2022年10月30日日曜日

「この自由、キリスト者のために」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・宗教改革主日礼拝(赤)(2022年10月30日)
エレミヤ書31章33-34節(1237)ヨハネ福音書8章31-36節(182)


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 本日はルターが火付け役となった宗教改革を覚えて礼拝しています。500年前のヨーロッパの教会は社会の中心でした。そのような時代に生まれ育ったルターは、大学で法律を学んでいた時、落雷に遭い「助けて下さったなら、わたしは修道士になります」と誓い、その通り修道士になります。

 ルター教会での厳しい生活にも耐え、祈りと苦行を積み重ねましたが、聖書を読めばもっと神様の御心を知ることができるのではないかと考えます。当時は礼拝や儀式の中で新約聖書の指定された箇所を読みあげるだけで、神父や修道士といえども、全体を理解していたとは言えなかったからです。

 やがてヴィッテンベルクの修道院に移ったルターは、ヴィッテンベルク大学に学び、ようやくつまみ食い的な聖書の読み方から解放されます。時間をかけて聖書全体を読み、その解釈を発表していく教師という立場になります。ルターが聖書を深く読み、神様の御心を知れば知るほど、当時の教会や封建社会の感覚とズレが生じはじめます。ついに「全聖徒の日」の前日、ルターは教会組織への質問状を教会の門に貼りつける、という形で一線を超え「宗教改革者」へと踏み出したのです。

 ところで、本日の福音書に入る前に、イエス様の時代、人々が読む聖書とは「旧約聖書」だけだったということを抑えておきましょう。私たちが「新約聖書」と呼ぶものはイエス様が天に帰られた後に弟子たちが書き記したものですから、イエス様が十字架にかかられる前にはまだ存在していない、ということです。

 当時のユダヤ人は子どもの頃から熱心な聖書教育を受けましたが、それら全ては「旧約聖書」だったわけです。今日読みました福音書の中で、ユダヤ人たちが「自分たちの先祖」と呼ぶのは、旧約聖書の一番初め、創世記に登場する「アブラハム」のことです。アブラハムは神様に信仰を認められ、子孫繁栄を約束されます。その子孫がユダヤ人達なので、彼らは「アブラハムこそ我が父」と呼びました。

 そんな彼らに、イエス様は「真理」を知るように、と語りかけます。イエス様がここで言われる「真理」とは、正しく神様を知ることでした。「あなた方はアブラハム同様に神様に愛されている」と語りかけられたのです。先祖からの言い伝えや、人々の勝手な解釈が加えられた神様のイメージではなく、あなたを愛している神様にあなた自身を委ねなさい、そうすればあなた方は自由になることができる、と言われたのです。ところが、この呼びかけに人々は反論し、自分たちは不自由ではないと主張します。彼らのアブラハムへの思いは、尊敬や憧れを通り越して、まるで信仰の対象にまでなっているかのようです。

 とはいえ、アブラハムが神様に愛され、「信仰の父」と呼ばれるようになったのは、彼が完璧な人間だったからではありません。彼は数々の過ちを犯し、失敗を重ねつつも神様を信頼し、何度でも悔い改め、その度に神様との絆を強くしました。その生き方を神様がお喜びになり、彼の子孫を繁栄させることを約束されます。

 モーセの時代になると、神様は十戒をユダヤの民にお与えになり「こう生きればあなたたちは幸せになれる」とお教えになります。この教えは発展して律法と呼ばれます。ユダヤ人達は律法を文書にまとめ、守りましたが、あまりにも細分化されたので、律法の専門家と呼ばれる人々も登場し、民衆が正しく律法を守れるよう指導しました。

 しかしアブラハムの時代から1000年以上が過ぎる頃には、人々は罪を犯すまいとして律法に縛られ、律法を守ることで神様に認められようと必死になっていました。神様の愛を信じて自由に幸せに生きていけるはずの人々が、見当外れな努力をして不自由な生き方に苦しんでいる様子を、神様は見ていられませんでした。だからこそイエス様を地上に遣わして「律法にとって一番大切なことは、神様はあなたが何者であろうと愛している、ということだ」とメッセージを送られたのです。

 残念なことに結局人々はイエス様が取り次ぐ神様のお言葉を理解できませんでした。それどころかこの人々はイエス様がアブラハムを蔑ろにし、律法を大切にせず、神様を侮辱したと思い込みます。イエス様を十字架につけろと叫んだのも、もしかしたら彼らだったのかもしれません。

