の最中、緊張感高まる中で織田信長と松永久秀があえて戦を止めてクリスマス停戦を行ったと言う出来事をご存知かもしれません。戦国武将の中でトップの人気を誇る織田信長は、短気で、無慈悲な一面も持っていたと言われます。しかし、最近の歴史研究や考察では、信長は天下人になることを願ったが、その動機の中には戦のない世界を作りたいという思いがあったのではないか、とも言われています。その手段の一つとして日本にキリスト教を取り入れることを認めたのかもしれません。

 しかしその後、支配者が代わり、鎖国政策が敷かれ、キリスト教も厳しい禁教令の下で、クリスマス礼拝やパーティどころではなく、日本のキリスト教はほとんど途絶えてしまいましたから、クリスマスのお祝いが再開されるのは明治時代まで待たなくてはなリませんでした。

 調べてみますと1874年の築地で、日本人がクリスマス会を開いた記録があります。とはいえ、その研究者によると、これ以降のクリスマス会は華やかに祝われるにしても、キリスト教からきっちり宗教部分を除いて定着していったそうです。日本のクリスマスが、クリスマスからキリスト教を抜いて、まるでサンタクロースのお祝いのようになってしまったのは、かなり早い時代だったのです。

 さて、本日のヨハネによる福音書は、イエス様のお弟子さんの一人、ゼベタイの子ヨハネによって書かれました。ヨハネは中心的な弟子の中で一番若く、見た目も美しかったようです。しかしイエス様から「雷の子」というあだ名つけられました。それは彼が短気で喧嘩っ早く、イエス様に失礼な振舞をした町を「焼き滅ぼしましょう」などと口走る物騒な性格だったからです。
 また、彼の兄もイエス様の近くで学ぶ弟子の一人でしたが、救い主としてのイエス様の働きを十分には理解できず、二人してイエス様の前に進み出て「イエス様が救い主としてユダヤの王様になられるときには、自分たちをその片腕にしてください」と願い出ます。
 彼らの母親はイエス様の弟子たちのお世話をするために一緒に旅をしていましたが、彼女もまた「息子たちを重要な地位につけてほしい」と願い出たことが他の福音書に書かれています。要するに、この一家はイエス様のことが大好きで弟子としてお役に立つことを喜んでいましたが、本当のところでイエス様のお考えを理解していなかったのです。

 ヨハネはイエス様の弟子とはいえ、短気で、けんか早く、打算的な面のある、ごく普通の青年でした。ですから、イエス様が国のトップの人々の罠にかけられて捕らえられ、十字架で亡くなった時、真っ先に逃げ出してもおかしくありませんでした。確かに、イエス様の弟子の多くは自分が逮捕されるのを恐れて、逃げ出しました。そんな中で、ヨハネだけはわずかの女性の弟子やイエス様の母マリアと共に、十字架のそばで息を引き取るイエス様を見守ったのです。

 十字架の死から三日ののち、イエス様は復活し、ご自分を見捨てて逃げた弟子たちのところに行ってお赦しになりました。それは、人間がどれほど醜く弱い心を持っていても神様は変わらず愛してくださることをはっきりと伝えるためです。
 そしてこの教えを信じて生きるものは、地上の命が尽きた時、神の国に受け入れられて永遠の命が与えられると語られ、神様の元に、天国に帰って行かれたのです。

 ヨハネはこのイエス様の教えをしっかりと受け止め、キリストの教えを伝える伝道者となります。彼は理解の遅い人にも愛を込めて優しく教えました。もう、前のような「雷の子」ではありません。いつの間にか「愛の人」と呼ばれるようになりりました。それはイエス様に赦され愛され、人を本当に愛することを知ったからです。

 イエス様の愛によって成長したヨハネは、イエス様がご覧になったようにこの社会を見つめました。この世には以前の自分のように、自己中心的な人々が溢れていて、傷つき傷つけられながら生きているのです。誰かを心から信用することも頼ることもできなくて、孤独に苦しんでいるのです。ヨハネにはそれが見えました。だからこそ、自分に与えられたイエス様の愛、命の光を伝えようとしました。

 旧約聖書の創世記には、人間はもともと神様に愛を込めて作られた存在だと書かれています。ヨハネが、それが本当のことだとはっきりわかったのはイエス様のお導きでした。
 最初の人アダムとエバは自分から神様を裏切り、楽園から出ていかなくてはならなかったけれど、神様は変わらず人間を愛していること。それを伝えるためにイエス様はこの世に来られたこと。イエス様のおっしゃることを信じれば、この世の人生を終えた後、神様が天の御国に召されていくのだということ。
 イエス様はそれら全てのメッセージを人々に伝えるために、お生まれになった、まことの救い主なのだ、とヨハネは伝えたのです。イエス様のお誕生を大いに喜ぶのは、そのためなのです。

 ヨハネは自分の福音書の第一章に、創世記の始まりと対になるような表現で、イエス様は暗闇に輝く光だと書きました。光というのは、昼間は明るく私たちを照らしていても気にも止めませんが、周りが暗ければ暗いほど必要です。
 人生が順調な時、それが当たり前だと思っている時は、光がそばにあっても気がつきません。しかし何かに失敗して、自分はだめだ、まるで深い闇の中をひとりぼっちで彷徨っているようだと思った時、光の存在を求めます。そして、自分を照らす光がどれほどありがたいか知るのです。ヨハネはイエス様こそ、人の心の暗闇に差し込む光だと告げるのです。

 イエス・キリストの誕生を覚えるクリスマス。小さい子どもも、おじいさんもおばあさんも、病気の人も、何か失敗してクヨクヨしている人も、イエス様は全ての人に関わってくださり、共に歩いてくださいます。この方の誕生を私たちは心から喜び、全ての人に伝えましょう。
 イエス様、まことの救い主の光は、全ての人を照らすのです。 


みなさま、24日、25日はどのようにお過ごしでしたか?
飯田は24日未明より雪が降り始め
朝6時には教会周辺でも15センチほど積もっていました。




大急ぎで雪かきを開始しましたが次々降ってきます。
一旦諦めて見守っていますと、陽が差し始め気温も上がって
かなり解けてくれました。
ホワイトクリスマスも良いのですが
教会に車で来る人がほとんどで、あまりひどいと
礼拝出席の妨げになります
思ったよりも気温が上がったイブの夜
無事にイブ礼拝が行われました




25日は日差しも暖かく、礼拝の時間には
8度近くまで上がり、換気をするのも楽でした


こども聖歌隊は「サンタが町にやってきた」の替え歌で
「イエス様がお生まれだ」を手話を交えて元気に賛美



メンバーのお母さんはベーシスト!


リーベクワイヤの皆様
二日連続のご奉仕ありがとうございました


コロナ禍の影響で2日とも愛餐はできませんでしたが
飯田教会なりの工夫で和やかに過ごし
集まった皆様とともにイエス様のご降誕をお祝いしました

記念撮影の後、代議員さんから
礼拝出席の皆様にプレゼントが配られました




2022年12月18日日曜日

「インマヌエル預言」(日曜日のお話の要約)

待降節第4主日礼拝(紫)(2022年12月25日)
イザヤ書7章10-16節(1071) マタイ福音書1章18-25節(1)

 本日の説教題である「インマヌエル預言」とは、旧約聖書から新約聖書へと続く大切なメッセージです。「インマヌエル」とは「インマヌ」、つまり「われらとともにいる」という言葉と、神様を表す「エル」を組み合わせた名前で、「神はわれらとともにいる」という意味があります。 

 インマヌエルという名前が聖書に最初に登場するのはイザヤ書7章14節で、「乙女が身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という記述です。これは「インマヌエル」という名前の赤ちゃんが生まれる、という意味ではありません。「神様はわれらとともにいてくださる」と証明する人物がやがて乙女から生まれる、という預言なのです。 

 イザヤ書が記されたのは紀元前700年頃で、まだギリシャもローマも存在せず、アッシリヤという大国が周辺を支配していました。イスラエルはと言いますと、北と南に分かれて敵対関係にあり、北側の王国イスラエルは、まさにアッシリヤによって滅ぼされようとしていました。  南側はユダ王国と言いますが、こちらも常に不安定な状況にありました。国王のアハズは、アッシリアに逆らわないことを示すため、アッシリアの神々を自らの国に導入して神殿を建て、宗教儀式も導入しました。父なる神様の存在をないがしろにしたのです。

