聖霊降臨後第5主日礼拝(2021年6月27日)
哀歌3章22-33節 マルコによる福音書5章21-43節
本日の福音書はヤイロの娘のいやしの話と長血を患う女の人のいやしの話が複雑なパズルのように入り組んでいます。2つのいやしの出来事が同時に起こってしまい、弟子たちがてんやわんやの状態だったようです。
当時、「出血が止まらない」病を負った女性は、社会だけでなく、礼拝に出ることも、人前に出ることすら許されない律法がありました。(旧約聖書レビ記15章25節)斧病に限らず、古代、原因のわからない病や、治療の見つけられない病は恐怖の対象でした。祭司や律法学者、ファリサイ人は、そういった人々を哀れむよりも、何か罪を犯したので神様の怒りを買ったのだ、と決めつけ、隔離されたり共同体から追い出したりしたのです。
しかしイエス様は当時の人々にとっては得体の知れない病でも、奇跡の力で癒しの技を行いましたし、悪霊に取りつかれた人々や、精神的な病を負った人々も癒し、社会生活に復帰できるようになさいました。
本日登場した女性は、どこかでそのようなイエス様の噂を聞いて、居ても立っても居られなくなったのことでしょう。彼女はこの病を治すために、長い間役に立たない治療によって苦しめられ、ますます症状が悪化し、財産さえもすっかり無くしてしまいました。彼女に関わった医者の誰かが、イエス様に取り次いでくれれば良かったのですが、彼女の周りにはそうした医者達はいなかったようです。
このまま閉じこもっていても何も変わらない。彼女は一大決心し、人込みに紛れてイエス様の近くに行くことにしました。「イエス様の服に触れることさえできれば癒していただける」彼女はそう信じたのです。
ちょうどその頃、ユダヤ教の会堂のリーダーであるヤイロが娘のいやしを求めて訪れ、イエス様とその弟子達と共に自分の家へと急いでいました。イエス様の噂を聞きつけた町の人々も、押し合いへし合いしながらイエス様一向について歩いていたと書かれています。
病の女性は人混みに紛れ、後ろからそっとイエス様の服に触れます。その時、イエス様は誰かが信仰を持ってご自分に触れたことを感じ取られます。イエス様はすぐさま振り返り「私の服に触れたのは誰か」とおっしゃいました。イエス様は群衆に取り巻かれていましたから、弟子たちは「見つけることは不可能です」と言いました。
しかし、イエス様は自分に触れた人がみつかるまで、テコでも動かないご様子でした。イエス様があくまでもご自分の服に触れた人を探し出すのにこだわられたのにはちゃんとした理由があったのです。
イエス様は人となって地上に来られてからというもの、当時の宗教指導者が作り出した神様のイメージに悩まれました。それは掟に厳しく、間違ったものは容赦無く裁かれ、憐れみや愛などまるで感じられないような怖い存在だったからです。しかしイエス様がご存知の神様は、愛に満ち、求めるものには与え、いやし、ゆるされる神様でした。宗教指導者達の教える神様とイエス様が教えられる神様のイメージとの間にはあまりにも大きなギャップがありました。
この女性は12年もの間、律法によって汚れている女と定められ、無能な医者にお金だけ巻き上げられ、掟に縛られて外出もままならず、礼拝に出席することなど全くできなませんでした。神様からなんらかの罰を受けたと考えられたからです。彼女は当時の社会と宗教事情の犠牲者であったとも言えます。
しかし真実の神様は、人間の側が病や罪によって自分は汚れていると思い込んでいても、神様の方ではそんなことは全く関係ないのです。求められれば躊躇せず手を差し伸べるイエス様のお姿は、神様そのものでした。彼女はイエス様を通してまことの神様の力に出会い、癒されたのです。
ただその場にいる人々はまだそれを知りません。彼女が神様の力によって癒されても、彼女自身が律法違反を犯して外に出たことを知られないように沈黙しているならば、これから先、偏見から自由になる保証はありません。ですからイエス様はこの場にいる全ての人々が彼女が健康になったことの証人となる必要があると思われたのです。
こうして、彼女はイエス様の前に呼び出されますが、イエス様の意図を理解していなかったため震えながら進み出て平伏します。ただ、彼女は12年病に苦しめられたにも関わらず、誠実な信仰を保つ続けていましたから、恐る恐るイエス様と顔と顔を合わせた時、この方こそ神様だとはっきりわかりました。
自分のような汚れた存在に触れられてもなお、優しく声をかけてくださる神様。彼女の中にあった古い神の姿は消えました。自分の目の前におられる神様は、人生の中で、失望したり無力さに苦しむ時、決して見放さない方なのだと知ったのです。彼女は病だけでなく、傷ついた魂も癒されたのでした。
私たちの毎日は複雑なパズルのように、良いことと悪いことが組み合わさっています。自分の考えや思いとは全く異なることが起こり、がっかりしたり苦しんだりすることもしょっちゅうでしょう。
しかし、どれほど失望しても、イエス様なら助けてくださる、いやして下さると信じるなら救われます。私たちはこれから先、「自分は救われるに値するのか」とか「誰が救われるべきか」「誰がいやされるべきか」などと無理やり人生のパズルを解こうとするのではなく、イエス様に委ね、イエス様と共に手を差し伸べる者となって歩んでまいりましょう。
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