 しかし、やがてこういったユダヤ教徒の中からキリスト者は生まれてきます。イエス様を神の御子と信じた人々は教会を作り、新しい聖書「新約聖書」を書き記したのです。古くから読まれてきた旧約聖書も合わせて一冊の「聖書」となりユダヤ人以外の人々にも読まれるようになっていきました。

 こうしてせっかく神様の御心が一冊の本にまとまって、誰でも読めるようになったのですが、最初に普及した聖書はラテン語で書かれており、尊い本として翻訳が制限されたのでイエス様の時代から1000年以上が経過した、「中世」と呼ばれる時代になると、まともに読める人は高い教育を持つ一部の人だけでした。

 だからこそ先程お話ししたように神様はルターを召し出され、教会の誤りを正し、聖書をドイツ語に翻訳すよう導かれます。そのタイミングで印刷機が発明され、聖書の普及に拍車をかけたことも神様の恵みでしょう。その後、ドイツ語からさらに多くの言葉に翻訳され、識字率が上がるにつれ、誰でも自由に読めるようになります。こうして民衆は再び神様の愛を取り戻したのです。

 ルターは「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」という言葉を残しましたが、これはイエス様のご生涯そのものです。いと高き神の御子として人間に服従する必要のない方が、あえて家畜小屋の片隅で生まれ、その人生の最後の最後まで人間に寄り添ってくださったのです。私たちの生きるべき手本はここにこそあります。

 私たちには直接聖書を読み、イエス様の語り掛けを聞く力が与えられています。だれかの解釈を鵜呑みにするのではなく、イエス様が一人一人に与えてくださった自由を正しく受け取りましょう。そしてあなたに与えられたなすべき勤めを大胆に喜びを持って果たして参りましょう。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


「ルターの紋章」
この紋章には「薔薇の上に置かれたキリスト教徒の心臓は、
十字架の真下にある時脈打つ」という
題字が記されています。

2022年10月23日日曜日

「義と思われる人と義とされた人」(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第20主日礼拝(緑)(20221023日)
詩編 842-5節(921) ルカによる福音書 18章9-14節(144


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 本日の福音書で、イエス様は一つのたとえ話をなさいます。神殿での出来事と仮定して、ファリサイ派の人と徴税人を登場させ、この二人の祈りに注目するよう促されます。神殿で祈る彼らのうち、神様に義とされた、つまり「あなたは正しい」と言っていただけるのはどちらだったか、と人々に考えさせるのです。


 ファリサイ派の人々は、礼拝や儀式等で人前で声に出して祈る機会がたくさんありますから、祈りの所作も綺麗だったことでしょう。一方取税人はというと、せっかく神殿に来ていながら、前に進み出ることをせず、神様がおられるとされる天を見ようともせず、ただ胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と嘆きます。


 もし、私たちがそのような光景に出くわしたなら、宗教エリートであるファリサイ人を見て、きっと高尚な祈りが捧げられているのだろうと考えるでしょう。

 一方、汚い手を使って人々から多額の税金を搾り取る徴税人は、ユダヤ社会から嫌われていましたから、彼がうめくように祈っても、周囲は「神様には届くまい」と思うでしょう。


 しかし、ファリサイ人の心の祈りはここに書かれているように自己満足と傲慢な言葉で溢れています。今の自分があることに感謝はするけれど、神様がいてもいなくてもどうってことないと思わせるほどの祈りです。


 イエス様は、立場のある人間が人前で民衆の願いを代弁する、整った祈りを受け入れられます。しかしそういった公の祈りだけではなく、一人一人の心の内の拙い言葉の祈りにも喜んで耳を傾けてくださいます。その上でこのファリサイ派の人の祈りを否定され、徴税人の「憐れんでください」という祈りを受け入れられます。


 徴税人はユダヤを支配するローマの手先となって、仲間のユダヤの民から税金を多めに取り立て、私服を肥やすのです。同胞から搾取する彼らは神に見捨てられた罪人と蔑まれました。しかし徴税人の中には、この仕事を選んだことを後悔し、本心から悔い改める人も、わずかながらいたのです。


 その代表として、イエス様の弟子となったマタイが挙げられるでしょう。イエス様に「私に従いなさい」と招かれたマタイは徴税人の仕事をさっさと辞め、イエス様の弟子となります。また、徴税人ザアカイのお話も有名です。