  歴史はややこしいもので、ユダ王国が国を守るためにアッシリアに擦り寄る反面、アッシリアに反発する国々が立ち上がります。そして「共にアッシリアと戦おう、反アッシリアの同盟を組もう」と持ちかけてきたのです。しかしアハズ王はこれを断ったため、今度は反アッシリアの同盟軍が「ならばお前も敵だ」とばかりに押し寄せてきます。 
 今日の聖書箇所は、同盟軍に震え上がったアハズ王に対し、イザヤが投げかけた言葉です。イザヤは「反アッシリア同盟軍は壊滅するから大丈夫だ。神様は力強くあなたを守るから、神様だけを信じなさい」と呼びかけるのです。ところがアハズ王はアッシリアの軍事力が自分たちを守ってくれると考え、神様に立ち返ろうとはしませんでした。 

 この時ユダ王国はなんとか救われましたが、アハズ王の後を受けた王様たちも神様に絶対的な信頼を置こうとはせず、軍事費を増強させたり、周辺の国々と無意味な同盟を結んでは裏切られ、を繰り返します。 

 イザヤをはじめとして多くの預言者は、神様がもっとも悲しまれるのは「不信の罪」だとメッセージし、神を信頼しない罪を指摘し続けましたが、王様も民衆も純粋な信仰に立ち返ることはありませんでした。その結果として、結局200年足らずの間に、新たに台頭したバビロニア帝国との戦いに敗れ、国土は蹂躙され、人々は捕囚され、神殿も焼かれてしまったのでした。 

 しかし神様はイスラエルの民を見捨てることはなさいませんでした。バビロニア帝国に連れ去られた民衆は、神様の奇跡によってやがて祖国に帰ることができました。祖国に戻った民衆は神殿を再建し、律法を重視し、一見信仰深く神様中心の国を作り上げたかに見えました。しかし結局は肝心なところで神を頼らず、信頼せず、人間の浅知恵で行動した結果、ペルシャ、ギリシャ、ローマによって次々と支配されることとなってしまったのです。

  とはいえ、彼らは聖書を大切にする伝統だけは失わず、どのような状況に陥っても子どもたちに聖書教育を与え続けました。それで、イザヤ書もまた大切に受け継がれ「インマヌエル預言」は「イスラエルを救う救い主が来てくださる」という神様からの約束として受け継がれていきました。

  旧約聖書と新約聖書を結ぶ一番初めの書、マタイ福音書は長い長い系図からスタートします。そしてその系図の直後に、イエス・キリストの誕生予告が記されています。ヨセフの夢の中に天使が現れ、改めて「インマヌエル預言」を告げています。その時ヨセフはマリアの「謎」の妊娠を知り、不貞を疑って夫となることを躊躇していました。しかしマリアの胎にインマヌエルなる神が宿られたことを信じたヨセフは予定通り彼女を妻として迎え入れるのです。

  こうして誕生されたイエス様は、神様の御用を果たすために罪人と呼ばれる人々と交流をし、荒んだ人生に生きる人々を悔い改めに導き、病を癒やされました。十字架の死に至るまで神様を信頼する姿勢は変わることなく、強烈な痛みや屈辱を耐え忍ばれ、神様が人々をどれほど大切に思っておられるかを伝え続けました。  やがてイエス様が復活し天に帰って行かれた後、キリスト教が様々な民族の間に広がって行くにつれ、「インマヌエル預言」はクリスマスストーリーの印象的な出来事の一つとして多くの民族が読み、愛する場面となっていきました。

  そして人々はついに「インマヌエル」とは「イスラエル民族の救い主」という枠を超えた存在であると理解するようになります。「神様はどのような民族であれ、どのような立場であれ、われらとともにいてくださる」と信じることができるようになったのです。 

 クリスマスは何世紀にもわたって預言され続けたインマヌエルなる神、イエス様のお誕生を喜ぶ日です。かけがえのない家族や友人と過ごす時間は大切ですが、それだけに流されないで、イエス様があらゆる人々を愛されたように、人生に打ちひしがれた人々に出会ったなら、愛を持って接し、神様が共におられることを伝え、祈ることは忘れないでください。あなたが必死で努力しても、その言葉に素直に耳を傾けてくれないかもしれませんし、空しくそこでは終わってしまうように思えるかもしれない。けれども、その言葉は必ずどこかで希望になるのです。


1月7日のどよう学校で制作する予定の
「ぽんぽんうさぎ」です
ふわふわした暖かそうな動物を作ることに決め
あれこれ試作していたら
いつの間にかうさぎができていました
干支を意識したわけではなかったのですが…
長い耳や小道具のにんじんが
子どもたちの「工作心」を
刺激してくれることを願いつつ



2022年12月12日月曜日

「天国の開国」(日曜のお話の要約)

 待降節第3主日礼拝(紫)(2022年12月11日)短縮
イザヤ書35章1-10節(1116)マタイ福音書11章2-11節(3)

 本日の福音書には、先週に引き続いて洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネはヨルダン側の岸辺でイエス様と出会い、この方こそ「救い主」であると確信します。

 ヨハネは神様に忠実に生きるために俗世を離れ、荒野で禁欲的な生活を送ってきました。誰とも馴れ合わず、相手が誰であろうが神様の御心から外れていると思われる人には悔い改めを迫り、厳しい言葉を語りました。その結果として、時の領主ヘロデを批判した罪で捉えられ牢に繋がれました。

 ヨハネを新しい時代のリーダーだと考えていた人々は大いに失望しますが、その後を受けるようにイエス様が宣教を開始されます。そのお言葉と行動には素晴らしい力が宿っていましたから人々は喜んでイエス様の教えを聞こうと集まりました。


 ただ、イエス様の生活はヨハネの禁欲的な態度とは対照的でした。イエス様は、相手が罪人と呼ばれる徴税人であろうと招かれれば一切気にせず招待に応じ、共に食卓を囲んで楽しく飲み食いなさいました。ヨハネの厳しい教えに従おうと考えていた人々には奇妙に映ったことでしょう。民衆は洗礼者ヨハネの教えに留まるべきか、それともイエス様の教えに従っていくべきか、大いに戸惑ったのです。


 民衆にとっては、ヨハネもイエス様も、イスラエルの社会を大きく変革させる指導者でした。この二人のどちらかの行動一つで国が変わる、と考えました。

 イスラエルは古くから宗教指導者が政治家も兼ねる宗教国家でしたが、イエス様の時代、そういった人々の多くは堕落したり支配国であるローマに擦り寄ったりしていました。その有り様を内心嘆いていた人々は、ヨハネかイエス様によってイスラエルをあるべき姿に戻してもらえるかもしれない、と考えました。


 イスラエルは紀元前1000年前のダビデの時代が絶頂期でした。ユダヤ人なら誰でも、その時代への強い憧れがあったのです。人々はどちらかがリーダーとなってローマを追い払ってくれれば、ダビデ王の時代のような神様中心の強い独立国に戻れるに違いない、と期待を抱いたのです。イスラエルの人々にとって宗教リーダーとはそこまで大きな役割を負う存在だったのです。


 私たち日本に住む人間には想像できないほどの使命の違いですが、宗教家にしろ政治家にしろ、どんなに良き指導者が現れたとしても、その人たちに責任を押し付けて自分はしんどい役目を負うことをせず、ただ利益を与えられることだけを待ち望むなら、国は一時的に良くなったとしても、あっという間に元の混沌とした状態に戻ってしまうでしょう。


 イエスはそのような人間のそういった良くない性質を十分ご存知でした。その上で、そのような人々を厳しく断罪したヨハネとは異なり、むしろそういった底辺の人々のところにご自分から出向かれました。そのため、エリート的な人々や真面目が取り柄のような人々から誤解され悪い噂を流されましたが、少しも気になさいませんでした。


 ヨハネの言うように潔癖には生きられない、と諦めていた人たちにとって、イエス様は親しみやすく、それでいて大切な教えを教えてくれる素晴らしい教師となりました。その上、癒しの奇跡を行われたので、民衆はイエス様にどんどん惹きつけられていきました。


