2020年3月31日火曜日

教会学校・休校のお知らせ

先日卒園していったゆり組さんの女の子
教会学校、必ず来るから、と何度も何度も約束してくれていました
それだけに、とても残念で悔しいです
再開した時に、すでに他に楽しいこと見つけて「教会?し〜らない!」
なんてことになりませんように
イエス様、どうか彼女の心を捉え続けていてください!

2020年3月30日月曜日

ラザロの命(日曜日のお話の要約)

四旬節第5主日礼拝(2020年3月29日)
ローマの信徒への手紙8:6-11 ヨハネによる福音書11:17-27


 毎日、コロナウイルスによる死者の数が報道されています。私たちは今、命が失われることに麻痺しそうな社会状況の中にいます。こんな時だからこそ、命について、今一度信仰的に捉え直してまいりましょう。


 本日の聖書箇所に登場するラザロは、イエス様と強い愛で結ばれていました。ここでは関係性を表す「愛」にギリシャ語のアガペーが用いられています。イエス様は全てを与え、全てを失っても惜しくないほどに彼らを愛しておられたのです。
 ところがそれほど深い絆があったにも関わらず、近くにおられたはずのイエス様はラザロが危篤状態になった時、駆けつける事はなさいませんでした。
 弟子たちを伴って行動を起こされた時、ラザロはとうに墓に葬られていました。ユダヤ社会では、葬儀は1週間も続いたと言われ、親族や友人あげて非常に熱心に行われたそうです。集まった人々の中には余計なことを言う人々も必ず混じっているものです。「あんなに親しかったイエス様は、あんたらが人をやっても来なかったではないか。葬式にも来なかったし、死んで4日もたっているのに、顔も見せない、薄情ではないか」そのような会話が遺族をさらに傷つけたことは容易に想像できます。

 そんな時、イエス様がこちらに向かっていると聞いたマルタは、村の入り口まで迎えに行きます。気丈な振る舞いでしたが、その口から出たのは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という嘆きの言葉でした。
 そんな彼女にイエス様が「あなたの兄弟は復活する」と言われますと、とマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。
このマルタの言葉の真意は私たちにも理解できると思います。「私は神様を信じ、そこそこ善人として生活してきた。死んでも地獄に落ちるようなことはしていない。兄弟のラザロも同様だから、死んだら天国で会えると思う」そんな感じの、どことなくあやふやな死生観です。
 イエス様はそれを見透かしたかのように、こうおっしゃいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」
 イエス様は「信仰のあるものは死によって体が奪われても、滅びることはない」と宣言されたのです

 「このことを信じるか」は、重い問いかけです。しかしマルタは「はい、主よ」と答えます。そして続けて「あなたは神の子、メシアです」と答えるのです。これはマルタの信仰があやふやなところから大きく前進した瞬間でした。

 マルタは最初、ラザロを「見殺しにした」イエス様に

怒りを覚えていたかも知れません。けれども、「あなたの兄弟は復活する」という言葉を聞いて、何らかの形でイエス様は救ってくださるだろう、と自分の理解できる範囲で必死で納得しようとしました。

 そんな彼女に、イエス様はご自分こそが復活であり、命であるとおっしゃるのです。遠い未来でもなく、過ぎ去った過去でもなく、今、私は復活であり、命であるとおしゃったのです。マルタはその力強い言葉に打たれ、圧倒されます。そして自分がどれほどイエス様に大切にされ、愛されているかに気づくのです。

 マルタがはじめに口にした、「あなたがここにいらっしゃたら死ななかったでしょうに」というのは「イエス様、ラザロに対してあなたが奇跡を起こしてくださったら、あなたをもっと信じることができたでしょうし、もっと愛することもできたでしょう」という意味で、奇跡を見てから信じるという態度です。
 しかし、イエス様は奇跡を見せて人を驚かせて信仰に導くよりも、信仰を持った人に奇跡をなさることを喜ばれるのです。どっちも結果的には変わらないと言えば、変わらないかも知れませんが、イエス様が私たち一人一人を愛して下さっていると信じるなら、その奇跡にも愛が深まって伝わるものです。

 マルタはここでイエス様の掛け値のない愛を受け止めたからこそ、まだラザロの命の復活を見ないうちから「信じます」と言葉にすることができました。
 イエス様が私たちに求めておられるのは愛のある信仰なのです。それはイエス様御自身が私たちを愛しておられるからです。
 イエス様は私たちに永遠の命を持って共にいてほしいと願われます。私たちに語りかけ、ついてきなさい、と言われます。そんなイエス様に対して、「いえいえ、まず奇跡を見せてください、そうすればあなたを愛し、ついていきます」というのは「愛してる証拠を見せてくれたら私もあなたを愛してあげよう」という、ただの駆け引きにすぎません。