 嫌われ者のザアカイはイエス様に親しく呼びかけられたことに感動して心を改め「わたしは財産の半分を貧しい人々に施し、だれかから何かをだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と宣言します。


 彼らは、混乱するユダヤ社会の中で生き残るために徴税人という仕事を選んものの、自分のして来たことが神様から見ればとんでもない悪だと気づいてはいました。自分は神様から見捨てられる存在だと気づいた時、開き直るか、それに耐えきれず神様に頼ろうとするかは大きな違いです。

 ザアカイやマタイのように、イエス様こそ自分と神様との仲介者となってくださると気づいた人々は幸いです。イエス様の前で心から悔い改めれておすがりすれば、神様に赦されて天国へ入れるという希望は、何物にも代えられないでしょう。


 一方、自分の優秀さに酔っている自信過剰なファリサイ人はこれっぽっちも神様にすがろうとはしていません。こういう心根では、仮に目の前でイエス様が呼びかけたとしても結果は同じでしょう。


 今日の徴税人とファリサイ人のお話はイエス様のたとえ話ではありますが、イエス様は二人のあり様を通して、どうすれば神様の恵みを得ることができるのかお示しになったのです。


 旧約聖書のエゼキエル書3311節にはこう書かれています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んで良いだろうか」

 神様は悪人が死ぬことを喜ばず、悔い改めることを喜ぶということが、愛情あふれる表現ではっきりと記されています。


 自他ともに正しいと思われる人も間違うことはあります。しかし、自分の間違いに気づき悔い改めて神様にお詫びした時、それが神様の喜びとなるのです。そしてそれこそがイエス様がこの地上に来られた本当の意味なのです。


 イエス様の例えに登場した、このファリサイ派の人物、聖書をよく理解し、自分は正しいと自負しているファリサイ派の人が、もし「わたしはこの徴税人のようでなくて感謝します」という呟きではなく、徴税人の神に哀れみをこう状況に気付いて心を寄せ、「私もあなたのために神に祈ろう」と言いえたなら、彼にも救いがやってきたことでしょう。


 ただイエス様はファリサイ派の人々が全て間違っているとはおっしゃいません。原文には少し配慮が施されていて、後の時代のユダヤ人ではない私たちが聖書を読むとき、一方的に「ファリサイ派イコール傲慢で悪い人々」と思わないような書き方になっています。パウロのようにファリサイ派から悔い改めてクリスチャンになった者もいるからです。徴税人に招きがあるのと同じく、神様はファリサイ派の人々にも招きを与えているのだ、とイエス様はおっしゃるのです。


 私たちはファリサイ人でも、徴税人でもありません。しかしイエス様の十字架の救いの恵みを信じたものであり、今までの罪を悔い、イエス様の恵みによって義とされた者、神様の目に正しい者とされた人々の集まりです。

 何より、私たちはイエス様が辛く苦しい十字架の死を経験してまで罪を贖ってくださったことを知っています。だからこそ、それぞれに置かれた境遇の中で、懸命に生きながら、同じ神様に愛された人間として苦難の中で共にも祈り、自分の欲望や不正に胸を打ちながら悔い改めを言葉にし、憐れみを神に求めるものであり続けたいのです。



人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


サザンカの咲く季節になりました
花も美しいですが、ころんとした蕾も
愛らしく感じます

2022年10月16日日曜日

「疲れ果てずに祈ること」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑)(2022年10月16日)
テモテへの手紙Ⅱ  3章14-16節 ルカによる福音書18章1-8節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 本日の福音書でイエス様は「祈り続けることの大切さ」を教えるために、弟子たちにたとえを話されます。例え話の主人公は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。「神様を畏れない」というのは、いくら悪いことをしても、神様から罰を受けない、と考えている人のことです。自分の方が神様より偉い、と思っているというより、神様の存在をまるで信じていないのです。


 法治国家に住む私たちは、どんな人でも法律に従って公平に裁いてもらえるはずだ、と信じています。しかしイエス様の時代、賄賂をくれる人や地位ある人、お金持ちなど、自分に利益をもたらしてくれそうな人に有利な裁判をする裁判官はそれほど珍しくなかったでしょう。大抵の裁判官が少々の不正をする時代にあって、イエス様はさらに重ねて「この人物は不正な裁判官だ」と強調されるのですから、道徳観念のかけらもない裁判官なのでしょう。そんなひどい裁判官のところに一人のやもめがやってきた、とイエス様は言われるのです。


