2021年6月28日月曜日

神の力と出会う(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(2021年6月27日)

哀歌3章22-33節  マルコによる福音書5章21-43節


 本日の福音書はヤイロの娘のいやしの話と長血を患う女の人のいやしの話が複雑なパズルのように入り組んでいます。2つのいやしの出来事が同時に起こってしまい、弟子たちがてんやわんやの状態だったようです。


 当時、「出血が止まらない」病を負った女性は、社会だけでなく、礼拝に出ることも、人前に出ることすら許されない律法がありました。(旧約聖書レビ記15章25節)斧病に限らず、古代、原因のわからない病や、治療の見つけられない病は恐怖の対象でした。祭司や律法学者、ファリサイ人は、そういった人々を哀れむよりも、何か罪を犯したので神様の怒りを買ったのだ、と決めつけ、隔離されたり共同体から追い出したりしたのです。

 しかしイエス様は当時の人々にとっては得体の知れない病でも、奇跡の力で癒しの技を行いましたし、悪霊に取りつかれた人々や、精神的な病を負った人々も癒し、社会生活に復帰できるようになさいました。


 本日登場した女性は、どこかでそのようなイエス様の噂を聞いて、居ても立っても居られなくなったのことでしょう。彼女はこの病を治すために、長い間役に立たない治療によって苦しめられ、ますます症状が悪化し、財産さえもすっかり無くしてしまいました。彼女に関わった医者の誰かが、イエス様に取り次いでくれれば良かったのですが、彼女の周りにはそうした医者達はいなかったようです。

 このまま閉じこもっていても何も変わらない。彼女は一大決心し、人込みに紛れてイエス様の近くに行くことにしました。「イエス様の服に触れることさえできれば癒していただける」彼女はそう信じたのです。


 ちょうどその頃、ユダヤ教の会堂のリーダーであるヤイロが娘のいやしを求めて訪れ、イエス様とその弟子達と共に自分の家へと急いでいました。イエス様の噂を聞きつけた町の人々も、押し合いへし合いしながらイエス様一向について歩いていたと書かれています。

 病の女性は人混みに紛れ、後ろからそっとイエス様の服に触れます。その時、イエス様は誰かが信仰を持ってご自分に触れたことを感じ取られます。イエス様はすぐさま振り返り「私の服に触れたのは誰か」とおっしゃいました。イエス様は群衆に取り巻かれていましたから、弟子たちは「見つけることは不可能です」と言いました。

 しかし、イエス様は自分に触れた人がみつかるまで、テコでも動かないご様子でした。イエス様があくまでもご自分の服に触れた人を探し出すのにこだわられたのにはちゃんとした理由があったのです。


 イエス様は人となって地上に来られてからというもの、当時の宗教指導者が作り出した神様のイメージに悩まれました。それは掟に厳しく、間違ったものは容赦無く裁かれ、憐れみや愛などまるで感じられないような怖い存在だったからです。しかしイエス様がご存知の神様は、愛に満ち、求めるものには与え、いやし、ゆるされる神様でした。宗教指導者達の教える神様とイエス様が教えられる神様のイメージとの間にはあまりにも大きなギャップがありました。


 この女性は12年もの間、律法によって汚れている女と定められ、無能な医者にお金だけ巻き上げられ、掟に縛られて外出もままならず、礼拝に出席することなど全くできなませんでした。神様からなんらかの罰を受けたと考えられたからです。彼女は当時の社会と宗教事情の犠牲者であったとも言えます。

 しかし真実の神様は、人間の側が病や罪によって自分は汚れていると思い込んでいても、神様の方ではそんなことは全く関係ないのです。求められれば躊躇せず手を差し伸べるイエス様のお姿は、神様そのものでした。彼女はイエス様を通してまことの神様の力に出会い、癒されたのです。