 私たちにとって「信じる」ということは大変なことです。親しい人に裏切られた経験の無い人はいないでしょう。それが辛い思い出であればあるだけ、神の子イエス様であっても、簡単に「信じます」と言うことはできないかもしれません。
 それでも、私たちがイエス様を信じられるのは、イエス様が私たちの心に直接語りかけてくださり、愛を込めて「信じなさい」と導いてくださるからです。

 現在、私たちの社会は、0.3ミクロンという小さなウィルスに翻弄され、パニック状態になっています。しかし、こういう時こそ、信仰が必要なのです。人間の力を過信し、神様よりもこの世の多くに頼りすぎていたこと。つまり神様を愛してこなかったこと、愛することが分からなかったことを悔い改める必要があります。
 そして何があろうとも、自分が神様に愛されている存在であることを信じて、自暴自棄にならないよう落ち着いて、思いやりを持って行動していくことが求められています。
 ラザロの命がイエス・キリストの元にあるように、私たち、一人一人の命も復活も、イエス様の御手の中にあるのです。信じましょう。信じてまいりましょう。



教会の駐車場脇の植え込みで
「ヒメリュウキンカ」や「ハナニラ」が咲いています
植えっぱなしのまま
冬を乗り越えて、忘れずに咲いてくれました


2020年3月28日土曜日

飯田ルーテル幼稚園・2019年度卒園式が行われました

本年度は14名の子どもたちが巣立って行きました
神様の導きと守りを祈っています

例年なら、土曜日1日かけて
卒園式や謝恩会が行われるのですが
コロナの影響で昨日から二日に分けて
「細切れ」で行われました

折も折、東京からこちらに帰省してきた青年が
感染していたとの報道があり
現場には緊張が走りました
その青年は症状が出なかったからか
飯田市内のあちらこちらに出歩いていらしたようで
その方から広がっていないことを願うばかりです

大都市から急遽帰省してこられる若者が増えることでしょう
若い方は感染しても軽く済むことが多いようですが
その方から感染が広がった先には
高齢者やハイリスクの方々がいると言うことを
強く自覚していただきたいと心から思います


卒園式の写真は都合で載せられませんので
例によって、レゴで卒園式の様子を作ってみました
これでさよならではなく
教会学校にも来てくれますように!




2020年3月24日火曜日

ひかりの子としてあゆみなさい(日曜日のお話の要約)

四旬節第4主日礼拝(2020年3月22日)
エフェソの信徒への手紙 5:8-14 ヨハネによる福音書9:1-11

 私たちは困っている人から心の内を聞かされた時「がんばりなさい」とか「なんとかなるさ」とか、気休めのような言葉を言うかもしれません。あるいは「祈ってるからね」ともよく口にしますが、本当に心から祈っているのでなければ、神様にも相手の心にも届きません。
 自分の知識をあれやこれや動員してアドバイスしようとして、知らず知らずに上から目線になってしまうことさえあります。
 大抵の場合、相手の方が求めているのはそういったことではありません。本気で寄り添ったり、親身になったりするコミュニケーションは本当に難しいものです。誰かの苦しみに本気で寄り添う方法を、私たちはイエス様から学ばなければなりません。

 今日のお話の出来事は、神殿のあるエルサレムの町で起こりました。神様の宮の近くで、目の見えない人が物乞いをしていたのです。ここならば人々が集まりますし、参拝をした後で、お金を恵んで少し善いことをした気分になるのは、よくある事でしょう。また、きっちりした社会福祉制度のない古代国家においては、物乞いに恵みを与えるのは正しいこととされていましたので、エルサレムには大勢の物乞いがいました。

 ここで弟子たちはふと思います。イエス様は常日頃から、神様は愛の方であり、祈り求める者に恵みをお与えになるという教えをいつも語ってくださっている。それなのに、神様の宮のあるエルサレムで、人の哀れみにすがりながら、やっとの事で生きている物乞いがいるのは、なぜなのだろうか。
 そこで出た質問が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」というものでした。

