2017年2月28日火曜日

「この人にのみ聞き従いなさい」(マタイによる福音書第17章1節~9節)

マタイによる福音書第171-9節、2017226日(変容主日礼拝―白―)、出エジプト記第3429-35節、ペトロの手紙二第116-19節、讃美唱2/2(詩編第27-12節)

「この人にのみ聞き従いなさい」(マタイによる福音書第171節~9節) 

 私どもは、このところ顕現節の歩みの中にあって、主イエスの山上の説教から聞いてきましたが、今日はその顕現節の最終の主の日でもありますが、変容主日という特別の祝日であります。
 これは、昔から特別の日として祝われ、特に東方教会では8つの祝日の一つとしてまで大切にされてきた、聖書の個所でもあります。今朝は、マタイによる福音書の主の変貌の記事から、ご一緒に学びたいと思います。
 最初に、マタイは、6日の後にという受難の記事前には稀にしか出てこない数字を挙げています。これについては、はっきりしたことは分かりません。しかし、ペトロのフィリポ・カイザリアでの信仰告白やそれに続く主の受難予告のあとの6日後というふうに考えることができます。
 私どもも、毎週の礼拝に、6日間の週日の歩みの後に、主の日の礼拝へと集められて来ます。1週間の間にもたびたびもうだめかと思うような試練に会うこともあります。しかし、その中で、信仰の仲間からの思わぬ便りや電話、メール等によって励まされたり、同じ信仰の兄弟姉妹に支えられて、ようやく再び主の日に招かれ、そこで、主のみ言葉によって、また大きく力づけられて、新しい1週間へと、主の日によって、新しい旅路へと移されていくものであります。
 それと同じように、主は、1週間の間を、シモン・ペトロがあなたこそは、生ける神の子キリストですと、聖霊によって答えた日から置かれたのだと考えてもいいのではないでしょうか。
 そして、彼らは、4人だけで、高い山へと、主によって導かれ、登って行ったのであります。そして、そこで、何と主の顔は太陽のように輝き、その衣服は真っ白に輝いたのであります。それは、復活の後に、正しい人はその顔が太陽のように輝くだろうと、主イエスによって言われているように、復活の主イエスを垣間見させられた出来事であります。
 そして、さらに、そこにモーセとエリヤが現れて、主イエスと親しく何か話しを取り交わすという情景が、弟子たちに見られたのであります。
 ペトロはそれに感動して、言います。私たちがここにいるのは何と素晴らしいことでしょう。ひとつ、ここに小屋を三つ建てましょう、一つはあなたのために、一つはモーセのために、もう一つはエリヤのためにと。
 この素晴らしいというのは、美しい、見事であるという意味の言葉です。この天国のようなお姿を見れるのは、何と慰めに満ちたことでしょうとペトロはその嬉しさ、喜びを言い表したのです。
 モーセもエリヤも、終末のときに、再び現れるであろうと考えられた天的な人物であります。このまま、少しでも長く3人に居場所を用意したいとペトロは、思った。マタイに出て来る弟子たちは、物分りの悪い、むやみに恐れる弟子たちではなく、物事をおおよそは正しく理解する弟子たちであります。ペトロも、事の次第をおおよそのことはつかめているのであります。
 しかし、その時、輝く雲が現れ、3人を覆ってしまいます。そして、その中から、神の声がするのであります。
 「これは、わたしの愛する子、私の心にかなう者、これに聞け。」主イエスが神の子であることがしめされるのであります。また、それは、唯一無比の子であり、選ばれた者であることが示されています。
 また、私の心に適う者というのは、あのクリスマスの夜に歌われた天使の賛美の声、平和が地上で、「ご好意の人間どもに」あるという言葉と同じであります。
 「私はあなたのことが気に入った」と言う神からの、主イエスへの意志の表明であります。そして、それは、イザヤ書の苦難の僕に出てくるように、主イエスは、へりくだり、苦しまれてしもべとなられる人の子であることが示されているのであります。それを喜ぶと神はここで宣言しておられるのであります。
 そして、彼に聞き従うようにと。この人にのみ聞いていけば間違いはない。神の証言は、この者のみが、モーセもエリヤも、そして全聖書が指し示している、その教えに聞いてゆくべきお方であることを、この時、啓示したのであります。
 輝く雲の中からのこの声を聞いて、3人は倒れ伏します。それから、恐れに捕らわれてしまいます。その恐怖に捕らわれた3人に、やがて、もとの薄汚れた衣服と顔の主が、自ら一人近づいて来て、かがみこまれ、彼らの手をとって、起き上がるように、そして、おびえることはないと言われました。
 そして、彼らが山を降りてゆく時、主イエスは、あなた方が見たこと、幻が何事なのかを、人の子がよみがえらされるときまで、だれにも言わないようにとお命じになりました。この後、主は十字架への道が待っているからです。
 しかし、3人の弟子たちは、この時の出来事を忘れませんでした。そして、この出来事を知らされている今の私どもも、もはや失望することはありません。

