2023年8月30日水曜日

9月2日の土曜学校のお知らせ

 

コロナの急拡大や大雨など
特別なことがない限り予定通り実施いたします
相変わらず気温が高いので気をつけてお越しください
工作の合間にお茶飲み休憩を取ります
教会でペットボトルの麦茶を用意しています

2023年8月28日月曜日

「汝らは我を誰と言うか」

27日の主日礼拝は東京から木下海龍牧師をお招きしてお話をしていただきました。
木下牧師は引退教職として過ごしておられますが、かつて諏訪教会で牧会されたこともあったので、飯田にも何度か足を運ばれたそうです。

当時はゆっくり街を見て回ることもなかったとのことで、非常に暑い日でしたが、帰りの高速バスの時間まで街を散策されたそうです。
朝比奈牧師の夏休みの間、来年も説教に来ましょうと言ってくださいました。
どうぞお元気で!来年もぜひお越しください。


集会室リリーにて

木下先生は朝比奈牧師にとって
ルークを導いたヨーダのような存在なのだとか


2023年8月20日日曜日

「カナンの女の信仰」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝(2023年8月20日)
イザヤ書56章6-8節(1143) 
ローマの信徒への手紙11章29-32節(291)
マタイによる福音書 15章21-28節(30)

 本日の福音書の個所は、一人の女性が信仰によって娘の病気を癒していただく出来事です。まずこの話のひとつ前、ユダヤ教のファリサイ派や律法学者がわざわざエルサレムからガリラヤ地方までやってきて、イエス様や弟子たちに議論を仕掛けた、という出来事を見ておきましょう。


 ファリサイ派や律法学者が指摘したのは「イエス様の弟子たちは食事の前に手を洗っていないのは律法違反」ということでした。しかし、これはもともと衛生についての意識が非常に低かった時代に、正しい生活習慣を与えるための教えでした。それをファリサイ派たちが長い年月の間に宗教儀式のレベルに引き上げ民衆を厳しく指導していたのでした。


 この福音書を記録したマタイは、かつて徴税人という社会から軽蔑される仕事をしておりファリサイ派や律法学者から差別されていました。しかしイエス様の弟子となって学ぶうち、祭司やファリサイ人たちの間違いに気づいていったのです。


 ここに登場する「カナンの女」は、かつてのマタイ以上に祭司やファリサイ人にとってはゴミクズのような存在でした。外国人である彼女は「神様から愛されることなど絶対にない」と思われる存在だったのです。


 その女性の信仰の物語が、イエス様とユダヤ教指導者との問答の次に記されていることに福音記者のこだわりがあるように思えます。このカナンの女性の振舞こそがキリスト者の模範だ、とマタイは記録しておきたかったのでしょう。


 「カナン」という名称は現在のパレスチナ地方を表す古い言葉です。創世記でアブラハムが神様から「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束してくださった土地がカナンの地でした。そしてモーセたちがエジプトを脱出した時、カナン地方を神様がくださった理想郷と信じて旅の目的地に定めました。


 そこは確かに豊かな土地でしたが、カナン人をはじめとして様々な民族が自分達の宗教を信じて生活していました。しかしイスラエル人たちは「ここは神様が自分達に約束してくださった土地だ」と信じ、戦いを繰り返しながら、カナンに住む民族と土地を支配していったのです。


 と言っても、カナン人は野蛮人というわけではなく、さまざまな民族と交易する商売上手な人々で、ダゴンという神を信じてその神殿も作っていたという記録があります。確かに本日の聖書箇所を読む限り、この女性には教養があったように思えます。


 彼女はカナン人としての宗教を捨て「娘を癒せるのはイエス様だけだ」と信じ「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫び続けたのです。この必死の態度は、イエス様たちに詰まらないことで難癖をつける律法学者やファリサイ派との態度とは正反対でした。


 ところが、イエス様は彼女の必死の叫びを無視しけます。根負けした弟子たちは彼女を追い払うようイエス様に願い出ます。するとイエス様は弟子に対し「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、つまり「イスラエル人以外は癒すことはできない」とはっきりおっしゃいます。