 イエス様は神の御子であり、神様そのものです。物乞いをしているのは神様に裁かれたりバチを当てられたりした結果ではない、と誰よりも知っておられます。イエス様の本質は、救う神であり、助ける神であり、守る神、導く神、愛の神です。イエス様が通りすがりにご覧になった光景は、本来神様の御心ではありませんでした。

 古来より、人間社会の中では、社会の役に立たない障害者は差別されて当然と言う考え方がありました。(残念ながら、現代の日本にもそういう考え方は根強くあります。)イエス様の時代のイスラエルの場合、宗教と政治が間違った形で後押しして、障害のある人々は神に捨てられた罪人と呼ばれていました。
 健常者は気まぐれに哀れみを与えることで満足し、障害者はプライドを捨てて、哀れみを受けながら生活していく、そんなシステムが成立していたのです。

 イエス様はそれをご覧になってお心を痛められると同時に、弟子たちの前で、神様の本当の御心を示そうと決意されます。
 しかしこの日は安息日でした。イスラエルの決まりによれば、この日は労働をしてはならないのです。癒しの技も同様に労働とみなされました。急を要する病人ではないのですから、翌日奇跡を行われても良かったはずです。しかし、イエス様は長い間障害と差別に苦しんできたこの男性をもう1日絶望の中に放置することはなさいませんでした。
 本日の福音書の9章4節に、招きの言葉が記されています。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。

 イエス様が地上で自由に行動なさる時間は限られていました。十字架の死を迎える前に、今、目の前にいるこの盲人に、一刻も早く光を与えることが神様の御心であると確信されたのです。
 ここで注目していただきたいのはイエス様のお言葉です。「わたしたちは、私をお遣わしになった方の業を行わなければならない」と言われています。
 ここでは共にいる弟子たちに向かって言われていますが、実際にはイエス様を信じる人々、こうして礼拝に集う全ての人々に向かって「わたしは、世にいる間、世の光だ」とおっしゃったのです。

 イエス様は2000年後に弟子となった、今ここにいる私たちに向かっても、「あなたがたは世の光だよ、私が導くのだから、あなたたちは、奇跡を信じ安心して愛の業を行いなさい。」と教えてくださっているのです。
 あなたが悲しみや苦しみのどん底にあるとき、あるいは苦しみの中にいる誰かと出会う時、イエス様が共にいると信じるあなたは、悲しみの向こうに必ず光があることを知っている、だから解決を求めて右往左往するのではなく、ただ、私に学びつつ歩みなさい、と言われるのです。
 本当の慰めは、自分の中から出るのではなく、神様から、イエス様から与えられるのだ、それを信じて歩むのが光の子だと教えておられるのです。

 私たちがイエス様の十字架を見上げるとき、完全な敗北がそこにあるように見えます。しかし同時にそこに自分の罪の赦しを見るのです。たとえ負けで終わっても、そこに神様の愛が働き、次に奇跡が起こることを私たちは信じるのです。
 人間の常識を超えた復活は神様の業です。悲劇的な結末に周りが涙しても、それで終わりではなく、必ずその向こうに光があります。
 「ひかりの子として歩みなさい」私たちは、その光を信じ、光を必要とする誰かと寄り添いながら歩んでまいりましょう。



今週の金曜日、卒園式を迎えます
同時に、当教会の代議員で、
長年園バスの運転手を務めてこられた
熊谷兄が運転手を引退されますので
記念に園バスを制作してみました
長い間、園児たちの安全登園に貢献していただき
本当にありがとうございました

2020年3月16日月曜日

イエスとサマリアの女(日曜日のお話の要約)

四旬節第三主日礼拝(2020年3月15日)
ヨハネによる福音書 4:7-15

 イスラエルの国は、紀元前900年代に北と南に分裂しました。北側が「イスラエル王国」で首都はサマリヤでした。南は「ユダ王国」で、首都は神殿のあるエルサレムでした。
 北王国イスラエルは紀元前721年に、当時の大国アッシリアに滅ぼされます。それによって血筋と宗教が入り混じった人々がサマリア人です。
 南王国ユダも紀元前500年代にバビロニア帝国との戦いに負け、人々は捕囚されますが、およそ50年の時を経て故郷に戻ることが許されます。帰還した彼らは、律法に基づいて純血のユダヤ人で神様を再建し、礼拝していくことを誓い合います。
 そんなユダヤ人の元に、サマリア人が神殿建設を手伝おうと訪れますが、ユダヤ人たちがそれを断ったことから関係が悪くなり、何百年もたちました。