 ヨハネは、牢に繋がれていましたが、看守や自分の弟子からイエス様の噂を聞いたのでしょう。イエス様のところに人を遣わして、「来るべき方」つまり「救い主」はあなたなのでしょうか、と問いかけたのです。


 これは不思議な問いかけです。先にお話ししたように、ヨハネはヨルダン側の岸辺でイエス様がヨハネから洗礼を受けることを望んだ時「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と辞退しようとしたほどです。ヨハネはこの時イエス様がメシアであることを確信していたはずです。

 ヨハネが本当に疑ったのか、念押しだったのかはよくわかりません。ヨハネに問いかけに関して、イエス様のお答えは今日の福音書に記されているように少し遠回しだったからです。


 イエス様は要約すれば「私のしていることを見れば、メシアかどうかわかるはずだ」とお答えになってヨハネの弟子たちを帰されます。

 その後、ご自分の話を聞きに集まっていた他の人々を前に、ヨハネの働きを非常に高く評価されました。ただしそのお言葉の中に感じられるのは、まことの救い主であるご自分が来られたのだから、ヨハネの果たすべき役割は終わった、ということでした。


 洗礼者ヨハネは、自分勝手な生き方をしてきた者でも、その罪に気づくなら神様は裁かないで赦してくださると教え、迷いつつも自分の元にやってきた人々に悔い改めの洗礼を授けました。そうすることで本来なら神の国に入れる資格がないと思い込んでいた者たちにも天国の門が開いた、まさに天国が開国したのです。


 それでも、世の中には悔い改めようとしない人々は大勢いました。「どうせ自分なんて」と考えている人々です。しかしイエス様は天国の間口が限りなく広く、天国がどれほど豊かであることを示すために、民衆の中に入りこまれたのです。何度も言うようですが、イエス様はこの世の罪人と語らい、共に食事をし、大酒飲みの大ぐらいと揶揄されても、この世で生きづらさを抱えながら開き直っている人々と親しく交流し、天国が彼らの生きる希望、生きる目的になるよう、全力で関わられたのです。ここに、愛の姿勢があるのです。


 私たちは、イエス様が示してくださった天国に至る広き門を知っています。そのイエ様の誕生を喜び、告げ広める者として招かれているのです。クリスマスを前にしたこの季節、私たちは改めてイエス様の生き方に学んで参りましょう。



飯田教会には立派なネイティビティはありませんが
小さくて質素なこのセット、
ファーストクリスマスの情景のようで
結構気に入っています
今年も礼拝堂の正面で
静かにクリスマスの訪れを知らせてくれています





2022年12月5日月曜日

「洗礼者ヨハネ」(日曜日のお話の要約)

待降節第2主日礼拝(紫)(2022124日)
イザヤ書111-5節(1078) マタイ福音書 31-6節(3


 これからの1年、私たちはマタイによる福音書を通して御言葉を聞いて参ります。マタイによる福音書の特徴は、著者であるマタイが徴税人出身だった、という経歴のユニークさにあります。彼は大金を叩いてローマの犬となり、税金を集める立場を獲得しました。同じユダヤ人から裏切り者、罪人と罵られても金儲けをやめられなかったのに、イエス様に招かれた時、富やローマの後ろ盾をあっさり捨て、弟子となって従う道を選んだのです。

 そのマタイが「キリストの言葉と行いはこの世の全ての民族の知恵や知識に優る」と確信して書き上げたイエス様の伝記がこの福音書なのです。ですからマタイはイエス様誕生の際、異教徒である占星術の学者たちが東の国から訪問し、ひれ伏して礼拝した、とあえて記すのです。


 イスラエルは長い歴史の中でたびたび戦いに敗れますが、神様の愛の前に悔い改め、奇跡的な復活を遂げます。それはひとえに神様の側の哀れみによるのですが、そこを過信してしまうのが人の悲しさです。


 イエス様がお生まれになった当時、ユダヤは宗教と政治が一体となった宗教国家でした。主流派は神殿を司っていたサドカイ派と、聖書と律法の教えを重んじるファリサイ派でした。しかし彼らは神様からご覧になれば見当違いの信仰生活を送っていました。

 サドカイ派は神殿と儀式さえ守っていれば神様が守ってくれると教えていましたし、ファリサイ派は律法を守ることを何より重視しました。この二つのグループはライバル関係で、決して仲が良いとは言えませんでしたが、熱心に信仰生活を送っている自分たちを神様が滅ぼすわけがない、という考え方は共通していました。


 彼らが謙虚になってじっくり旧約聖書を読んだなら、自分たちの態度が神様を悲しませていることに気づいたかもしれません。しかし民衆を指導する立場の彼らは、言うなればふんぞり返って人々から尊敬されることを好んでいましたから、謙虚になることはありませんでした。


 しかし彼らがいくら「我が国は大丈夫だ」と言っても、庶民は盲目的にそれを信じることはできませんでしたから、従来の指導に嫌気がさし、ひたすら神様の教えに従った生活がしたいと望んだ人々もいました。荒野で集団生活し、霊性を高め、時に断食しつつ、「神殿に過剰に頼らなくても神様に仕えることはできる」と信じて神の御心に生きようとしました。その人々ははエッセネ派と呼ばれました。

 洗礼者ヨハネもエッセネ派の一員として俗世から離れていましたが、ある時神様の召しを受けて、荒野から「悔い改めよ、天の国は近づいた」と叫び始めます。彼は神様の御言葉をいただいて、それが民衆にどれほど耳の痛いことであっても伝える役目をおったのです。


 ヨハネの厳しい声はイスラエル全土のユダヤ教徒の人々の耳に届きます。これは社会に大きな波紋を投げかけました。

 ヨハネの「悔い改めよ」の一言は「自分はこれでいいのか?」と悩んでいた多くの人々の心に突き刺さりました。ユダヤ民族は古代から非常に聡明な民族だと言われていました。幼い頃から聖書に基づいた教育を受け、読み書きもできました。そんな彼らでしたから、ヨハネの言葉を聞いた時、自分が神様に向き合わず、表面的な信仰生活に終始していたことに気づき、続々とヨハネの元に来て自分の行いを悔い改め、その証としての洗礼を受けたのです。


 私たちは、イエス様は何でも赦してくださる、となんとなく甘く見て、悔い改めの祈りや行動を改めることを、あまり大切に捉えていないこともあります。しかし、ヨハネの語る「悔い改めよ」とは、これから天国に勝るとも劣らない場所を地上に創っていくから、あなたがたはそれに備えなさい、というものなのです。そのためにまず罪を告白し、洗礼を受け、天国の実現のために真剣に信仰に歩みなさい、という招きだったのです。「神の国」というのは観念的なものではなく、神様がご自分を信じる者たち一人一人を用いて、作り出してくださるものなのです。


 洗礼者ヨハネは「自分がその神の国を作り出す存在だ」とは決して言わず、後から来られる方がその国を作るための準備をしているに過ぎない、と語りました。後から来られる方、とは言うまでもなくイエス様のことです。

 イエス様は、神の国、遥か高みに鎮座して「私を礼拝しろ」と命令する神ではありません。神であるにもかかわらず人として生まれ、かといって特に目立つお姿でもなく、ただ人としてのすべての苦難や悲しみを知り尽くした上で、一人一人に関わってくださる。そして、わたしを用いて、導いてくださることを約束してくださる方なのです。


 私たちはそのイエス様に招かれました。イエス様が地上にお生まれになってから2000年以上が経ちましたが、イエス様は始まりの時から何一つ変わっておられません。マタイ福音書を記したマタイが、富も地位も捨ててイエス様に付き従ったように、私たちもイエス様の地上でのご誕生を喜び、出会ってくださったことに感謝し、その方に倣うことを喜びとすることができるのです。


 世界にあるキリスト教会は、時に権力に囚われ大きな間違いを犯します。イエス様への謙虚な信仰がぼやけてしまえば、クリスチャンといえどもいつ世の中に流されてしまうかわかりません。だからこそ私たちは神様が示してくださった愛と寄り添いの世界こそが、神様が喜ばれる世界であることを心に刻み、心が迷うときには「悔い改めよ」のヨハネの声を心に響かせながら、イエス様とともに歩んで参りましょう。


