2018年7月8日、聖霊降臨後第7主日礼拝(―典礼色―緑―)、創世記第3章8節-15節、コリントの信徒への手紙二第5章11節-15節、マルコによる福音書第3章20節-30節、讃美唱130/2(詩編第130編6節-8節
説教「悪霊を追い払う主イエス」(マルコ福音書第3章20節~30節)
私どもの礼拝では、教会暦に従って、主の日ごとに読まれる聖書の個所が決まっています。三年サイクルで、A年、B年、C年と、三年たてばまた、同じ個所を、それぞれ旧約聖書、使徒書、そして共観福音書、マタイ、マルコ、ルカが順番に読まれ、復活後などにはヨハネ福音書も入れられ、特別な主の日にはそれに応じた個所が定められているのであります。
このような伝統的は主の日の礼拝説教の守り方には、一長一短があると思いますが、それぞれの主の日に、教会暦に従ってふさわしい聖書のみ言葉が、旧約、新約から与えられ、現在は、私どもの教会では讃美唱、詩編からの朗読はなされていませんが、参照個所として、私どもの週報には載せているのであります。私は、これは、本当に恵まれた、私どもの教会の習慣ではないかと、しばしば思います。そして、式文が与えられ、その日の礼拝のみ言葉にふさわしいにふさわしい主日の祈りが用意されています。この枠に従いながら、しかも、自由自在な祈りや、それらのみ言葉にあった讃美歌が、通常は四つ、聖餐礼拝の場合には五つも讃美歌がうたわれるのは、何と幸いなことであろうかと思います。
さて、聖霊降臨後第7主日に与えられているみ言葉も、それぞれにふさわしい聖書の個所が与えられています。旧約聖書創世記からは、人類の堕罪の個所が読まれました。食べてはならないと、主なる神によって命じられていた木の実を、蛇、サタンにそそのかされて食べてしまいます。すると、目が開けて、自分たちが裸であることを知らされ、神を恐れて、イチジクの葉で身を覆い、その木陰にアダムとエバは身をひそめます。夕暮れ時、歩き回られてきた神は、あなた方はどこにいるのかと尋ねると、彼らは、自分たちは裸なので、あなたを恐れて隠れていましたというと、神は、だれが、あなた方に食べてはならないといった木の実を食べさせたのかと聞くと、アダムは、あなたが与えてくださった女が食べるように、与えてくれたのですと言います。すると、エバは、蛇が食べるように、教えたのですという。主なる神は、そのとき蛇に向かって言います。
お前は、こののち、這いつくばって、塵を食べながら生きる、もっとも呪われた生き物となる。しかし、いつの日か女の末がおこされ、お前の頭をくだき、お前は、その者のかかとを砕くであろうと約束なさるのであります。それは、キリスト、イエスが、この蛇、サタンを滅ぼすとの約束であります。そして、その主イエスが、サタンを滅ぼすとの約束が、今日の福音のみ言葉によって実現しているともいうことができるでありましょう。
また、第二の朗読の第二コリントのパウロの言葉も、第二朗読は通読方式で読まれてはいますが、不思議にも、パウロはここで、自分が正気でないとすれば、神の為であり、正気であるとすれば、あなた方のためであると、言っており、今朝の福音において、主イエスが気が変になっていると身内の者に案じられ、主を捕まえに出て来るという記事と符合するとも思われる内容が与えられています。また、讃美唱の詩篇第130編のみ言葉も、私は夜警が朝を待つにも勝って、あなたを待ち焦がれているという、救いを希求する詩人の思いが伝わって来る個所が選ばれているのであります。
さて、今朝の福音は、マルコ福音書第3章20節から30節が与えられています。この個所は、35節まで続けて読むべきかもしれません。いわゆるサンドイッチ方式ともいわれるマルコの好む書き方で、記されていて、主イエスの身内が心配して、主イエスを捕えに出て来るエピソードが、20節から21節と、31節から35節にわたって記されており、その間に、ベルゼブル論争と言われている出来事が挟まれているのでありますが、それをあえて、私どものペリコペー、聖書個所は30節までとしているのであります。今日の福音から、しばらくご一緒に、考えてみたいと思います。
原文では、「彼は、家へとやって来られる」と今日の福音の個所は始まっています。それを、新共同訳聖書では、「イエスが家に帰られると」と訳しています。それは、恐らく、ペトロとアンデレの家、主が癒されたペトロの姑も世話をしてくれる、主の伝道の拠点となった家でありましょう。くつろぎの場である主イエスにとってもある意味で真の家庭といってもいいその家にお戻りになる、そこで今日の出来事は起こったと考えてもいいのであります。