 この日、イエス様一行はエルサレムからガリラヤへ帰る途中でした。行きはサマリアを迂回しましたが、帰りは「サマリアを通らなければならなかった」のです。イエス様はサマリア人の中に、救うべき魂があることを知っておられたのです。
 イエス様は正午ごろにサマリアにあるヤコブの井戸の側で、水を汲みにきたサマリア人の女性と出会います。ここは暑い国で、こんな時間に水を汲みに来る人はいません。人々は朝涼しいうちに井戸端会議の一つもしてから一日を始めます。しかしこのサマリアの女性は人目を避け、誰もいないはずの時間を選んでやってきたのです。

 イエス様は女性に声をかけ「水を飲ませてください」と言われます。イスラエルのような乾燥した国々では、旅人から水を乞われれば普通は拒否しません。しかし彼女はイエス様がユダヤ人であることを理由に、断りたいそぶりです。
 そんな彼女にイエス様は「もしあなたが「水を飲ませてください」と言ったのがだれであるか知っていたら、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」とおっしゃるのです。

 彼女の喉は渇いていなくても、彼女の心は渇いてひび割れて、素直な憐れみの心さえ持てなくなっていました。イエス様は、もしあなたが望みさえすれば、私にはあなたの渇いた心を潤してあげられるるのに、と言われたのです。

 しかし彼女はまだユダヤ人とサマリア人の宗教観の違いを持ち出してイエス様に反論します。この井戸は由緒正しい井戸でこの井戸の水も素晴らしい。それに対してイエス様は「この水を飲んでもまた喉が乾くが、私が与える水を飲んだら二度と乾かない」と言われます。もちろんイエス様が言われるのは魂と信仰の問題です。しかしそれを聞いた彼女は「もし喉が乾かない水をもらえるなら、その水をください」と反応します。
 するとイエス様は「あげるよ」とはおっしゃらず「あなたの夫をここに連れて来なさい」と言われました。

 彼女が今同居している男性は正式な夫ではありません。身勝手な男達に翻弄され、捨てられることを繰り返してきたのです。痛いところを突かれて彼女は戸惑います。彼女はここに至って、自分の心の飢え渇きを知ります。この方は尊い方だ、と気づいた彼女の言葉遣いは変わって来ました。そしてついに「キリストと呼ばれるメシヤが来られることを知っています」と口にします。自分の渇きを潤してくださるのは、この井戸の水ではなく、メシヤ、つまりキリストと呼ばれるかたである。もしかしてあなたがそうなのですか?
 それに対するイエス様のお答えは「その通りだよ」でした。
 
 彼女は大切な水瓶をそこに置いたまま、街へ飛び出していき、イエス様のことを証しします。人目を避けて水を汲みに来ていた彼女の180度変わった姿がありました。
 イエス様の救いがこのサマリアの女の人から伝わり、やがて彼女が伝えなくても、サマリアの人々は神を知るに至ったのです。

 人生の中で知らず知らず命の水を求めて渇いている時、命の水の与え主、イエス様はすぐそばにいてくださいます。サマリヤの女が、イエス様を伝えるために走っていったように、いのちの水の流れるこの教会で、すべての人がその恵を受けられるよう、この場に集う祝福を告げ知らせて参りましょう。


前回お知らせした「牧師VSゆり組」の綱引き大会
元気なゆり組にあっさり負けてしまいました
その後、先生が二人加勢してくれましたが
やっぱり負けました
もうすぐ一年生のゆり組さん、この調子で頑張れ!

2020年3月9日月曜日

イエスとニコデモ(日曜礼拝のお話の要約)

四旬節第二主日礼拝(2020年3月8日)
ヨハネによる福音書 3:1-17

 先ほど朗読していただいた3章16節の御言葉は小聖書と言われるほどの深さを持っています。この御言葉を聞いて「本当にそうだ」と納得できるなら聖書全体を理解したのと同じだとまで言われているのです。

