2018年3月30日金曜日

―最近読んだ本からー「イエスの死と復活―ルカ福音書による-」 ヘルムート・ゴルヴィツァー著


―最近読んだ本からー「イエスの死と復活―ルカ福音書による-
ヘルムート・ゴルヴィツァー著
 岡本不二夫/岩波哲男 訳
 発行所  新教出版社
 初版発行 1962331
定 価  190円(古本でお求めください)
 ゴルヴィツァーのこの書は、1938年から1940年にかけて、ベルリンのダーレム教会でなされたルカ福音書についての受難と復活に関わる説教集である。
 受難週、復活祭を前に、この書、ゴルヴィツァーの説教を、読むことができたのは、幸いであった。ルカ福音書の受難物語、復活物語の記事を、通読的に説教していったものが、まとめられている。
 主イエスの受難の記事、十字架の出来事、そして、復活、昇天に至るみ言葉を、よくもまあ、これほど自由自在に黙想し、説教できることであろうか。
 その聖書の深い読み、洞察力は、どこから来ているのだろうか。ルターの国、ドイツの神学の伝統の素地の上に、このような説教が可能になったのであろう。
この説教が説かれたとき、ドイツは、ヒトラーのナチズムが荒れ狂い始めた時
期でもあったであろう。
 それにしても、主イエスのご受難、十字架の意味と、それに続く復活の秘儀が見事に説教の言葉となって受肉している。私の黙想で思いつかぬほどのことではないにしても、よくもまあ、そのような琴線に触れた表現ができるものである。
 その背後には、おそらく地道な神学や祈り、黙想があったことであろう。また、ドイツを襲った、大きな危機と試練の時代背景もあったであろうが、その説教は現代の日本人にも、時代と国を越えて問いかける迫力を持っている。
 今は、レントであって、ちょうど人生の終局、終わりの日を黙想するのにもふさわしい時期であったし、この時期にこの書に巡り会えたことを感謝している。おそらくドイツにしか出ないような説教者であり、神学者なのであろうが、このような説教の言葉が紡ぎ出せるまでには、人知れない研鑚と信仰の戦いもあったのではないか。まったく型にはまらない自在な説教の言葉、黙想から生まれた説教なのであろうが、下積みな聖書との格闘、釈義的な訓練もここに至る背後にはきっとあったに違いない。日本の中からもこのような説教者が生まれていくとき、日本のキリスト教も、更に大きく定着していくに違いない。その説教は月並みな、字句を追うような解説的な説教でないのであるが、それらを地盤とした上でしかもみ言葉の精髄から離れずに大胆に核心に迫るのである。

2018年3月26日月曜日

「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福あれ」(マルコ福音書第11章1節~11節)


2018325日、枝の主日礼拝(―典礼色―紫―)、ゼカリヤ書第99-10節、フィリピの信徒への手紙第26-11節、マルコによる福音書第111-11節、讃美唱92(詩編第922-10節)

説教「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福あれ」(マルコ福音書第111節~11節)

 灰の水曜日から、レントの期間を過ごしてきましたが、それもいよいよ残すところ1週間となり、今日から、受難週、聖週間に入ります。今日の日曜日は、棕櫚の日曜日と言われてきましたが、最近は、枝の主日と呼んでいます。

 そして、ルーテル教会では、アドベントの第1主日に、今日と同じエルサレム入城の記事が読まれます。そこでは、クリスマスに向けて備えるアドベントに入る最初に読まれ、まことの王としてのキリストをお迎えするのに備えるために読まれます。

 そして、今朝の枝の主日においては、特に十字架におつきになられる受難の主という意味で、再び同じエルサレム入城の記事が読まれるのです。一年の教会暦の聖書日課において、毎年二回にわたって同じ記事が読まれるように与えられているのは、私の記憶する限り、このエルサレム入城の記事だけであります。

 主日を除く40日間にわたって、私どもはレントの季節を過ごしてきました。そしてその旅路の終わりの最後の主の日に、今日のエルサレム入城の出来事が毎年読まれ、説教されます。