 やもめというのは配偶者を失った女性を表す言葉です。古代社会では大抵の国で社会福祉の考えは未発達でしたが、イスラエルには紀元前からやもめを保護する神様の教えがありました。申命記10章18節に「神様とは孤児と寡婦の権利を守る方である」と記されています。神様を手本として孤児と寡婦を大切にするなら、イスラエルの民に幸せが与えられる、と書かれています。


 しかし孤児や寡婦の権利を大切にするには、神様を畏れ敬い、そうだその通りだ、と思う必要があるでしょう。ましてここに登場する裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」なのですから、やもめの人権には全く興味が無く、彼女がどうなろうが知ったことではないのです。


 今までこの裁判官はやもめは「相手を裁いて、私を守ってください」訴えっれても、無視して来ました。しかし今度という今度は彼女の望みを無視するわけにはいきません。それはこの裁判官が回心したからではなく、やもめがひっきりなしに裁判官のところに所にやってきて、うるさくてかなわなかったからなのです。


 イエス様は続けてこう語られました。「こんな不正な裁判官でさえ、へこたれないでひっきりなしに訴えてくるやもめの利益のために裁判をしてやろう、という気持ちになったのだ。まして神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人を放っておかれることがあるだろうか」


 ここで言われる「選ばれた人」というのは神様に愛された人、つまりキリスト者のことです。不正に満ちたこの世の中で、神様に愛されたクリスチャンたちが、必死で神様に助けを求めているのを、神様は決して無視しない、と言われるのです。

 ただ、イエス様のこのお言葉をすんなり信じられる人は多くないかもしれません。今までの人生を振り返り、あの苦しい時、あの悲しい時、神様は助けてくださらなかったではないか、と思われる方もおられるでしょう。


 そんな私たちのために、この例え話の最初には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と但し書きがついています。つまりイエス様は、多くの人が「祈ってもかなえられないじゃないか」という悲しみや怒りの感情を経験し、気を落とし、祈りをやめてしまう、と知っておられたのです。


 このお話を語られたイエス様は、いずれ弟子たちの元を離れ、天に帰らなくてはなりません。ご自分が近くにいなくなったら、あっという間に神様への祈りをやめ、信仰を失うような弟子たちでは困るのです。

 しかし弟子たちはイエス様の意図をなかなか汲み取ることができないまま、十字架の時がやってきます。弟子たちは案の定、イエス様が亡くなられたことにすっかり失望し、信仰を失いかけますが、三日目に蘇られたイエス様と再会して、ようやく信仰を取り戻すのです。


 やがて本当にイエス様が天に帰られる時、イエス様は弟子たちに宣教を託されます。使徒言行録1章には、寂しく思う弟子たちの前に天使たちが現れ「イエス様は必ず帰ってくる」と約束したと記されています。天使の言葉を聞いた弟子たちは、イエス様は必ず再び地上に来てくださるのだと理解し、その時こそ、全ての悲しみや苦しみが終わるのだと信じたのです。イエス様は自分たちをこの瞬間も見守ってくれていて、決して見捨てることはない、と信じ、幼な子が父に頼るように、どんな些細な願いもイエス様に申し上げ、祈り続けたのです。


 こうして2000年の間、人々はある時は大切な人や自分の病が癒されるように祈り、仕事が祝福されるように祈り、親しい人がイエス様を信じられるように祈り、ありとあらゆる祈りが捧げられました。他人の目から見れば小さな願いでも、人々は真剣に神様に願いました。世界平和という大きな目標を祈ることも、もちろんあります。ただ平和な世界というのは、一般の人々の小さな幸せが大切にされ、人としての営みが守られ、次の世代に委ねていける世界なのだと思います。


 イエス様が言われたように、未亡人や両親を失った子どもにも手厚い支援がなされ、誰でもきちんと教育が受けられ、障害の有無や病気のあるなしでチャンスを奪われることもなく、性別や年齢で差別されず、高齢者が安心して歳を重ねられ、犯罪歴のある人でもやり直しのきく世界。私たちはイエス様から、そのような世界を作るように導かれています。


 毎週日曜日に礼拝に与り、祈りを捧げ、聖書のメッセージを聴き続け、自らも聖書を開く習慣を持つ時、「願っても叶えられないのは何故か」という苦みの答えを聖書の中から掴み取る力が身についてきます。