アドベントに入る直前に牧師が新型コロナに感染したため
何かと予定が狂い、礼拝堂の模様替えも
大幅に遅れてしまいました
なんとかツリーもクランツも飾り終え
ほっと一息ついた時の写真です
飯田教会は古く小さいのですが
写真写りは悪くない…と思っています
いかがでしょう(^▽^)



2022年11月20日日曜日

「愛のかたち」(日曜日のお話の要約)

こども祝福式礼拝(赤)(2022年11月20日)
創世記2章8節(旧2) ルカによる福音書18章16節(新80)


 今日のお話は「愛の形」についてです。「愛」が全部目に見えるわけではありませんが、少なくとも見える形があります。それは私たち一人一人です。ここにいる全員は、お母さんが大変な思いをして産んでくれた愛のかたちなのです。


 お母さんのお腹から、赤ちゃんで生まれて、お乳をもらって大きくなる生き物を哺乳類と言います。おうちで大切に飼われている犬や猫は別として、大抵の哺乳類は助けてもらわないでも自分だけで赤ちゃんを産むし、すぐ歩き回ることもできます。

 でも人間は緊急の場合を除いて、一人だけでは出産しません。他の哺乳類と違って赤ちゃんが産まれるまでとても時間がかかるので、その間誰かに助けてもらう必要があります。でも医学が発達した今でも、助けがうまくいかなくてお母さんが死んでしまうこともあります。出産は命懸けなのです。


 ところで、生き物の中で赤ちゃんを産むのが一番大変なのは人間なのは、なぜだと思いますか。「チコちゃんに叱られる」風に言うと「それは人間が頭がいいから~」です。頭がいい、つまり人間は他の生き物に比べて飛び抜けて脳みそが大きいので、頭も大きいのです。大きい頭の赤ちゃんが、お母さんのお腹から狭い道を通って出てくるので、それはそれは大変なのです。

 頭がいい、賢いから、生まれてくるのが大変とは皮肉なものですね。

でもこれは実は聖書にちゃんと書かれていることなのです。ここから聖書のお話になります。


 最初の人間は神様と一緒にエデンの園という素敵な場所に住んでいました。神様は人間が大好きだったので、人間に「たった一つだけ約束を守ってくれたら、ずっとここに住める」と言ってくれました。それは「エデンの園の真ん中にある木の実だけは取って食べてはいけない」という約束でした。神様は「死ぬといけないから」とだけ言って、細かい説明はしてくれません。でも人間も神様が大好きだったので、よくわからないけど「神様のおっしゃることに間違いはない」と信じて約束を守ることにしました。ちょっとボ~ッと生きていたのかもしれないけど、それはそれで幸せだったのです。


 ところがそこに蛇がやってきて「あの実を食べると賢くなれる」と唆しました。人間は迷ったけれど、あんまり深く考えないでその実を食べてしまいます。すると確かに賢くなった感じがしました。というのは「約束を破るのは悪いことだ、悪いことをしたから叱られる」とわかったからです。人間は神様の約束をやぶったことが恐ろしくなったので隠れましたが、すぐにバレてしまいます。

 神様は正しい方なので、一度した約束をご自分から破ることができません。嘘やごまかし、なあなあができないのです。神様はとっても寂しかったけれど、最初に決めた約束通り、人間をエデンの園から追い出さなければなりませんでした。その時神様は厳しいことを言いました。「女の人よ、あなたは赤ちゃんを産むとき苦しくなるよ」


 はい、ここです。人間は賢くなって脳みそが大きくなった代わりに出産がしんどくなってしまったのです。


 でも神様は一つだけ希望の約束をくれました。いつか必ず迎えに行く。あなたたちを辛い世界にそのままにしてはおかない。

 それから長い長い、本当に長い時間が経って、人間は神様のことを忘れかけていました。でも神様の方は約束を忘れません。約束通り迎えに来てくれた方、それがイエス様だったのです。イエス様は神様の子どもですが、わざわざマリヤさんのお腹から生まれました。人間が産まれて大人になるまで育つのはとっても大変だということをご自分でも体験されたのです。


 イエス様は「幼な子を私のところに来させなさい」とおっしゃいました。幼な子とは、小さい子どものことだけではありません。すべてのお母さんから生まれた、お母さん、そしてお父さん、そしてあなたのことです。だから、みんな子どもに返ってイエス様に甘えて良いのです。


 飯田教会の「こども祝福式」は、私たちは全員神様の幼な子だということを確認する日です。おじいさんになってもおばあさんになっても、私たちは神様の大切な子ども、愛の形であることを忘れないで欲しいのです。そして、教会はイエス様と一緒に皆さんが生きていくお手伝いをする場所です。それはこれからも絶対変わらないのです。


毎年この時期に咲いてくれる
「ダイヤモンドリリー(ネリネ)」です
神戸の教会にいた時近所の花屋で球根を購入して以来15年以上
引っ越しのたび持って歩きました
今年も花弁がキラキラと輝いています



2022年11月13日日曜日

「終わりの日に」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第23主日礼拝(緑)(2022年11月13日)
マラキ書3章19-20節a   ルカによる福音書21章5-11節


 2000年前のイエス様の時代、イスラエルの人々の誇る素晴らしい建物といえばエルサレム神殿でした。建物は大理石を積み上げて作られており、屋根は金色に輝いていたそうです。成人したユダヤの男性はこの神殿に巡礼に来ることが義務付けられていました。彼らは全国から集まって来るたびにこの神殿の壮麗さに目を奪われ、自分たちがイスラエル民族であることに強い誇りを抱いたことでしょう。


 旧約聖書に記されたイスラエルの民は、始まりは本当に少ない人数でしたが、神様に愛され、導かれるうちに人数が増していきます。エジプトで奴隷生活を経験したり、そこから脱出して荒野に導かれたりと様々な苦難を経験して、神様が与えると約束してくださった地、パレスチナへ到着し、定住します。


 先住民族や近隣の民族との戦いに勝利したイスラエルの民はやがて王様をたて、王国へと変わります。3代目の王様ソロモンの時、イスラエルは大繁栄し、神様への信仰の証として、13年の月日を費やして神殿を建設します。この時ソロモンが祈った祈りは有名です。曰く「偉大な神様が人間が建設した神殿にお住まいにならないことは分かっているけれど、ここで祈りを捧げたなら、あるいは地方にいる民が神殿の方を向いて祈ったなら、その祈りに耳を傾けてください」と言うものでした。そして民衆に向かっては「主こそ神なのだから、地上のすべての民は心を一つにして歩もう」と語りかけたのです。


 民は大いに喜び、神殿は信仰の中心となります。しかし残念なことにその熱い思いは、時間が経つにつれて、形式ばかりを重んじ、信仰の本質がどんどん忘れられていくという、お決まりの堕落に陥ってしまいます。そのせいもあって、ソロモン王の時代から500年ほど経って、神殿は一旦戦争で破壊されてしまいます。


 しかし悔い改めた人々によって紀元前515年に神殿は再建されます。これが第2神殿です。そして紀元前20年にはヘロデ大王が神殿の拡張工事を行い、ヘロデ神殿あるいは第3神殿と呼ばれました。エルサレム神殿はそのような複雑な歴史を持っていました。


 福音書を読みますと、イエス様はこの神殿の崩壊を予告なさいます。それも完璧に破壊され、崩れ去る、と言われるのです。それを聞いた弟子たちはイスラエルの歴史を知っていますから、神殿崩壊が絶対ありえない、とは思えませんでした。

 そして紀元70年、イエス様が十字架に掛かり昇天された、そのおおよそ30年後、支配国であるローマとの戦争に負けて、神殿はローマの兵隊に放火され、瓦礫は土で埋め尽くされ、跡形もなくなります。まさに福音書でイエス様が預言された通りになってしまったのです。


 それまでのイスラエルの人々にとって、神殿の崩壊は信仰の崩壊であり、世の終わりそのものでした。しかし聖書の教えは失われませんでした。

 イエス様は前もって「神殿が全てではない」と仰って、神様の教えをご自分のお言葉に変えて弟子たちに伝えておられました。イエス様が天に帰られた後、聖霊なる神の力を得た弟子たちは旧約聖書に記された神様の愛を正しく理解する力をあたえられ、その上でイエス様の教えを受け継いだのです。


