2023年4月30日日曜日

「羊飼いの使命」(日曜日のお話の要約)

復活節第4主日礼拝(2023年4月30日)
詩編23編1-4節(854)ヨハネによる福音書10章7-11節(186)


 詩編23編の作者は、ダビデ王とされています。ダビデはイスラエルの人々にとって王国を栄えさせた理想の王様です。ダビデはベツレヘムの裕福な羊飼いの家に、7人の兄を持つ末っ子として生まれました。彼は幼い頃から羊の番をしており、羊飼いとしてどのように羊に接するのが最も良いのか知り尽くしていました。ダビデの勇知恵や秀でた戦闘能力は羊を盗賊や野獣から守るうちに身についたものです。


 ダビデは厳しい試練を経てイスラエルの王様となってからも、かつて自分がどのようにして羊を養ったか、決して忘れることはありませんでした。ですから、自分がどれくらい神様に愛され守られて来たかを詩で表現するとき、自然と羊飼いと羊の関係を思い浮かべたのでしょう。


 実は理想の王様とされたダビデも酷い罪を犯したことがあります。彼は気の迷いから部下の妻に手を出し、彼女が妊娠したと知るや、その部下を戦争の最前線に送り、殺してしまったのです。神様がそれを見逃されるはずもなく、預言者ナタンを通して厳しく叱責されます。その譬えにも「羊」が出て来ます。


 この時預言者が語ったお話はこうです。多くの羊を持つ金持ちが、お客をもてなすのに自分の牛や羊を使うことを惜しみ、近くに住んでいた貧しい男がたった一匹持っていた羊をとりあげて料理し、客に振る舞った、というのです。


 貧しい男はその子羊を大切にし、自分の娘のように可愛がっていた、とナタンから聞かされたダビデは怒りを爆発させ、「その金持ちはなんという残酷なことをしたのか。そんなことをする男は死刑だ!」と言い放ちます。


 しかし預言者ナタンは「無慈悲で傲慢な金持ちこそ、あなたのことである」と指摘します。ダビデは我に返って自分の犯した過ちの重さに気づくのです。


 かつて物言わぬ羊を守るために知恵を駆使し、体をはってきたダビデなのに、自分の部下、自分が王として守るべき存在に対して、自分の都合や欲望を優先させて大切なものを横取りした挙句、ついにはその命を奪ってしまったのです。


 ダビデはその時、自分はどうやっても「本当の良い羊飼い」にはなり切れないと思い知ります。全ての人間は、誠の羊飼いである神様、イエス様に導かれなければ次々と過ちを犯す心弱く頼りない「羊」であることを認めざるを得ませんでした。彼は深く後悔し、苦しみます。


 しかしダビデの苦しみは、自分自身と神様の関係をもう一度確かなものとするきっかけとなりました。苦しみの日々を過ごした後、救いようのない自分と、そんな自分を決して見捨てない神様との関係に気づかされた時、今一度神様に自分のたましいを委ねるなら、再び生き生きとさせていただけると信じたのです。


 ダビデ王の息子の時代を過ぎると、イスラエル王国は二つに分裂し、度重なる戦争など複雑な歴史をたどりますが、その状況の中をからくも生き残った人々はは神様を再び裏切るまいと「これだけは守ろう」という信仰の掟「律法」を制定します。


 しかし次第に「律法を守らない者は神様に愛されない」という間違った解釈がされるようになってしまいます。その歪んだ考え方は何より神様ご自身を悲しませました。そこで、そのような思い込みを正し、元々の愛を伝えるため地上に生まれてくださったのがイエス様だったのです。


 イエス様の弟子達はイエス様を慕い、ある者は「共に死ぬ」とまで口にします。しかし、イエス様が数々の奇跡の業を行われるのを近くで見て来た彼らは、「イエス様はこの国の王様にふさわしい」と思い込み、自分も側近となって権力の座につくことを夢見ていました。だからこそ、イエス様が捕らえられ、十字架に掛かった時、彼らはあり得ない出来事に逃げまどい、全てを失ったと思い込んで、イエス様が示してくださった愛も教えもすっかり見失ってしまいました。


 しかしイエス様は三日後に復活なさると、弟子達に再び慈しみを持って全てを教え直されたのです。弟子たちは復活したイエス様を目の当たりにして、イエス様が以前語っておられたことの一つ一つを理解していきます。スポンジに水が染み込むように、彼らはイエス様の教えを吸収していったのです。


