2021年9月28日火曜日

キリストの名によりて(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第18主日礼拝(2021年9月26日)
ヤコブの手紙5章13-20節 マルコによる福音書9章38-43節

 「ヨハネ」という名前は「神は慈しむ」という意味で、当時は国際人的な名前として人気がありました。ですから「ヨハネ」という人物は新約聖書の中にもたくさん登場します。


 本日の福音書は「ヨハネがイエスに言った」から始まっています。これは福音書を記した12弟子の一人のヨハネのことです。ゼベダイの子と呼ばれ、兄のヤコブと共にガリラヤ湖で漁師をしていた時、イエス様に招かれて弟子になりました。

 この二人の兄弟はイエス様から「ボアルネルゲス」つまり、「雷の子ら」というあだ名が付けられました。日頃から過激な言動があったため「雷の子ら」というをあだ名がつけられたのでしょう。


 マタイによる福音書には、「雷の子ら」の母親も登場します。彼女はイエス様が十字架を覚悟してイスラエルに向かうとき、その御心も知らず、「この方は高い身分に上り詰める」と信じ、自分の息子のヤコブとヨハネをイエス様の側近にしてくれと願うのです。イエス様がイスラエルの新しい王様になったなら、自分の息子はその片腕になる能力がある、とイエス様に頼み込んだのです。この出来事は他の弟子たちの怒りを買いました。

 その他のヨハネのエピソードとして、彼はイエス様が十字架に付いた際、十字架のすぐそばにいて、イエス様から直接母マリアを委ねられた、と自分の福音書に記しています。弟子の中で自分こそイエス様の最大の理解者で、イエス様からも愛されていたのだていたのだ、と言おうとしているようです。


 さて本日の福音書箇所は、このヨハネの「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」と言う言葉で始まります。

 イエス様のお名前を使って悪霊を追い出して良いのは自分たちだけなのだ、それ以外の奴らはやってはならない、イエス様のブランドを勝手に使うな、という怒りを感じます。ヨハネは、とにかく自分たち以外の人間がイエス様のお名前を使うことを禁じた、と鼻高々でイエス様に報告しました。

 しかしイエス様は穏やかに答えられます。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口はいえまい。」そして、「私たちに逆らわないものは私たちの味方である」。

 つまり、イエス様のお名前を良いことに用いる者たちは、ヨハネが認めようと認めまいと、イエス様の味方だ、と言われたのです。


 さらにイエス様は「キリストの弟子だと言う理由で、あなた方に一杯の水を飲ませてくれる者は必ずその報いを受ける」と言われました。

 ヨハネは想定外のお言葉にあっけに取られ、少しの間、混乱していたのではないでしょうか。しかし、彼は短気でしたが愚か者ではありませんでした。自分の望みや考え方がイエス様と食い違っているなら、自分の考えの方を修正し、イエス様に従わなければならないのだ。それがイエス様に仕えることなのだ、と理解し始めたのです。


 キリストの弟子という理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人がいる。その人はあなたの味方だ。これは私たちも心に刻みつけておかなければならないみ言葉です。そしてイエス様のおっしゃる「やめさせてはならない」は、現在にも続く大切な命令でもあります。


 私たちの心の中には、当時のヨハネが持っていたのと同じような仲間意識や党派心があります。仲間を大切にするのはとても良いことですが、その仲間意識は、自分たち以外のやり方を認めない、という狭い認識に結びつきやすいのです。

 時折、他の教会に対して「あの教会のやり方はちょっと変」と批判的なことを言ったりしますが、それだけではなく、自分たちの教会の内部においても「あのやり方は変だ」という意識が向けられることもあります。長年信仰生活を送っていますと「自分のやり方」というものが身に付いてきます。一つの教会に長く所属していると、その教会の気風というものが染み付いてくるのは仕方のないことです。