 1週間の間にも嫌なことや絶望せざるをえないことが、世界内外に激しく起こりますが、今や希望をもって生きていくことができる。天国の白さを垣間見た者として、明けの明星を見た者として心のともし火を掲げながら。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

2017年2月21日火曜日

「あなたの敵を愛しなさい」(マタイによる福音書第5章38節~48節)

マタイによる福音書第538-48節、2017219日(日)、顕現節第7主日礼拝、(典礼色―緑―)、レビ記第1917-18節、コリントの信徒への手紙一第310-23節、讃美唱103(詩編第1031-13節)

説教「あなたの敵を愛しなさい」(マタイによる福音書第538節~48節)

敵を愛するということは難しいことですね、私は自分に、ひどいことをした、その人の言葉、態度を赦すことはできない、一生忘れずにそれに対して必ず復讐したいと思っていると偽らざる告白をしてくれた人がいます。
しかし、それは人事でしょうか。主イエスは、人を赦すこと、復讐をしないということがどれだけ難しいことかを、だれよりもよくご存知のお方ではないでしょうか。
今日の福音は、6つの命題に対する5番目と6番目の反対命題と呼ばれるものです。目には目を、歯に歯をとあなた方は言われている。しかし、私は言う、悪には逆らわないようにと。そして、右の頬を打たれたなら、あなたの左の頬をも向けよと言われ、1マイル強いられるなら、2マイル同行してやるようにと、暴力に対して、それに耐えるように、それどころかそれを、積極的に受け止めていくふるまいを主は、私どもにお求めになる。
これは、私どもキリスト者に、神の国、天の国に入るために、霊的にみ言葉との関係で言われているのであります。それは、この世の秩序、この世で罰すべき身分や権威とは別の領域の事柄であります。
そして、主は、暴力によるのではなくても、あるいは法によって、下着を求める者には上着をも与え、あなたに要求する者には与え、金を借りようとする者を拒んではならないとも言っておられます。福音を知らされているキリスト者として、私どもはそのようにして、悪に対して逆らうことはせず、隣人に仕える用意がなければなりません。そして、復讐することは、神の専権であり、神がなさることであります。それを、私どもは信じるべきであり、実際、神はそうなさっておられるのは、聖書が証言している通りであります。
そして、最後の命題は、あなた方は、あなたの隣人を愛し、敵を憎めと言われていることを聞いてきた。しかし、私は言っておくが、あなた方の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、という主イエスのそれに対するアンチテーゼのお言葉であります。
なぜ、敵を愛し、私どもを迫害する者のために祈らねばならないのかというと、それは、あなた方の天の父の子とならせていただくためであると主は言われます。
そしてさらに、それはなぜかというと、天の父は、悪人にも善人にも、正しい人にも正しくない人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるお方だからだと主イエスは言われます。
太陽がなければ、人も世界も滅んでしまいます。太陽は暑さを与え、生物を育て、地球を守っています。しかし、暑さや光だけでも、この世界は維持できません。雨が地上に降って、水気と湿気を与え、植物は成長し、人間も生活していくことができます。
この太陽と雨を、父なる神は、悪人にも、善人にも等しくお与えになっていてくださる。私どもは、この言葉を聞くとき、自分は悪人のほうではないと、普通考えますが、私どもは罪人であって、神に逆らう悪人に属していたのではないでしょうか。しかし、そのような私どもに、主は同じように良きものを与え続けておられるのであります。
そのような私どもが、キリスト者となって、天の父の子となるために、私どもの敵を愛し、しかも、自分を憎む者のために祝福を祈り、神がその者たちをよくしてくださるようにととりなしを求めるようにさせていただくのであります。
自分に良くしてくれる者に良くするという自分の損になる生き方はしないという私どもの自然な、本性に従った生き方ではなく、損をする生き方をあえて自由に選び取っていくことができるようにされるのであります。
そのようなファリサイ派や、ルターの時代の教皇主義者らの義にまさる生き方を、主イエスは、私どもにお求めになっておられます。
そして、そのような生き方をした多くの有名、無名のキリスト者の先輩たちを、私どもは知っております。たとえば、これらの主イエスの言葉に従って、矯正施設、罪を犯した青少年たちを社会復帰させるための北海道家庭学校のために生涯をささげた留岡幸助や、後継者谷冒恒のような方々の働きを思い起こします。
主は、復讐せず、敵を愛し、迫害する者たちのために祈りなさいとお命じになり、最後に、それゆえ、天の父が完全であられるようにあなた方も、完全になりなさい、あるいは完全になると約束なさいます。
私たちは、罪びとであるという点では完全になることはできません。しかし、主イエスの教えが完全であり、それに対して私たちが従う生活をしていくことにおいては、私たちも完全なのであります。神は聖であられ、私どもも聖となるであろう、聖とならねばならないとレビ記にあるように、まったき者とされているのであります。パウロも、悪に対しては子供となり、判断力については大人となりなさい、完全な者となりなさいと奨めているとおりであります。
神の教えに関する限りは、私どもは譲ってはならない。しかし、助けを必要としている隣人、敵に対しては、とことん愛を行っていくのです。アーメン。