 これから先、どれほど危機的な状況に陥っても神様ご自身が「私は決してあなたから離れない」と言って下さるのですから、これほど心強いことはありません。弟子たちはそれを確信し、のちの時代に伝え、それが聖書となって世界中に広がりました。その聖書をとおして、私たちもイエス様のもとに導かれたのです。


 しかし、これは私自身の思いですが、イエス様は孤独ではなかっただろうか、と考えることがあります。イエス様がどんなに言葉を尽くして神様の想いを伝えても、弟子たちは自分達の思い込みからなかなか脱することができません。つまり、言葉は通じても思いはなかなか通じない、という状態でイエス様は十字架までの3年半を弟子たちと過ごされたのです。


 弟子たちに知性や教養が欠けていたからではありません。「神様が命を投げ出すほどに自分を愛している」という考えは、彼らには到底想像ができなかったからです。イエス様は伝わらないもどかしさに苦しみ、悲しみ、眠れないまま父なる神様に祈りを捧げられたのではなかったでしょうか。


 弟子たちの固定観念を打ち砕くためには、真実に良き羊飼いとして十字架の上で命を落とすしかなかったのです。しかしイエス様は墓にはとどまらず、蘇られるや否や、怯えて閉じこもっている弟子のところへ向かわれたのです。それほどまでに弟子たちを愛しておられたのです。


 私たちは日々聖書を読み、説教を通して知識を身につけていきます。イエス様にとって言葉の通じない羊とならないよう、イエス様に再びもどかしい思いをさせないよう、心をイエス様にむけそのお言葉の真実を汲み取ってまいりましょう。



駐車場の植え込みが賑やかになってきました
一冬咲いてくれたビオラはそろそろ終わりですし
植えっぱなし球根のハナニラもバサバサになって

ほぼ終了しましたが
これからはオダマキが次々と咲いてきます


日陰適応種のチューリップはまだ頑張っていて
サツキが蕾を開花させ

ギボウシもあっという間に葉を展開させてきました
一番後ろにはタチアオイが茂っています


西日しか当たらない条件の悪い場所ですが
植物は元気です





この細長い植え込みも
幼稚園&会堂建て直しによって姿を消します
最近の車は大きくて
お尻が花壇の上にのしかかったり
頭が道路にはみ出したりしています
もう少し広げないと大変です(^^;)

2023年4月25日火曜日

「エマオのキリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2023423日)
詩篇 116編 1519節(957 ) ルカ福音書2413-35節(160


 本日はルカによる福音書から「エマオのキリスト」と呼ばれる出来事をご一緒に聞いて参ります。本日登場する人たちはイエス様が特別に選ばれた12弟子ではなく、より広い弟子のグループに属していたようです。


 この出来事が起きたのはイエス様が十字架にかかってから三日目の日曜のことです。弟子たち二人はエルサレムの街を出発して、そこから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。エマオにはここに登場するクレオパという弟子の実家があったのではないか、と言われています。


 ユダヤ人というのは二人いれば三つの意見が出ると言われるほど議論好きな民族です。意気消沈していても、なぜイエス様が十字架につかねばならなかったのか、とか遺体はどこに消えたのか、とか、論じ合わないではいられなかったようです。


 そんな彼らに一人の人物が近づいてきます。そして彼らと並んで歩きながら「その話はなんのことですか」と尋ねたのです。聖書にははっきり「イエスご自身が近づいて来て」と書かれているのですが、彼らは気づきません。聖書は「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」と描写しています。なので、ここではイエス様のことを仮に「謎の旅人」と呼んでおきましょう。


 話しかけられた弟子たちは暗い顔をして立ち止まり「あなたはなぜ、あの恐ろしい出来事を知らないのか」と聞き返します。そして「謎の旅人」に三日前にエルサレムで起きたことを話したのです。


 弟子たちは旧約聖書をきちんと学んでいました。ですから「謎の旅人」に話すとき、旧約聖書を引用しながら説明しました。「あの方こそ旧約聖書に預言されている救い主、自分たちの国を自由と平和に導いてくださる約束の救い主だと確信していた」「しかし、イスラエルの権力者たちはイエス様を排除しようと不当な裁判を開いて死刑判決を下し、十字架で殺されてしまった。」