 弟子たちはユダヤの一般庶民にも、サマリア人にも、異邦人にも、分け隔てなくその教えを広めていきます。

 「イエスこそ神である」という教えは祭司やファリサイ人と真っ向から対立し、弟子たちは神殿から追い出され、各地にあるユダヤ教の会堂からも追われました。しかしその教えは確かであり力強かったので、仲間に加わってクリスチャンになろうとする者は後を断ちませんでした。やがて、キリスト教徒を迫害していたパウロが悔い改めに導かれ、宣教者へと変えられると伝道は一気に広がりを見せ、地中海沿岸に次々と伝道の拠点、教会が生まれていきました。


 とはいえ、従来のユダヤ教にとってキリスト教は異端であり、皇帝を神とするローマ帝国にとっても邪魔な教えでしたから、キリスト者たちは厳しい迫害を受け、多くのものが命を落としたとされます。


 新約聖書は、こうした危機の時代に記されたものですから、まさかその教えがやがてローマの国教になり、ヨーロッパ諸国のスタンダードな考え方、思想になっていくとは思いもしなかったでしょう。


 しかしこの教えが広まれば広まるほどに「天国」や「愛」という概念が一人歩きし始め、やがて聖書抜き、イエス様抜きでそれらが語られるようになり、人々は聖書から「美味しいところ」だけをつまみ取って、独立した人間こそが素晴らしいという教えを説き始めます。再び人間は神様から離れ、心から愛してくださる絶対的な存在を見失って、自ら崩壊を招いてしまうのです。


 イエス様の愛を履き違えた人々が政治を行う世の中に生きていて、世の中が終わるのと自分の人生が終わるのと、どちらが早いだろう、と思うこともあります。それならばいっそ自分のしたいことだけをして人生を過ごしたほうが楽しい、という考えにと取り付かれる人も多いかも知れません。


 しかし、私たちは、イエス様を神様と信じ、何をするにもイエス様の名によって行い、祈り、聖書に学び、生き方を整え、互いに支え合いながら人生を歩むよう招かれました。

 壮麗な神殿などは必要ないけれど、共に集う場が、神様の愛を分かち合う場が必要なのです。ルターは「明日世界が終わるとしても、りんごの木を植える」と言った、と伝えられています。私たちもまた、今日を誠実に、信仰に生きて参りましょう。神様はそのような私たちをご覧になって、終わりの日に必ず天国に招いてくださるのです。



皆さんは先日の皆既月食をご覧になりましたか?
うちにはコンパクトなデジタルカメラしかありませんから
天王星まで写すことは到底できませが
思わず何枚もシャッターを切りました
神様は私たちに不思議な光景を見せてくださるものですね


2022年11月6日日曜日

「キリストの愛」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒の日礼拝(白)(2022年11月6日)
エフェソの信徒への手紙 1章11-16節(352)
ルカによる福音書 6章20-23節(112)


 本日はルカによる福音書からイエス様の御言葉に聞いてまいります。

 ここに記されたイエス様の教えは、マタイ福音書の有名な「山上の説教」とほぼ同じ内容です。ただ、マタイ福音書は「心の貧しい人は幸いである」と、「精神的な貧しさ」について説いていますが、本日のルカ福音書では、経済的に立ち行かない貧しさ、本当に今お金がなくて飢えている人々へのメッセージが語られています。


 マタイの「山上の説教」で語られる「貧しさ」とは、学があり、経済的にも不自由のない人が幸福について思いめぐらす時、どこかに自分の求める真理があるに違いない、と心が叫んでいる。それに対してイエス様は必ず答えてくださる、と記しています。

 一方ルカは「平地の説教」と呼ばれています。ここでイエス様が「幸いだ」と言っておられるのは、今飢えている人々、今泣いている人々なのです。抽象的な例えではありません。


 貧しさや飢え、悲しみを積極的に喜ぶ人はいません。しかしここでイエス様がおっしゃる大切なポイントは、「人の子」つまり、イエス様と繋がったために貧乏になったりお腹を空かせたり、人から憎まれたりするなら、喜び踊るほどに幸せなことだ、と言われるのです。


 ただ、イエス様を信じ抜こうとする時、漏れなく不幸がついてくるとしたら、本気でキリスト教を信じようとする人はいなくなるかもしれません。しかし、イエス様が人間の不幸を望まれる方でないのは私たちがよく知っています。聖書に描かれたイエス様のイメージは、罪人を救うために愛のこもった配慮を行い、集まってくる子どもを愛し、友なきものの友となる方だからです。そんな方が私たちが不幸になるのを単に喜ばれるはずがありません。それを前提にさらに考えてみましょう。


 イエス様は不治の病に犯された病人を癒やし、5000人に食べ物を与え、あれ狂う波や風を鎮めることもなさいました。それはもちろん、イエス様が神様だったからです。しかし、それ以上に、イエス様が父なる神様に完全な信頼を置き、その御心に従うことをご自分の使命として疑うことなく、とことん信仰に生きておられたからです。


 イエス様の弟子たちは自分たちの信仰の弱さを知っていましたから、決して揺らぐことのないイエス様を尊敬し、どこまでも従おうとしました。しかしユダヤ教の教師たちや政治的リーダーたちは自分たちより神様のことを知っているイエス様を妬みました。


 ファリサイ派の人達や律法学者達が、聖書にはこの様に書いているけれど、実際にその通り行動するのは無理だ、と考えていることを、イエス様は「それこそが大切だ」と断言して易々とやってのけるのですから、劣等感を刺激され、嫉妬して悪口を言ったり、足を引っ張るようなことをしてしまうのです。


 私たちキリスト者は、イエス様を信じて生きることを決意して洗礼を受け、弟子となりました。しかし、キリスト者として過ごせば過ごすだけ、イエス様をお手本にして歩むことがどれほど困難なことかわかってきます。例えば、日本社会では日曜日に何かと行事が組み込まれますから、それを退けて礼拝を守るのは一苦労です。「礼拝に行きます」と強く主張すれば変人と思われたり、人間関係が壊れてしまいそうで不安になるのです。


 それでもどうにか日曜日は教会に行く、という習慣が身についたとしても、教会の中の人間関係に躓くこともあります。経済力や、学力や、地位や名誉といった価値観が教会の中にもあることを知って、結局世の中の人と同じではないか、とショックを受けてしまうこともあります。先輩クリスチャンから、励ましのつもりで「私たちはイエス様と同じことはできないから信仰生活にも妥協は必要だよ」と声をかられ、かえってがっかりした、という話を聞いたこともあります。


 こんなふうに、私たちがイエス様をお手本として歩むことの難しさはそこら中にゴロゴロしています。それでも私たちは、厳しい現実の中で、信仰を貫くように召されていることを忘れてはいけないのです。どんなに迷った時でも、洗礼を受けたときに信じたこと「私はイエス様に招かれた」という確信に立ち返ることが、信仰を失わないで生きるたった一つの秘訣なのです。


 会社より信仰を優先して、職を失ってお腹を空かせたり、友人だと思った人から絶交を言い渡され涙することもあるかもしれません。それでもイエス様が私が失ったものを補って、有り余る恵みで満たしてくださる、と信じぬけるなら、その人は幸いだ。イエス様はそのように言っておられるのです。


 私たちが決して忘れてはならないのは、イエス様がご自分を信じる者たちの人生を導き、その人生がどのような終わり方をしようとも、天国の場所をすでに用意されている、ということなのです。


 今日、私たちは、先に天国に召された兄弟姉妹を偲びながら、自分の生き方を、振り返り、どんな時もイエス様がそばにいて導いてくださったことを確認したいと思うのです。


 現代、日本全体を見た時、キリスト教は元気が良いとは言えません。しかし、こんな今だからこそ、貧しい人、飢えている人、泣いている人の助けになりなさい、とイエス様が語りかけておられるのです。そのためには、私たち一人一人がキリストに愛されていることを疑わず、すべてのものは必ず備えられていくことを信じましょう。今私たちが貧しくとも、飢えていても、泣いていても、かならず、幸せになれることを受け入れて参りましょう。




11月5日(土)は予定通り土曜学校を行いました

在園児も含め、10名のお友達が来てくれました

飯田でもコロナ陽性者が増え

学級閉鎖も相次いでいます

長野の陽性者増加スピードは全国のトップスリーに入るとか!?