 それは、主イエスが生きておられたユダヤ教の時代には、三大祭りの一つとして、過ぎ越しの祭りを祝うために、はるか遠くの離散のユダヤ人たち、ディアスポラのユダヤ人たちも、エルサレムに向かって巡礼の旅をしました。その後に、過ぎ越しの祝いを、この都の神殿で行っていたのです。そして、私どもは、今では、主イエスの十字架への道行きをおぼえるレントの終わりの時に、エルサレム入城の枝の主日をおぼえ、受難週の洗足聖餐礼拝、受苦日の礼拝を守って、来週はイースターの日曜日、復活祭の礼拝を迎えるのであります。

 さて、今日の記事は、主イエスの一行はいよいよエルサレムに近づいたとの記述から始まり、最後もそのエルサレムにお入りになって、主は神殿の境内を見廻しておられたとの筆で終わっています。エルサレム、しかもその神殿が、主イエスの目指す目当てであります。これからは、エルサレムの神殿においてではなく、私の体を神殿とする、霊と真との礼拝をあなた方は守るようになると教えておられたそのことが、実現することに向けて、この日の主のふるまいも言動もなされるのであります。

 主は、不思議なお言葉を、オリーブ山のふもと、ベトファゲとベタニアとに近づかれたとき、二人の弟子に言われます。向こうの村へ出て行きなさい、そうすると、直にまだ誰も乗せたことのない子ろばがつながれているのを、あなた方は見出すだろう。それを解いて連れて来なさい。もしだれかが、何でそんなことをするのかと言ったら、その主がお入り用なのですと答えなさい。そうすれば、許してくれると。そして、二人は出て行き、その通りになります。

 そして、そこに居合わせた人たちの内のある者たちがどうしてそんなことをしているのかと聞いたので、主が言われた通りにすると行かせてくれました。

 これは一体どうして起こったことなのでしょうか。「主がお入り用なのです」は「それの主が必要を持っている」というのが直訳です。子ろばの主人が了解していて、主イエスが、事前にお膳立てをしていた通りに事が運んだということでしょうか。というのも、他の個所で、マルコ福音書で主イエスがご自身のことを、主と呼んでいるところはないからです。あるいは、ここでの「主」とは、神御自身を指して、神のご意志として、子ろばを欲しておられるということでしょうか。

 むしろ、主イエスは、ここで初めて、ご自分を父なる神のみ子として、ご自分の主権を指し示すために、「主がお入り用です」と言わせたのではないでしょうか。それに対して、持ち主たちはそれを認めて、子ろばを連れて行くのを許したのであります。

 そして、子ろばを連れて来た二人も、自分たちの上着を、その上に敷き、主イエスの御座とし、多くはその前にその外套を広げ、別の者たちは刈ってきた葉のついた枝を敷き詰めるのであります。この方こそ、自分たちの主であると、期せずして表わしているのであります。「ホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように」。今朝の枝の主日の聖書の出来事は、私たちが、まことにこの方を王として、主として礼拝しているかを改めて問うている主イエスの語りかけなのであります。その主に従って受難週を過ごしたいものです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2018年3月24日土曜日