 弟子たちはイエス様本人に向かって「イエス様こそ救い主だと思っていたのに、その方を失って自分達が本当に失望した」と詳しく語ったのです。そして最後に「そのお墓は空になっていて、この一件は謎に満ちている」と締めくくりました。 


 すると今度は「謎の旅人」が口を開きます。彼は「ありがとう」ではなく「あなた方は何て物分かりが悪いんだ」と言うのです。そして弟子たちの説明に対し、この出来事を全く違う視点から語り始めたのです。弟子たちはこの旅人の口調に逆らえないものを感じ、一緒に歩きながら素直に耳を傾け始めました。


 「謎の旅人」は「あなたたちはそもそも旧約聖書の理解が全く間違っている」と諭します。「あなたたちは救い主が登場すれば、何の挫折もなくこの国を救ってみせるかのように思い込んでいるけれど、それは誤りです。旧約聖書には、救い主は目的を果たす前に大変な苦しみを受ける、と書かれているのを思い出しなさい」


 そう言うと、旧約聖書に書かれていることを創世記からスタートして次々と解き明かし、救い主とはこういう方だ、と弟子たちに教えてくれるのです。その引用は説得力に満ちていました。弟子たちは旅人の話を聴いているうちに、救い主のなさることがまるで目の前に展開されているように感じ、ワクワクし始めました。


 「ああ、そうだ、そうだった。救い主はどこからともなくやって来て颯爽と問題解決してくれるのではなく、わたしたちの苦しみや弱さを理解するためにご自分も苦しみを受けられることが決まっていたのだ。そして弱い私たちを見下さないで、目的に向かって一歩一歩共に歩んでくださる方なのだ」彼らがそんなふうに感じ始めた時、エマオの村に到着します。


 「謎の旅人」はさらに先に行こうとしているようでしたが、弟子たちはもっともっと話が聞きたいと、彼を熱心に引き留めます。「謎の旅人」は了承して一緒に食卓に着きます。そして誘ってくれた人々の前で食事の前の祈りを始めたのです。ユダヤ人の習慣では、普通はその家の主人が食前の祈りを行います。このゲストである「謎の旅人」がすることではありません。しかし「謎の旅人」は躊躇なくパンを取り上げ、神様を讃え、パンを裂いて二人に渡したのです。


 その次の瞬間起こったことを聖書は「二人の目が開け、イエスだとわかった」と記しています。そうです、弟子たちは目の前にいる「謎の旅人」こそイエス様なのだと、唐突に気付いたのです。イエス様ご自身が「あなた方は大切なことがわかったから」と姿を表してくださったかのようです。


 彼らが「イエス様だ!」と分かったと同時に、イエス様の姿は消えてしまいます。しかし絵の前からイエス様は消えても、先ほど聞いた聖書のお話の感動は消えてはいませんでした。あの心がワクワクする聖書のお話のなさり方には覚えがある、あれはイエス様にしかできないことだ。そしてあのお祈りとパンの裂き方。少しも形式的でなく、目の前に神様が見えているように親しげに感謝しているあのお祈りはまさしくイエス様だ。


 彼らは今こそ気づきました。とぼとぼ歩いて実家に帰ってきた自分達をイエス様が追いかけて来て下さって、自分たちの間違いを指摘し、もう一度弟子として立たせてくださろうとしたのです。二人はすぐさま出発しエルサレムに戻ります。辺りは既に真っ暗になっていましたが、彼らはそんなことは気になりませんでした。


 彼らはもう一度他の弟子たちに会いたかったのです。救い主が苦しみにあったのは失敗したからではない。真の救い主だったからこそ、あえて苦難に遭いそれを乗り越えられたのだ。聖書には最初からそう書いてあったではないか。そう語り合ってイエス様が復活されたことを共に確認し、喜び合わないではいられなかったのです。


 絶望の時も、ただ自分を憐れんで泣く時も、目を塞いで現実逃避している時も、イエス様は私を、そしあなたを気に掛け、そばにいて共に歩いてくださいます。


 私たちを再び立たせるために語りかけてくださり、私たちがそこにイエス様がおられると気づくまで、決して離れることのないお方なのです。そして、目には見えなくても、心に灯火を燃やしてくださり、生きる力を与え続けてくださるのです。

