聖霊降臨後第20主日礼拝(緑)(2022年10月23日)
詩編 84編2-5節(921) ルカによる福音書 18章9-14節(144)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。
本日の福音書で、イエス様は一つのたとえ話をなさいます。神殿での出来事と仮定して、ファリサイ派の人と徴税人を登場させ、この二人の祈りに注目するよう促されます。神殿で祈る彼らのうち、神様に義とされた、つまり「あなたは正しい」と言っていただけるのはどちらだったか、と人々に考えさせるのです。
ファリサイ派の人々は、礼拝や儀式等で人前で声に出して祈る機会がたくさんありますから、祈りの所作も綺麗だったことでしょう。一方取税人はというと、せっかく神殿に来ていながら、前に進み出ることをせず、神様がおられるとされる天を見ようともせず、ただ胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と嘆きます。
もし、私たちがそのような光景に出くわしたなら、宗教エリートであるファリサイ人を見て、きっと高尚な祈りが捧げられているのだろうと考えるでしょう。
一方、汚い手を使って人々から多額の税金を搾り取る徴税人は、ユダヤ社会から嫌われていましたから、彼がうめくように祈っても、周囲は「神様には届くまい」と思うでしょう。
しかし、ファリサイ人の心の祈りはここに書かれているように自己満足と傲慢な言葉で溢れています。今の自分があることに感謝はするけれど、神様がいてもいなくてもどうってことないと思わせるほどの祈りです。
イエス様は、立場のある人間が人前で民衆の願いを代弁する、整った祈りを受け入れられます。しかしそういった公の祈りだけではなく、一人一人の心の内の拙い言葉の祈りにも喜んで耳を傾けてくださいます。その上でこのファリサイ派の人の祈りを否定され、徴税人の「憐れんでください」という祈りを受け入れられます。
徴税人はユダヤを支配するローマの手先となって、仲間のユダヤの民から税金を多めに取り立て、私服を肥やすのです。同胞から搾取する彼らは神に見捨てられた罪人と蔑まれました。しかし徴税人の中には、この仕事を選んだことを後悔し、本心から悔い改める人も、わずかながらいたのです。
その代表として、イエス様の弟子となったマタイが挙げられるでしょう。イエス様に「私に従いなさい」と招かれたマタイは徴税人の仕事をさっさと辞め、イエス様の弟子となります。また、徴税人ザアカイのお話も有名です。
嫌われ者のザアカイはイエス様に親しく呼びかけられたことに感動して心を改め「わたしは財産の半分を貧しい人々に施し、だれかから何かをだまし取っていたら、それを4倍にして返します。」と宣言します。
彼らは、混乱するユダヤ社会の中で生き残るために徴税人という仕事を選んものの、自分のして来たことが神様から見ればとんでもない悪だと気づいてはいました。自分は神様から見捨てられる存在だと気づいた時、開き直るか、それに耐えきれず神様に頼ろうとするかは大きな違いです。
ザアカイやマタイのように、イエス様こそ自分と神様との仲介者となってくださると気づいた人々は幸いです。イエス様の前で心から悔い改めれておすがりすれば、神様に赦されて天国へ入れるという希望は、何物にも代えられないでしょう。
一方、自分の優秀さに酔っている自信過剰なファリサイ人はこれっぽっちも神様にすがろうとはしていません。こういう心根では、仮に目の前でイエス様が呼びかけたとしても結果は同じでしょう。
今日の徴税人とファリサイ人のお話はイエス様のたとえ話ではありますが、イエス様は二人のあり様を通して、どうすれば神様の恵みを得ることができるのかお示しになったのです。
旧約聖書のエゼキエル書33章11節にはこう書かれています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ。立ち返れ、立ち返れ、お前たちの悪しき道から。どうしてお前たちは死んで良いだろうか」
神様は悪人が死ぬことを喜ばず、悔い改めることを喜ぶということが、愛情あふれる表現ではっきりと記されています。
自他ともに正しいと思われる人も間違うことはあります。しかし、自分の間違いに気づき悔い改めて神様にお詫びした時、それが神様の喜びとなるのです。そしてそれこそがイエス様がこの地上に来られた本当の意味なのです。
イエス様の例えに登場した、このファリサイ派の人物、聖書をよく理解し、自分は正しいと自負しているファリサイ派の人が、もし「わたしはこの徴税人のようでなくて感謝します」という呟きではなく、徴税人の神に哀れみをこう状況に気付いて心を寄せ、「私もあなたのために神に祈ろう」と言いえたなら、彼にも救いがやってきたことでしょう。
ただイエス様はファリサイ派の人々が全て間違っているとはおっしゃいません。原文には少し配慮が施されていて、後の時代のユダヤ人ではない私たちが聖書を読むとき、一方的に「ファリサイ派イコール傲慢で悪い人々」と思わないような書き方になっています。パウロのようにファリサイ派から悔い改めてクリスチャンになった者もいるからです。徴税人に招きがあるのと同じく、神様はファリサイ派の人々にも招きを与えているのだ、とイエス様はおっしゃるのです。
私たちはファリサイ人でも、徴税人でもありません。しかしイエス様の十字架の救いの恵みを信じたものであり、今までの罪を悔い、イエス様の恵みによって義とされた者、神様の目に正しい者とされた人々の集まりです。
何より、私たちはイエス様が辛く苦しい十字架の死を経験してまで罪を贖ってくださったことを知っています。だからこそ、それぞれに置かれた境遇の中で、懸命に生きながら、同じ神様に愛された人間として苦難の中で共にも祈り、自分の欲望や不正に胸を打ちながら悔い改めを言葉にし、憐れみを神に求めるものであり続けたいのです。
人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。
サザンカの咲く季節になりました 花も美しいですが、ころんとした蕾も 愛らしく感じます |
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