-最近読んだ本から-「新しい天と新しい地-政治的説教-」           


-最近読んだ本から-「新しい天と新しい地-政治的説教-」           
ヘルムート・ゴルヴィツァー著
 土岐正策/菅原一夫
 奥村益良/高岡 清 訳
 発行者  秋山県警
 発行所  新教出版社
 初版発行 1976年1月31
定 価  1600
 ゴルヴィツァーは、19081229日生まれで、19931017日に84歳で天に召されている。この書は4人の人の訳として邦訳されている。
 内容は、いくつかの説教がまとめられている。いずれも濃厚な説教が凝縮されていると言ったらいいだろうか。
 一時代を画した説教者だったのであろう。その説教には、神学生たちはもとより、あらゆる世代、階層の人々がその説教を聞きに集まったそうである。それは老人から、若い娘さんまで、すこぶる高揚があって、会衆は彼の説教に喜んで耳を傾けたらしい。 ドイツにあっては、ナチの台頭や激変の時代の中で、彼は人々をみ言葉によって導いたということだろう。秘密警察が混じる礼拝の中でなされた説教もあるようだ。そして、現代にいたるこの苦悩する世界で、彼はイエスの譬えや聖書の示す真理を語り続けたのであろう。 加藤常昭先生はその生の声、司式し祈る姿に実際に出くわされて、その荘厳な祈りや司式の姿勢について、しばしば懐かしそうに口にされたことがある。 そして、この説教集一つを読んでみても、そのようなゴルヴィツアーの人格が切々と伝わって来る。 私どもルーテル教会の伝統では、個人の魂の救いを中心に説いて、あまり政治やこの世の中の動きには疎い傾向がなきにしもあらずであろう。しかし、彼は、私ども一人一人のふるまい、信仰の在りようがまわりの社会、ひいては世界とつながっていると説き、時の世界の出来事へのやむことのない関心がみ言葉集中と共に説教を貫いている。 また、従来の一人でも多くに洗礼を授け、改宗を迫って世界制覇してきた宣教・伝道の在り方に疑問を呈している。そして、この世界にわずかなキリスト者、新しい神の民が存在すること、クリスチャンの希少価値と言えば語弊があろうかそのこと自体に周りの世界は、自分の生き方を問い直す喜びを見出すという。ゴルヴィツァーもまた、使徒教会時代の使徒たちの説教への回帰を示す説教者と言えるのではないか。

2018年3月14日水曜日

「闇を好むか、光を好むか」(ヨハネ福音書第3章13節~21節)


2018311日、四旬節第4主日礼拝(―典礼色―紫―)、民数記第214-9節、エフェソの信徒への手紙第24-10節、ヨハネによる福音書第313-21節、讃美唱34/1(詩編第342-9節)

説教「闇を好むか、光を好むか」(ヨハネ福音書第313節~21節)

 レントに入って、4回目の主の日に与えられている福音は、ヨハネ福音書第313節から、21節までであります。先週もマルコから離れて、ヨハネ福音書から、主イエスのなさったいわゆる宮清めの記事が与えられていましたが、今朝も、そして次週も四旬節第5主日もヨハネ福音書から、福音記事が選ばれています。今日の福音も、このレントの時期に、古くから洗礼準備の時として過ごしてきましたが、新しく生まれ変わるとはどういうことか、ニコデモとの対話を通して、主イエスが、また、いつの間にか、福音書記者ヨハネが、説教をしている部分であります。

 さて、今日の第1朗読の民数記は、モーセが出エジプトの旅において、民が不平を言い、モーセに逆らったときに、炎の蛇によって多くの者が命を落とすという出来事が起こったときに、主なる神にとりなしを願ったときに、主は青銅の蛇を作って、それを旗竿の上に掲げよと命じられました。そして、蛇にかまれた民を、この青銅の蛇を見上げる者は命を助かると言われたのであります。そして、その通りにした者は、命を助かったと記されているのであります。これは、今日の福音書の中で主イエスが、取り上げられている旧約聖書の故事であります。

 そして、今日の福音は、まず「だれも、天へと上った者はいない、天から降って来た者、すなわち、人の子以外には」とあります。主イエスは、父なる神と共に、天におられた方であります。そのご自分が、この地上、私どものところにお出でになられ、しかも、女から、貧しいマリアのもとにお生まれになったのです。すなわち、主イエスは、神性を持つと共に、同時に人性をお持ちになり、しかもその二つは結合されており、二人の神さまなのではなく、一つの位格を持った方なのであります。それは、私たちの弱さ、罪を担うために、神であられる方が、まったく私どもと同じ人間となられたのであります。

 さらに、主は言われます。ちょうどモーセが荒野において、蛇をあげたように人の子もあげられねばならないと。出エジプトの時には、主の言葉をそのまま信じて、灼熱の蝮にかまれても、ただ見上げた者らは死なずに済んだというのですが、主は、ご自分はそれと同じ、いや、それ以上の蝮として、あるいは忌み嫌われる害虫のように、あざけられて、十字架に付けて殺されねばならないとここで宣言されるのであります。