 「エマオのキリスト」というこの記録は、それを私たちに教えてくれています。


今年も駐車場脇の植え込みで色とりどりのオダマキが咲き始めました
一週間前は硬い蕾だったのに
真夏日が続いたせいか、一気に開花です
園と教会の建て直しの時には駐車場を広げるため
この植え込みは無くなります
残念ながらオダマキの開花を楽しめるのは
今年限りとなりそうです

2023年4月16日日曜日

「イエスとトマス」(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2023416日)
ペトロの手紙Ⅰ  13-5節(428) ヨハネ福音書2024-31節(210


 イエス様は十字架の上で完全に死なれ、墓に葬られました。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条の中には「陰府に降り」という言葉がありますが、実際には蘇るまでの時間、どのように過ごされたのかは聖書には書かれていません。復活の朝、もしかしたらまるで深い眠りから目覚めるように意識を取り戻されたのかもしれません。


 復活したイエス様がまず頭に思い浮かべられたのは、ご自分の弟子たちのことだったでしょう。「彼らには「三日目に蘇る」と何度も話しておいたけれど、私の言葉を信じられずに意気消沈しているに違いない」そんなふうに思われたはずです。イエス様にとって、すぐに彼らのところに行くのはたやすいことでしたが、どのように行動し、声をかけるのが彼らにとって最も良いのかお考えになったのでしょう


 神学生時代、ヘブライ語を教えていただいた先生から、聖書では、喉、つまり言葉を発するところに命があると考える、と教えていただきました。その考え方で行けば、言葉を発することは生きていること、という意味になります。


 ですから復活したイエス様は、鍵をかけて隠れ家に潜んでいた弟子達のところに現れた時、彼らの真ん中に立つと一言声をお掛けになったのです。それは「あなたがたに平和があるように」という言葉でした。これは以前の口語訳聖書では「安かれ」と短く訳されていた言葉で、イスラエルの言葉であるヘブライ語では、たった一言「シャローム」です。


 「シャローム」はイスラエルにおいては昔も今もごく日常的なあいさつの言葉として用いられます。しかし復活のイエス様はこの一言に万感の思いを込められたのです。イエス様はこの一言を発せられるため、この世に来られたと言っても言い過ぎではありません。受難の人生を歩まれ、十字架の上で苦しみ抜いて死なれたイエス様が、最も平安から遠いところを歩まれたかに見える方が、「あなたがたに平和があるように」と言われることに、何物にも変えられない尊さがあるのです。


 イエス様の口にのぼるとき、「シャローム」は単なる挨拶ではなくなります。イエス様がわたしたちにお与えになりたいのは「平和なのだ」ということを何より表しているのです。復活したイエス様は、何をおいてもこの言葉を弟子達に伝えられました。それは復活してまでも、伝えなければならない言葉でした。


 弟子たちが落ち着きを取り戻したその後で、イエス様はご自分の傷跡を見せられ、決して幽霊などではないことをお示しになります。その場にいた弟子たちは大いに喜び、力を得ることができました。


 しかし12人の弟子の中で、トマスだけはどういう訳かその場にいませんでした。隠れ家に戻ってきたトマスは、他の弟子たちから「私達は主を見た」といわれてもとても信じられません。ついにあの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れて見なければ私は決して信じない。」と言い放ちます。イエス様が十字架で受けられた傷に指を突っ込んで見るまで信じない。なんと乱暴な言い方でしょうか。


 しかしトマスのこの反発の中には、他の仲間がイエス様と会って喜んでいるのに自分だけがお会いできなかったというショックも込められており、だから余計に頑なになって「信じない」といったのでしょう。単に慎重で疑い深いだけでなく、孤独や寂しさに心が激しく動揺していたとも思われます。


 そんなことがあって8日ののち、イエス様は再び弟子のところに来てくださいます。今度はトマスもそこにおりました。イエス様は全く同じように「あなたがたに平和があるように」と言われたあと、トマスに傷跡に触るよう促したのです。

 しかし聖書ではトマスはイエス様の御傷に触れる事も指を差し込むこともしていません。トマスにとってもはやそれはもう必要なかったのです。誰よりも深く疑ったトマスは、イエス様の「平和があるように」という呼びかけに「わたしの主、わたしの神よ」と答えるのです。