 ただその場にいる人々はまだそれを知りません。彼女が神様の力によって癒されても、彼女自身が律法違反を犯して外に出たことを知られないように沈黙しているならば、これから先、偏見から自由になる保証はありません。ですからイエス様はこの場にいる全ての人々が彼女が健康になったことの証人となる必要があると思われたのです。


 こうして、彼女はイエス様の前に呼び出されますが、イエス様の意図を理解していなかったため震えながら進み出て平伏します。ただ、彼女は12年病に苦しめられたにも関わらず、誠実な信仰を保つ続けていましたから、恐る恐るイエス様と顔と顔を合わせた時、この方こそ神様だとはっきりわかりました。

 自分のような汚れた存在に触れられてもなお、優しく声をかけてくださる神様。彼女の中にあった古い神の姿は消えました。自分の目の前におられる神様は、人生の中で、失望したり無力さに苦しむ時、決して見放さない方なのだと知ったのです。彼女は病だけでなく、傷ついた魂も癒されたのでした。


 私たちの毎日は複雑なパズルのように、良いことと悪いことが組み合わさっています。自分の考えや思いとは全く異なることが起こり、がっかりしたり苦しんだりすることもしょっちゅうでしょう。

 しかし、どれほど失望しても、イエス様なら助けてくださる、いやして下さると信じるなら救われます。私たちはこれから先、「自分は救われるに値するのか」とか「誰が救われるべきか」「誰がいやされるべきか」などと無理やり人生のパズルを解こうとするのではなく、イエス様に委ね、イエス様と共に手を差し伸べる者となって歩んでまいりましょう。 




露草が涼しげに咲いています
空き地で好き勝手に増えていますが
もともとは園芸種なのでしょう
大きくて綺麗です

直射日光が当たると
あっという間にしぼんでしまうのが残念です

2021年6月21日月曜日

嵐を静める(日曜日のお話の要約)

 聖霊降臨後第4主日礼拝(2021年6月20日)
コリントⅡ6章1-2節 マルコ福音書  4章35-41節

 本日の福音書の記録は最初の弟子がイエス様に招かれて学び始めてから1年が過ぎた頃です。イエス様は、12人の弟子たちに使徒と名付けられ、特別な教育を受け始めたところでした。


 この日、夕方になっても多くの人々がイエス様を取り巻き、一向に解散する気配がありませんでした。そこでイエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言い出されます。弟子たちはその意図を理解できず、言われるままに舟を漕ぎだします。

 使徒たちの中にはイエス様に招かれるまで漁師だった者たちが多く、舟を漕ぐのは得意でした。しかし日が暮れて真っ暗な中、いつも漁をしていた岸辺とは違うところから漕ぎ出すのですから、大変なことです。例えていうなら、どんなに車の運転に慣れた人でも、街灯のない初めての田舎道を走れと言われたら心細い気持ちになるでしょう。弟子たちはなんとも頼りない気持ちになったかもしれません。


 仮に天候が変わり、嵐になったら大変なことになるのを元漁師だった弟子たちは知っていました。それでも彼らは、イエス様が共にいるなら、何とかなるだろうという気持ちで出発したのです。

 彼らは何事もなく目的地に着くことを願いましたが、嫌な予感というのは当たるもので、たちまち激しい突風が起こり、舟は波をかぶってしまします。大きな舟ではありませんから、このまま水浸しになれば沈んでしまいます。彼らは必死で水を汲み出そうとします。


 ふと見ると、イエス様は舟の奥でぐっすり眠っておられます。弟子たちはすぐさま後悔します。「なぜ、あの時、イエス様危険です」と言わなかったのだろう。「なぜ、漁師の直感を信じなかったのだろう。」「イエス様、ガリラヤ湖のことは、私たちの方がよく知っています、となぜ言えなかったのか」「こんな風に嵐で死ぬのは神様の罰なのだろうか」。

 自分たちではもはやどうすることもできない中で、弟子たちのイエス様に対する尊敬の念は消え、怒りさえ湧き上がってきました。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書にも記されていますが、比べてみますとマルコ福音書の弟子たちが、一番不遜な態度をとっています。