 この時、カナンの女はイエス様が自分の存在に気づいて下さっていることに力を得たのでしょう、叫ぶのをやめてイエス様の前にひれ伏し「主よ」と呼びかけました。彼女は最初からイエス様のことを「ダビデの子よ」呼んでいました。「ダビデの子」とはイスラエル人が「救い主」と信じた相手に呼びかける言葉です。同じイスラエル人である律法学者たちがイエス様を否定したのに対して、この女性は「あなたこそイスラエルの救い主です」と尊敬を込めて呼びかけたのです。


 しかしイエス様はさらに「子供のパンをとって小犬にやってはいけない」と、カナン人の彼女を小犬と呼び、娘を癒す気はないともう一度強調されます。それでも彼女はイエス様が本当はそんな小さい方ではないことにすでに気がついていました。自分はイスラエル人に比べれば取るに足らない存在かもしれないけれど、イエス様の恵みは自分の娘にも及ぶだけの無限の豊かさがあると見抜いていたのです。


 だからこそ大胆に救いを確信し「小犬も食卓から落ちるパン屑はいただきます」つまり「神様の恵みは食卓からこぼれ落ちるほど限りなくありますよね」と切り返します。彼女の信仰と知性を感じ取ったイエス様はもはや否定することもなく「あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」とおっしゃり、その時彼女の娘の病はいやされたのでした。


 多くのイスラエル人たちが自分達こそ神様に選ばれた民族であると踏ん反り返り、他の民族を見下して傲慢に振る舞っている間に、イエス様は密かに救いの次の段階への準備をしておられたのです。


 「神様の前に謙遜になって素直に訴える信仰こそ大切だ」という教えは、神様のご予定より少し早くこの女性に与えられましたが、やがてそれはイエス様が天国にお帰りになった後、弟子たちの時代になって、世界中に広がって行ったのです。


 私たちはさまざまな価値観や教えが混在する国に住んでいます。今の時代、公にキリスト教を迫害する人々は少ないとはいえ、日曜礼拝に出席し続けようとすれば、ご近所や友人、家族との付き合いを断らなければならないこともあります。


 そのような困難の中にあるとき、本日のカナンの女性の信仰と、彼女がイエス様から与えていただいた救いを思い出してまいりましょう。ダビデの子、救い主なるイエス様に何かをお願いするのに迷う必要はありません。心の内に湧き上がる「神様助けてください」という願いを素直に言い表し、平安をいただいて歩んでまいりましょう。


次の土曜学校の工作は
1センチ角のガラスタイルを使ったコースターを考えました
1時間半では目地材を入れることはできないので
ネット上の作品例を参考に樹脂粘土を詰めてみることに…
もちろん出来上がったコースターには耐水性はないので
雰囲気を楽しむだけになりそうですが(^^;)

2023年8月13日日曜日

「湖上の主イエス」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(2023年8月13日)
列王記上19章9-18節(566)
ローマの信徒への手紙10章5-15節(288)
マタイによる福音書 14章22-33節(28)

 本日の福音書は先週の「五千人の給食」の続きです。この時、イエス様を追いかけて方々の町から男性だけでも五千人の人々が教えを乞う為に集まり、お話を聞き、癒され、食事を頂いて満腹し、満ち足りた時を今過ごしたのです。


 この業を終えてすぐ、イエス様は弟子たちだけに声をお掛けになって彼らだけを舟に乗せ、向こう岸のベトサイダに行くように命令されます。弟子たちはイエス様の指示に従って向こう岸を目指しました。距離にして17キロから18キロです。22節にはイエス様が「弟子たちを強いて舟に乗せ」たと書いてありますので、よっぽど強くお命じになったのでしょう。弟子たちの中には漁師も多く、舟を操ることには慣れていましたが、時間や風向き、向かう方向などを考えると、この湖を知っているだけに、気乗りがしなかったようです。


 この日、そもそもイエス様は人里離れたところで一人神様に向き合って祈りの時を過ごされる予定でした。しかしその途中で群衆に追ってこられたことで、祈りの時間を奉仕の時間に充てなくてはなりませんでした。