 トマスの心の中の疑いと孤独の嵐は去り、イエス様を神様と信じ、自分の主として受け入れた喜びと平安、主の与えてくださるシャロームがあったのです。 


 この出来事を記したヨハネ福音書は、イエス様が十字架に着く前の夜、最後の晩餐の席上で仰ったことを多く記録しており、1427節にはこのような御言葉があります。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな」こうおっしゃった後、「さあ、立て。ここから出かけよう」とも言われています。


 現実には、私たちの心から心配や悩みの種が尽きることはなかなかありません。おぎゃーと生まれて死ぬまで、長くて100年ほどですが、最後まで気力も体力も保てる人はまずいません。老いていけば心も弱くなり、それは少なからず信仰にも影響するでしょう。


 イエス様は人のそんな弱さすらもその身に負い、身代わりになって十字架にかかり「あなたには罪はない」と言ってくださいます。一人一人に息を吹きかけられ、聖霊を受け、新たに生きること、イエス様を信じて歩むなら、必ず天国へと迎え入れると約束してくださったのです。


 疑いと不安に夜も眠れないような心の嵐に悩む時、トマスの身に起こったことを思い出し「わたしの主、わたしの神よ」に語りかけ、祈りましょう。

 「さあ、立て。ここから出かけよう」と促してくださる方は、わたしたちを放ってはおかず、常に共におられ、先立って進んでくださいます。「心を騒がせるな。怯えるな」と呼びかけ「あなたがたに平和があるように」と祈られた主が、時代を超えて共にいてくださるのです。


復活主日礼拝は今年も賛美の歌が溢れました

子ども達、女性会、園の先生方のコーラスや

リーベクワイヤのハンドベル演奏

みんなでイエス様のご復活の喜びを表しました


「こども聖歌隊」改め「ルーテルキッズバンド」
1曲目「子ロバのうた」の間奏部分に入る聖書朗読は
頑張って自分達で読みました

2曲目「君は愛されるため生まれた」は
教会女性会と幼稚園の先生方の有志とともに賛美


リーベクワイヤの奏でる
美しいハンドベルの音色が礼拝堂に響きます

小さくて質素な礼拝堂ですが
音の響きはなかなか良いのです
建て直す時も音響を意識して設計していただく予定です

2023年4月9日日曜日

「主はよみがえられた」(日曜日のお話の要約)

主の復活礼拝(白)(2023年4月9日)
コロサイの信徒への手紙3章1~3節 マタイによる福音書28章1~9節

 みなさんイースターおめでとうございます。今日はイエス様が復活されたことをお祝いする日です。


 イエス様はお金持ちでもないし、特別かっこいい人でもありませんでしたが、友達がいなくて寂しかった人に神様のお話をして仲良くなったこともありましたし、お医者さんが治せなかった病気を治したこともありました。そんなたちはイエス様は神様だと信じて、素直に「イエス様ありがとう」と言えました。


 イエス様のお弟子さんと呼ばれる人たちもイエス様のことが大好きで、イエス様から神様のお話をしてもらうと心の中が温かくなって、自分も優しく正しい人になろうと思いました。


 でも、祭司長やファリサイ人と呼ばれるイエス様の国の偉い人たちはそうではありませんでした。この人たちはであまり正しい人ではありませんでした。お金儲けが大好きだったり、「あなたは偉い人です」と言われるのが大好きだったり、間違っているとわかっていても反省できなかったりする人たちでした。

 イエス様が「正しい心で神様を信じましょう」と言うと「そんなことできるか!」と腹を立てました。ついに「イエスがいると国の中が滅茶苦茶になって戦争が始まる」とまで言い出し、イエス様を逮捕して死刑にする計画を立てたのです。


 イエス様はそんな恐ろしい計画を全部知っていました。神様だから、ちゃんとわかっていたのです。お弟子さんたちに「私は逮捕されて十字架につけられて殺されるが、3日目に蘇るから心配しないように」と何度もおっしゃいました。お弟子さんたちは悲しんで「そんなこと言わないでください」と、信じませんでした。


 でもとうとうイエス様が言われたことが本当になってしまったのです。春の大きなお祭りの時です。イエス様が夜にオリーブ山というところでお祈りしていると、悪い人たちが兵隊を連れてきて、イエス様を逮捕したのです。その時、イエス様の弟子たちは怖くなってみんな逃げてしまいました。


