2021年9月20日月曜日

キリストにならいて(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第17主日礼拝(2021年9月19日)

エレミヤ書11章18-20節 マルコによる福音書9章33-37節


 本日の福音書箇所の直前、イエス様一行は群がる民衆から少しの間離れて、ガリラヤ北部に旅をし、弟子達の訓練に時間を割いておられました。ある日は、もうユダヤの国とも呼べない土地で、そこに住む人々に対して奇跡を行われました。またある日は、3人の弟子だけを連れて高い山に登り、モーセとエリヤと話し合うところを見せられました。そこでイエス様こそが神様であり、神様の御心を行う方だということを、白く輝く姿をもって示されました。

 この期間に、ペトロは「あなたこそキリストです」という信仰告白をし、他の弟子たちも同意しますが、イエス様が再びご自分の十字架の死と復活の話をされると、理解できず、黙り込んでしまいます。

 そんな旅がもうすぐ終わろうとしていた時、彼らは12人の中で自分がどんな位置にいるのか確認したい、と言う欲望に囚われてしまいました。それを見抜いたイエス様は、弟子たちの考え違いを正しておこうと思われ、家について落ち着いてから、「途中で何を議論していたのか」と尋ねられたのです。それが本日の福音書箇所です。


 彼らの話し合いは議論というより、口喧嘩のようでもあり、必要以上に褒めあったり、おとしめあったり、仲間内であちらに付くだのこちらに付だの、まるで子どもの派閥争いのような有様だったことでしょう。

 人間はどんな小さい集まりの中でも、No.2は誰か、No.3は誰か、最下位は誰か、などと順序づけたくななりますが、神様は全く違う視点から人間を見ておられ、愛しておられることを示そうと常々お考えになっていたイエス様は、ここで不思議な行動を取られます。

 まず、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりなさい」と声をおかけになります。それからそこにいた一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われました。「わたしの名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」


 一見微笑ましい場面に思えます。しかし、死亡率の高かったこの時代、子どもは大切にされた反面、半人前の存在として厳しく躾け、教育しなければならないと考えられていました。

 ところがここに登場した子どもは沢山の人が来てちょっとハイになり、もしかしたらイエス様とその弟子達にちょっかいを出していたのかも知れません。というのは、イエス様が「その子どもの手を取った」というのはギリシャ語では「つかまえる」という言葉でだからです。この子が誰の子であったのかはっきりしていませんが、大人の集まるところにしゃしゃり出てきて何かいたずらをしようとした、当時の感覚でいえば礼儀知らずの子ども供だったわけです。


 しかしイエス様はその子を捕まえて抱き上げたのです。この行為に弟子達は驚きます。粗相をした子どもは叩いたり怒鳴りつけたりするのが普通の考え方の中で、叱ることなく穏やかに抱き上げて「私のように」つまり「キリストに接するように」受け入れなさい、とおっしゃったのです。

 弟子達は全員もう立派な大人でしたが、誰が一番偉いか仲間内で言い争う様子は子どもと変わりません。むしろ、幼稚で神様の前では、恥ずかしいことでした。ですからイエス様はお互いに順序づけるよりも、まず尊敬の念をもって互いに接することが大事なのだということをお示しになったのです。

 人間の尊厳、などというという難しいことは、この頃の弟子たちにはわからなかったでしょうが、この出来事を通して、人は神様の目から見れば等しく可愛い子どもなのだということは、少しだけ理解できたのではなかったでしょうか。


 私たちも自分の立ち位置や社会的地位を気にしながら生きることが多いものです。ですから、日頃謙虚で真面目で良心的な人であっても、社会的には自分より下位にあるはずの人からいきなり無礼を働かれると、すんなり受け入れることはできませんし、なぜその人がそんな行動を取るのか思いやったり、まして「イエス様にするように」接するのは至難の業です。しかしイエス様はこの難しい業に挑戦しなさいと言われ、そのために力を与えてくださるというのです。


 イエス様は「私の名のために」受け入れなさい、と言われます。親が育てるのに手を焼くような子どもであっても、受け入れ、愛していって欲しい。そして信仰と心をさらに強め、社会に受け入れられない者や生きづらさを抱えてイエス様の元に救いを求めた人々と共に生きてほしい、と望まれたのです。

 もちろん、善意を持って接しても、受け入れられないことは珍しくはありません。そこで腹を立てることは簡単です。しかし私たちの毎日は小さな存在との出会いに満ちています。そんな時、単に痩せ我慢するのではなく、愛を持って受け止め、接するために、大いなる神の愛と御言葉が、私たちの内に生じる苛立ちや怒りを鎮めてくださることを信じましょう。


 ただ、覚えておかなくてはならないのは、現代社会において、このような生き方は損する事が多い、といういうことです。いいように使われて、利用されるお人好し、と言われるかもしれません。そして一転してその努力が身を結ぶと、今度は、嫉妬心から心無い言葉をぶつけられたりします。それでも、私たちはキリストの名の元に、この世的には損をすることを承知の上で、その業に挑戦し続けるのです。

 小さな存在をキリスト同様に受け入れ、日々出会う一人一人に神の愛を注ぐことがなによりの幸せなのだと信じ、キリストにならいて歩んで参りましょう。


教会の隣には空き地があります
持ち主は分かっているのですが
放置されているのでご近所の方と草刈りをしたり
苗を植えたりしてなんとか美観を保っています
この時期、彼岸花が突然出現するので
興味深く見守っています


幼稚園の窓からも見えるこの空き地
園児のために、蝶がたくさん来るようにと
ブッドレアを植えました
でもやってくるのはちょっと地味な
ツマグロヒョウモンばかりです
来年はキアゲハを呼ぶためだけ(笑)に
食草のニンジンを
植えてみようかと思っているところです

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