 信仰生活を身につけるのも、苦しい時に聖書の中から神様の御心を見つけ出すのも、一朝一夕にできることではありません。こればかりはへこたれずに祈り、聖書を読む生活をしていく中で、次第にわかってくることなのです。イエス様の励ましを信じて、へこたれないで祈りと学びを重ねて参りましょう。


人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。



サザンカのつぼみです
暑かったり寒かったりを繰り返しながらも
季節は
確実に移っています

2022年10月9日日曜日

「イエスを慕う信仰」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(緑)(2022年10月9日)
テモテへの手紙Ⅱ2章11-13節(392) 
ルカによる福音書17章11-19節(142)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 イエス様の有名な例え話に「良きサマリア人」というお話があります。ユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲であったにもかかわらず、傷つき倒れたユダヤ人をサマリア人が助けた、という例え話を通して、イエス様は隣人愛を解かれました。

 サマリヤ人とユダヤ人は数百年前まで遡れば同じ民族でしたが、それぞれに違う歴史を辿ったため、聖書理解や神様への信仰スタイルも異なっていきました。それぞれに自分の方が正しい信仰を持っていると譲らずお互いに軽蔑し合っていましたから普通サマリヤ人とユダヤ人が仲良く暮らすことはありませんでした。
 しかしここに登場する彼らは、一般のユダヤ人とサマリア人ではありません。彼らは「重い皮膚病」と診断された人々で、地域が用意した隔離用の村の一つで共に生活せざるを得なかったのです。

 この病は伝染性が強いと考えられ、患らった人は隔離されるのが通常でした。隔離された場所からどうしても出なければならない場合は「私は汚れたものです」と叫び、他者が自分に近づかないようにしなければなりませんでした。

 
「重い皮膚病」であるかないかの診断は古くから祭司に委ねられており、隔離するか自由にするかの決定を行いましたが、治療法のない時代、「重い皮膚病」と認定された人々が再び元の生活に戻れる可能性は非常に低かったようです。

 今日の福音書の10人の「重い皮膚病」の人々は、生きる希望もなく、ただ「同病相憐む」の言葉通り、人種や民族、年齢等にこだわることなく、できる範囲で助け合いながら暮らしていました。そんな彼らが一つの福音を聞きます。自分達の病をたちどころにいやす方がおられるということでした。

 少し遡ると、ルカによる福音書5章に、イエス様が重い皮膚病を癒す様子が記されています。イエス様は癒しを行われた後、その人に「祭司に体を見せて治ったことを証明してもらい、感謝の捧げ物をするように」と言われますが、ご自分が癒されたことについては黙っておくように命じられます。しかしいくら当事者に口止めしても、このような奇跡を見聞きした人々が黙っていられるはずがありません。イエス様の噂はどんどん広まって、本日の10人の患者の耳にも届いたのでしょう。彼らはイエス様が自分達の近くを通られることを期待して、待ち続けたのです。

 ところでイエス様は、ユダヤ人とサマリア人が神様への信仰をめぐって対立していることを悲しんでおられました。だからでしょう、イエス様はたびたびサマリアを訪れ、人々と親しく語り合ったことが聖書に記されています。今回もわざわざこの土地を旅のルートに選び、病のためとはいえユダヤ人とサマリア人が共に暮らしている場所に行かれたと考えられます。
 病人たちがイエス様に会いたかった以上に、イエス様の方が彼らに会うこと強く願われたのです。ですから遠くから彼らがイエス様の名を呼び、「憐んでください」と叫ぶと、すぐさま「祭司たちのところに行って、体をみせなさい」と呼びかけ、いやされたのです。

 病人たちは自分の体を確認したりはしませんでした。イエス様が「祭司に体を見せるように」と言われたならば、すでに自分は癒されているのだと信じ、祭司に体を見せるためにそこを後にしました。

 しかし、一人のサマリア人だけは、大声で神を賛美しながらイエス様の元に戻ってきたのです。ある説によると、10人のうち9人はユダヤ人だったので診せるべき祭司はいたが、このサマリア人にはいなかった、というのです。もし彼がユダヤ人祭司に見せたとしても「汚れたサマリア人が神様から癒されるはずがない」と意地悪される可能性がありました。
 また、仮にサマリア人の祭司に見せたとしても「ユダヤ人であるイエスに神の奇跡が行えるはずはない」と言われるかもしれません。つまりは、どちらの祭司に見せても、彼は癒された保証をもらえなかっただろう、というのです。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか?