究極の感染対策は教会学校を行わないことかもしれませんが

神様がそれを望まれるとは思えません

子どもも大人もお互いに気遣いながら

神様の愛のもとに集って参りましょう





紙皿を使った秋のリース
みんなチャーミングに仕上げました




9時30分に集まって、まず礼拝です
自分たちで聖書を開き、お祈りも献金もちゃんとします
工作ばかりしているわけではありませんよ(^▽^)
↑たまには教会学校らしい写真も一枚

2022年11月4日金曜日

明日の土曜学校について

明日、11月5日の土曜学校は予定通り行います
9時30分から11時30分まで
礼拝堂で行います

足が冷えるかもしれませんので
なるべく上履きをお持ちください
マスクの着用をお願いいたします




2022年10月30日日曜日

「この自由、キリスト者のために」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・宗教改革主日礼拝(赤)(2022年10月30日)
エレミヤ書31章33-34節(1237)ヨハネ福音書8章31-36節(182)


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 本日はルターが火付け役となった宗教改革を覚えて礼拝しています。500年前のヨーロッパの教会は社会の中心でした。そのような時代に生まれ育ったルターは、大学で法律を学んでいた時、落雷に遭い「助けて下さったなら、わたしは修道士になります」と誓い、その通り修道士になります。

 ルター教会での厳しい生活にも耐え、祈りと苦行を積み重ねましたが、聖書を読めばもっと神様の御心を知ることができるのではないかと考えます。当時は礼拝や儀式の中で新約聖書の指定された箇所を読みあげるだけで、神父や修道士といえども、全体を理解していたとは言えなかったからです。

 やがてヴィッテンベルクの修道院に移ったルターは、ヴィッテンベルク大学に学び、ようやくつまみ食い的な聖書の読み方から解放されます。時間をかけて聖書全体を読み、その解釈を発表していく教師という立場になります。ルターが聖書を深く読み、神様の御心を知れば知るほど、当時の教会や封建社会の感覚とズレが生じはじめます。ついに「全聖徒の日」の前日、ルターは教会組織への質問状を教会の門に貼りつける、という形で一線を超え「宗教改革者」へと踏み出したのです。

 ところで、本日の福音書に入る前に、イエス様の時代、人々が読む聖書とは「旧約聖書」だけだったということを抑えておきましょう。私たちが「新約聖書」と呼ぶものはイエス様が天に帰られた後に弟子たちが書き記したものですから、イエス様が十字架にかかられる前にはまだ存在していない、ということです。

 当時のユダヤ人は子どもの頃から熱心な聖書教育を受けましたが、それら全ては「旧約聖書」だったわけです。今日読みました福音書の中で、ユダヤ人たちが「自分たちの先祖」と呼ぶのは、旧約聖書の一番初め、創世記に登場する「アブラハム」のことです。アブラハムは神様に信仰を認められ、子孫繁栄を約束されます。その子孫がユダヤ人達なので、彼らは「アブラハムこそ我が父」と呼びました。

 そんな彼らに、イエス様は「真理」を知るように、と語りかけます。イエス様がここで言われる「真理」とは、正しく神様を知ることでした。「あなた方はアブラハム同様に神様に愛されている」と語りかけられたのです。先祖からの言い伝えや、人々の勝手な解釈が加えられた神様のイメージではなく、あなたを愛している神様にあなた自身を委ねなさい、そうすればあなた方は自由になることができる、と言われたのです。ところが、この呼びかけに人々は反論し、自分たちは不自由ではないと主張します。彼らのアブラハムへの思いは、尊敬や憧れを通り越して、まるで信仰の対象にまでなっているかのようです。

 とはいえ、アブラハムが神様に愛され、「信仰の父」と呼ばれるようになったのは、彼が完璧な人間だったからではありません。彼は数々の過ちを犯し、失敗を重ねつつも神様を信頼し、何度でも悔い改め、その度に神様との絆を強くしました。その生き方を神様がお喜びになり、彼の子孫を繁栄させることを約束されます。

 モーセの時代になると、神様は十戒をユダヤの民にお与えになり「こう生きればあなたたちは幸せになれる」とお教えになります。この教えは発展して律法と呼ばれます。ユダヤ人達は律法を文書にまとめ、守りましたが、あまりにも細分化されたので、律法の専門家と呼ばれる人々も登場し、民衆が正しく律法を守れるよう指導しました。

 しかしアブラハムの時代から1000年以上が過ぎる頃には、人々は罪を犯すまいとして律法に縛られ、律法を守ることで神様に認められようと必死になっていました。神様の愛を信じて自由に幸せに生きていけるはずの人々が、見当外れな努力をして不自由な生き方に苦しんでいる様子を、神様は見ていられませんでした。だからこそイエス様を地上に遣わして「律法にとって一番大切なことは、神様はあなたが何者であろうと愛している、ということだ」とメッセージを送られたのです。

 残念なことに結局人々はイエス様が取り次ぐ神様のお言葉を理解できませんでした。それどころかこの人々はイエス様がアブラハムを蔑ろにし、律法を大切にせず、神様を侮辱したと思い込みます。イエス様を十字架につけろと叫んだのも、もしかしたら彼らだったのかもしれません。

 しかし、やがてこういったユダヤ教徒の中からキリスト者は生まれてきます。イエス様を神の御子と信じた人々は教会を作り、新しい聖書「新約聖書」を書き記したのです。古くから読まれてきた旧約聖書も合わせて一冊の「聖書」となりユダヤ人以外の人々にも読まれるようになっていきました。

 こうしてせっかく神様の御心が一冊の本にまとまって、誰でも読めるようになったのですが、最初に普及した聖書はラテン語で書かれており、尊い本として翻訳が制限されたのでイエス様の時代から1000年以上が経過した、「中世」と呼ばれる時代になると、まともに読める人は高い教育を持つ一部の人だけでした。

 だからこそ先程お話ししたように神様はルターを召し出され、教会の誤りを正し、聖書をドイツ語に翻訳すよう導かれます。そのタイミングで印刷機が発明され、聖書の普及に拍車をかけたことも神様の恵みでしょう。その後、ドイツ語からさらに多くの言葉に翻訳され、識字率が上がるにつれ、誰でも自由に読めるようになります。こうして民衆は再び神様の愛を取り戻したのです。

 ルターは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」という言葉を残しましたが、これはイエス様のご生涯そのものです。いと高き神の御子として人間に服従する必要のない方が、あえて家畜小屋の片隅で生まれ、その人生の最後の最後まで人間に寄り添ってくださったのです。私たちの生きるべき手本はここにこそあります。

 私たちには直接聖書を読み、イエス様の語り掛けを聞く力が与えられています。だれかの解釈を鵜呑みにするのではなく、イエス様が一人一人に与えてくださった自由を正しく受け取りましょう。そしてあなたに与えられたなすべき勤めを大胆に喜びを持って果たして参りましょう。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


「ルターの紋章」
この紋章には「薔薇の上に置かれたキリスト教徒の心臓は、
十字架の真下にある時脈打つ」という
題字が記されています。

2022年10月23日日曜日

「義と思われる人と義とされた人」(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第20主日礼拝(緑)(20221023日)
詩編 842-5節(921) ルカによる福音書 18章9-14節(144


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 本日の福音書で、イエス様は一つのたとえ話をなさいます。神殿での出来事と仮定して、ファリサイ派の人と徴税人を登場させ、この二人の祈りに注目するよう促されます。神殿で祈る彼らのうち、神様に義とされた、つまり「あなたは正しい」と言っていただけるのはどちらだったか、と人々に考えさせるのです。


 ファリサイ派の人々は、礼拝や儀式等で人前で声に出して祈る機会がたくさんありますから、祈りの所作も綺麗だったことでしょう。一方取税人はというと、せっかく神殿に来ていながら、前に進み出ることをせず、神様がおられるとされる天を見ようともせず、ただ胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と嘆きます。


 もし、私たちがそのような光景に出くわしたなら、宗教エリートであるファリサイ人を見て、きっと高尚な祈りが捧げられているのだろうと考えるでしょう。

 一方、汚い手を使って人々から多額の税金を搾り取る徴税人は、ユダヤ社会から嫌われていましたから、彼がうめくように祈っても、周囲は「神様には届くまい」と思うでしょう。