そこに、大勢の人が集まってきて、彼らはパンを食べる暇もないほどであったとあります。マルコは、そこで、主が悪霊を追い払い、あるいは、口をきけなくする霊を追い出していたなどとは記していません。ただ、そこに身内の者たちが、彼が気が変になっているとのうわさを聞いて、彼を捕まえるために出て来たと記します。気が変になるとは、エクスタシーの語源の言葉で、自分の外に出るという意味であります。身内の者たちにとって、主イエスの在りようは、自分たちの外になってしまった。そういう思いで、捕えに来たとまで、マルコは大胆に書き記しているのであります。
さらに、この家には、エルサレムから降って来た律法学者たちが混じりこんでいて、主イエスを、ベルゼベルに取りつかれていて、悪霊の長によって悪霊を追い出していると言っていたと記すのであります。それに対して語ったのが今日の主イエスのみ言葉であり、マルコはそれを、譬えにおいて、こう語ったと記します。
国は内部で分裂していては立ち行かない。家も内輪もめしていては立ち行かない。サタンも、サタンに対して立ち向かって、別れていては立ち行かず、滅びてしまうと。そして、御自分を、強い者の家を略奪するもっと強い略奪者に例えられるのです。その場合には、その家の強い者、サタンを縛ってから、その家の家財道具を奪い取る者だと。それは、器や財産に限らず、サタンに支配されている家の者たちを主イエスが奪い返すということでありましょう。
そして、更に、主は言われます。すべてのことは赦されている、人の子らが犯すどんな罪とがも、神を中傷する冒涜の言葉も。しかし、聖霊を冒涜する者は、永遠に赦されず、永遠にその罪とがの責めを負うと。そして、最後に、なぜなら、彼らは、彼が汚れた霊にとりつかれていると言っていたからであると、マルコは記しています。
主イエスは、私どもが犯すどんな罪も、神を冒涜する言葉も赦されていると言われます。私たちの罪のために殺されることになる主イエスが、その十字架の死とご復活において、私どもの犯すいかなる罪も、神への冒涜の言葉すらも赦されるとまで、おっしゃられます。しかし、聖霊を冒涜する罪だけは、その者だけは、決して赦されず、その罪の責めを永遠に負うとまで断言される。
聖霊を冒涜する罪とは一体どんな事でしょうか。かつて、神学校の最終学年でのインターンの時に、その担当牧師から、説教に手間取り、その準備不十分なことが続く私に向かって、その先生は「あなたは聖霊を冒涜しているのではないか」と厳しい言葉をかけられたことがあります。神のみ言葉を説くという神聖な務めに対して、それをないがしろにしているのではないかと戒められたのであります。そのことも、確かに、神の御用をないがしろにしてしまう、聖霊の働きを信じて、み言葉の説き明かしに励んでいないという意味では、聖霊を汚す罪となり得ましょう。今の私にとっても、それは一つの大きな戦いであります。
さて、今日、登場しています、エルサレムから降って来たと言われる律法学者たちは、旧約聖書の専門家でありました。しかし、彼らは、主イエスのように、悪霊を追い払うことはできず、そのなさっていた御業に対して、それは、ベルゼブルがとりついていて、悪霊どもの頭として悪霊どもを追い払っているのにすぎない。そう言って、あるいは口のきけない者をしゃべれるようにしたり、目の見えない者が見えるようにしているのを見て、主を嘲ったのであります。そして、既に、彼らの心には、主イエスを殺そうとする決意をもって、この家にまで、群衆に交じって、彼らは入り込んでいたのであります。
しかし、主イエスは、そのことも十分にご存じで、「家の主人」とも言われる「ベルゼブル」、異国の神の名であったとも考えられる、それの仕業だとする彼らに対して、それではサタンの仲間割れになるから、それはありえないと言われて、御自分は、そのサタンを私どもの家の主人であるところから追い払い、サタンに苦しめられていた家の者たちを、み国へと取り返すために来ているのだと反論なさっているのであります。
旧約聖書に通じていたはずの彼らが、サタンを追い出す主イエスがお出でになられ、悪霊払いをなさっているときに、むしろその悪霊の側についてしまうのであります。このようにかたくなに、主イエスが、私どもの家の主人となることを認めず、反対する。そのように、聖霊の働きを頑なに拒む者の罪だけは赦されることはないと、主イエスは、罪の赦しに対するただ一つの例外を挙げておられるのであります。
それは、ただ律法学者たちにだけ、向けられている非難ではありません。私どもの家を、主イエスが、サタンに代わって治めてくださるように、そのために私どもは、一人一人がこの後の第3章31節以下のみ言葉にありますように、主イエスの周りに座って、神のみ心に従う、主イエスの家の家族とされてゆかねばならないのであります。
そして、私どもも、それぞれの家庭にありながら、主イエスをこそ、私どもの家の主人として迎えつつ、罪赦された義人として、まことのくつろぎを与えられた家庭を築けるように、主イエスを日々、仰ぎ望んで行きたいのです。
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