 逮捕されたイエス様が裁判にかけられると、イエス様がすごく悪いことをしたと嘘をつく人が現れました。イエス様を逮捕した人たちは大喜びで「イエスは死刑だ!」と決めてしまいます。でもイエス様は「私はそんなことはしていない」とは言いません。何にも言わないまま、十字架を背負わされゴルゴダという丘の上まで自分で運びました。それから手と足を釘で打たれて十字架につけらたのです。


 イエス様は十字架の上でとても苦しかったのに、神様にお祈りしました。「神様、この人たちは自分が悪いことをしたとわかっていないのです。だから赦してあげてください。」そう言って、とうとう死んでしまったのです。死んだイエス様はお墓に入れられました。


 イエス様のことが大好きだった人たちはものすごく悲しみました。特にお弟子さんたちは、イエス様が捕まった時、逃げ出した自分が情けなくて悲しくて、何もかも嫌になって、隠れ家に閉じこもってしまったのです。それは金曜日の夕方のことでした。金曜の夜も土曜日も、お弟子さんたちは隠れ家に閉じこもって、とても辛い気持ちで過ごしました。イエス様という太陽のような人が死んでしまったと思うと、お弟子さんの心はどんどん暗くなるばかりでした。


 金曜日が過ぎ、土曜日が過ぎ、日曜日の朝が来ました。イエス様が死んでお墓に入れられてから3日目の朝が来ました。イエス様のお弟子さんの中には女の人もいて、男のお弟子さんたちより少しだけ勇気がありました。イエス様がお墓に入れられた金曜日の夕方、そっとついて行ったのでお墓がどこにあるか知っていました。


 イエス様の国のお墓は日本のものとは全然違っていて、亡くなった人を布でぐるぐる巻きにして、ほら穴のようなところに入れ、大きな石で蓋をするのです。


 女のお弟子さんたちはイエス様のお体が適当に穴の中に放り込まれていないか気になって仕方ありません。それで日曜日の朝早く、勇気を出してお墓に行ったのです。「大きな石で蓋をしてあるからどうしたらいいでしょう」と話し合いながらお墓に着くと、なんと、お墓を塞いでいた大きな石は転がって、空っぽのお墓の中が見えました。イエス様のお体がないのです。


 女のお弟子さんたちがびっくりしていると、白い服を着た天使が現れて言いました。「イエス様はここにはおられない。前から言われた通り、復活なさったのだ。」イエス様は前に「私は逮捕されて十字架につけられて殺されるが3日目に蘇る」とおっしゃいました。確かにその通りになったのです。


 イエス様は、鍵をかけて隠れ家に閉じこもっていたお弟子さんたちのところに来てくださいました。お弟子さんたちはびっくりしてお化けかもしれないとか、弱虫の自分達は絶対叱られると思ったのですが、そんなことはありませんでした。

 イエス様は言われました。「神様があなたたちを愛していることを信じなさい。そうすれば弱い心も強くなれる。病気や苦しいことがあっても、最後まで頑張れるようになる。そしてあなたがたとえ死んでも、私が蘇ったように天国で蘇る。私は天国に帰ったら、あなたの家を準備しておくからね。」


 それから何日かして、イエス様は光に包まれて天国に帰っていかれました。弟子たちは、イエス様がそばにいなくなったので、すごく寂しくなりましたが、勇気を持ってイエス様の教えを伝え始めたのです。「神様はわたしたちを愛してくれているから、イエス様のお言葉を信じる人はたとえ死んでも天国で蘇る」


 このお話は2000年前に本当にあったことで、聖書に書かれて世界中の人が読むことができます。私たちはイエス様が教えてくれた大切なことを忘れないために、毎年イースターをお祝いするのです。私達の主、大切な神様、イエス様は蘇られました。イエス様を信じるならば、私たちも蘇ることができるのです。


昨日は土曜学校でした

イースター前日なので

内容についてはかなり迷いましたが

発泡スチロールの卵に絵を描いて

教会の人が作ってくれた折り紙の花飾りにくっつけ

イースター飾りを作りました

お家で飾って、明日の朝になったら

イエス様の復活を思い出してくれますように!


恒例の「いいお顔」写真です

参加者は嬉しいことに20名を超えたのですが

保護者の方の許可がないと掲載できません(><)

もしここをご覧になって

「うちの子OKです」と言ってくださったら

次から掲載させていただきます(^^)

よろしくお願いします