 しかし、ファリサイ人の心の祈りはここに書かれているように自己満足と傲慢な言葉で溢れています。今の自分があることに感謝はするけれど、神様がいてもいなくてもどうってことないと思わせるほどの祈りです。


 イエス様は、立場のある人間が人前で民衆の願いを代弁する、整った祈りを受け入れられます。しかしそういった公の祈りだけではなく、一人一人の心の内の拙い言葉の祈りにも喜んで耳を傾けてくださいます。その上でこのファリサイ派の人の祈りを否定され、徴税人の「憐れんでください」という祈りを受け入れられます。


 徴税人はユダヤを支配するローマの手先となって、仲間のユダヤの民から税金を多めに取り立て、私服を肥やすのです。同胞から搾取する彼らは神に見捨てられた罪人と蔑まれました。しかし徴税人の中には、この仕事を選んだことを後悔し、本心から悔い改める人も、わずかながらいたのです。


 その代表として、イエス様の弟子となったマタイが挙げられるでしょう。イエス様に「私に従いなさい」と招かれたマタイは徴税人の仕事をさっさと辞め、イエス様の弟子となります。また、徴税人ザアカイのお話も有名です。

 嫌われ者のザアカイはイエス様に親しく呼びかけられたことに感動して心を改め「わたしは財産の半分を貧しい人々に施し、だれかから何かをだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と宣言します。


 彼らは、混乱するユダヤ社会の中で生き残るために徴税人という仕事を選んものの、自分のして来たことが神様から見ればとんでもない悪だと気づいてはいました。自分は神様から見捨てられる存在だと気づいた時、開き直るか、それに耐えきれず神様に頼ろうとするかは大きな違いです。

 ザアカイやマタイのように、イエス様こそ自分と神様との仲介者となってくださると気づいた人々は幸いです。イエス様の前で心から悔い改めれておすがりすれば、神様に赦されて天国へ入れるという希望は、何物にも代えられないでしょう。


 一方、自分の優秀さに酔っている自信過剰なファリサイ人はこれっぽっちも神様にすがろうとはしていません。こういう心根では、仮に目の前でイエス様が呼びかけたとしても結果は同じでしょう。


 今日の徴税人とファリサイ人のお話はイエス様のたとえ話ではありますが、イエス様は二人のあり様を通して、どうすれば神様の恵みを得ることができるのかお示しになったのです。


 旧約聖書のエゼキエル書3311節にはこう書かれています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んで良いだろうか」

 神様は悪人が死ぬことを喜ばず、悔い改めることを喜ぶということが、愛情あふれる表現ではっきりと記されています。


 自他ともに正しいと思われる人も間違うことはあります。しかし、自分の間違いに気づき悔い改めて神様にお詫びした時、それが神様の喜びとなるのです。そしてそれこそがイエス様がこの地上に来られた本当の意味なのです。


 イエス様の例えに登場した、このファリサイ派の人物、聖書をよく理解し、自分は正しいと自負しているファリサイ派の人が、もし「わたしはこの徴税人のようでなくて感謝します」という呟きではなく、徴税人の神に哀れみをこう状況に気付いて心を寄せ、「私もあなたのために神に祈ろう」と言いえたなら、彼にも救いがやってきたことでしょう。


 ただイエス様はファリサイ派の人々が全て間違っているとはおっしゃいません。原文には少し配慮が施されていて、後の時代のユダヤ人ではない私たちが聖書を読むとき、一方的に「ファリサイ派イコール傲慢で悪い人々」と思わないような書き方になっています。パウロのようにファリサイ派から悔い改めてクリスチャンになった者もいるからです。徴税人に招きがあるのと同じく、神様はファリサイ派の人々にも招きを与えているのだ、とイエス様はおっしゃるのです。


 私たちはファリサイ人でも、徴税人でもありません。しかしイエス様の十字架の救いの恵みを信じたものであり、今までの罪を悔い、イエス様の恵みによって義とされた者、神様の目に正しい者とされた人々の集まりです。

 何より、私たちはイエス様が辛く苦しい十字架の死を経験してまで罪を贖ってくださったことを知っています。だからこそ、それぞれに置かれた境遇の中で、懸命に生きながら、同じ神様に愛された人間として苦難の中で共にも祈り、自分の欲望や不正に胸を打ちながら悔い改めを言葉にし、憐れみを神に求めるものであり続けたいのです。



人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


サザンカの咲く季節になりました
花も美しいですが、ころんとした蕾も
愛らしく感じます

2022年10月16日日曜日

「疲れ果てずに祈ること」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑)(2022年10月16日)
テモテへの手紙Ⅱ  3章14-16節 ルカによる福音書18章1-8節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 本日の福音書でイエス様は「祈り続けることの大切さ」を教えるために、弟子たちにたとえを話されます。例え話の主人公は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。「神様を畏れない」というのは、いくら悪いことをしても、神様から罰を受けない、と考えている人のことです。自分の方が神様より偉い、と思っているというより、神様の存在をまるで信じていないのです。


 法治国家に住む私たちは、どんな人でも法律に従って公平に裁いてもらえるはずだ、と信じています。しかしイエス様の時代、賄賂をくれる人や地位ある人、お金持ちなど、自分に利益をもたらしてくれそうな人に有利な裁判をする裁判官はそれほど珍しくなかったでしょう。大抵の裁判官が少々の不正をする時代にあって、イエス様はさらに重ねて「この人物は不正な裁判官だ」と強調されるのですから、道徳観念のかけらもない裁判官なのでしょう。そんなひどい裁判官のところに一人のやもめがやってきた、とイエス様は言われるのです。


 やもめというのは配偶者を失った女性を表す言葉です。古代社会では大抵の国で社会福祉の考えは未発達でしたが、イスラエルには紀元前からやもめを保護する神様の教えがありました。申命記10章18節に「神様とは孤児と寡婦の権利を守る方である」と記されています。神様を手本として孤児と寡婦を大切にするなら、イスラエルの民に幸せが与えられる、と書かれています。


 しかし孤児や寡婦の権利を大切にするには、神様を畏れ敬い、そうだその通りだ、と思う必要があるでしょう。ましてここに登場する裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」なのですから、やもめの人権には全く興味が無く、彼女がどうなろうが知ったことではないのです。


 今までこの裁判官はやもめは「相手を裁いて、私を守ってください」訴えっれても、無視して来ました。しかし今度という今度は彼女の望みを無視するわけにはいきません。それはこの裁判官が回心したからではなく、やもめがひっきりなしに裁判官のところに所にやってきて、うるさくてかなわなかったからなのです。


 イエス様は続けてこう語られました。「こんな不正な裁判官でさえ、へこたれないでひっきりなしに訴えてくるやもめの利益のために裁判をしてやろう、という気持ちになったのだ。まして神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人を放っておかれることがあるだろうか」


 ここで言われる「選ばれた人」というのは神様に愛された人、つまりキリスト者のことです。不正に満ちたこの世の中で、神様に愛されたクリスチャンたちが、必死で神様に助けを求めているのを、神様は決して無視しない、と言われるのです。

 ただ、イエス様のこのお言葉をすんなり信じられる人は多くないかもしれません。今までの人生を振り返り、あの苦しい時、あの悲しい時、神様は助けてくださらなかったではないか、と思われる方もおられるでしょう。


 そんな私たちのために、この例え話の最初には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と但し書きがついています。つまりイエス様は、多くの人が「祈ってもかなえられないじゃないか」という悲しみや怒りの感情を経験し、気を落とし、祈りをやめてしまう、と知っておられたのです。


 このお話を語られたイエス様は、いずれ弟子たちの元を離れ、天に帰らなくてはなりません。ご自分が近くにいなくなったら、あっという間に神様への祈りをやめ、信仰を失うような弟子たちでは困るのです。

 しかし弟子たちはイエス様の意図をなかなか汲み取ることができないまま、十字架の時がやってきます。弟子たちは案の定、イエス様が亡くなられたことにすっかり失望し、信仰を失いかけますが、三日目に蘇られたイエス様と再会して、ようやく信仰を取り戻すのです。