 神様との語らいの時を先延ばしにして群集を思いやることを選ばれたイエス様は、夕方になってようやく時間が確保できそうだと気づき、今度こそそれを優先なさったのです。それはイエス様にとってやっとのことで手に入れたの安息の時でした。誰一人ご自分の周りに置かなかったのです。


 一方、弟子たちの舟は、彼らの予想通りと言いますか、逆風になって波が押し寄せ、元漁師のペトロやアンデレでさえも思うように漕げません。それが何時間も続きました。焦る弟子達は、次第に強制的に自分達を舟に乗せたイエス様への不審や不満を感じ始めていました湖の怖さを知らないイエス様のせいで私たちは苦労し、こんなに悩んでいる。そのような心境です。弟子たちは、このままでは舟が転覆して自分達は死んでしまうかもしれない、という恐怖にとらえられ始めていました。


 そんな彼らのところに、イエス様が水の上を迷うことなく歩いて近づかれました。しかしそれを見た弟子達は恐怖の叫び声をあげます。何しろ夜のあけ切らない暗い湖の上を誰かが歩いてくるのです。死の予感にビクビクしていた彼らにとって、それは自分達の命を奪いにきた幽霊に見えたのでしょう。


 しかしイエス様は、すぐに弟子達に話しかけ「安心しなさい。わたしだ。恐ることはない」と言われたのです。この「私だ」という言葉は「エゴーエイミー」という言葉が使われており、聖書的に言いますと、「わたしはある」、つまり私は神だと言われたのです。


 するとこれを聞いた弟子たちのうち、一番弟子のペトロが最初に我に帰ります。そして「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と答えます。イエス様はペトロを見つめ、ただ一言「来なさい」と招かれたのです。


 湖には相変わらず風が吹き、波が押し寄せており、舟から降りたペトロを容赦なく襲いました。しかしこの時のペトロは、イエス様の「来なさい」というお言葉を完全に信頼していました。ペトロは確かに舟から降りて水の上を一歩二歩と歩き、イエス様の方へと進んだのです。


 ただ、それは長くは続きませんでした。ペトロは強い風に気がついて怖くなり、イエス様から目を離してしまいます。そして「人間が水の上を歩けるはずがない」という常識にとらえられ、沈みそうになったのです。


 その時ペトロがとった言動こそが、イエス様が何より求められた信仰でした。嵐の中で沈みそうになったペトロは「主よ、助けてください」と叫ぶのです。するとイエス様はすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえます。ペトロが失敗することすら見越しておられたかのように、イエス様はおそらく優しい微笑みさえ浮かべながら、ご自身を頼ったペトロを見つめられたことでしょう。


 ペトロを連れて安全な舟の中に戻ったイエス様は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われますが、これはなかなか厳しい言葉です。これはイエス様の弟子となった人々が共通して経験する疑いや悩みと言えるでしょう。言い換えるなら、何もかもお見通しの上で、イエス様から弟子としての訓練が施されていたのです。


 イエス様は嵐の中を歩まれ、荒れた湖で遭難しそうになっている舟にさえ乗り込まれる方です。イエス様と共にある時、私たちはイエス様が全てを支配しておられて、自然の力やどんな常識さえも覆す力を持つ方であることを経験するのです。


 イエス様は、私たちがペトロや弟子たちのように何度も失敗を積み重ねたとしても、少しずつでもイエス様に信頼する信仰をまし加えていくことを心から喜んでくださいます。そのような忍耐強い愛の中に私たちは生かされているのです。


 私たちの毎日は予想もつかないことに満ちています。思わぬピンチに陥ることもしばしばあります。そんな時、過去を思い出して、ああしておけばよかった、こうしておけばよかったとクヨクヨすることもあります。しかし後悔に囚われるのではなく、ここに至るまでの全てが神のご計画であったことを信じましょう。私たちは、神様が強いていかせる目的地に向かって進むこと、そして溺れそうになったら「主よ、助けてください」と叫ぶことが大切なのです。


 私たちの主イエス様は、どんな経験も失敗も、全て祈りの糧、信仰の糧にして良いのだと語りかけてくださいます。今日の困難は私に委ねなさい、と湖の上に佇んで呼びかけてくださるイエス様を心に焼き付けて、前を向いて参りましょう。