 危機的な状況の時、信仰が本気かどうかは、はっきりと表れます。「死にそうです。お助けください」は一番シンプルな祈りの形です。しかし、この時、マルコ福音書に記された言葉は、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という、イエス様をなじる言葉でした。彼らの気持ちを考えてみますと、共感できる気がします。

 信仰に生きる者にとって、一番恐怖を感じるのは、神の沈黙です。神が祈りに応えてくださらない。私のことなどどうでもいいと思っておられるのではないか。そう感じる時、最も信仰がぐらつくのです。


 この舟旅はイエス様のご命令で始まったことでした。自分たちは賛同したにせよ、このまま、みんな溺れ死んでしまうなら、それはイエス様の判断ミスではないか。こんな目にあわされて神様が憐れみ深い父などとよくもおっしゃったものだ。まだ舟は沈まず、誰も死んでいないのに、彼らはイエス様に恨みごとをぶつけるほどに追い込まれたのです ここではっきり分かることは、のちに弟子たちがどれほど偉大な伝道者になったとしても、最初からイエス様を完全に信じていたわけではなかった、ということです。

 しかしイエス様は弱音を吐き、不遜な言葉をぶつけてくる弟子たちを見捨てるようことはなさいませんでした。おもむろに起き上がると、弟子たちを恐怖に陥れている風に向かって、また湖の波に向かって、「黙れ、静まれ」とおっしゃいます。すると風は止み、すっかり凪になった、と福音書は伝えます。

 そして、弟子たちを怖がらせるものがすっかり過ぎ去ってから、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」とおっしゃいました。


 弟子たちがイエス様の前で犯した失態は、いつの時代にも繰り返される出来事です。どれほど信仰的と言われる人物であろうとも、想像を超えた危機に陥った時、神様に見放されたかと怯え、苦しみます。けれども、イエス様は一度弟子として招いたものたちを決して見放されません。私たちの目からは眠っておられるように見えても、その助けは決して遅すぎることはないのです。


 私たちはキリスト者の少ない日本という国で生きています。イエス様を信じていない人からキリスト教批判をされるのは日常茶飯事です。そんな時、心の中はざわつき悲しい思いをしますが、舟が転覆するほどの大嵐にはなりません。「あの人はキリストの愛を知らないのだから」と自分に言い聞かせることができるからです。

 しかし、もし教会の中でキリスト者同士がいがみ合ったりイエス様への不信を口にすれば嵐は心の中で何倍にも増幅されます。互いに「クリスチャンのくせに」とののしりあえば、同じ目的に向かって進んでいるはずの教会という舟は嵐の中で沈み始めるでしょう。


 そんな時は躊躇することなく「主よ、船が沈みそうです。お助けください」と祈ることです。「私たちの教会が壊れてもいいのですか」という、喧嘩腰の態度ではなく、謙虚にイエス様を主として祈るのです。

 今の時代、イエス様は聖書を通して私たちがいつでもどこででも御言葉を聞くことができるようにしてくださいました。不器用でも、神様の御心を行っていこうとするものたちには聖霊なる神の力と導きがあたえられます。



7月3日の土曜学校の工作は
「万華鏡」です
アクリスビーズを入れて涼しげに仕上げる予定です




2021年6月14日月曜日

この小さな種に(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(2021年6月13日)(日曜日のお話の要約)
エゼキエル書17章22-24節 マルコによる福音書4章30-34節

 皆さんもご存知と思いますが、熊本は日本福音ルーテル教会の宣教の拠点となった土地です。120年前アメリカから来た宣教師とフィンランドから来た宣教師は、宣教の一環として、それぞれに幼稚園から大学まで、教育施設を作り上げました。

 熊本での働きに一区切りつけたフィンランド宣教団体が次の宣教の拠点として信州に導かますす。熊本と飯田の宣教規模は大きく違うものの、その精神はよく似ています。下伊那で一番古い幼稚園、飯田ルーテル幼稚園は熊本での働きを終えた宣教師の先生方によって種を撒かれたのです。


