2018年7月14日土曜日

最近読んだ本からー「真実な交わり            ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー」


最近読んだ本からー「真実な交わり
           ―伊藤邦幸の志を受け継ぐためにー
発行所 キリスト教図書出版社
編 者 田村光三・武井陽一
20091210日 発行
        定価:2500円(+税)
 伊藤邦幸先生の父は、無教会派の伝道者である。この本の後ろに出ている「伊藤邦幸略年譜」を見ると、彼は1931(昭和6)年6月28日のお生まれで、天に召されたのは、2003(平成5)年88日であって、621カ月の生涯であったことが分かる。恐縮ではあるが、私の母が今年の10月で米寿を迎えようとしているので、調べると伊藤先生よりも1歳年長ということになる。この激動の時代を駆け抜けた一人の優れたキリスト者として、この本を通して、私たちは主イエスに従い、主を仰ぎ見て、神の栄光と貧しい人々、今なお苦しんでいる低開発国の人々に仕えた、主イエスの弟子の記録を知ることができる。彼は、とにかく、勉強熱心である。ひたむきであり、理科系も、文科系もこなせた人である。そのような先生にも、大きな罪の出来事があったという。それを、先生は、生涯忘れず、この本のタイトルにあるように「真実な交わり」を求め続けたのである。この本では、伊藤先生が若い人たちに読んでほしい本、百冊とか、読書の仕方などまでが、詳細にそのリストアップされたものの一覧表まで挙げられている。たとえば、1961年選の「岩波文庫 100冊の本」などは、とても良いなどと、指摘しておられ、表になっていて、そこには今でも十分に読むべきであろう古今東西の名著が並び、彼の視野の広さが想像できる。先生は、長い勉学の後に、やがて医師となる聡美夫人と、国際結婚し、ネパールのオカルドゥンガ診療所において、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の派遣医師として、貧しい人たちに、10年以上も仕えることになる。日本に戻っている時には、「山猿庵」とか「風声寮」といった青年たちとの読書会や共同生活を共にして、後輩たちを育てて行ったのである。6人の子どもにも恵まれ、彼らにとっては父母ともっと甘えたい時期でもあったであろうが、伊藤夫妻は、土日も自宅を開放して、たとえばヒルティの「眠られぬ夜のために」を原著で読み進めたり、大学で御自分の提出した「漱石の『心』にあらわれた罪の意識について」等々を学び合ったりしていったのである。聡美夫人は、オカルドゥンガに戻るため富士山頂付近で訓練の登山中、遭難滑落死する。伊藤邦幸先生も62歳の若さで、米国で脳幹梗塞を起こし、翌年日本の地で召されたのである。

2018年7月13日金曜日

「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)


201878日、聖霊降臨後第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第38-15節、コリントの信徒への手紙二第511-15節、マルコによる福音書第320-30節、讃美唱130/2(詩編第1306-8

説教「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)

 私どもの礼拝では、教会暦に従って、主の日ごとに読まれる聖書の個所が決まっています。三年サイクルで、A年、B年、C年と、三年たてばまた、同じ個所を、それぞれ旧約聖書、使徒書、そして共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが順番に読まれ、復活後などにはヨハネ福音書も入れられ、特別な主の日にはそれに応じた個所が定められているのであります。
 
このような伝統的は主の日の礼拝説教の守り方には、一長一短があると思いますが、それぞれの主の日に、教会暦に従ってふさわしい聖書のみ言葉が、旧約、新約から与えられ、現在は、私どもの教会では讃美唱、詩編からの朗読はなされていませんが、参照個所として、私どもの週報には載せているのであります。私は、これは、本当に恵まれた、私どもの教会の習慣ではないかと、しばしば思います。そして、式文が与えられ、その日の礼拝のみ言葉にふさわしいにふさわしい主日の祈りが用意されています。この枠に従いながら、しかも、自由自在な祈りや、それらのみ言葉にあった讃美歌が、通常は四つ、聖餐礼拝の場合には五つも讃美歌がうたわれるのは、何と幸いなことであろうかと思います。

さて、聖霊降臨後第7主日に与えられているみ言葉も、それぞれにふさわしい聖書の個所が与えられています。旧約聖書創世記からは、人類の堕罪の個所が読まれました。食べてはならないと、主なる神によって命じられていた木の実を、蛇、サタンにそそのかされて食べてしまいます。すると、目が開けて、自分たちが裸であることを知らされ、神を恐れて、イチジクの葉で身を覆い、その木陰にアダムとエバは身をひそめます。夕暮れ時、歩き回られてきた神は、あなた方はどこにいるのかと尋ねると、彼らは、自分たちは裸なので、あなたを恐れて隠れていましたというと、神は、だれが、あなた方に食べてはならないといった木の実を食べさせたのかと聞くと、アダムは、あなたが与えてくださった女が食べるように、与えてくれたのですと言います。すると、エバは、蛇が食べるように、教えたのですという。主なる神は、そのとき蛇に向かって言います。