 礼拝に集う皆さんの中には自分が「雷の子」かもしれないと感じておられる方もおられるでしょう。短気で癇癪持ち、気になり出したらいてもたってもいられない。やられたらやり返す。思いやりのない指導には腹が立つなどなど。しかし、「雷の子」であったヨハネは信仰経験を積み重ね、ついにその名の通り「神は慈しむ」という生き方をするようになり、ついには「愛の使徒」と呼ばれるようになりました。


 12弟子のほとんどは殉教しました。しかしヨハネは長生きしたと言われています。親しい弟子たちが次々と敵の権力者に命を奪われ、天に召されていく中で、孤独に耐え高齢になるまで生き抜きました。そして波乱に満ちた生涯の中でイエス様を述べ伝え、教会に集う様々な人々を愛し抜きました。私たちも、互いに思いやり、異なる考え方を柔軟な心で受け止めながら、慈しみの心を養いつつ歩んで参りましょう。




FBにも掲載しましたが先週の金曜日
東教区・オンライン信徒講座で
「子どもに伝える聖書」と題してお話しさせて頂きました
ZOOMにはまだまだ不慣れなので
準備に時間がかかり、本番でも思いっきり緊張しました

日曜日に飯田教会の教会員に感想を聞きましたら
それなりに好評だったので
ほっと胸を撫で下ろしています



先日の中秋の名月の折は飯田の夜空は雲が多く

せっかくの八年ぶりの満月だというのに

いいタイミングで愛でることができませんでした

リアル配信された「東京からの月」を画面に映し出し

近所の和菓子屋さんで購入した

月見団子と一緒に撮ってみました(^^)

何となくうまく撮れた気がしたので

備忘録がわりにUPさせてください

2021年9月20日月曜日

キリストにならいて(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2021年9月19日)

エレミヤ書11章18-20節 マルコによる福音書9章33-37節


 本日の福音書箇所の直前、イエス様一行は群がる民衆から少しの間離れて、ガリラヤ北部に旅をし、弟子達の訓練に時間を割いておられました。ある日は、もうユダヤの国とも呼べない土地で、そこに住む人々に対して奇跡を行われました。またある日は、3人の弟子だけを連れて高い山に登り、モーセとエリヤと話し合うところを見せられました。そこでイエス様こそが神様であり、神様の御心を行う方だということを、白く輝く姿をもって示されました。

 この期間に、ペトロは「あなたこそキリストです」という信仰告白をし、他の弟子たちも同意しますが、イエス様が再びご自分の十字架の死と復活の話をされると、理解できず、黙り込んでしまいます。

 そんな旅がもうすぐ終わろうとしていた時、彼らは12人の中で自分がどんな位置にいるのか確認したい、と言う欲望に囚われてしまいました。それを見抜いたイエス様は、弟子たちの考え違いを正しておこうと思われ、家について落ち着いてから、「途中で何を議論していたのか」と尋ねられたのです。それが本日の福音書箇所です。


 彼らの話し合いは議論というより、口喧嘩のようでもあり、必要以上に褒めあったり、おとしめあったり、仲間内であちらに付くだのこちらに付だの、まるで子どもの派閥争いのような有様だったことでしょう。

 人間はどんな小さい集まりの中でも、No.2は誰か、No.3は誰か、最下位は誰か、などと順序づけたくななりますが、神様は全く違う視点から人間を見ておられ、愛しておられることを示そうと常々お考えになっていたイエス様は、ここで不思議な行動を取られます。

 まず、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と声をおかけになります。それからそこにいた一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」


 一見微笑ましい場面に思えます。しかし、死亡率の高かったこの時代、子どもは大切にされた反面、半人前の存在として厳しく躾け、教育しなければならないと考えられていました。

 ところがここに登場した子どもは沢山の人が来てちょっとハイになり、もしかしたらイエス様とその弟子達にちょっかいを出していたのかも知れません。というのは、イエス様が「その子どもの手を取った」というのはギリシャ語では「つかまえる」という言葉でだからです。この子が誰の子であったのかはっきりしていませんが、大人の集まるところにしゃしゃり出てきて何かいたずらをしようとした、当時の感覚でいえば礼儀知らずの子ども供だったわけです。


