2023年4月25日火曜日

「エマオのキリスト」(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2023423日)
詩篇 116編 1519節(957 ) ルカ福音書2413-35節(160


 本日はルカによる福音書から「エマオのキリスト」と呼ばれる出来事をご一緒に聞いて参ります。本日登場する人たちはイエス様が特別に選ばれた12弟子ではなく、より広い弟子のグループに属していたようです。


 この出来事が起きたのはイエス様が十字架にかかってから三日目の日曜のことです。弟子たち二人はエルサレムの街を出発して、そこから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。エマオにはここに登場するクレオパという弟子の実家があったのではないか、と言われています。


 ユダヤ人というのは二人いれば三つの意見が出ると言われるほど議論好きな民族です。意気消沈していても、なぜイエス様が十字架につかねばならなかったのか、とか遺体はどこに消えたのか、とか、論じ合わないではいられなかったようです。


 そんな彼らに一人の人物が近づいてきます。そして彼らと並んで歩きながら「その話はなんのことですか」と尋ねたのです。聖書にははっきり「イエスご自身が近づいて来て」と書かれているのですが、彼らは気づきません。聖書は「二人の目は遮られていて、イエスだとはわからなかった」と描写しています。なので、ここではイエス様のことを仮に「謎の旅人」と呼んでおきましょう。


 話しかけられた弟子たちは暗い顔をして立ち止まり「あなたはなぜ、あの恐ろしい出来事を知らないのか」と聞き返します。そして「謎の旅人」に三日前にエルサレムで起きたことを話したのです。


 弟子たちは旧約聖書をきちんと学んでいました。ですから「謎の旅人」に話すとき、旧約聖書を引用しながら説明しました。「あの方こそ旧約聖書に預言されている救い主、自分たちの国を自由と平和に導いてくださる約束の救い主だと確信していた」「しかし、イスラエルの権力者たちはイエス様を排除しようと不当な裁判を開いて死刑判決を下し、十字架で殺されてしまった。」


 弟子たちはイエス様本人に向かって「イエス様こそ救い主だと思っていたのに、その方を失って自分達が本当に失望した」と詳しく語ったのです。そして最後に「そのお墓は空になっていて、この一件は謎に満ちている」と締めくくりました。 


 すると今度は「謎の旅人」が口を開きます。彼は「ありがとう」ではなく「あなた方は何て物分かりが悪いんだ」と言うのです。そして弟子たちの説明に対し、この出来事を全く違う視点から語り始めたのです。弟子たちはこの旅人の口調に逆らえないものを感じ、一緒に歩きながら素直に耳を傾け始めました。


 「謎の旅人」は「あなたたちはそもそも旧約聖書の理解が全く間違っている」と諭します。「あなたたちは救い主が登場すれば、何の挫折もなくこの国を救ってみせるかのように思い込んでいるけれど、それは誤りです。旧約聖書には、救い主は目的を果たす前に大変な苦しみを受ける、と書かれているのを思い出しなさい」


 そう言うと、旧約聖書に書かれていることを創世記からスタートして次々と解き明かし、救い主とはこういう方だ、と弟子たちに教えてくれるのです。その引用は説得力に満ちていました。弟子たちは旅人の話を聴いているうちに、救い主のなさることがまるで目の前に展開されているように感じ、ワクワクし始めました。


 「ああ、そうだ、そうだった。救い主はどこからともなくやって来て颯爽と問題解決してくれるのではなく、わたしたちの苦しみや弱さを理解するためにご自分も苦しみを受けられることが決まっていたのだ。そして弱い私たちを見下さないで、目的に向かって一歩一歩共に歩んでくださる方なのだ」彼らがそんなふうに感じ始めた時、エマオの村に到着します。


 「謎の旅人」はさらに先に行こうとしているようでしたが、弟子たちはもっともっと話が聞きたいと、彼を熱心に引き留めます。「謎の旅人」は了承して一緒に食卓に着きます。そして誘ってくれた人々の前で食事の前の祈りを始めたのです。ユダヤ人の習慣では、普通はその家の主人が食前の祈りを行います。このゲストである「謎の旅人」がすることではありません。しかし「謎の旅人」は躊躇なくパンを取り上げ、神様を讃え、パンを裂いて二人に渡したのです。


 その次の瞬間起こったことを聖書は「二人の目が開け、イエスだとわかった」と記しています。そうです、弟子たちは目の前にいる「謎の旅人」こそイエス様なのだと、唐突に気付いたのです。イエス様ご自身が「あなた方は大切なことがわかったから」と姿を表してくださったかのようです。


 彼らが「イエス様だ!」と分かったと同時に、イエス様の姿は消えてしまいます。しかし絵の前からイエス様は消えても、先ほど聞いた聖書のお話の感動は消えてはいませんでした。あの心がワクワクする聖書のお話のなさり方には覚えがある、あれはイエス様にしかできないことだ。そしてあのお祈りとパンの裂き方。少しも形式的でなく、目の前に神様が見えているように親しげに感謝しているあのお祈りはまさしくイエス様だ。


 彼らは今こそ気づきました。とぼとぼ歩いて実家に帰ってきた自分達をイエス様が追いかけて来て下さって、自分たちの間違いを指摘し、もう一度弟子として立たせてくださろうとしたのです。二人はすぐさま出発しエルサレムに戻ります。辺りは既に真っ暗になっていましたが、彼らはそんなことは気になりませんでした。


 彼らはもう一度他の弟子たちに会いたかったのです。救い主が苦しみにあったのは失敗したからではない。真の救い主だったからこそ、あえて苦難に遭いそれを乗り越えられたのだ。聖書には最初からそう書いてあったではないか。そう語り合ってイエス様が復活されたことを共に確認し、喜び合わないではいられなかったのです。


 絶望の時も、ただ自分を憐れんで泣く時も、目を塞いで現実逃避している時も、イエス様は私を、そしあなたを気に掛け、そばにいて共に歩いてくださいます。


 私たちを再び立たせるために語りかけてくださり、私たちがそこにイエス様がおられると気づくまで、決して離れることのないお方なのです。そして、目には見えなくても、心に灯火を燃やしてくださり、生きる力を与え続けてくださるのです。

 「エマオのキリスト」というこの記録は、それを私たちに教えてくれています。


今年も駐車場脇の植え込みで色とりどりのオダマキが咲き始めました
一週間前は硬い蕾だったのに
真夏日が続いたせいか、一気に開花です
園と教会の建て直しの時には駐車場を広げるため
この植え込みは無くなります
残念ながらオダマキの開花を楽しめるのは
今年限りとなりそうです

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