 ここに登場する「ニコデモ」は高齢者でしたが只者ではありません。ファリサイ派の一員として、サンヘドリンと呼ばれるイスラエル最高議会の71人の中に選ばれるほどの人物でした。ニコデモは社会的に高い地位にあり、周囲の人々から尊敬され、お金の苦労もない人だったのです。
 しかし、歳を重ねて、律法通りの宗教行為を行うことに次第に気力や体力がついていかなくなったニコデモは、今の自分が本当に神の国に入れるのかと不安になります。そんなとき彼はイエス様のなさる奇跡を目の当たりにしたのでしょう、お会いして話を聞きたくてたまらなくなりました。
 とはいえ、議員であるニコデモが、自分よりずっと若く、社会的地位もないイエス様を訪ねるのは、勇気のいることです。ですからイエス様の元を訪ねるのに人目につかない夜を選んだのでしょう。
 やっとの思いでイエス様にお会いできたのもつかの間、イエス様のニコデモに対する答えは厳しいものでした。「はっきりいっておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。これはニコデモが、今までの自分の努力は無駄であったと感じられるほどの厳しい言葉でした。
 しかしイエス様の用いられた、この「新たに」という言葉は、実は「上からの」という意味でした。イエス様はニコデモに「これからは上からの、つまり神からの導きをちゃんと受けて生きていきなさい」とおしゃったのです。律法ばかりを見るのではなく、それを与えてくださった神様をこそ見上げなさい、という意味であって、「お前は赤ちゃんになれ」とか「母の胎内に戻れ」という意味ではないのです。

 皆さんはもうお分かりかと思いますが、イエス様がおっしゃったのは、何をするにも、ただ神様が中心なんですよ、というシンプルなことです。
 私たちは、何かを学ぼうとする時、もっと前からやっておけばよかったとか、生まれた時から環境が整っていた人を羨ましいとか考えます。イエス様への信仰に関しても、何かの習い事のように、もっと頭が良かったら、とか、良い牧師や良い教会に巡り合っていたら、もっと信仰深くなれたかもしれないのに、と想像したりします。
 しかしそれは自己中心的な考えなのです。神様が私たちのために用意してくださった御計画とタイミングがあります。過去を振り返って後悔やひがみで心をいっぱいにしてしまうのは馬鹿馬鹿しいのです。
 神様は私たちをずっと愛してくださっているけれど、私たちの方が神様の愛に気づくには一定のタイミングがあります。様々な苦しみや悲しみがあったからこそ、今、神様を信じる私がいるのです。
 
 ニコデモは、イエス様のなさったしるし、つまり奇跡を見て、イエス様を信じるチャンスが与えられました。
 この後、7章50節では、一方的にイエス様を逮捕しようとした議員たちに対し、「きちんと本人から事情を聴くべきだ」と弁護し、却って仲間からバカにされています。しかし19章39節では、十字架にかかって亡くなられたイエス様を、アリマタヤのヨセフと共にに墓に葬るのです。イエス様の弟子たちが恐れて逃げ去った後の事ですから、ニコデモの行動がどれほど勇気と愛に溢れていたかわかります。
 ニコデモは確かに、自分に注がれる暖かい神の眼差しを信じる者として生まれ変わったのです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためである」
 この「滅び」というのは「永遠の悲惨」という意味です。イエス様は今この瞬間も、私たちが永遠に苦しむことのないように、救いの手を差し伸べてくださっています。

 イエス様を信じて生きていこうとする者は、歳がいくつであったも生まれ変わった者なのです。互いにそれを堅く信じ、救いに生きる者として歩んでまいりましょう。




3月10日は、牧師vsゆり組14名の綱引きを行う予定です
もうすぐ卒園のゆり組さん
良い思い出になりますように
でも天気予報では雨!?




2020年3月4日水曜日

教会学校についてのお知らせ



おしらせ

コロナウイルス感染拡大防止について
3月1日の役員会で話し合いました

飯田教会はルーテル幼稚園と施設を共有しているため
施設使用などは園側の防止策に準じることとなりました
(胃腸風邪も園児間で発生しているため、さらに注意が必要です)

1)教会員は礼拝堂とトイレ以外に立ち入らないこと
 ・教会学校および分級教室として使っていた「ゆり組」教室について
  教会員は当面使用不可
 ・手洗いは奥の蓋付き便器のみ使用、蓋を閉めて水を流すこと
 ・教会員が帰宅した後、牧師夫人がトイレの消毒を行う
  (便器、ノブ、蛇口等)

2)教会学校は継続する
 ・分級教室がないため礼拝堂後方のスペースを使用する
 ・3月の土曜学校は休会とし、状況を見て再開する

3)礼拝に関して
 ・可能な限りマスク着用
 ・式文を歌わない
 ・賛美歌は短縮
 ・聖餐式は4月12日イースターまで見送る

4)3月第三週の婦人会主導の愛餐会は休止

5)イースター愛餐会は状況を見て検討する


※追加、修正は順次お知らせいたします
 1日も早く終息宣言が出されますよう共にお祈りいたしましょう





2020年3月3日火曜日

荒野の誘惑(日曜礼拝のお話の要約)