お前は、こののち、這いつくばって、塵を食べながら生きる、もっとも呪われた生き物となる。しかし、いつの日か女の末がおこされ、お前の頭をくだき、お前は、その者のかかとを砕くであろうと約束なさるのであります。それは、キリスト、イエスが、この蛇、サタンを滅ぼすとの約束であります。そして、その主イエスが、サタンを滅ぼすとの約束が、今日の福音のみ言葉によって実現しているともいうことができるでありましょう。

また、第二の朗読の第二コリントのパウロの言葉も、第二朗読は通読方式で読まれてはいますが、不思議にも、パウロはここで、自分が正気でないとすれば、神の為であり、正気であるとすれば、あなた方のためであると、言っており、今朝の福音において、主イエスが気が変になっていると身内の者に案じられ、主を捕まえに出て来るという記事と符合するとも思われる内容が与えられています。また、讃美唱の詩篇第130編のみ言葉も、私は夜警が朝を待つにも勝って、あなたを待ち焦がれているという、救いを希求する詩人の思いが伝わって来る個所が選ばれているのであります。

さて、今朝の福音は、マルコ福音書第3章20節から30節が与えられています。この個所は、35節まで続けて読むべきかもしれません。いわゆるサンドイッチ方式ともいわれるマルコの好む書き方で、記されていて、主イエスの身内が心配して、主イエスを捕えに出て来るエピソードが、20節から21節と、31節から35節にわたって記されており、その間に、ベルゼブル論争と言われている出来事が挟まれているのでありますが、それをあえて、私どものペリコペー、聖書個所は30節までとしているのであります。今日の福音から、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。

原文では、「彼は、家へとやって来られる」と今日の福音の個所は始まっています。それを、新共同訳聖書では、「イエスが家に帰られると」と訳しています。それは、恐らく、ペトロとアンデレの家、主が癒されたペトロの姑も世話をしてくれる、主の伝道の拠点となった家でありましょう。くつろぎの場である主イエスにとってもある意味で真の家庭といってもいいその家にお戻りになる、そこで今日の出来事は起こったと考えてもいいのであります。

そこに、大勢の人が集まってきて、彼らはパンを食べる暇もないほどであったとあります。マルコは、そこで、主が悪霊を追い払い、あるいは、口をきけなくする霊を追い出していたなどとは記していません。ただ、そこに身内の者たちが、彼が気が変になっているとのうわさを聞いて、彼を捕まえるために出て来たと記します。気が変になるとは、エクスタシーの語源の言葉で、自分の外に出るという意味であります。身内の者たちにとって、主イエスの在りようは、自分たちの外になってしまった。そういう思いで、捕えに来たとまで、マルコは大胆に書き記しているのであります。

さらに、この家には、エルサレムから降って来た律法学者たちが混じりこんでいて、主イエスを、ベルゼベルに取りつかれていて、悪霊の長によって悪霊を追い出していると言っていたと記すのであります。それに対して語ったのが今日の主イエスのみ言葉であり、マルコはそれを、譬えにおいて、こう語ったと記します。

国は内部で分裂していては立ち行かない。家も内輪もめしていては立ち行かない。サタンも、サタンに対して立ち向かって、別れていては立ち行かず、滅びてしまうと。そして、御自分を、強い者の家を略奪するもっと強い略奪者に例えられるのです。その場合には、その家の強い者、サタンを縛ってから、その家の家財道具を奪い取る者だと。それは、器や財産に限らず、サタンに支配されている家の者たちを主イエスが奪い返すということでありましょう。

そして、更に、主は言われます。すべてのことは赦されている、人の子らが犯すどんな罪とがも、神を中傷する冒涜の言葉も。しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠にその罪とがの責めを負うと。そして、最後に、なぜなら、彼らは、彼が汚れた霊にとりつかれていると言っていたからであると、マルコは記しています。

主イエスは、私どもが犯すどんな罪も、神を冒涜する言葉も赦されていると言われます。私たちの罪のために殺されることになる主イエスが、その十字架の死とご復活において、私どもの犯すいかなる罪も、神への冒涜の言葉すらも赦されるとまで、おっしゃられます。しかし、聖霊を冒涜する罪だけは、その者だけは、決して赦されず、その罪の責めを永遠に負うとまで断言される。

聖霊を冒涜する罪とは一体どんな事でしょうか。かつて、神学校の最終学年でのインターンの時に、その担当牧師から、説教に手間取り、その準備不十分なことが続く私に向かって、その先生は「あなたは聖霊を冒涜しているのではないか」と厳しい言葉をかけられたことがあります。神のみ言葉を説くという神聖な務めに対して、それをないがしろにしているのではないかと戒められたのであります。そのことも、確かに、神の御用をないがしろにしてしまう、聖霊の働きを信じて、み言葉の説き明かしに励んでいないという意味では、聖霊を汚す罪となり得ましょう。今の私にとっても、それは一つの大きな戦いであります。