 熊本においても、飯田においても、日本福音ルーテル教会は、宣教をしながら虐げられた女性の権利を守るために戦いました。飯田では、教会に逃げてきた女性をかくまったところ、彼女を連れ戻すためにやくざ日本刀を振り回し脅してき来て、その相手を宣教師の先生が追い払ったという逸話があります。宣教師たちは命の危機にさらされながら、裏社会に追いやられた女性たちが人として生きられる社会を作ろうと懸命に働いたのです。


 今、日本社会は男だとか女だとかにこだわらない社会へと大きく舵を切ろうとしています。かつて弱い立場に置かれた女性たちを必死で守った信仰を、今の教会も引き継ぐ必要があります。LGBT(性的少数者)の問題は見て見ぬ振りをすることはできません。

 幼稚園のでは、今年から卒園式や入園式などの公式の場では、男の子には「君」、女の子には「ちゃん」と呼び分けるのをやめ、全員「さん」と呼びましょう、と取り決めました。些細なことと思われるかもしれませんが、この園にも心の性と体の性の違和感に悩む園児が存在しているかもしれません。小さき者を守るという精神は飯田ルーテル幼稚園でしっかり守られ、教会はそれを誠実にバックアップしていく必要があります。


 本日読みました福音書「からし種のたとえ」は、神の国についてイエス様がお話なさった箇所ですが、聞く力が弱ければどう理解して良いのかわからないお話しでもあります。イエス様ご自身、弟子たちに向かって「一般の人々にはわかりにくいだろう」という意味のことをおっしゃっています。

 この「からし種」のたとえを私たちの教会に当てはめるならば、宣教の始まりに、虐げられた人と命をかけて関わり、教育していった、それこそが大切な種まきであった、ということです。神様から与えられた使命感こそが「種」であり、それが教会にまかれ芽を出したのです。ですから現在の教会というのはその種が成長した状態であるはずです。


 振り返るなら、飯田に蒔かれた小さな種は確かに育ち、110年の年輪をもつ大木となりました。幼児教育を通して園児、保護者、そして社会から信頼を受けています。ただこの建物は、国の耐震基準を満たしていないと指摘されています。この場で幼児教育と伝道を続けて行くなら早急に建て直さなければなりません。重たい使命ですが、素晴らしい使命でもあります。

 小さな種がなぜ大木のように育つことができるのかといえば、小鳥のような弱い生き物が安心して住処にし、生きることを神様自身が望んでおられるからです。私たちが神様のみ心を行おうと祈り、努力を重ねるならどれほど小さな種からでも、豊かなものを生み出すことは必ずできます。


 小さなからし種は土に落ちてこそ、成長段階に入ります。机の上においたままでもポケットの中に入れたままでも、発芽、成長することはありません。それは聖書も同じです。机や本棚の置いたまま、いくら背表紙を眺めても、聖書と書いてある文字が見えるだけで、そこからイエスさまのお話は聞こえて来ません。しかし、すぐには理解できなくても、眠気が襲ってくるとしても、日々読むことによって、心が神様の語りかけに反応してくるものなのです。あなたの心の中にある土にイエス様のみことばという種が蒔かれた時、命は輝き始めます。


 かつてイスラエルに行った時、からし種の花を見たことがあります。一輪一輪は菜の花のようで派手さのない花ですが、その花が群生しているのを見たときの事は今も忘れられません。

 その日、私たち一行はガリラヤ湖を渡る船に乗り込み、遊覧しました。その日は風の強い日で、雷が鳴り、雹やあられも降っていました。遊覧中止かと思いましたが、西の空が若干明るく雲が流れていました。