 彼は自分が癒されたことを確信し、イエス様と共に確かに神様がおられることを知り、心からの感謝を捧げるために戻ってきたのではなかったでしょうか。彼にとって、祭司に見せることは後回しで良かったのです。後回しにしたところで、救いの事実、癒しの事実、神様から愛が注がれた事実は、変わらないのです。溢れ出る感謝の思いが彼を突き動かし、イエス様のもとへと引き戻したのでした。

 こうして癒されたサマリア人は、民族を超えて自分に手を差し伸べてくださったイエス様を愛し、慕う気持ちが日に日に増していくでしょう。苦しむ人の前に、民族の違いなど関係ないのだというイエス様の思いをしっかりと受け取ったに違いありません。その素直な信仰は、彼をその後、天の国に導いていったことでしょう。

 一方、祭司に体を見せに走った9人のユダヤ人は、イエス様を慕う心は与えられないままだったでしょう。恩人としてイエス様を思い出すことがあっても、それ以上でも以下でもないままだったかもしれません。病のときにはサマリア人とも寄り添えた彼らでしたが、今はユダヤ人の祭司に導かれ、民族意識を取り戻し、イエス様の真の御心を受け止めることもなく、ユダヤ人が世界の中心であるような信仰の歩みをしていったことでしょう。

 今、私たちは日々戦争の報道を聞きながら生活しています。神様の御心を知りつつ、神様がわたしを愛されたように、私も隣人を愛していこうと、祈り、願うことで平和は築かれます。決して武力の上に築かれるものではありません。
 こんな時だからこそ、イエス様の教えを心に刻み、祈りましょう。私たちはイエス様を慕う一つの群れです。その歩みを生涯守り通して参りましょう。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


先日、教会学校のお友達3人を誘って
園庭を見下ろせる幼稚園の屋上に上がりました
「屋上」と言っても、ほぼ「屋根」です
牧師館の物干し台の延長で
柵を乗り越えたりすることもなく、すんなり出られます
もちろん、万が一に備えて教会員がガードします
(教会員も上がってみたかったようです)

ここは牧師家庭の洗濯物を干すとき
園庭で遊ぶ園児に見つかって
大声で名前を呼ばれたりする、楽しい空間でもあります
飯田は花火の名所で、この場所からとてもよく見えます
目を凝らせば南アルプスも見えますし
夕暮れ時には赤く染まる赤石山脈がとても美しいのです






2022年10月2日日曜日

「弱い魂への配慮」(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・聖霊降臨後第17主日礼拝(緑)(2022年10月2日)
テモテへの手紙Ⅱ 1章7-8節(391)
ルカによる福音書 17章5-10節(142)


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 私たちは今も昔も、立場の違う人間、同士お互いに分かり合えないことが多いものです。同じ聖書信仰に立つクリスチャン同士であっても、生まれも育ちも違えば感覚の違いはあり、教会内部が混乱することもあります。これはイエス様の弟子たちが宣教活動を開始し、さまざまな背景を持つクリスチャンが増えてくると、避けて通れない深刻な問題となりました。

 そこを乗り越えて伝道いくには大変な苦労が伴いましたが、彼らは本日の福音書にあるように、天の国で再びイエス様と出会えた時、「私はしなければならないことをしただけです」つまり「神様の僕としてやって当然のことをしただけです」と言えるように、心を整え、謙虚な姿勢で信仰を高めようと努力を続けたのです。

 彼らが踏ん張れた要因の一つに、イエス様が命じられた「小さき者への配慮」があります。この世のあちらこちらで生きにくさを抱えながら過ごしている小さき者たちを呼び集め、自分たちイエス様の弟子に託されたのだと信じたのです。

 本日のお話の前段階として、「小さい者をつまづかせないように」とイエス様は教えておられます。この「小さい者」とは、ふたつの意味が含まれています。一つ目は文字通り幼子や若者や知識・経験の少ない者、障害を持った人々、社会的弱者のことを指します。

 二つ目の「小さい者」とは「信仰の弱い者」と言う意味があります。みんながみんな一途な信仰を持っているわけではなく、誰かに反対されたり、嫌なことが起こったりすると、すぐに確信を失い、信仰がフラフラしてしまう人もいます。むしろそちらの方が多いかもしれません。