 


                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年2月13日月曜日

「キリストに従う生き方」(マタイによる福音書第5章21節~37節)

マタイによる福音書第521-37節、2017212日(日)、顕現節第6主日礼拝、(典礼色―緑―)、申命記第3015-20節、コリントの信徒への手紙一第26-13節、讃美唱119/1(詩編第1191-8節)

「キリストに従う生き方」(マタイによる福音書第521節~37節) 

主イエスは、掟の中からまず、十戒の第5戒である「汝殺すなかれ」を取り上げることから説き始められます。
あなた方は聞いてきた、すなわち、こう昔の人たちに言われてきたのを。「あなたは殺してはならない。殺す者は裁判の責めを負う」と。しかし、主は、それに対して、この私は、あなた方にこう語ると、アンチテーゼを差し出される。自分の兄弟に対して、怒る者は裁判の責めを負い、馬鹿と言う者はサンヘドリン、最高法院あるいは議会の責めを負い、脳なしという者は火のゲーナへと責めを負うと。
私どもの心に湧く怒りから、殺人に至るのであり、心の中からの思いが、兄弟を罵る言葉となって現れるのであります。自分は、人殺しのような罪は犯さないと私どもは思っていて、十戒のその掟は、自分には無縁であると、私どもは、それを他人事と考えています。けれども、主は、私どもが、教会の仲間に対して、赦せないと思っているその怒りや恨みに対して、それは、最後の裁きの席に立つときには、殺人と同じ裁きを受けると警告なさるのです。
そして、祭壇にいけにえを供えようとするときに、あなたの兄弟があなたに対して何か逆らうものを抱いていることを思い当たったなら、供え物はそこにおいて、まずその兄弟のところへ行って、和解してから、ささげなおすようにと言われます。私どもが礼拝に与り、聖餐を受けるときには、兄弟との赦し合いをした上でそうすべきだと言われます。それは、できることなのでしょうか。
主は、自分を訴える相手方と道の途上に共にある間に、その相手と急いで友達となって、その道に共にいる間に赦してもらえるように、仲直りできるようにしなさいと言われ、今はその恵みの時であると言われるのです。
最後の審判になってからでは、自分の負い目をすべて支払うことは、私どもには不可能だからであります。この世の権威は、正当な怒るべき事由を持っているでありましょう。両親が子供たちのために怒るべきときはあるでしょう。この世の秩序に関わる場合には、正当に怒るべきときがあるでしょう。しかし、私どもが特に教会の兄弟、神の民との関係では、怒りは消滅させられなければならないのであります。なぜなら、そこから、相手を認めようとせず、自分の思いで相手をふみにじり、相手の人格を否定し、言葉によってであれ、相手を殺すことと同じ罪を犯しているからであります。
