四旬節第4主日礼拝(2020年3月22日)
エフェソの信徒への手紙 5:8-14 ヨハネによる福音書9:1-11
私たちは困っている人から心の内を聞かされた時「がんばりなさい」とか「なんとかなるさ」とか、気休めのような言葉を言うかもしれません。あるいは「祈ってるからね」ともよく口にしますが、本当に心から祈っているのでなければ、神様にも相手の心にも届きません。
自分の知識をあれやこれや動員してアドバイスしようとして、知らず知らずに上から目線になってしまうことさえあります。
大抵の場合、相手の方が求めているのはそういったことではありません。本気で寄り添ったり、親身になったりするコミュニケーションは本当に難しいものです。誰かの苦しみに本気で寄り添う方法を、私たちはイエス様から学ばなければなりません。
大抵の場合、相手の方が求めているのはそういったことではありません。本気で寄り添ったり、親身になったりするコミュニケーションは本当に難しいものです。誰かの苦しみに本気で寄り添う方法を、私たちはイエス様から学ばなければなりません。
今日のお話の出来事は、神殿のあるエルサレムの町で起こりました。神様の宮の近くで、目の見えない人が物乞いをしていたのです。ここならば人々が集まりますし、参拝をした後で、お金を恵んで少し善いことをした気分になるのは、よくある事でしょう。また、きっちりした社会福祉制度のない古代国家においては、物乞いに恵みを与えるのは正しいこととされていましたので、エルサレムには大勢の物乞いがいました。
ここで弟子たちはふと思います。イエス様は常日頃から、神様は愛の方であり、祈り求める者に恵みをお与えになるという教えをいつも語ってくださっている。それなのに、神様の宮のあるエルサレムで、人の哀れみにすがりながら、やっとの事で生きている物乞いがいるのは、なぜなのだろうか。
そこで出た質問が、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」というものでした。
イエス様は神の御子であり、神様そのものです。物乞いをしているのは神様に裁かれたりバチを当てられたりした結果ではない、と誰よりも知っておられます。イエス様の本質は、救う神であり、助ける神であり、守る神、導く神、愛の神です。イエス様が通りすがりにご覧になった光景は、本来神様の御心ではありませんでした。
古来より、人間社会の中では、社会の役に立たない障害者は差別されて当然と言う考え方がありました。(残念ながら、現代の日本にもそういう考え方は根強くあります。)イエス様の時代のイスラエルの場合、宗教と政治が間違った形で後押しして、障害のある人々は神に捨てられた罪人と呼ばれていました。
健常者は気まぐれに哀れみを与えることで満足し、障害者はプライドを捨てて、哀れみを受けながら生活していく、そんなシステムが成立していたのです。
イエス様はそれをご覧になってお心を痛められると同時に、弟子たちの前で、神様の本当の御心を示そうと決意されます。
しかしこの日は安息日でした。イスラエルの決まりによれば、この日は労働をしてはならないのです。癒しの技も同様に労働とみなされました。急を要する病人ではないのですから、翌日奇跡を行われても良かったはずです。しかし、イエス様は長い間障害と差別に苦しんできたこの男性をもう1日絶望の中に放置することはなさいませんでした。
本日の福音書の9章4節に、招きの言葉が記されています。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」。
イエス様が地上で自由に行動なさる時間は限られていました。十字架の死を迎える前に、今、目の前にいるこの盲人に、一刻も早く光を与えることが神様の御心であると確信されたのです。
ここで注目していただきたいのはイエス様のお言葉です。「わたしたちは、私をお遣わしになった方の業を行わなければならない」と言われています。
ここでは共にいる弟子たちに向かって言われていますが、実際にはイエス様を信じる人々、こうして礼拝に集う全ての人々に向かって「わたしは、世にいる間、世の光だ」とおっしゃったのです。
イエス様は2000年後に弟子となった、今ここにいる私たちに向かっても、「あなたがたは世の光だよ、私が導くのだから、あなたたちは、奇跡を信じ安心して愛の業を行いなさい。」と教えてくださっているのです。
あなたが悲しみや苦しみのどん底にあるとき、あるいは苦しみの中にいる誰かと出会う時、イエス様が共にいると信じるあなたは、悲しみの向こうに必ず光があることを知っている、だから解決を求めて右往左往するのではなく、ただ、私に学びつつ歩みなさい、と言われるのです。
本当の慰めは、自分の中から出るのではなく、神様から、イエス様から与えられるのだ、それを信じて歩むのが光の子だと教えておられるのです。
私たちがイエス様の十字架を見上げるとき、完全な敗北がそこにあるように見えます。しかし同時にそこに自分の罪の赦しを見るのです。たとえ負けで終わっても、そこに神様の愛が働き、次に奇跡が起こることを私たちは信じるのです。
人間の常識を超えた復活は神様の業です。悲劇的な結末に周りが涙しても、それで終わりではなく、必ずその向こうに光があります。
「ひかりの子として歩みなさい」私たちは、その光を信じ、光を必要とする誰かと寄り添いながら歩んでまいりましょう。
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