人類が天と創造の時に神によって造られたときに、蛇に身を変えた悪魔が誘惑して、食べてはならないと命じられていた木の実を食べて、罪と死が人間に入り込んでしまいましたが、しかし、主なる神は、その時にアダムに約束して、あなたの末から、その蛇の頭を打ち砕く者を約束なさいましたが、主イエスは、ご自分がそれであるとここで証しなさっているのであります。

そして、私共の罪と死と悪魔、地獄を滅ぼすためには、どうしても、天上に世界の初めからおられた神の子が、地上に下って人の子として苦しまれ、この世から忌み嫌われ、拒まれ、退けられ、十字架上にあげられねばならいのであります。そして、死んで葬られ、陰府にくだり、よみがえって天の父のもとへとあげられることになっているのであります。その主イエスを信じゆだねて、洗礼を受け、生涯従っていく者だけが、同じく天へと上っていくと約束されるわけであります。

この者以外には、だれも天に上った者はいないのであります。どんな行いによっても、どんな偉人によっても、このことに信じゆだねるのでなければ、だれも永遠の命を持つことはできないのです。

そして、こう記されます。神はその独り子を愛するほどに、この世を愛された、それは信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を持つためであると。人間は、神なしには、闇の中にあります。神と人との関係が破れ、また、人と人との関係が破れた存在だからであります。そのような我々人間どもの闇の世をご存じで、その独り子を遣わし、私どもと同じ人となられ、苦しみを受けさせ、そのみ子は、十字架の死に至るまで、父のご意志に従われるのであります。福音書記者ヨハネは、主が十字架にあげられるときこそ、神の栄光の時であると証言しています。

さらに、こう続きます。神がこの世にその子を送ったのは、それを裁くためではなく、かえって彼を通して救うためであると。そして、彼を信じる者は裁かれない、しかし、信じない者はすでに裁かれている、神の独り子へと信じゆだねなかったからであると。

ところが、人々は、送られたこの光よりも闇を愛したとあります。人間は光よりも闇を愛するというのであります。私どもの生は闇と罪に覆われています。しかも、自分が価値あるものと認められたいのであります。そして、自分の闇を明らかにされることを望まないのであります。ヨブ記の中に、盗人や姦淫する者は朝に光を憎む、彼らにとってはそれが恐れるべきものであり、彼らは闇を愛する者であるとあります。

主イエスは、あるいは、福音書記者ヨハネは、すべて悪、卑劣なことを達成する者は光を憎む、光に来ない、それは彼のそのわざが暴露されないためであると言います。

しかし、最後には、真理を行う者は、光に向かってやって来る、彼のその業が神においてなされていることが明らかになるためであると言います。私ども人間は、光がこの世へときたのに、それを受け入れようとはせず、闇を愛したのであり、それが裁きであると言われます。

そのことを認めること、そして悔い改めることがなくてはなりません。そして、この神の愛を受け入れて、洗礼を受けている私どもは、信仰によって義とされた者として、闇のわざを明らかにしていく務めをもできる者へとして、新しく、上から、聖霊によって生まれることが求められていきます。

私たちに遣わされた、この御子、人の子を信じる者は、裁かれないとあります。人となられ、神でもあられるこのお方こそ、私たちを罪から贖う唯一の方であります。父なる神が御子を送られたのは、そこまで愛に徹した決断であったのであります。そして御子はそのご意志に、最後まで、十字架の死に至るまで従われるのであります。私たちは、その愛に答えて、生涯を悔い改めながら、新しい人として、信仰によって義とされた、しかも罪人として歩んでいくことが許されています。

ニコデモは、夜やって来て、ラビと呼びかけ、主イエスを教師としてその教えを真剣に理解しようとしました。その後も求め続け、最後は主の十字架のもとに遺体に没薬などを塗るために、やって来ます。これは、洗礼を受ける前の私たちの姿、あるいは洗礼を受けてからも、私どもに訪れる疑いや戸惑いのときの思いを彼は代弁してくれているのではないでしょうか。しかし、主はやさしく、私の光の道、命の道、真実の道に従ってきなさいと呼んでくださっています。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