 時間と共に雲の隙間から日差しの強い太陽の光が差し込み始めました。するとガイドの方が「あの辺にからしだねを植えている畑があります」と指を指しました。そちらの目を向けるとそこはすでに雲が切れて日向になっており、その日差しに照らされて黄色い花が一面に咲いていました。それは陽の光に照らされて、一斉に咲いたかのように見えました。それは見事な光景でした。


 今、私たちに与えられている役目は、教会が神の国であることを守り、神の国に相応しい場所として整えていく事です。これから先、学校法人化するのを機会に建物を全改築します。来年から大きな工事に取り掛かる予定ですが、みなさんと共にみ言葉と結びついた信仰を持って、この小さな種から、立派な神の国を作っていくことに、心を砕いて参りましょう。考えていくこと、悩んでいくことも沢山ありますが、一切のことをキリストの為、教会の為、隣人の為に行ってまいりましょう。




隣の空き地に昨年植えたモナルダが

美しく咲きました

モナルダという名称の他にも松明花(タイマツバナ)

ベルガモット、ヤグルマハッカなどなど

様々な呼び名があるそうです

芳香があり、ハーブに分類されるようです


華やかなハーブです

咲き始めはこんな感じです
面白い形ですね

咲き始めてから2日くらいで
整った姿になります

ドクダミの花も一緒に咲いています(^^;)

2021年6月7日月曜日

神の御心を行うために(6月6日のお話の要約)

 聖餐式・聖霊降臨後第2主日礼拝(2021年6月6日)
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16-18節 マルコ福音書3章31-35節

 聖書の4つの福音書全てに「イエス様がよみがえられたのは週の初めの日の朝早くだった」と書いてあります。日曜日はリセットの日であるとも言えます。6日の間、人間の方が神様を忘れても、神様は一人一人を気にかけてくださっています。ですから、せめて週に一度、神様が確かに一緒に居てくださったことを思い出し、感謝し、心を神様に向けて1日を過ごし、元気を取り戻す。神様ご自身がそう定めてくださったのが礼拝の日なのです。

 しかし、長い年月をかけて礼拝が儀式として洗練されていきますと、むしろ儀式に執着するあまり、人間たちは礼拝本来の意味を少しずつ見失い、宗教リーダーたちが作り出した「きちんとした礼拝スタイル」を守ることが神様に喜ばれることなのだ、と思うようになります。
 やがて民衆は自分で信仰的判断ができなくなり、特権階級とでもいうべき祭司達に頼るしかなくなります。もし勘違いした信仰者がリーダーになってしまえば、どんどん間違った方向に暴走し始めます。それに利害が絡み、政治的思惑が入り込むなら、一般の人々が「方向性が違うかも」と気付いた時には手遅れで、権力者たちの行動をを止めることはとてつもなく難しくなってしまうのです。神の名前を使って戦争をしている人々が世界中にいるのはそういうことなのでしょう。

 この世界を作った創造主である神は、遠い昔、旧約聖書のノアの時代に、この世界を創ったこと、ことに人間を創ったことを後悔されました。そして地上の人間を全て滅ぼそうとお考えになりました。しかし、ただノアだけは神様のみこころに敵う無垢な人物だったため、その家族とともに神様に選ばれました。
 ノアとその家族が箱舟を作り始めた時、周りの人々は彼らを嘲笑ったことでしょう。完成するまでの間、そうとう嫌な思いもしたでしょう。しかしノア達は神様のお告げを信じて取り組み、決して投げ出さずに箱舟を作り上げ、多くの動物達とともに命を救われます。こうしてノアの息子達セム、ハム、ヤフェトは今の人間の先祖となった、と聖書は告げます。

 そのようなわけで、この世に存在する人間は、神様を信じて行動した結果として今、命が与えられているわけです。ですから、私たち全ての人間は、神がどのような世界を望んでおられるのか、心の奥の奥では、漠然と分かっているはずなのです。
 イエス様は神様の御子ですから100パーセント神様の御心を知り、行うことができました。イエス様がおっしゃることやなさることを信仰を持って見つめるならば、神様のみこころがわかるはずでした。ヨハネ福音書の中でイエス様は「私を見た者は、父を見たのだ」と言われました。本当にその通りだったのです。