 しかしイエス様はその子を捕まえて抱き上げたのです。この行為に弟子達は驚きます。粗相をした子どもは叩いたり怒鳴りつけたりするのが普通の考え方の中で、叱ることなく穏やかに抱き上げて「私のように」つまり「キリストに接するように」受け入れなさい、とおっしゃったのです。

 弟子達は全員もう立派な大人でしたが、誰が一番偉いか仲間内で言い争う様子は子どもと変わりません。むしろ、幼稚で神様の前では、恥ずかしいことでした。ですからイエス様はお互いに順序づけるよりも、まず尊敬の念をもって互いに接することが大事なのだということをお示しになったのです。

 人間の尊厳、などというという難しいことは、この頃の弟子たちにはわからなかったでしょうが、この出来事を通して、人は神様の目から見れば等しく可愛い子どもなのだということは、少しだけ理解できたのではなかったでしょうか。


 私たちも自分の立ち位置や社会的地位を気にしながら生きることが多いものです。ですから、日頃謙虚で真面目で良心的な人であっても、社会的には自分より下位にあるはずの人からいきなり無礼を働かれると、すんなり受け入れることはできませんし、なぜその人がそんな行動を取るのか思いやったり、まして「イエス様にするように」接するのは至難の業です。しかしイエス様はこの難しい業に挑戦しなさいと言われ、そのために力を与えてくださるというのです。


 イエス様は「私の名のために」受け入れなさい、と言われます。親が育てるのに手を焼くような子どもであっても、受け入れ、愛していって欲しい。そして信仰と心をさらに強め、社会に受け入れられない者や生きづらさを抱えてイエス様の元に救いを求めた人々と共に生きてほしい、と望まれたのです。

 もちろん、善意を持って接しても、受け入れられないことは珍しくはありません。そこで腹を立てることは簡単です。しかし私たちの毎日は小さな存在との出会いに満ちています。そんな時、単に痩せ我慢するのではなく、愛を持って受け止め、接するために、大いなる神の愛と御言葉が、私たちの内に生じる苛立ちや怒りを鎮めてくださることを信じましょう。


 ただ、覚えておかなくてはならないのは、現代社会において、このような生き方は損する事が多い、といういうことです。いいように使われて、利用されるお人好し、と言われるかもしれません。そして一転してその努力が身を結ぶと、今度は、嫉妬心から心無い言葉をぶつけられたりします。それでも、私たちはキリストの名の元に、この世的には損をすることを承知の上で、その業に挑戦し続けるのです。

 小さな存在をキリスト同様に受け入れ、日々出会う一人一人に神の愛を注ぐことがなによりの幸せなのだと信じ、キリストにならいて歩んで参りましょう。


教会の隣には空き地があります
持ち主は分かっているのですが
放置されているのでご近所の方と草刈りをしたり
苗を植えたりしてなんとか美観を保っています
この時期、彼岸花が突然出現するので
興味深く見守っています


幼稚園の窓からも見えるこの空き地
園児のために、蝶がたくさん来るようにと
ブッドレアを植えました
でもやってくるのはちょっと地味な
ツマグロヒョウモンばかりです
来年はキアゲハを呼ぶためだけ(笑)に
食草のニンジンを
植えてみようかと思っているところです

2021年9月13日月曜日

十字架を背負い(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(2021年9月12日)

詩編116編1-9節 マルコによる福音書8章31-38節


 新約聖書はもともとギリシャ語で書かれていますが「十字架」にはどんな単語が使われているかご存知でしょうか?特別な言葉が使われていると思われるでしょうが、元の言葉は「立たされる」というごく普通の言葉が元になっています。

 この「立つ」に関して有名な言葉をご紹介しますと、マルチン・ルターが宗教改革の途上で、自身の意見を曲げるか曲げないかの選択を迫られた時、「我、ここに立つ」という有名な言葉を口にしています。これは「我は十字架につく」というニュアンスが込められています。