2018年3月10日土曜日

「心を清める」(ヨハネ福音書第2章13節~22節)


201834日、四旬節第3主日聖餐礼拝(―典礼色―紫―)、出エジプト記第201-17節、ローマの信徒への手紙第1014-21節、ヨハネによる福音書第213-22節、讃美唱19(詩編第192-15節)

説教「心を清める」(ヨハネ福音書第2章13節~22節)

 私たちは今、レントの最中にあります。この四旬節、受難節の三回目の主の日には、マルコ福音書が主たる福音書となります3年サイクルのB年ですが、伝統的に今朝の日課でありますヨハネによる福音書第2章13節から22節が読まれることになっています。

 そして、第1の朗読では、出エジプトの民が、モーセを通して、十戒を与えられる出来事が読まれました。十戒では、「我は主たるなんじの神なり、なんじ我の他なにものをも神とすべからず」云々の掟が記されています。
 マルティン・ルターは、私どもが十戒を心から誠心誠意守ることができたならば、主の祈りも、使徒信条もいらなくなるが、私どもは神と人との間の戒め、人と人との間の戒め、どれをとっても一つも完全には守ることができないので、絶望し、キリストの福音にかけつけて、使徒信条によって私どもの信仰を改めて確認し、その信じるところに立ち返って、主の祈りに従って日々の信仰生活を歩まねばならないのだと言っております。

 今日の第2の日課も、ローマの信徒への手紙の中から、使徒パウロが、福音を伝える者がいなければ、だれが信じることが出来ようかと言って、イザヤ書の、福音を伝える者の足はなんと美しいことかという預言の言葉を与えられています。 

さて、今日の福音は、ヨハネ福音書の初めの方に出て来ます、いわゆる主イエスのなさった「宮清め」といわれる出来事であります。ここがなぜ、よりによってレント、四旬節のこの日曜日にあえて読まれるのでしょうか。そのことについて、しばらくご一緒に考えてみたいと思います。新共同訳聖書には、聖書のテキストごとに、―それをペリコペーと呼んでいますがー、小見出しがついています。それによりますと、「宮清め」ではなくて、「神殿から商人を追い出す」となっています。「宮清め」というと粛清といった印象が残るためでしょうか、私どもの聖書は、出来事の中身に忠実に、「神殿から商人を追い出す」と出来事の内容をそのまま要約して、小見出しとしているようです。

ところで、ヨハネ福音書では、主イエスが神殿から、商人たちを追い出す記事が最初に載っておりますが、共観福音書ではそれは、主イエスの生涯の最期すなわち受難週のときに、主イエスのなさったふるまいとして出て来ます。

これは、昔からいろいろに考えられ、解釈されてきた問題であります。いかように理解すべきなのでしょうか。四つの福音書の中で、ヨハネ福音書は一番最後に書かれた福音書              であります。紀元1世紀、AD100年近くのころにもなるでしょうか、ユダヤ教からの迫害が高まり、ローマ帝国からの圧迫も強い中で、信仰を与えられているヨハネ福音書の教会に連なるキリスト者たちが、信仰から離れ、信仰を失ってしまうことがないようにと書かれた福音書であります。

この福音書のおかげで、私どもは、マタイ、マルコ、ルカ福音書、いわゆる共観福音書といっていますが、そこでは得られない資料を与えられ、たとえば、過ぎ越しの祭り、パスハ(子羊)の祭りが、ヨハネ福音書では少なくとも3回出て来ますので、主イエスの公生涯、すなわち、主イエスが宣教に携われた期間は3年ほどであったのではないかということが推測されるようになったのであります。

そこで、エルサレムの神殿を清めるという主イエスのなさったふるまいは、いったいどう考えたらいいのでしょうか。主イエスの宣教の終わりに1回だけあった出来事を、福音書記者ヨハネは、その意味の大きさを捉えて、これこそ、主イエスのなさった重大な出来事としてあえて、その福音書の初めに持ってきたのでしょうか。

