イザヤ書35章4-7a マルコによる福音書7章31-37節説教
イエス様が弟子達と共に宣教活動を行われたのは、神殿のあるエルサレムではなく、北部のガリラヤ湖の周辺の街々が中心でした。神の御子といえども人間の肉体を持っていますから、お疲れになることもありましが、神様はみんなのことを愛していますよと、教えて回られたのです。
ところが、人々が一番に求めたのは、神様の言葉や神様の心ではなく、具体的に病を癒してくださることであり、癒しの業を行うイエス様のそばにいて助けていただくことでした。癒された人はその時は大いに喜び、神様を賛美しますが、神様の憐れみ深さよりも、イエス様なら癒してくださるということが強いメッセージとして残ってしまうのです。さらには、イエス様はご自分の癒しの業を人には言わないようにおっしゃるのですが、いくら止めても人々は「イエス様に癒していただいた」と触れて回るのです。
私たちの感覚ですと、癒された人が「皆さんもイエス様を信じて癒されなさい。」と宣教活動が出来るなら良いことではないか、と思うでしょう。しかし、イエス様は人々が広告塔のようにご自分を言い広める宣教方法は望まれませんでした。その方法では、さらに癒しを求める人が群がるだけで、神様の愛には辿り着けなと分かっておられたからです。
人々がイエス様の癒しを求めて騒ぎ立てるものですから、少し距離をおこうと考えられます。イエス様と弟子達はガリラヤからさらに北へと足を伸ばし、ユダヤ教徒の少ない異邦の地へと赴きます。弟子達を育てる為にも時間が必要だったからです。この時イエス様の弟子集団の中から何人ついていったか分かりませんが、遠く異邦の地を旅されました。
そこでは誰にも正体を知られずに過ごそうと思われたようですが、結局イエス様の噂を聞きつけて癒しを求める異邦の女性がやってきます。イエス様は、初めのうち、ユダヤ人を差し置いて異邦人を癒すことはできないと拒んでおられました。しかし彼女はイエス様のお考えを悟った上で、「小犬も子どものパン屑を頂きます」と機智に飛んだ言葉を用います。
これは神様の本質が無限の愛であることを確信した上で、無限であるからこそ異邦人の私もその愛のおこぼれくらいはいただけるはずだ、という成熟した信仰の言葉です。イエス様は彼女の言葉とそこに込められた信仰を喜ばれ、彼女の娘を癒やされた後、再びガリラヤ湖へ戻って来られます。
するとガリラヤの人々は再びイエス様に群がり始めます。ただ今度は少し様子が違いました。「人々は、耳も聞こえず舌の回らない人を連れて来」ました。障害者と関わると汚れると律法学者たちから教え込まれていたはずの人々が、自分の直接の身内でもないのに、聴覚に障害のある人を積極的的に連れて来たのです。
今までならば、これは神様からの罰かも知れないとか、悪霊に取り憑かれたのかも、と噂し、共同体から追い出したり、関わりを絶とうとしたことでしょう。しかし人々はイエス様を知ったことによって、イエス様なら必ず救ってくださるという確信を持つようになったのです。
障害や病を負った人々から距離を取り「汚れている」と批判するのではなく、苦しむ人がいるなら真っ先にイエス様の元に連れてゆき、手を置いていただこうと考えるようになったのです。それは苦しむ人がいるならイエス様の元に連れて行こう、きっとなんとかしてくださる、という素朴な信仰が芽生えていたことを意味しています。そしてイエス様もこうした人々を受け止められました。
イエス様はその求めにお応えになり、この人を群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。これは、アラム語で「開け」という意味である、と書かれています。たちまちこの人は聴こえるようになり、元のように話すことができるようになりました。
この出来事の後、今回もイエス様は、人々にこの出来事を広めないように口止めしますが、癒しの奇跡に感動した人々はますますイエス様がいやし主であることを告げ広めます。そして「この方のなさったことはすべて、すばらしい、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」と口々に言い合ったのでした。
もし今、病で苦しんでおられる方がこの話を聞かれるならば、その癒しの力を与えてほしいと心から思うことでしょう。私も同じ気持ちです。ただ、私たち一人一人は、一度病から癒されても、いつかはこの世を去る定めです。だからこそ「元気に長生き」ということだけに執着しすぎないで、永遠の命は神の国にこそある、という信仰を人々に持ってほしい。イエス様はそのために、これからエルサレムへ、十字架への旅へと向かわれ、十字架の上でご自分の命を献げられるのです。
本日の福音書にあったように、イエス様は耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人が話せるようになさいました。私たちも今、そのお力を注がれています。ですから、私たちは「難しいことは聞いても理解できない」とか、「うまい言葉で伝道できない」とか、尻込みしている場合ではないのです。
かつてはご自分の癒しの技を口止めされたイエス様は、正しい信仰を持つ私達が神様の業を宣べ伝え、証していくことことを心から喜んでくださいます。イエス様に続くものとして、神と人に開かれたものとして歩んで参りましょう。
日本福音ルーテル飯田教会
教会の皆様
主の導きと守りを覚えつつ。
飯田教会では、コロナウィルス感染防止の方法として、コンピューター通信方法のZOOM(ズーム)を使用し、礼拝の恵みを共有する取り組みを行うことになりました。
本来なら、イエス様を信じる者が共に日曜日の朝に会堂に集い、神様からの恵みに与り、感謝を覚えることは何より大切です。しかし昨年から続くこの事態に対し、キリスト教会としてもさらに注意深く過ごす必要を感じております。
行政からは、長時間の会合や多人数の集まりを行わないよう厳しく指導されています。そこで、緊急事態宣言レベル4以上での対策として、この期間の主日礼拝においては、原則として、牧師、礼拝当番、オルガニスト、教会役員のみの出席とし、会堂出席の人数が10名を超えないよう制限させていただきます。ご理解とご協力をよろしくお願いします。
通常通りの礼拝出席が可能になり次第、改めてご連絡いたします。
コンピューター通信ZOOMを用いてインターネット礼拝に出席を希望される方は、お手持ちのパソコン、スマートフォンから
h-asahina@jelc.or.jpにご連絡いただくか、牧師携帯090-1243-7727に
Cメールか電話をいただければ対応いたします。
厳しい状況にありますが、共に祈りつつ乗り越えて参りましょう。
主にありて
牧師 朝比奈晴朗
飯田教会役員一同
上記のようなわけで、9時30分からの こども聖歌隊も少ない人数でやってます 今は歌わず、楽器中心です M姉妹はドラムスがすっかり気に入った様子 熱心に叩いています |
オルガニストと役員さんで 礼拝前のお祈りです |
中継機材をあれこれ並べているので まるでスタジオのようです 朝比奈牧師は神学校に入る前 録音スタジオで働いていたせいか コード類を張り巡らすのが大好きです |
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