 やがて本当にイエス様が天に帰られる時、イエス様は弟子たちに宣教を託されます。使徒言行録1章には、寂しく思う弟子たちの前に天使たちが現れ「イエス様は必ず帰ってくる」と約束したと記されています。天使の言葉を聞いた弟子たちは、イエス様は必ず再び地上に来てくださるのだと理解し、その時こそ、全ての悲しみや苦しみが終わるのだと信じたのです。イエス様は自分たちをこの瞬間も見守ってくれていて、決して見捨てることはない、と信じ、幼な子が父に頼るように、どんな些細な願いもイエス様に申し上げ、祈り続けたのです。


 こうして2000年の間、人々はある時は大切な人や自分の病が癒されるように祈り、仕事が祝福されるように祈り、親しい人がイエス様を信じられるように祈り、ありとあらゆる祈りが捧げられました。他人の目から見れば小さな願いでも、人々は真剣に神様に願いました。世界平和という大きな目標を祈ることも、もちろんあります。ただ平和な世界というのは、一般の人々の小さな幸せが大切にされ、人としての営みが守られ、次の世代に委ねていける世界なのだと思います。


 イエス様が言われたように、未亡人や両親を失った子どもにも手厚い支援がなされ、誰でもきちんと教育が受けられ、障害の有無や病気のあるなしでチャンスを奪われることもなく、性別や年齢で差別されず、高齢者が安心して歳を重ねられ、犯罪歴のある人でもやり直しのきく世界。私たちはイエス様から、そのような世界を作るように導かれています。


 毎週日曜日に礼拝に与り、祈りを捧げ、聖書のメッセージを聴き続け、自らも聖書を開く習慣を持つ時、「願っても叶えられないのは何故か」という苦みの答えを聖書の中から掴み取る力が身についてきます。

 信仰生活を身につけるのも、苦しい時に聖書の中から神様の御心を見つけ出すのも、一朝一夕にできることではありません。こればかりはへこたれずに祈り、聖書を読む生活をしていく中で、次第にわかってくることなのです。イエス様の励ましを信じて、へこたれないで祈りと学びを重ねて参りましょう。


人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。



サザンカのつぼみです
暑かったり寒かったりを繰り返しながらも
季節は
確実に移っています

2022年10月9日日曜日

「イエスを慕う信仰」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑)(2022年10月9日)
テモテへの手紙Ⅱ2章11-13節(392) 
ルカによる福音書17章11-19節(142)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 イエス様の有名な例え話に「良きサマリア人」というお話があります。ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲であったにもかかわらず、傷つき倒れたユダヤ人をサマリア人が助けた、という例え話を通して、イエス様は隣人愛を解かれました。

 サマリヤ人とユダヤ人は数百年前まで遡れば同じ民族でしたが、それぞれに違う歴史を辿ったため、聖書理解や神様への信仰スタイルも異なっていきました。それぞれに自分の方が正しい信仰を持っていると譲らずお互いに軽蔑し合っていましたから普通サマリヤ人とユダヤ人が仲良く暮らすことはありませんでした。
 しかしここに登場する彼らは、一般のユダヤ人とサマリア人ではありません。彼らは「重い皮膚病」と診断された人々で、地域が用意した隔離用の村の一つで共に生活せざるを得なかったのです。

 この病は伝染性が強いと考えられ、患らった人は隔離されるのが通常でした。隔離された場所からどうしても出なければならない場合は「私は汚れたものです」と叫び、他者が自分に近づかないようにしなければなりませんでした。

 
「重い皮膚病」であるかないかの診断は古くから祭司に委ねられており、隔離するか自由にするかの決定を行いましたが、治療法のない時代、「重い皮膚病」と認定された人々が再び元の生活に戻れる可能性は非常に低かったようです。

 今日の福音書の10人の「重い皮膚病」の人々は、生きる希望もなく、ただ「同病相憐む」の言葉通り、人種や民族、年齢等にこだわることなく、できる範囲で助け合いながら暮らしていました。そんな彼らが一つの福音を聞きます。自分達の病をたちどころにいやす方がおられるということでした。

 少し遡ると、ルカによる福音書5章に、イエス様が重い皮膚病を癒す様子が記されています。イエス様は癒しを行われた後、その人に「祭司に体を見せて治ったことを証明してもらい、感謝の捧げ物をするように」と言われますが、ご自分が癒されたことについては黙っておくように命じられます。しかしいくら当事者に口止めしても、このような奇跡を見聞きした人々が黙っていられるはずがありません。イエス様の噂はどんどん広まって、本日の10人の患者の耳にも届いたのでしょう。彼らはイエス様が自分達の近くを通られることを期待して、待ち続けたのです。

 ところでイエス様は、ユダヤ人とサマリア人が神様への信仰をめぐって対立していることを悲しんでおられました。だからでしょう、イエス様はたびたびサマリアを訪れ、人々と親しく語り合ったことが聖書に記されています。今回もわざわざこの土地を旅のルートに選び、病のためとはいえユダヤ人とサマリア人が共に暮らしている場所に行かれたと考えられます。
 病人たちがイエス様に会いたかった以上に、イエス様の方が彼らに会うこと強く願われたのです。ですから遠くから彼らがイエス様の名を呼び、「憐んでください」と叫ぶと、すぐさま「祭司たちのところに行って、体をみせなさい」と呼びかけ、いやされたのです。

 病人たちは自分の体を確認したりはしませんでした。イエス様が「祭司に体を見せるように」と言われたならば、すでに自分は癒されているのだと信じ、祭司に体を見せるためにそこを後にしました。

 しかし、一人のサマリア人だけは、大声で神を賛美しながらイエス様の元に戻ってきたのです。ある説によると、10人のうち9人はユダヤ人だったので診せるべき祭司はいたが、このサマリア人にはいなかった、というのです。もし彼がユダヤ人祭司に見せたとしても「汚れたサマリア人が神様から癒されるはずがない」と意地悪される可能性がありました。
 また、仮にサマリア人の祭司に見せたとしても「ユダヤ人であるイエスに神の奇跡が行えるはずはない」と言われるかもしれません。つまりは、どちらの祭司に見せても、彼は癒された保証をもらえなかっただろう、というのです。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか?

 彼は自分が癒されたことを確信し、イエス様と共に確かに神様がおられることを知り、心からの感謝を捧げるために戻ってきたのではなかったでしょうか。彼にとって、祭司に見せることは後回しで良かったのです。後回しにしたところで、救いの事実、癒しの事実、神様から愛が注がれた事実は、変わらないのです。溢れ出る感謝の思いが彼を突き動かし、イエス様のもとへと引き戻したのでした。

 こうして癒されたサマリア人は、民族を超えて自分に手を差し伸べてくださったイエス様を愛し、慕う気持ちが日に日に増していくでしょう。苦しむ人の前に、民族の違いなど関係ないのだというイエス様の思いをしっかりと受け取ったに違いありません。その素直な信仰は、彼をその後、天の国に導いていったことでしょう。

 一方、祭司に体を見せに走った9人のユダヤ人は、イエス様を慕う心は与えられないままだったでしょう。恩人としてイエス様を思い出すことがあっても、それ以上でも以下でもないままだったかもしれません。病のときにはサマリア人とも寄り添えた彼らでしたが、今はユダヤ人の祭司に導かれ、民族意識を取り戻し、イエス様の真の御心を受け止めることもなく、ユダヤ人が世界の中心であるような信仰の歩みをしていったことでしょう。

 今、私たちは日々戦争の報道を聞きながら生活しています。神様の御心を知りつつ、神様がわたしを愛されたように、私も隣人を愛していこうと、祈り、願うことで平和は築かれます。決して武力の上に築かれるものではありません。
 こんな時だからこそ、イエス様の教えを心に刻み、祈りましょう。私たちはイエス様を慕う一つの群れです。その歩みを生涯守り通して参りましょう。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


先日、教会学校のお友達3人を誘って
園庭を見下ろせる幼稚園の屋上に上がりました
「屋上」と言っても、ほぼ「屋根」です
牧師館の物干し台の延長で
柵を乗り越えたりすることもなく、すんなり出られます
もちろん、万が一に備えて教会員がガードします
(教会員も上がってみたかったようです)

ここは牧師家庭の洗濯物を干すとき
園庭で遊ぶ園児に見つかって
大声で名前を呼ばれたりする、楽しい空間でもあります
飯田は花火の名所で、この場所からとてもよく見えます
目を凝らせば南アルプスも見えますし
夕暮れ時には赤く染まる赤石山脈がとても美しいのです