 さて、イエス様は、この世界で人々が悪に惹かれたり罪を犯したりすることの背後には悪霊の存在があることを知っておられました。弟子たちが罪や悪に打ち勝つには、悪霊を追い出す能力を持つ必要があることをわかっておられたので、彼らがが悪霊に打ち勝てるよう、力をお与えになりました。彼らがイエス様を信じている限り、決して悪霊に負けることはなかったのです。

 しかし弟子達はせっかく力を与えられていながら、イエス様が望むほどにはなかなか成長しませんでした。それどころか、彼らはイエス様の素晴らしいお力を見ているうちに、「自分のあのように人々に仕えていきたい」と思うよりも、自分の願いを叶えていただきたい、と考えるようになります。

 そこでイエス様は十字架にかかるまでの残された時間に、彼らをさらに教育することを試みられました。ガリラヤ湖畔からさらに40キロほど北のヘルモン山の麓、フィリポ・カイサリアに、弟子たちと共に赴かれたのです。


 フィリポ・カイサリアは、ローマ皇帝のために整備された風光明媚な保養地でした。しかしここは旧約時代、異教の神バアルが祀られていた都市でした。熱心なユダヤ教徒にとっては異教の土地、汚らわしい土地でもあったのです。

 イエス様はそう言ったことをご承知の上で、弟子たちとやってこられたのです。そして彼らにまず「ここの土地の人々は私のことをなんと言っているか」と問いかけます。弟子達は皇帝のお膝元であることを意識してつい言葉を選び、「人々は洗礼者ヨハネの継承者とか預言者の生まれ変わりとか噂しています」と告げます。

 そこで次にイエス様は「では、あなた方は私を誰だと思っているか」と尋ねます。ほとんどの弟子たちは一瞬口ごもってお互い顔を見合わせたことでしょう。ところがペトロは、全くストレートに、命の危機も顧みずに「あなたはメシアです」と言い切ったのです。


 イエス様は自身が神の御子であることを、弟子たちに言葉にしてもらいたかったのです。「あなたは、メシアです。」これは一番短い信仰告白です。「あなたこそ、救い主です」という言葉を、ペトロは他の弟子たちの思いを代表して力強く言い放ったのです。

 その言葉をイエス様は喜ばれ、弟子教育の次の重要な段階に入ろうと考えられました。それが本日読みました福音書の箇所です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて、殺され、三日の後に復活することになっている」とはっきり話されました。マルコ福音書ではイエス様はご自分の死と復活について3回予告されていますが、これはその第一回目でした。


 イエス様の言葉を聞いたペトロはショックを受けます。イエス様にはユダヤの国を改革していただいて、ローマを追い出して、再び自由の民になりたいと考えているし、イエス様がリーダーになってくださるなら命を捨てる覚悟もしているのに、なぜ戦う前から負けるようなことを言われるのか。イエス様がいてこその自分たちなのに、と思ったのでしょう。

 そこでペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めた、と書かれています。これは想像ですが、ペトロは「縁起でもないことを言わないでください」とか「そんなに弱気になってどうするんですか」などと言ったのではないでしょうか。

 それに対してイエス様は「サタン、引き下がれ」と、とんでもない強い言葉でペトロを叱りました。続けて「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われます。その上で、私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」とおっしゃいました。


 ここでイエス様が弟子達に「十字架を背負い」と言われたのは、遠からずご自分が十字架にかかる時に一緒に来て一緒にかかりなさい、という意味ではありません。弟子となった人々一人一人が神様のご命令に従って、誰か他の人のために苦労することを選びなさい、という意味です。

 あなたたちは神様に従った結果として、苦労の多い場に導き出され、立たされることになる。そこで全力で神様のご命令に従っても世の中の人から賞賛を受けることはないかも知れないし、人々からの不満や言いがかり、罵声さえも受けることもあるだろう。しかし、あなたには、あなたから与えられた神様からの役目がある。それがあなたの十字架であり、あなたが背負うべき十字架なのだ。あなたの労苦は神様が評価してくださる。