主は、そのような私どもの罪の下にある現実をよくご存知であられ、私どものために十字架の死を遂げてくださるのであります。そして、自分を訴える人とその訴訟に向かいつつある今、この間に、自分の怒りを解き、また、相手の怒りや恨みをもなくさせ、和解に至るようにと願っておられるのであります。
次に主は、「姦淫するなかれ」とあなた方は言われるのを聞いてきたが、私は、だれでも、他人の妻を心の中で欲望に向かって見る者は既に姦淫したのであると語るとまで言われます。
この主のみ言葉に堪え得る男性がいるでしょうか。心の中で欲望を抱いて他人の妻を見るだけで姦淫と同じだと言われます。肉欲はそれ自体が悪いことでしょうか。原文では、「他人の妻」というのは、ただ女の人とも訳せる言葉であります。他の夫の妻をほしがる思いで見ることから姦淫が始まる。そうであれば、あなたの右の目、右の手が、あなたを誘惑するのなら、それを抉り取り、切捨てる方が、全身がゲーナへと投げ込まれるよりもあなたに益であると主は言われます。
主イエスは、私どもがどれほど肉欲との相克に苦しんでいるかをよくご存知の上で、私どもが、男も女も、すこやかな結婚生活が、あるいは男女関係が営めるように、このみ言葉をくださっているのであります。
そして、続けて、あなた方は、離縁する場合には離縁状を渡せと言われている。しかし、私は語る、純潔でないことという理由以外で離縁することは、その妻に対して姦淫を犯すことであり、その妻をめとる者も姦淫を犯すのであると言われて、例外的に姦淫を犯したような場合をのぞいて、離婚を認められないのであります。男が自分の妻に飽きて、別の女にたやすく鞍替えすることは、男の身勝手さであり、神が人を男と女とに造られ、夫婦として合わせられた者を人は離してはならないと言われるのであります。
夫婦の忍耐強い助け合いによって、神は結婚を祝福されたものとなさるのであります。
そして、今日の最後は、人は、神を指して、天、地、エルサレム、あるいは神に造られた自分自身を指しても、むやみに誓ってはならないと、主はお命じになられます。この世の職務から、宣誓をしたり、誓うことが求められることはしばしばあるでありましょう。
しかし、私どもの言葉、一つ一つが、神の前に誠実な、偽らざる真実の言葉となるならば、神の名にかけて誓う必要ななくなります。一つ一つ発する言葉を誠実なものとしていくことが、神の最後の審判に臨む私どもには問われてくるのであります。そして、神が完全であるように、私どももそのとき完全な者となるのであります。アーメン。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

2017年2月11日土曜日

「あなた方の光を輝かしなさい」(マタイによる福音書第5章13節~16節)

マタイによる福音書第513-16節、201725日(日)、顕現節第5主日礼拝、(典礼色―緑―)、イザヤ書第581-10節、コリントの信徒への手紙一第21-5節、讃美唱112(詩編第1121-10節)

 「あなた方の光を輝かしなさい」(マタイによる福音書第513節~16節) 