 しかし、本日のマルコ福音書31節では、イエス様の母マリアや兄弟達がイエス様を呼びに来ていますが、その少し前のところ21節にひどい記述があります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれているのです。イエス様を家族として愛しているマリアや兄弟がこんな風でした。
 イエス様の弟子達はもう少しイエス様のことを理解していましたが、皆さんもご存知の通り、十字架にかかって3日目に蘇る、というお言葉を真に受けたものは誰一人いませんでした。イエス様を尊敬してやまない12弟子でさえもこの有様だったのですから、当時の為政者がイエス様の存在を素直に受け入れるはずはありません。彼らは自分のプライドと保身のためにイエス様を排除しようとし、それに失敗したため、十字架にかけてそのお命を奪ったのです。 

 もちろん全ては神様のご計画であり、イエス様ご自身も地上に生まれられる以前から全てを納得されておられました。しかしそれはあまりにも厳しい歩みでした。
 私たちキリスト者はイエス様の生き方に倣って歩むよう神様から促されています。しかし聖書は「神様のみ心を行うのは簡単なことではない」と伝えます。「覚悟がいるぞ」「それでもやれるか?」そんな風に語りかけているようにさえ思えます。
  クリスチャンとして毎日が充実しているなら良いのですが、何かにつまずいた時、日曜日にわざわざ疲れた体を引きずって、教会の交わりに出る必要なんか無いのではないか。そう思うこともあるでしょう。それでも私たちは一度きりの人生であります。日本という国で神様に招かれたからには、教会を通して、信仰を通して、自分にもできることがある、とプラス思考で考えた方がずっと楽しいと私は思うのです。

 今、この世界にノアの時代のような大洪水はこないかもしれません。しかし、この1年、コロナ禍にあって、私たちは社会の歪みについて様々なことを考えさせられました。また、身近な園のことに於いても、コロナに翻弄されながら奮闘する先生たちを見守る機会を与えられました。
 この園では肉体的には健常な園児に見えても、様々な発達障害を持つ子ども達を受け入れています。ここに断られたら幼児教育を受けさせる場がない、とまで追い詰められている家族もいます。私たちは神様が愛を持ってこの子たちをこのキリスト教教育の場に集められたことを知っています。私たちは幼稚園の先生ではありませんから直接関わる機会は多くありませんが、愛の心を発揮していく機会はこれからもたくさんあるでしょう。

 激務に疲れた先生方や心配で押し潰され困難な状況に置かれた家族に誇りを持ってイエス様を伝え、祈りを持って支えながら共に歩んでいきましょう。日曜礼拝を共にするチャンスは年に数回しかなくても、神様がいつも一緒だと伝えていきましょう。
 ここに、この地に、神様の御心を行う私たちがいる。その役割を果たすために、大切な週末に聖書の学び、キリストを手本し、祈りと悔い改めと感謝の日々を重ねて参りましょう。


6月5日の土曜学校の工作は
本物のひょうたんを使ったランプ作りでした



ひょうたんにあらかじめ小さな穴を開けておきました
その穴をドライバーを使って広げます




まずは千本引きでひょうたんを引き当てるところから
どんな大きさが当たっても恨みっこなし


特大が当たってご満悦のYちゃん


男子グループ完成披露(^^)

一番小さいMちゃんは年中クラス
でも最後まで頑張りました

おしゃれなひょうたん3人衆

Sくんも年中さん
お姉ちゃんのひょうたんより
ずいぶん小さいのが当たって
最初はご機嫌斜めでしたが
最後まで作り終えました
個性豊かな作品になりましたよ


穴あけの後はカラー粘土を使って
ひょうたんを飾ります
みんな時間オーバーするくらい頑張りました

最後は小さなLEDライトを一つずつお土産に持って帰ります
暗くなったらひょうたんの中に入れて
灯してみてくださいね