2018年9月9日日曜日

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ6:10-20)  


201892日、聖霊降臨後第15主日礼拝(―典礼色―緑―)、申命記第41-8節、エフェソの信徒への手紙第610-20節、マルコによる福音書第71-15節、讃美唱15(詩編第15編:1-5節)

説教「キリスト者の霊的な戦い」(エフェソ610-20
 
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなた方と共にあるように。 

今日は、第2朗読のエフェソ610-20のみ言葉から、ご一緒に聞いていきたいと思います。先週も言いましたように、エフェソの信徒への手紙は、今では、どうも使徒パウロが書いた手紙ではないと考えられています。
 
しかし、たとえ、パウロ本人が、直接、この手紙を書いたのではないとしても、それでこの手紙の価値が下がってしまうということにはならないと思います。

使徒パウロの名に託して、パウロの精神に立って、この手紙を、今のような形で残してくれたのは、それだけの重要性があったためだとも、考えることができるのでありまして、パウロが生きていたら、書き残してくれたであろう、大事なみ言葉を、パウロの流れを汲む者が、聖書として、私どもに書き記さざるを得なかったとも言えるのであります。
 
先週も言いましたように、本書の内容は、コロサイ書とよく似ています。コロサイ書を神学的により深め、より突っ込んで書かれていると言われます。
 
皆さまにも、今日お帰りになって、コロサイ書とエフェソ書とを、読み比べるようにして、じっくりと両方を読み返し味わっていただければと思います。
 
さて、今日のみ言葉は、まず、終わりに言うが、あなたがたは主において、彼の力の働きにおいて強められなさいと始まっています。私どもの信仰生活は、誘惑や悪魔・悪霊の力によって、絶えず揺さぶられるという霊的な戦いの中に置かれています。
 
それを、どのように克服し、打ち克っていくことができるのか、どのように武装し、防御し、あるいは反撃していけばよいのかが、ここに明瞭に記されているのであります。それは、私どもに自然に与えられている美徳や人間的な力ではとうてい克服することはできないのです。

 主において、主の強力な力において、強められ、そこから来る強く雄々しくなる生活となるのでなければ、とうてい太刀打ちできるものではないのです。

 エフェソ書の記者は、当時のローマ軍の兵士の装備と共に、特に旧約聖書に出て来る表現を十分に生かして、私どもがいかにサタンに対して、装備をすればよいのかを語っていきます。十分な神の武具によって強められるようにと奨めています。
 
さて、本文の内容について、もう少し深めて考えてみたいと思います。
 まず、この手紙の記者は、悪魔の策略に対して、神の武具を着るようにと奨めています。これは、見事な神の武具を、身に装うようにということです。神の十分な武具によらねば、とても悪魔の策略には立ち打ちできないからです。
 
そして、その武具として、6つのものを挙げています。腰の帯紐、胸当て、軍靴、盾、かぶと、そして剣であります。
 
剣以外は、主として防御に用いられる武具であります。そして、著者は、象徴的に、あるいは、隠喩的に、何が本当に強力な敵からの攻撃に耐えうるか、あるいは、反撃の力となるのかを示していくのであります。
 
なぜなら、私どもの闘い、―これはレスリングという意味の言葉ですがー、それは霊肉、すなわち、はかなく脆い人間を相手にするものではなく、支配と権威、この闇の世界の支配者たち、高い所における悪の霊の諸力と対するすさまじい
闘いであるからだというのです。
 
そこで、まず、真理を腰の帯とし、さらに義の胸当てを、あなた方は着なさいと言います。
 
胸当ては、武具として以外にも、アロンの祭服、祭司の裁きの胸当てを付けることがありました。
 
次には、平和の福音をもたらす準備を、履物として身に帯なさいという。平和を告げる者の足は、なんと美しいことかとイザヤは預言していますが、このメッセージこそ勝利のための武具であると、この記者は言うのです。
 
私どもの闘いは、人間同士の間、ユダヤ人と異邦人の間にある垣根を取り除く、キリストによる平和を告げることによって、勝利する闘いであります。
 
次には、信仰を盾として、受け取りなさいとあります。盾は、あらゆる火矢を消すことのできる、大きな盾であり、当時のローマ軍の兵士たちが用いたものであります。
 
また、旧約聖書では、神こそが私の盾という表現がよく出て来ます。私どもの力によるのではなく、私どもの罪を、その十字架の死と復活によって取り除かれたキリストへの信仰のみによって、サタンのたくらみに打ち克つのです。
 
さらには、救いの手段として、かぶとをかぶりなさい、また、霊の剣である神の言葉を受け取りなさいとあります。

荒れ野で、主イエスがサタンと闘ったとき、その都度、神の言葉によって勝利したことを、私たちは思い起こすべきであります。
 
さらに、記者は続けます。あなた方は、あらゆる時に、霊において、すべての祈りと嘆願において祈りなさい。そして目覚めていて、祈りと忍耐において、すべての聖徒たちのために、執り成しの祈りをしなさい。