 私どもは、顕現節の歩みをしております。先週は、暗きにすむガリラヤの民に大いなる光が昇ったとして、ガリラヤ近辺のあるゆる群衆が、主イエスの下に集まり、従ってきた、そして主は、ガリラヤの海で、二組の兄弟、4人の漁師を、人間をとる漁師として召し出した出来事を読みました。
 今朝は、その主イエスが、従ってくる弟子たちに、あるいはまた、聞き従おうとする群衆にも向かって、語られた山上の説教の一節が与えられています。
 この記事は、いわゆる8至福とも9至福とも言われている中の最後の至福に続いている主のお言葉であります。
 あなた方が、私のために偽りの告発のゆえに、悪口を言われ、迫害されるとき、あなた方は幸いである。その時には、あなた方は大いに喜べ、天においてはあなた方に大いなる報いがある。あなた方の先の預言者たちも皆、同じように迫害されたのであるとあります。
 主イエスの弟子たちは、そしてまた、この福音書を聞いているマタイの教会の人たちは、その当時激しい迫害を受け、試みを受け、戸惑いの中にあったに違いありません。
 しかし、そのような主に従う弟子たちに向かって、主は高らかに宣言されるのです。あなた方は、地の塩である。塩がその塩味を失えば、どうやってその塩気を取り戻すことができようか。それはもはや、外に投げ捨てられ、人々によって踏みにじられる以外には用をなさないと。
 私どもが、地の塩として、この地をながらえさえ、保存する者となるように、主は、塩としての役目を見失ってはならないと断言されます。また、塩は、料理の塩味として、調味料として、風味を効かせ、おいしい料理を作り上げます。
 自分は、その中に溶け込んで、自分自身はなくして、良い結果をもたらします。知恵ある言葉を語り、社会をよりよくする。そのような働きを、主は私たちになすように求めておられます。迫害や困難に打ち負かされないで、地を塩味づけていくことをし続けるようにと励ましておられます。
 さらに、主は言われます。あなた方は、世の光である。山の上にある町は隠される事ができない。ランプを点して、枡の下に置く者はいない。人はそれを燭台の上において、家の中全体を照らすようにするのであると。
 私どもは、自分はとても、地の塩や、世の光とはいえない、それは、キリスト者の理想であって、自分はとてもとてもそのように高貴な者ではないと謙遜しがちであります。しかし、主イエスは、私に従うあなた方はそのままで、今のままで、既に世の光、地の塩であると明言なさいます。そうなるであろうとか、そうなれと言われるのではなく、私の光を受けたあなた方は、世の光そのものであると言われるのです。
 日本の明治以来のキリスト者たちの中にも、そのような世の光として歩んだ多くの先人を、私たちは知っています。たとえば、北海道家庭学校を開いた留岡幸助のように、罪を犯した青少年を社会に矯正して復帰させることに全生涯を傾けたキリスト者等を私たちは思い出します。
 あなたたちは、世の光であり、地の塩である、という言葉は、しかし、一部の指導者や、説教者、牧師等に限られるものでしょうか。決してそうではありません。信徒も、一人一人がみなそうなのであります。自分はとても世の光などと理想めいたことは言えないと言って、聞き逃すことはできない、一人一人に語りかけられている招きの言葉なのであります。散髪屋さんは、散髪屋さんの仕事の中で、主婦は主婦の働きの中でそれが求められています。
 しかし、確かに、説教を語る牧師は、枡のなかにローソクを点すような者であってはならないでしょう。暗闇の中に遠くからでも、その光が燦然と輝いて見える丘の上の町のように、あるいは少なくとも灯台の光のように人々を導く働きが、さらに求められることでしょう。今、たとえば、トランプさんが大統領となり、日本では、安倍首相が伊勢神宮に各国首脳を招き入れたり、右傾化している。そのような中で、憲法の政治と宗教の分離の原則をいかにすれば保持していくことができるのか。象徴天皇制の原則をどうやって守っていくことができるのか、そのようなことに対して、正しい識見を示していくなどは、教会を運営する者として、より深く牧師には問われてくることでしょう。
 しかし、根本的には、一人一人の生活が問われています。主は、そのようにして、あなた方の光を人々の前で輝かしなさい。それは、あなた方の立派な行いをみて、人々が、天におられるあなた方の父をあがめるようになるためであると結論されています。私どもは特にルーテル教会に属する者として、信仰のみによって、義とされると耳にたこができるほど聞かされています。それはその通りです。恵みのみによって、私どもは救われています。
 しかし、それは私どもの生活を見て、それを通して人々は、それが、天の父から来ていることを信ずることができるのです。それを目立って、すべての人たちが知ることができるように、新しい生を通して輝かしなさいと、主はお命じになられます。隠して自分たちだけの生活をするものではないのです。神の国は、主イエスの説教と共に、既に到来しているのであり、それを語り伝え、証しするようにと、すべての弟子たちは招かれているのであります。アーメン。 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           