しかし、共観福音書の場合とは、記されている内容も微妙に違っており、主イエスは、最初のしるしとして故郷に近いカナの婚宴において、その親類の婚宴に招かれて、足りなくなったぶどう酒を、水からぶどう酒に変えるという最初のしるしをなさった後のこと、この出来事が起こったとそのまま信じてよいのではないでしょうか。

最初に過ぎ越しの祭りが近づいていたとあります。出エジプトの出来事を記念し、ガリラヤの人々も旧約聖書の、特に自分たちのルーツである出エジプトによって主なる神が自分たちを、奴隷の身分からモーセに率いられて脱出したことを子孫に代々伝え、自分たちが神に贖われた民であることを、七週の祭りや仮庵の祭りと共に、年に三回はエルサレムの神殿にもうでていけにえをささげるのであります。そのようにして、主イエスもエルサレムの神殿にお出でになったのであります。

主イエスは、そこ、神殿の境内、異邦人の庭とも呼ばれます所において、牛や羊を売る者、鳩を売る者や座っている両替人たちをご覧になっておられました。ところがその時、縄で鞭を作り、羊や牛を皆追い払い、両替人の机もひっくり返し、小銭をまき散らすというふるまいに及ばれたのであります。そして鳩を売る者たちに、「それらをここから持ち運べ、私の父の家を商売の家にしてはならない」と言って追い出されるのであります。

このような主イエスのありようは、他の場面では考えられないような激しい怒りに満ちたものであります。主イエスは、なぜこのようなふるまいにあえて、しかも宣教をお始めになったばかりの時に、及ばれたのでしょうか。このときの主イエスのふるまいは、弟子たちのみではなく、そこにいたユダヤ人たちに大きな痕跡となって残るのであります。

弟子たちは、その主のふるまいに、「あなたへの熱意が、私の身を食い尽くすであろう」という詩編の預言の言葉を思い起こさせられていたとあります。カナの婚宴でなさった初めてのしるし、奇跡の出来事とは反対に、ここには主イエスの怒りが記されているのであります。

そこで、当然のことながら、ユダヤ人たちは、主イエスにこう応じます。「こんなことをするからには、あなたはどんなしるしを見せてくれるのか」と。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求めると言われます。彼らはしるしを求めるが、大魚の中に三日三晩いたヨナのしるし以外には、彼らには与えられないだろう、しかしここにはヨナに勝る者がいると主イエスが別の個所で言っておられる通りであります。

そして、ここでは、「あなた方は、この神殿を壊してみよ、私はそれを三日のうちに建て直すであろう」と主はお答えになります。ユダヤ人たちは、なにも理解できず、「この神殿は46年もかかって建造中であるのに、あなたはそれを3日で起こすというのか」といぶかるだけでありました。

実はそれは、主イエス御自身の体の神殿を指していたのであります。あなた方はその神殿である私を殺すであろう、しかし、私は三日の後に起き上がるだろうとの受難予告そして復活予告が、実はここにおいて既になされているのであります。弟子たちも、この主イエスの言われたお言葉を、理解することはできず、主イエスがよみがえられた、すなわち、神に死者の中からって復活させられたときに、この時の出来事の意味が分かったのであります。

その時、弟子たちはかの聖書と、主イエスの語られたその言葉とに信じゆだねたとあります。かの聖書とは、旧約聖書の中に、救い主メシア、キリストは、陰府と死の腐敗の中に捨て置かれることはなく、神によってそこから甦らされると約束されているからであります。そして、エルサレムの神殿から、商人たちを追い出し、ユダヤ人たちに、それをなさるのは、ただ一つのしるし、主イエスのご復活であることを、弟弟子たちは主ご復活の出来事の後になって初めて理解したのであります。

これに続くみ言葉には、エルサレムで主のなさったしるしを見て、信じた者は多かったが、主イエスは、彼らを信用なさろうとはしなかった。人間の内にあるものが何なのか、主イエスはよくご存じであったからであると記されています。