四旬節第一主日礼拝・聖餐式(2020年3月1日)
創世記3:1-7    ローマ 5:12-19 マタイによる福音書4:1-11

 ルーテル教会では、先週の灰の水曜日から始まった40日、イースターまでの日曜日を除いた40日間を受難節(レント)と呼びます。この期間、自分のように罪ある者がいつの日か天国に招いていただけるのは、イエス様のお苦しみあってのことだ、と強く心に刻むのです。

 そのような季節の始まりに、私たちは「荒れ野の誘惑」の説教を共に聞くのです。
 イエス様ほどの方が悪魔の誘惑に引っかかるはずはありません。何のためにこのようなことが書かれているのかといえば、言うまでもなく、私たちのためです。

 神様が作られた最初の人間、アダムとエバは蛇の誘惑に負け、神様と交わしたたった一つの契約「あの木の実だけは食べてはならない」と言う約束を破棄してしまいます。契約破棄の罰はエデンの園から追い出されることでした。
 しかし神様は人間を放っては置けず、イエス様によって、再契約をし、もう一度楽園に招こうとしてくださいます。それが神様がイエス様をこの世に遣わされた大きな目的です。

 この日、イエス様が荒野に導かれたのは、わざわざ悪魔から誘惑を受けるためだったと聖書にはと書かれています。勝利できることが分かっていても、40日間断食をしてお腹ぺこぺこのところに悪魔がやってきてあれこれ話しかけられるのは、イエス様といえども楽しい事ではありません。
 悪魔はまず「腹ペコなら石をパンに変えたらどうだ」とそそのかします。するとイエス様は申命記から引用して「人はパンだけで生きるものでない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と返されます。

 それを聞いた悪魔はすぐにイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と誘惑します。これが二つ目の誘惑です。
 悪魔は「あなたの信仰は立派だ、見上げたもんだ、それだけ信仰があるなら、神様が守ってくれるだろう、その証拠をみせてもらおうじゃないか」と言うわけです。

 人間である私たちは、試練をくぐり抜けた時、自分の信仰が成長したように思えます。そこに悪魔はつけこんでくるのです。そこにあるほんの少しの自惚れを悪魔は突いてくるのです。私たちは、自分の信仰を証ししようとするとき、ただ祈るだけ、というのは地味に感じられ、神様が自分の言うことを何でも聞いてくれる、と他者に対して演出したくなる誘惑に陥るのです。
 しかしそこはイエス様です。やはり申命記を用いて「あなたの神である主を試してはならない」と答えられたのです。これは、派手なことをして試さなくても、神様はいつも私とともにいてくださることは分かっている、という強い確信です。
 
 三つ目の誘惑は「俺を伏し拝めば、世の中の全てを与えよう」。
 「悪魔に魂を売る」という言葉がありますが、確かに信仰そっちのけで血も涙もない商売をすれば、この世の富を得ることができるかもしれません。しかし、この世の命が尽きるとき、そのような生き方をした者はどうなるのでしょうか。

 悪魔がこの世の富や栄誉を与える権限があったとしても、イエス様から頂く平安と、天国への希望には変えられません。悪魔から求めたりしないで、神から、イエス様から与えられることを望むのです。

 今、私たちは大きな試練の中にいます。疫病の流行のせいで、各地で混乱が起き、経済も不安定になっています。礼拝も、幼稚園も、国や役所のお達しに振り回されている感があります。けれども、イエス様はこういうことは、世に起こることになっていると聖書を通して教えられています。むしろ、こういう時こそ、み言葉に聞いて心を鎮め、イエス様に聞き、何が最善であるか祈り、従っていくことが、私たちの務めなのです。そして、そこに平安があるのです。

 私たちには、荒野の誘惑に勝利されたキリストが共にいてくださいます。私たちがたとえ敗北を感じるような時も、どんな時も、どこにいようとも、神ご自身を礼拝すること忘れないで、この出来事を大切な教訓として歩んで参りましょう。




こんな時期ですが、教会員有志と車を乗り合わせ
セツブンソウと福寿草の自生地に行ってきました
現地の福寿草祭りは中止となり
人も少なくてむしろゆっくり
鑑賞することができましたが
準備してきた地元の方は、さぞ無念でしょう

人間の右往左往に関係なく
花たちは静かに咲いていました