牧師夫人が物干し台で育てているプルメリア
園芸関係のお友達から挿木用の枝をいただき
3年目にようやく開花しました
小さな木ですが、花は存在感たっぷりで
桃のような、まさに「南国の花」の甘い香りがします
花の上あたりに
うっすら十字架が見えるでしょうか?
これが教会と幼稚園の共通玄関の屋根の上に
掲げられた十字架です

2023年8月9日水曜日

土曜学校の報告.2023.8.5

8月5日は恒例の土曜学校でした。

飯田ではこの週「飯田人形劇フェスタ」という国際的な人形劇のお祭りが4年ぶりに元の規模で開かれており、町中の至る所で人形劇が展開されていて、ウキウキした雰囲気に包まれていました。

その上、夕方からはさまざまな蓮(グループ)が踊りながら練り歩く「飯田りんごん」開催。こちらも久しぶりの開催で、土曜学校の常連さんも何人か踊るとのことでした。

そんなこんなで土曜学校の出席者は少ないのでは?というのがスタッフの見解でしたが、先月20人分のクラフト材料を用意して参加者28名、全然足りなかったという苦い経験がありましたので、余っても良いからと25人分を用意しました。

でもいつものスタッフ5名のうち3名がお祭りに来客があるということで欠席となり、もし先月並みに子どもたちが来てくれたら手が足りないかもしれない、とも思いました。

常連さんたち、来てくれるのか、お祭りの方に行ってこちらには来ないのか?

どきどきの開始時間9時30分!

感謝なことに子どもたちは20名!保護者の方も3名同席してくださいました。

しかも中学生になって「土曜学校」を卒業宣言したお姉さんが「今日私はスタッフやります」と来てくれました!涙が出るほど嬉しかったです。



2023年8月6日日曜日

「五千人の給食」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・聖霊降臨後第10主日礼拝(2023年8月6日)
イザヤ書 55章1-5節(1152) ローマの信徒への手紙 9章1-5節(286)
マタイによる福音書 14章13-21節(28)

 本日共に読みました5000人の給食の出来事は私たちに「良い業」に挑むときの心構えについて教えてくれています。


 イエス様の奇跡の一つである「5000人の給食」からは、イエス様が人々の飢えや困窮にどれだけ心を痛めておられるかが伝わってきます。しかし弟子達はイエス様ほどのの強い思いはなかったようです。弟子たちは、いつもイエス様のおそばにいて、さまざまなことを学びつつ、恩恵をいただく時は何の躊躇もなくいただき、イエス様のアシスタントをする毎日で、大切なところはイエス様任せの楽しい毎日でした。しかしこの時、彼らは突然、五千人以上の人々に、自分の頭で考えて食事を与える側へと押し出されたのです。


 マタイ福音書は、そんな弟子の心の動きを丁寧に記しています。15節では、夕暮れになったのでイエス様に「もう時間もたちました」と呼びかけるのです。この時、イエス様はご自分の元に集まった群衆を深く憐れんで 次々と病人を癒しておられました。弟子たちはそのお姿に尊さを感じつつも、日が傾いていくのを見てジリジリしており、ついに「もう時間もたちました」とストップをかけたのです。


 弟子たちが一番不安に感じたのは、集まってきた人々が暴動を起こすことでした。男性だけでも5000人、とありますので、女性や子どもを入れればもっとたくさんの人がいたことでしょう。かつて出エジプト記16章で民衆がモーセに向かって「俺たちをこんな人里離れてところに来させといて、飢え死にさせるつもりか」と詰め寄った出来事がありました。旧約聖書をよく知る弟子たちは、それと同じことが起きるのではないか、と想像したのでしょう。


 人間がイエス様に癒されて心優しくなれるのは一瞬のことです。弟子たちは、空腹に耐えられなくなった誰かが文句を言い始めればあっという間に不満が広がるだろうと考えました。イエス様のお力を信じているとはいえ、イエス様がこの場を収める方法をお持ちであるとは想像もできなかったのです。これが弟子たちの信仰の限界だったとも言えます。