主イエスの十字架への道行きを憶えるこのレントの合間に、今日の福音を聞かされる意味はどこにあるのでしょうか。それは、私どもの中にある、霊とまことをもって、神を礼拝するのにはとてもふさわしくない罪に気づくことであります。今日この後与ります聖餐、キリストの体とその尊い血にはふわさしくない罪の現実が、この世界にあり、私たちの生活にも潜んでいます。

当時のエルサレムの神殿での犠牲をささげる礼拝は、利得と欲望にまみれて、決して神をあがめまつるには、堪えないものでありました。それに対して、主は怒りをあらわにし、不思議なことにも、そのふるまいが、人の手によらない、まことの神殿となる主イエスの体を十字架にかからせる裁判への引き金にもなったのであります。そして、もはやこの神殿での犠牲の礼拝は不要なものとなり、キリストの体である教会が生まれるに至ったのであります。

エルサレムの見事な神殿はこの後も修復が続きましたが、紀元後63年のローマ軍の包囲・攻略によって、主イエスが預言した通り、石の上に一つの石も残ることなく崩壊しました。旧約のゼカリヤ書の終わり第14章にある通り、神殿にもはや商人はいなくなり、馬の鈴も、食事で用いる鍋も、日常生活のすべてが聖別される至るのであります。「心が清められ」て、このレントの時、罪と不正から免れ、世の罪を取り除く神の小羊によって歩ませて頂きましょう。

2018年3月3日土曜日

―ただいま読書中ー「新しい天と新しい地-政治的説教-」 ヘルムート・ゴルヴィツァー著


―ただいま読書中ー「新しい天と新しい地-政治的説教-
ヘルムート・ゴルヴィツァー著
      訳者  土岐正策 菅原一夫 奥村益良 高岡清
1976131日 初版発行
発行者 秋山憲兄
定価:1600円、絶版にて古本屋等でお求め下さい
発行所 新教出版社
  説教塾主宰の加藤常昭先生がセミナーの時であったか、説教塾の例会の時であったか、ヘルムート・ゴルヴィツァーの名を何度か挙げられたのを記憶していた。ゴルヴィツァーの司式と祈りに接したが、それはすばらしいものであったと、加藤先生は感慨深げに、しかも淡々と語られたのである。私は、名前を忘れかけていたが、加藤先生にメールで尋ねると、先生から答えが返って来た。「渡辺牧師へ、それは、ゴルヴィツァー先生です」と。
 私は、それで、ゴルヴィツァーの著書をいくつか取り寄せた。そして今、最初に読んでいるのが、「新しい天と新しい地」である。戦後1965年ごろになされた、彼の説教が載せられている。
 ドイツが二度も世界大戦に巻き込まれ、キリスト者の責任が大きく問われた時代を、彼は生きたのであろう。その本の副題が「政治的説教」となっている。
 こんなにもスケールの大きな説教が可能なのだろうか。私などが説教に取り組むと、どうしても字句にとらわれ、狭い解釈しかできなくなりがちであるが、彼は、世界の生きている歴史の中で、主イエスの譬え、たとえば、「赦さないしもべの譬え」(マタイ福音書第1821節~35節)を説くにあたっても、彼はこの譬えを、「キリスト教三幕悲劇」として、3回にわたって、説教を行っている。「赦さないしもべ」とはだれなのかを、ドイツ民族の二度にわたる世界大戦への突入の歴史と合わせて、人間の罪、キリスト者の罪を説き、まことの回心、また国民的悔い改めを説いているのである。
 それは、この本の副題にもなっている政治的説教ではあろうが、私どもの罪の問題がともすると個人的な魂の問題のみに集中するあまり、この世界での罪の問題を矮小化してしまう危険があることに警鐘を鳴らしている問題提起ではないか。
 私は、ゴルヴィツァー先生が、どのような神学的背景なのかはまだ何も知らない。しかし、加藤先生が見た礼拝における彼のおごそかな司式ぶりと祈りは、この本にある説教を少し読んだだけではあるが、納得できる気がした。彼が今生きていて、日本の教会にいたら、どんな説教をすることだろうか。