四旬節第二主日礼拝(2020年3月8日)
ヨハネによる福音書 3:1-17
先ほど朗読していただいた3章16節の御言葉は小聖書と言われるほどの深さを持っています。この御言葉を聞いて「本当にそうだ」と納得できるなら聖書全体を理解したのと同じだとまで言われているのです。
ここに登場する「ニコデモ」は高齢者でしたが只者ではありません。ファリサイ派の一員として、サンヘドリンと呼ばれるイスラエル最高議会の71人の中に選ばれるほどの人物でした。ニコデモは社会的に高い地位にあり、周囲の人々から尊敬され、お金の苦労もない人だったのです。
しかし、歳を重ねて、律法通りの宗教行為を行うことに次第に気力や体力がついていかなくなったニコデモは、今の自分が本当に神の国に入れるのかと不安になります。そんなとき彼はイエス様のなさる奇跡を目の当たりにしたのでしょう、お会いして話を聞きたくてたまらなくなりました。
とはいえ、議員であるニコデモが、自分よりずっと若く、社会的地位もないイエス様を訪ねるのは、勇気のいることです。ですからイエス様の元を訪ねるのに人目につかない夜を選んだのでしょう。
やっとの思いでイエス様にお会いできたのもつかの間、イエス様のニコデモに対する答えは厳しいものでした。「はっきりいっておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。これはニコデモが、今までの自分の努力は無駄であったと感じられるほどの厳しい言葉でした。
しかしイエス様の用いられた、この「新たに」という言葉は、実は「上からの」という意味でした。イエス様はニコデモに「これからは上からの、つまり神からの導きをちゃんと受けて生きていきなさい」とおしゃったのです。律法ばかりを見るのではなく、それを与えてくださった神様をこそ見上げなさい、という意味であって、「お前は赤ちゃんになれ」とか「母の胎内に戻れ」という意味ではないのです。
皆さんはもうお分かりかと思いますが、イエス様がおっしゃったのは、何をするにも、ただ神様が中心なんですよ、というシンプルなことです。
私たちは、何かを学ぼうとする時、もっと前からやっておけばよかったとか、生まれた時から環境が整っていた人を羨ましいとか考えます。イエス様への信仰に関しても、何かの習い事のように、もっと頭が良かったら、とか、良い牧師や良い教会に巡り合っていたら、もっと信仰深くなれたかもしれないのに、と想像したりします。
しかしそれは自己中心的な考えなのです。神様が私たちのために用意してくださった御計画とタイミングがあります。過去を振り返って後悔やひがみで心をいっぱいにしてしまうのは馬鹿馬鹿しいのです。
神様は私たちをずっと愛してくださっているけれど、私たちの方が神様の愛に気づくには一定のタイミングがあります。様々な苦しみや悲しみがあったからこそ、今、神様を信じる私がいるのです。
ニコデモは、イエス様のなさったしるし、つまり奇跡を見て、イエス様を信じるチャンスが与えられました。
この後、7章50節では、一方的にイエス様を逮捕しようとした議員たちに対し、「きちんと本人から事情を聴くべきだ」と弁護し、却って仲間からバカにされています。しかし19章39節では、十字架にかかって亡くなられたイエス様を、アリマタヤのヨセフと共にに墓に葬るのです。イエス様の弟子たちが恐れて逃げ去った後の事ですから、ニコデモの行動がどれほど勇気と愛に溢れていたかわかります。
ニコデモは確かに、自分に注がれる暖かい神の眼差しを信じる者として生まれ変わったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで永遠の命を得るためである」
この「滅び」というのは「永遠の悲惨」という意味です。イエス様は今この瞬間も、私たちが永遠に苦しむことのないように、救いの手を差し伸べてくださっています。
イエス様を信じて生きていこうとする者は、歳がいくつであったも生まれ変わった者なのです。互いにそれを堅く信じ、救いに生きる者として歩んでまいりましょう。
3月10日は、牧師vsゆり組14名の綱引きを行う予定です
もうすぐ卒園のゆり組さん
良い思い出になりますように
でも天気予報では雨!?
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