 この世の始まりのとき、神様は人間を作り、愛されましたが、人間は信仰の迷いから神様との約束を守るよりも、誘惑されるままに禁断の木の実を食べることを選び、楽園から追放されます。しかし神様は人間を見捨てず、愛し続けました。イエス様はその神様の無償の愛の全てを担ってユダヤの国にお生まれになりました。そして神でありながら人としてお育ちになり、やがて自らの足で歩いて弟子を集め、神様に愛されていることを信じなさい、と宣べ伝えられたのです。

 当時のユダヤの指導者は、自分勝手な解釈で聖書を国民に教え、神様の愛の教えを歪めていました。イエス様はそれを正しい形に戻そうとして指導者たちと対立し、捕らえられ、十字架の上で命を落とされます。しかしそれは、神様がイエス様にお与えになった役割でした。イエス様を信じるものは死んでも生きる、という信仰を人々にお与えになるために、あえてイエス様を十字架に送られたのです。

 イエス様が蘇られたことを信じた人々はクリスチャンとなり、地中海沿岸を中心に数を増やし、教会もいくつも誕生しました。イエス様の弟子たちは、社会から抑圧され、縮こまっていた人々を協会に迎え入れますが、しっかり学んで教会を支える者だけではありませんでした。先輩クリスチャンたちがいくら指導しようとしても、愛というのを履き違えた彼らは、甘やかされることを好み、注意されるとまるで反抗期の子どものように秩序を乱す行動に出ました。

 彼らを健やかな信仰者として育てたいと願いながらなかなかうまくいかず、弟子たちは苦しんだことでしょう。彼らはそうした苦しみを抱きながら、どうやったら「小さい者」をつまづかせないでいられるか、イエス様の教えを何度も振り返り、福音書に刻み込んだのです。

 ここにある「信仰を増してください」という願いは、問題ある人々から尊敬され、きちんと指導できる立派な信仰者にして欲しいという意味だったようです。それに対しイエス様は「あなたに素晴らしい信仰を与えよう」とはおっしゃいません。「あなたにからし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう」と言われます。これは「あなたには、もうすでに、人を導くだけの信仰があるではないか、それが信じられないか?」と尋ねておられるのです。

 からし種は本当に小さな種です。一方、この桑の木とは、イエス様のお国でよく見かけるイチジク桑のことで、根が広く深く張ることで知られています。イエス様は、二つのものを対比して語られ、小さな信仰でも大きなことを成し遂げることができる、と教えておられるのです。

 「小さな信仰でも大丈夫なのか」と疑問に思われる方もおられるでしょう。しかし小さな信仰とは「死者の中からイエス様をよみがえらせた神を信じるか」という問いかけです。この問いかけは短く小さいけれど信仰の本質そのものなのです。
 「あなたが神様の存在を信じ、その方に愛されていることを信じるなら、あな
たが今、自分には力がない思っていたとしても、もう大いなる奇跡のスタートラインについている」と言ってくださるのです。

 私は小さくて弱いから、この仕事はもっと他の人に引き受けてもらたい、と思ってしまうことはきっとあるでしょう。恐る恐る引き受けたとしても、なかなかうまくいかず、誰にも評価されず、褒めてもらえない、そのようなことが起こるかも知れません。しかし、そこを一歩乗り越えて「神様がちゃんと見ていてくださる」と信じていただきたいのです。
 神様は私たち一人一人は弱く小さいものであることを知っておられます。その上で人間を愛し、イエス様を通して永遠の命を与えてくださいました。ですからどんな苦しみがあっても必ず神の国に招くと約束してくださった方を信じて、一人一人に与えられた勤めを誠実に果たして行きましょう。信仰を持って、イエス様から託された「小さき者」を受け入れ「弱い魂への配慮」を忘れないことは今も昔も教会に、私たちに、与えられた使命なのです。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


昨日は10月の土曜学校でした
コロナに伴う学級閉鎖や各小学校の運動会などで
土曜学校に来られた子どもはわずか3人!
いえ、こちらは一人でもやるつもりなのですが
「たったこれだけ!?」という子ども達の嘆きの声を聞かないために
何か工夫はないか?
ということで
牧師館で開催
園庭を見下ろす物干し台などにご招待
みんな「初めて入った〜〜(^▽^)」と興奮気味
すかさず工作開始です


お手伝いに来てくださった婦人会の方々と
楽しく会話しながら最後まで「ノアのはこぶね」を作り上げました
ほっと一安心です
さて、来月はどうなる!?
どきどきの教会学校Lifeです