 イエス様はそのような思いをこめて「十字架を負いなさい」と言われたのでした。

 私たちはこれからも神様が必要とされる働きをして行くことを心に刻み、一つ一つの事柄を丁寧に行なって参りましょう。この世の賞賛や誉に心を奪われることなく、複雑な現代の状況と信仰による判断を照らし合わさながら、ひとたび「我が十字架」を負ったならば、決して世間に振り回されることなく、イエス様を通して示された神様の御心を証しながら共に歩んで参りましょう。


近くのスーパーに買い出しに行く途中に通る
「りんご並木」もすっかり秋の色です
暖かい土地で育った私にとって
当たり前のようにたわわにリンゴが実る光景は
何度見ても何か不思議で、楽しい気分を与えてくれます


この並木は近くの中学の生徒たちによって
大切に整備されています
大振りのマリーゴールドも
美しい景観作りに一役買っています

2021年9月6日月曜日

いやし主のイエス様

 聖餐式・聖霊降臨後第15主日礼拝(2021年9月5日)
イザヤ書35章4-7a マルコによる福音書7章31-37節説教

 イエス様が弟子達と共に宣教活動を行われたのは、神殿のあるエルサレムではなく、北部のガリラヤ湖の周辺の街々が中心でした。神の御子といえども人間の肉体を持っていますから、お疲れになることもありましが、神様はみんなのことを愛していますよと、教えて回られたのです。

 ところが、人々が一番に求めたのは、神様の言葉や神様の心ではなく、具体的に病を癒してくださることであり、癒しの業を行うイエス様のそばにいて助けていただくことでした。癒された人はその時は大いに喜び、神様を賛美しますが、神様の憐れみ深さよりも、イエス様なら癒してくださるということが強いメッセージとして残ってしまうのです。さらには、イエス様はご自分の癒しの業を人には言わないようにおっしゃるのですが、いくら止めても人々は「イエス様に癒していただいた」と触れて回るのです。


 私たちの感覚ですと、癒された人が「皆さんもイエス様を信じて癒されなさい。」と宣教活動が出来るなら良いことではないか、と思うでしょう。しかし、イエス様は人々が広告塔のようにご自分を言い広める宣教方法は望まれませんでした。その方法では、さらに癒しを求める人が群がるだけで、神様の愛には辿り着けなと分かっておられたからです。

 人々がイエス様の癒しを求めて騒ぎ立てるものですから、少し距離をおこうと考えられます。イエス様と弟子達はガリラヤからさらに北へと足を伸ばし、ユダヤ教徒の少ない異邦の地へと赴きます。弟子達を育てる為にも時間が必要だったからです。この時イエス様の弟子集団の中から何人ついていったか分かりませんが、遠く異邦の地を旅されました。


 そこでは誰にも正体を知られずに過ごそうと思われたようですが、結局イエス様の噂を聞きつけて癒しを求める異邦の女性がやってきます。イエス様は、初めのうち、ユダヤ人を差し置いて異邦人を癒すことはできないと拒んでおられました。しかし彼女はイエス様のお考えを悟った上で、「小犬も子どものパン屑を頂きます」と機智に飛んだ言葉を用います。

 これは神様の本質が無限の愛であることを確信した上で、無限であるからこそ異邦人の私もその愛のおこぼれくらいはいただけるはずだ、という成熟した信仰の言葉です。イエス様は彼女の言葉とそこに込められた信仰を喜ばれ、彼女の娘を癒やされた後、再びガリラヤ湖へ戻って来られます。


 するとガリラヤの人々は再びイエス様に群がり始めます。ただ今度は少し様子が違いました。「人々は、耳も聞こえず舌の回らない人を連れて来」ました。障害者と関わると汚れると律法学者たちから教え込まれていたはずの人々が、自分の直接の身内でもないのに、聴覚に障害のある人を積極的的に連れて来たのです。