そして、私のためにも祈ってほしいと、祈りの必要性について説くのです。私が口を開くときに、福音の神秘をはっきりと知らせることができるように、そのため、私に言葉が与えられるように祈ってほしいと。

 そして最後に、この記者は、そのために、私は、鎖における大使とされているのであり、それゆえに、私がしゃべらなければならない通りに、はっきりと語れるように祈ってほしいと執り成しの祈りを、私どもに求めているのであります。

 私どもは一人で闘っているのではありません。神の見事な武具を着せられ、キリストを着せられ、キリストを頭とする教会の体の一員として、すべての聖徒たちのために執り成しの祈りをささげる。

そうしながら、既にキリストの十字架上での死とご復活によって、勝利を与えられている。その悪霊との霊的な闘いを、闘っているのです。

それは既に勝利が約束されている闘いでありますが、私どもが一致団結して支え合い、共に目を覚まして祈り続ける闘いの中で初めて得られる勝利なのであります。なぜなら、その勝利の日の前に、主の日の前に、邪悪な日の闘いが待っているからであります。私どもは、その約束されている勝利の日まで、共に執り成しの祈りを続けながら、主のみ業に励んでいきましょう。

人知ではとうてい測りすることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。         

2018年9月6日木曜日

「全信徒祭司性」(p68~85)2018年9月7日 「『キリスト者の自由』を読む」


「全信徒祭司性」(p6885201897
「『キリスト者の自由』を読む」

キリスト者は、すべてのものの上に王であって、なにものにも従属しない。キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、すべての者に従属する。この一見矛盾するかのように思われるルターの『キリスト者の自由』の二つの命題であるが、今回のテーマは、「全信徒祭司性」である。キリスト者は王であると共に、祭司でもあるという。祭司とは、神の前に取り次ぐ者であり、王である以上に、すぐれた者であるといえよう。
 キリストは王であり、かつ祭司である。私どもも、主イエス・キリストと共に、すべてのキリスト者が、祭司とされているのである。祭司は神と人とを取り次ぐのであるから、人の上の王である以上に、ひいでた存在である。
 主イエスは地上に、神の独り後であられたにもかかわらず、低きしもべの形を取られ、お出でになられ、終わりの時まで、しかも十字架の死に至るまで、み旨に従われたのである(フィリピ26-11)。しかも、主イエスは罪を犯したことのないお方であったのに、神は、この罪なきお方を十字架につけ、罪ある我々のために身代わりとされたのである。それゆえ、私どもは、このお方への信仰のみによって、義とされ、無罪とされる。そしてこの信仰によって、主イ、エスの義を私どもは与えられ、私どものすべての罪や負い目は、主イエスが負うてくださるのである(属性の交換、神性と人性の交換、喜ばしき交換?)。
 さて、今回の「全信徒祭司性」であるが、それはしばしば「万人祭司性」とも言われてきた。しかし、これは、主イエス・キリストを信じるキリスト者が祭司性を持つとの主張だから、「全信徒祭司性」と言うのがより正確と言えよう。今回の石居基夫先生のこのテーマをめぐっての解説(p6885)においては、キリスト者が祭司であるっことを、より神学的にとらえようとするところに強調点を置いている。
 ルターは、神のみ言葉のみが、その信仰を私たちに与えるというのです。・・神の語りかけ、神のみことばを受け取ることは、それによって、自分の「魂」がどのような現実の中にあっても、その存在をはっきりとさせられ、確かな救いを受け取ることになると言えるでしょう(p7273)と。
 ルターは、「キリストが私に対してなってくださったように、私もまた、私の隣人に対して一人のキリスト(者)になりたい」と言っている。人に仕え、とりなし、生かすようにキリストの愛を生きる者とされる。これがすべての信仰者における祭司としてのキリストのつとめなので、「全信徒祭司性」という言い方がなされる(p78末~p791ℓ)。
 それは、教職と信徒との区別をまったくなくするということではない。すべての人がベルーフ(それぞれの職業や、あるいは家庭内における主婦の役割など)に召命を受けているとルターは考える。私どもが現在の教会の中で、また、社会や世界の中でどのような働きに召されているのかを『キリスト者の自由』を時々読み返してみることで、つかんでいきたい。
 ある出会った、年老いた信徒は、先日93歳位で召されたのだが、毎年、年の始めには、ルターの『キリスト者の自由』(岩波文庫にて50ページほどのもの、石原謙訳)とアウグスチヌスの『告解』(世界の名著、中央公論社、山田晶訳)を読むと語られていたことを懐かしく思い起こす。