聖餐式・聖霊降臨後第2主日礼拝(2021年6月6日)
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16-18節 マルコ福音書3章31-35節
コリントの信徒への手紙Ⅱ4章16-18節 マルコ福音書3章31-35節
聖書の4つの福音書全てに「イエス様がよみがえられたのは週の初めの日の朝早くだった」と書いてあります。日曜日はリセットの日であるとも言えます。6日の間、人間の方が神様を忘れても、神様は一人一人を気にかけてくださっています。ですから、せめて週に一度、神様が確かに一緒に居てくださったことを思い出し、感謝し、心を神様に向けて1日を過ごし、元気を取り戻す。神様ご自身がそう定めてくださったのが礼拝の日なのです。
しかし、長い年月をかけて礼拝が儀式として洗練されていきますと、むしろ儀式に執着するあまり、人間たちは礼拝本来の意味を少しずつ見失い、宗教リーダーたちが作り出した「きちんとした礼拝スタイル」を守ることが神様に喜ばれることなのだ、と思うようになります。
やがて民衆は自分で信仰的判断ができなくなり、特権階級とでもいうべき祭司達に頼るしかなくなります。もし勘違いした信仰者がリーダーになってしまえば、どんどん間違った方向に暴走し始めます。それに利害が絡み、政治的思惑が入り込むなら、一般の人々が「方向性が違うかも」と気付いた時には手遅れで、権力者たちの行動をを止めることはとてつもなく難しくなってしまうのです。神の名前を使って戦争をしている人々が世界中にいるのはそういうことなのでしょう。
この世界を作った創造主である神は、遠い昔、旧約聖書のノアの時代に、この世界を創ったこと、ことに人間を創ったことを後悔されました。そして地上の人間を全て滅ぼそうとお考えになりました。しかし、ただノアだけは神様のみこころに敵う無垢な人物だったため、その家族とともに神様に選ばれました。
ノアとその家族が箱舟を作り始めた時、周りの人々は彼らを嘲笑ったことでしょう。完成するまでの間、そうとう嫌な思いもしたでしょう。しかしノア達は神様のお告げを信じて取り組み、決して投げ出さずに箱舟を作り上げ、多くの動物達とともに命を救われます。こうしてノアの息子達セム、ハム、ヤフェトは今の人間の先祖となった、と聖書は告げます。
そのようなわけで、この世に存在する人間は、神様を信じて行動した結果として今、命が与えられているわけです。ですから、私たち全ての人間は、神がどのような世界を望んでおられるのか、心の奥の奥では、漠然と分かっているはずなのです。
イエス様は神様の御子ですから100パーセント神様の御心を知り、行うことができました。イエス様がおっしゃることやなさることを信仰を持って見つめるならば、神様のみこころがわかるはずでした。ヨハネ福音書の中でイエス様は「私を見た者は、父を見たのだ」と言われました。本当にその通りだったのです。
しかし、本日のマルコ福音書31節では、イエス様の母マリアや兄弟達がイエス様を呼びに来ていますが、その少し前のところ21節にひどい記述があります。「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれているのです。イエス様を家族として愛しているマリアや兄弟がこんな風でした。
イエス様の弟子達はもう少しイエス様のことを理解していましたが、皆さんもご存知の通り、十字架にかかって3日目に蘇る、というお言葉を真に受けたものは誰一人いませんでした。イエス様を尊敬してやまない12弟子でさえもこの有様だったのですから、当時の為政者がイエス様の存在を素直に受け入れるはずはありません。彼らは自分のプライドと保身のためにイエス様を排除しようとし、それに失敗したため、十字架にかけてそのお命を奪ったのです。
もちろん全ては神様のご計画であり、イエス様ご自身も地上に生まれられる以前から全てを納得されておられました。しかしそれはあまりにも厳しい歩みでした。
私たちキリスト者はイエス様の生き方に倣って歩むよう神様から促されています。しかし聖書は「神様のみ心を行うのは簡単なことではない」と伝えます。「覚悟がいるぞ」「それでもやれるか?」そんな風に語りかけているようにさえ思えます。
クリスチャンとして毎日が充実しているなら良いのですが、何かにつまずいた時、日曜日にわざわざ疲れた体を引きずって、教会の交わりに出る必要なんか無いのではないか。そう思うこともあるでしょう。それでも私たちは一度きりの人生であります。日本という国で神様に招かれたからには、教会を通して、信仰を通して、自分にもできることがある、とプラス思考で考えた方がずっと楽しいと私は思うのです。
今、この世界にノアの時代のような大洪水はこないかもしれません。しかし、この1年、コロナ禍にあって、私たちは社会の歪みについて様々なことを考えさせられました。また、身近な園のことに於いても、コロナに翻弄されながら奮闘する先生たちを見守る機会を与えられました。
この園では肉体的には健常な園児に見えても、様々な発達障害を持つ子ども達を受け入れています。ここに断られたら幼児教育を受けさせる場がない、とまで追い詰められている家族もいます。私たちは神様が愛を持ってこの子たちをこのキリスト教教育の場に集められたことを知っています。私たちは幼稚園の先生ではありませんから直接関わる機会は多くありませんが、愛の心を発揮していく機会はこれからもたくさんあるでしょう。
激務に疲れた先生方や心配で押し潰され困難な状況に置かれた家族に誇りを持ってイエス様を伝え、祈りを持って支えながら共に歩んでいきましょう。日曜礼拝を共にするチャンスは年に数回しかなくても、神様がいつも一緒だと伝えていきましょう。
ここに、この地に、神様の御心を行う私たちがいる。その役割を果たすために、大切な週末に聖書の学び、キリストを手本し、祈りと悔い改めと感謝の日々を重ねて参りましょう。
6月5日の土曜学校の工作は
本物のひょうたんを使ったランプ作りでした
ひょうたんにあらかじめ小さな穴を開けておきました
その穴をドライバーを使って広げます
まずは千本引きでひょうたんを引き当てるところから どんな大きさが当たっても恨みっこなし |
特大が当たってご満悦のYちゃん |
男子グループ完成披露(^^) |
一番小さいMちゃんは年中クラス でも最後まで頑張りました |
おしゃれなひょうたん3人衆 |
Sくんも年中さん お姉ちゃんのひょうたんより ずいぶん小さいのが当たって 最初はご機嫌斜めでしたが 最後まで作り終えました 個性豊かな作品になりましたよ |
穴あけの後はカラー粘土を使って
ひょうたんを飾ります
みんな時間オーバーするくらい頑張りました
最後は小さなLEDライトを一つずつお土産に持って帰ります
暗くなったらひょうたんの中に入れて
灯してみてくださいね
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