聖霊降臨後第18主日礼拝(緑)(2022年10月16日)
テモテへの手紙Ⅱ 3章14-16節 ルカによる福音書18章1-8節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。
本日の福音書でイエス様は「祈り続けることの大切さ」を教えるために、弟子たちにたとえを話されます。例え話の主人公は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」です。「神様を畏れない」というのは、いくら悪いことをしても、神様から罰を受けない、と考えている人のことです。自分の方が神様より偉い、と思っているというより、神様の存在をまるで信じていないのです。
法治国家に住む私たちは、どんな人でも法律に従って公平に裁いてもらえるはずだ、と信じています。しかしイエス様の時代、賄賂をくれる人や地位ある人、お金持ちなど、自分に利益をもたらしてくれそうな人に有利な裁判をする裁判官はそれほど珍しくなかったでしょう。大抵の裁判官が少々の不正をする時代にあって、イエス様はさらに重ねて「この人物は不正な裁判官だ」と強調されるのですから、道徳観念のかけらもない裁判官なのでしょう。そんなひどい裁判官のところに一人のやもめがやってきた、とイエス様は言われるのです。
やもめというのは配偶者を失った女性を表す言葉です。古代社会では大抵の国で社会福祉の考えは未発達でしたが、イスラエルには紀元前からやもめを保護する神様の教えがありました。申命記10章18節に「神様とは孤児と寡婦の権利を守る方である」と記されています。神様を手本として孤児と寡婦を大切にするなら、イスラエルの民に幸せが与えられる、と書かれています。
しかし孤児や寡婦の権利を大切にするには、神様を畏れ敬い、そうだその通りだ、と思う必要があるでしょう。ましてここに登場する裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」なのですから、やもめの人権には全く興味が無く、彼女がどうなろうが知ったことではないのです。
今までこの裁判官はやもめは「相手を裁いて、私を守ってください」訴えっれても、無視して来ました。しかし今度という今度は彼女の望みを無視するわけにはいきません。それはこの裁判官が回心したからではなく、やもめがひっきりなしに裁判官のところに所にやってきて、うるさくてかなわなかったからなのです。
イエス様は続けてこう語られました。「こんな不正な裁判官でさえ、へこたれないでひっきりなしに訴えてくるやもめの利益のために裁判をしてやろう、という気持ちになったのだ。まして神は昼も夜も叫び求めている選ばれた人を放っておかれることがあるだろうか」
ここで言われる「選ばれた人」というのは神様に愛された人、つまりキリスト者のことです。不正に満ちたこの世の中で、神様に愛されたクリスチャンたちが、必死で神様に助けを求めているのを、神様は決して無視しない、と言われるのです。
ただ、イエス様のこのお言葉をすんなり信じられる人は多くないかもしれません。今までの人生を振り返り、あの苦しい時、あの悲しい時、神様は助けてくださらなかったではないか、と思われる方もおられるでしょう。
そんな私たちのために、この例え話の最初には「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」と但し書きがついています。つまりイエス様は、多くの人が「祈ってもかなえられないじゃないか」という悲しみや怒りの感情を経験し、気を落とし、祈りをやめてしまう、と知っておられたのです。
このお話を語られたイエス様は、いずれ弟子たちの元を離れ、天に帰らなくてはなりません。ご自分が近くにいなくなったら、あっという間に神様への祈りをやめ、信仰を失うような弟子たちでは困るのです。
しかし弟子たちはイエス様の意図をなかなか汲み取ることができないまま、十字架の時がやってきます。弟子たちは案の定、イエス様が亡くなられたことにすっかり失望し、信仰を失いかけますが、三日目に蘇られたイエス様と再会して、ようやく信仰を取り戻すのです。
やがて本当にイエス様が天に帰られる時、イエス様は弟子たちに宣教を託されます。使徒言行録1章には、寂しく思う弟子たちの前に天使たちが現れ「イエス様は必ず帰ってくる」と約束したと記されています。天使の言葉を聞いた弟子たちは、イエス様は必ず再び地上に来てくださるのだと理解し、その時こそ、全ての悲しみや苦しみが終わるのだと信じたのです。イエス様は自分たちをこの瞬間も見守ってくれていて、決して見捨てることはない、と信じ、幼な子が父に頼るように、どんな些細な願いもイエス様に申し上げ、祈り続けたのです。
こうして2000年の間、人々はある時は大切な人や自分の病が癒されるように祈り、仕事が祝福されるように祈り、親しい人がイエス様を信じられるように祈り、ありとあらゆる祈りが捧げられました。他人の目から見れば小さな願いでも、人々は真剣に神様に願いました。世界平和という大きな目標を祈ることも、もちろんあります。ただ平和な世界というのは、一般の人々の小さな幸せが大切にされ、人としての営みが守られ、次の世代に委ねていける世界なのだと思います。
イエス様が言われたように、未亡人や両親を失った子どもにも手厚い支援がなされ、誰でもきちんと教育が受けられ、障害の有無や病気のあるなしでチャンスを奪われることもなく、性別や年齢で差別されず、高齢者が安心して歳を重ねられ、犯罪歴のある人でもやり直しのきく世界。私たちはイエス様から、そのような世界を作るように導かれています。
毎週日曜日に礼拝に与り、祈りを捧げ、聖書のメッセージを聴き続け、自らも聖書を開く習慣を持つ時、「願っても叶えられないのは何故か」という苦みの答えを聖書の中から掴み取る力が身についてきます。
信仰生活を身につけるのも、苦しい時に聖書の中から神様の御心を見つけ出すのも、一朝一夕にできることではありません。こればかりはへこたれずに祈り、聖書を読む生活をしていく中で、次第にわかってくることなのです。イエス様の励ましを信じて、へこたれないで祈りと学びを重ねて参りましょう。
人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。
サザンカのつぼみです 暑かったり寒かったりを繰り返しながらも 季節は確実に移っています |
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