 今までならば、これは神様からの罰かも知れないとか、悪霊に取り憑かれたのかも、と噂し、共同体から追い出したり、関わりを絶とうとしたことでしょう。しかし人々はイエス様を知ったことによって、イエス様なら必ず救ってくださるという確信を持つようになったのです。


 障害や病を負った人々から距離を取り「汚れている」と批判するのではなく、苦しむ人がいるなら真っ先にイエス様の元に連れてゆき、手を置いていただこうと考えるようになったのです。それは苦しむ人がいるならイエス様の元に連れて行こう、きっとなんとかしてくださる、という素朴な信仰が芽生えていたことを意味しています。そしてイエス様もこうした人々を受け止められました。


 イエス様はその求めにお応えになり、この人を群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、アラム語で「開け」という意味である、と書かれています。たちまちこの人は聴こえるようになり、元のように話すことができるようになりました。

 この出来事の後、今回もイエス様は、人々にこの出来事を広めないように口止めしますが、癒しの奇跡に感動した人々はますますイエス様がいやし主であることを告げ広めます。そして「この方のなさったことはすべて、すばらしい、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と口々に言い合ったのでした。


 もし今、病で苦しんでおられる方がこの話を聞かれるならば、その癒しの力を与えてほしいと心から思うことでしょう。私も同じ気持ちです。ただ、私たち一人一人は、一度病から癒されても、いつかはこの世を去る定めです。だからこそ「元気に長生き」ということだけに執着しすぎないで、永遠の命は神の国にこそある、という信仰を人々に持ってほしい。イエス様はそのために、これからエルサレムへ、十字架への旅へと向かわれ、十字架の上でご自分の命を献げられるのです。


 本日の福音書にあったように、イエス様は耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人が話せるようになさいました。私たちも今、そのお力を注がれています。ですから、私たちは「難しいことは聞いても理解できない」とか、「うまい言葉で伝道できない」とか、尻込みしている場合ではないのです。

 かつてはご自分の癒しの技を口止めされたイエス様は、正しい信仰を持つ私達が神様の業を宣べ伝え、証していくことことを心から喜んでくださいます。イエス様に続くものとして、神と人に開かれたものとして歩んで参りましょう。



日本福音ルーテル飯田教会

教会の皆様

主の導きと守りを覚えつつ。

飯田教会では、コロナウィルス感染防止の方法として、コンピューター通信方法のZOOM(ズーム)を使用し、礼拝の恵みを共有する取り組みを行うことになりました。

本来なら、イエス様を信じる者が共に日曜日の朝に会堂に集い、神様からの恵みに与り、感謝を覚えることは何より大切です。しかし昨年から続くこの事態に対し、キリスト教会としてもさらに注意深く過ごす必要を感じております。

行政からは、長時間の会合や多人数の集まりを行わないよう厳しく指導されています。そこで、緊急事態宣言レベル4以上での対策として、この期間の主日礼拝においては、原則として、牧師、礼拝当番、オルガニスト、教会役員のみの出席とし、会堂出席の人数が10名を超えないよう制限させていただきます。ご理解とご協力をよろしくお願いします。

通常通りの礼拝出席が可能になり次第、改めてご連絡いたします。


コンピューター通信ZOOMを用いてインターネット礼拝に出席を希望される方は、お手持ちのパソコン、スマートフォンから

h-asahina@jelc.or.jpにご連絡いただくか、牧師携帯090-1243-7727

Cメールか電話をいただければ対応いたします。

厳しい状況にありますが、共に祈りつつ乗り越えて参りましょう。

              

主にありて

牧師 朝比奈晴朗

飯田教会役員一同



上記のようなわけで、9時30分からの
こども聖歌隊も少ない人数でやってます
今は歌わず、楽器中心です
M姉妹はドラムスがすっかり気に入った様子
熱心に叩いています

オルガニストと役員さんで
礼拝前のお祈りです

中継機材をあれこれ並べているので
まるでスタジオのようです
朝比奈牧師は神学校に入る前
録音スタジオで働いていたせいか
コード類を張り巡らすのが大好きです