2017年2月1日水曜日

「世に現れた救い主、主イエスのみわざ」(マタイ4:18-25)

マタイによる福音書第418-25節、2017129日(日)、顕現節第4主日礼拝、(典礼色―緑―)、イザヤ書第4310-13節、コリントの信徒への手紙一第126-31節、讃美唱1(詩編第11-6節)

 説教「世に現れた救い主、主イエスのみわざ」(マタイ418-25

 主イエスが世に現れて、多くの人々が、主に向かって集まってまいりました。主イエスは、ガリラヤ中を歩き回って、彼らの会堂で教えられながら、み国の福音を宣言なさり、悪霊を追い払われ、すべての病や弱さを癒しておられました。そして、彼の良き聞こえは、全シリヤへと出て行ったとあります。そして、人々はあらゆる病気や患いを持った人々を連れてきます。それは、癲癇や中風の者たち、悪霊にとりつかれた者たちであったといいます。
 そして、彼に大勢の群衆が、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムや、ユダヤ、それに、ヨルダン川の向こう側から従ったというのです。
 主イエスに従う大勢の人々がいます。病気や悪霊つきから運ばれて、主に従うようになることもあります。そのような人々をも主はお拒みになることはありません。
 私たちも、いろいろな経過を経て、教会の門をくぐり、主イエスに出会い、洗礼に至ったというのが多くの場合の実情ではないでしょうか。それでも、主イエスは喜んで受け入れてくださいます。
 しかし、また、今日の記事の最初の物語は、4人の弟子が、主イエスの初めての弟子とされるというものです。
 彼らは、二組のガリラヤ湖で働く漁師たちの兄弟でありました。ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、さらにゼベダイの子ヤコブとヨハネです。彼らはいずれも労働の最中にありました。労働がどんなに厳しく苛酷なものであるか、私どももよく知らされています。何のために、汗して働くのだろうか。物質的な安定と満足のために働き、将来に備えて耐えながら、働いているのでしょうか。 しかし、そこに主イエスがお出でになり、声をかけられる、私に従ってきなさい、そうすれば、あなた方を人間どもへの漁師にしようと。
 人間をすなどり、神の国へと招くための働き人にしようと呼ばれたのです。彼らは、4人とも網を捨て、あるいは舟と父親とを後に残して、主イエスに従ったのです。この4人の兄弟は、今教会に集っている私どもの姿でもあります。
 たとえ、牧師にならなくても、あるいはある意味で似ている看護師や、この認定こども園の保育の先生のような奉仕的な職業ではなくても、洗礼を受けているお一人お一人が、ペトロやヨハネたちと同様に、主の呼び声に答えて、すぐに従った一人一人です。私たちは、人々を神の国へと召し出すために、直接主イエスのみ声によって選び出された弟子の一人一人なのです。主イエスがこの世に現れてなさったみわざは、実は、主イエスが語られた言葉、み国の福音の宣言、み教え、そして、悪霊を追い出し、あらゆる病を癒すことでした。そして、それは、私どもの代わりに、私どもの病を担ってくださることでもありました。
 私どもは今日、教会総会をこの後、開こうとしています。今日のこの福音の出来事が、今年一年のよき生活形成拠点となりますように。まことの労働、人々を神の国へ、まことの悔い改めへと導く労働にならしめていくものとならせてください。私たちの日ごとの働きを、主イエスに従うための労働となさしめてください。アーメン。