 そんな弟子たちでしたから、イエス様から「あなた方が彼らに食べるものを与えなさい」と命じられて大慌てです。しかしこの時、ペトロやアンデレたちは、イエス様に召された時のことを思い出すべきでした。ガリラヤの湖で漁師をしていた時、イエス様のお言葉を半分疑いながらも「お言葉ですから」と船から網を垂らすとあり得ないほど大量に魚が獲れた、という経験を思い出すべきだったのです。もしそれ思い出せたなら「今更解散しても手遅れかも」という不安の代わりに「イエス様が仰るのだから、今からでもなんとかなる」と思えたかもしれません。


 そしてまた、弟子たちが、せっかく出エジプト記のモーセの出来事を思い出したのなら、その時、神様がマナとうずらで民衆を養って下さったところまで想像すべきでした。ですが弟子たちは早く民衆を解散させないと大変なことになる、という焦りで頭がいっぱいだったのです。


 イエス様は神様だからと言って「かすみを食べて生きている」ような方ではありませんん。人間としての肉体をお持ちですから、空腹の辛さも知っておられましたし、「大酒飲みの大食らい」と誤解されるほど、人々と共に食事をする喜びを知っておられました。イエス様は体のためにも心のためにも、人間には適度な食事が必要なことを知っておられますし、与えようとしてくださる神様なのです。


 しかしこの時、弟子たちの戸惑う様子をご覧になったイエス様は、今はまだ弟子たちがご自分の求めに応えられるほど成長していないことに気づかれました。そこで弟子たちから「ここには5つのパンと2匹の魚しかない」という報告を受けられると、それを手に取られました。


 ここからはまさに神の領域でした。イエス様は、私たちが行う聖餐式のように、賛美の祈りを唱え、パンを裂き、弟子たちに渡されたのです。


 弟子達がイエス様に言われるままに群衆に食糧を配りを始めますと「5つのパンと2匹の魚」しかなかったはずなのに、いくら配ってもなくならないのです。弟子たちは最初は驚きますが、配っていくうちに先ほどの焦りや恐怖も忘れて、なんだか楽しくなってきたことでしょう。そして、イエス様のお力なのだからこれで当然なのだ、という思いが心の中に溢れてきました。最初の迷いはどこにいった、というくらい、自然な姿で彼らは奉仕をやり終えたのでした。


 5千人の給食という出来事は、現代の私たちも大きなチャレンジを与えてくれます。私たちはイエス様に導かれて奉仕をすることに喜びを持っていますが、その働きの規模が大きければ大きいほど、信仰の戦いもあります。「そんなことは無理」という恐怖や戸惑い。「今からそれをやっても手遅れだ」という諦め。「こんなことに取り組むなんて所詮は自分のエゴじゃないのか」という迷い。


 しかし私たちがご命令を実行できなくて足踏みをしている時、イエス様は「お前は信仰が弱いからもう何も命じない」と働きを取り上げてしまうような方ではありません。「お前は駄目だ」とは、おっしゃらないのです。イエス様は目の前の五千人の空腹を見て、弟子達にできることを促されたように、私たちにも出来る奉仕を示してくださるのです。それをやり遂げる時、神様の祝福が必ずあるのです。


 私たちは神に養われる民です。神の民として人々が安心して集える場所を考えて、考え抜いて、形にしていきましょう。神様は5000人一人一人を蔑ろにせず食事を与える方です。私たちもその恵みにお応えして、一人一人なすべきことを果たしてまいりましょう。


昨日は「飯田りんごん」という地元のお祭りでした

(歴史が浅く、これといった宗教性はないようです)

午前中、恒例の土曜学校をワイワイと終えた後

「私はりんごんで踊るんだよ!」という

声かけが何人かからありました


教会のすぐ近くを練り歩くので

夕方6時過ぎから見に行ってみました


いくつものグループ(連)が気ままな衣装で

決められたシンプルな振付を踊る

素朴なお祭りです


土曜学校に来ているお友達が

バレエを習っていて

そのグループがバレエの衣装で

優雅に踊っているのは

珍しく、楽しい光景でした



この衣装で踊ってるグループは珍しい!

揃いのTシャツや法被で踊るグループがほとんどです
いつか参加してみたいような
ただ見ているだけの方が
楽しいような(笑)