さて、今日、登場しています、エルサレムから降って来たと言われる律法学者たちは、旧約聖書の専門家でありました。しかし、彼らは、主イエスのように、悪霊を追い払うことはできず、そのなさっていた御業に対して、それは、ベルゼブルがとりついていて、悪霊どもの頭として悪霊どもを追い払っているのにすぎない。そう言って、あるいは口のきけない者をしゃべれるようにしたり、目の見えない者が見えるようにしているのを見て、主を嘲ったのであります。そして、既に、彼らの心には、主イエスを殺そうとする決意をもって、この家にまで、群衆に交じって、彼らは入り込んでいたのであります。

しかし、主イエスは、そのことも十分にご存じで、「家の主人」とも言われる「ベルゼブル」、異国の神の名であったとも考えられる、それの仕業だとする彼らに対して、それではサタンの仲間割れになるから、それはありえないと言われて、御自分は、そのサタンを私どもの家の主人であるところから追い払い、サタンに苦しめられていた家の者たちを、み国へと取り返すために来ているのだと反論なさっているのであります。

旧約聖書に通じていたはずの彼らが、サタンを追い出す主イエスがお出でになられ、悪霊払いをなさっているときに、むしろその悪霊の側についてしまうのであります。このようにかたくなに、主イエスが、私どもの家の主人となることを認めず、反対する。そのように、聖霊の働きを頑なに拒む者の罪だけは赦されることはないと、主イエスは、罪の赦しに対するただ一つの例外を挙げておられるのであります。

それは、ただ律法学者たちにだけ、向けられている非難ではありません。私どもの家を、主イエスが、サタンに代わって治めてくださるように、そのために私どもは、一人一人がこの後の第331節以下のみ言葉にありますように、主イエスの周りに座って、神のみ心に従う、主イエスの家の家族とされてゆかねばならないのであります。

そして、私どもも、それぞれの家庭にありながら、主イエスをこそ、私どもの家の主人として迎えつつ、罪赦された義人として、まことのくつろぎを与えられた家庭を築けるように、主イエスを日々、仰ぎ望んで行きたいのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2018年7月4日水曜日

最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ            世俗化時代の人間との対話」


―最近読んだ本からー「牧 会 学 Ⅱ
           世俗化時代の人間との対話」
E・トゥルナイゼン 著     
加 藤 常 昭   訳
発行所  日本基督教団出版局
19701130日 初版発行
        定価:1700円(古本屋、アマゾンなどでお求めください)
 トゥルナイゼンの加藤先生訳「牧会学Ⅰ」が世に出たのは1961年であった。そして、本箸の訳本が出たのは197011月30日とあるから、ほぼ10年近くたっていることになる。そして、この本には副題として「世俗化時代の人間との対話」と記されている。「牧会学Ⅰ」は総論とすると、この書は、各論と言えるだろうか。
 加藤先生から、トゥルナイゼンの牧会学、原文は「魂の配慮の教科書」とも訳せる題であるが、この本との出会いが、当時、牧師となって間もないころ、迷っていた先生を立ち直らせ、再び確信をもって、牧会、伝道に邁進することができるようになったとお聞きしたことがある。
 「牧会学Ⅱ」はすばらしい翻訳で、紹介されており、10年近くたった加藤先生の研鑚ぶりが躍如としている。加藤先生は、現在は、説教塾の主宰をなさっておられるが、御自分の紹介を一言「神学者」として表明されている。東京神学大学で「説教学」を長らく教えておられたが、鎌倉雪ノ下教会でながらく牧会され、教会の牧師として、引退なさるまでを過ごされた先生である。説教をどのようにして豊かなものにするかを説教塾で、今も熱心に指導されている。 さて、「牧会学Ⅱ」は、説教は、牧会の中で生まれてくるものであり、説教者は、教会員との深いかかわりあいの中で、初めて主の日の礼拝説教も、力を持つものとなるとトゥルナイゼンは、この書を書き出す。そして、現代の世俗化時代の人間との対話と副題にあるように、牧会者がぶつかるこの世での困難な問題、結婚問題や病者やさらには死を迎えようとしている者や悲しんでいる者への慰めの牧会について、聖書の説く慰めがどのようなものであるか、医師と牧師との連携などを神学的に解明していくのである。この翻訳が出てからも、50年近くなるが、今の時代の私たちにも、尚大きな光を与えてくれる重要な本に違いない。トゥルナイゼンは、この書にも出て来る、説教学者ボーレンと共にカール・バルトの「神の言葉の神学」に立つ神学者である。