2019年9月24日火曜日

不正な管理人のたとえ(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(緑) (2019年9月22日)
コヘレト8:10-17 Ⅰテモテ 2:1-7 ルカ16:1-13

 本日の福音書箇所は、イエス様の例え話の中でもかなり難解だと言われています。イエス様が「不正もOK」と勧められているように読めて、驚いてしまいす。

 この不正な管理人の話には、ちょっとした仕掛けがあります。不正な管理人の前に記されている「放蕩息子の例え」と「不正な管理人の例え」はセットになっているのです。それを心に留めて読んでみましょう。

 まず「放蕩息子の例え」は「自分たちは不正を行っていない」と自負しているファリサイ人や律法学者に向かって語られました。
 「放蕩息子の例え」は、ボロボロになって帰ってきた弟息子をお父さんが暖かく迎え入れてくれて、めでたしめでたし、ではありません。この様子を見た兄息子が父親に不平を言うのです。
 さらっと読んだだけですと、真面目な兄息子にはもっと報いがあっていいではないか、と思うことでしょう。真面目を自負するファリサイ人や律法学者にとっては受け止め難い例え話でした。
 しかし、イエス様は、真面目に生きる者が神様に多く愛される、とはおっしゃいません。むしろ自分なんて愛される資格のない出来損ないだと思う人が神様の愛を頼ってきたとき、その悔い改めた心を神様は非常に喜ばれる、とお話ししてくださるのです。

 その上で、今度はイエス様は、ファリサイ人や律法学者だけではなく、弟子たちにも向かって新たに例え話を始められます。つまり「不正な管理人の話」は、弟子たちにこそ、聞かせ、教えておきたいと思われたことだったのです。

 この管理人は大金持ちの主人のもとで、全ての権限を任され、財産を管理しています。しかし誰かが、「管理人が無駄遣いしている」と主人に告げ口します。
 管理人は主人に呼び出され、会計報告を出すように命じられます。管理人一筋だった彼は、ここをクビになったら生きていく方法がありません。その時彼が思いついたのは、残されたわずかな時間に、主人に借りがある人々を呼び集めて負債を軽くして恩を売り、友人となっておくことでした。こうすればいよいよ職を失った時、助けてもらえるに違いない、彼はそう考え、実行に移すのです。
 全てが明るみに出た時、主人はこの管理人の「抜け目のないやり方を褒めた」というのです。「こいつ、なかなかやりおるわい」というところでしょうか。

 原文を読みますと、イエス様はここで話を一旦締めくくっておられます。そこから分かるのは、イエス様は「友人を作るために上手に嘘をつくことを勧めておられる」のではない、ということです。
 イエス様はここで、この管理人が「これ以上ないほど賢く立ち回った」と語られたのです。言うなれば、この管理人はこの世において要領良く立ち回る人の典型、「この世の子ら」の代表ともいうべき存在なのです。

 「状況を見て賢く立ち振る舞う」。これはこの当時、弟子たちに大いに欠けていたことでした。弟子たちは素朴で純粋な心を持っている人々でした。イエス様のことを尊敬し、愛し、慕い、必死で学び、真似をし、失敗を繰り返しながらもどこまでもついて行こうとしました。そんな弟子たちを、イエス様は「光の子ら」と呼んで愛されたのです。
 その上で、「光の子ら」には大きな弱点があることを指摘されます。教えに従って必死になるあまり、世の中の計算高い人々に足をすくわれてしまうのです。

 この世の中で賢く生きる人々は、上手に計算して人脈を作り、うまい話は見逃さず、うますぎる話は疑って、不要な損失を防ぎます。柔軟性があるのです。

 しかし「光の子」つまり弟子たちは、人を疑うことは悪だと思い込んでは騙され、信仰のない人と親しい友人になることを拒んでは伝道の機会を失い、挙句にずる賢い人たちに騙されたり、そうかと思うと自分の正義を同じ信仰の仲間に押し付けて、群れの中ですら傷つけ合っています。早い話、自分の信念を曲げられない頑固者になりやすいのです。
 この違いが「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている。」という意味なのです。

 『積極的に悪事に手を染めろとは言わない。しかし、結果的にそうなってしまってボロボロになったとしても、悔い改めて帰って来るなら私は赦して受け止める。』
 イエス様がそう言われる「放蕩息子のお話」、その前提をしっかり信じた上で、「清く正しく、間違わず」だけを信仰生活の目標とするのではなく、確かな判断力を持って矛盾だらけのこの世の中を切り抜けながら、新しい仲間を増やしなさい(伝道しなさい)。ここにはイエス様のその強いメッセージが込められているのです。


 私たちはイエス様に愛されている「光の子」です。だからこそ、「素直に、けれども賢く」(蛇のように賢く、鳩のように素直に・マタイによる福音書10章16節)生きていくことを、神様ご自身から求められているのです。


産直のお店に林檎がたくさん並び始めました
初めて見る品種がいっぱいで
片端から試食したくなってしまいます


2019年9月17日火曜日

私を見つけて下さる神(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(緑) (2019年9月15日)
出エジプト32:7-14 Ⅰテモテ 1:12-17 ルカ15:1-10


 今日の福音書でイエス様が語ってくださる「見失った羊」も「失くした銀貨」も、さらにはそれに続く「放蕩息子」のたとえ話も、「見つけてくださる神」という思いを込めて、イエス様は語っておられます。イエス様がここで三つの例えを通しておっしゃりたい事は「神様はあなたを見つけてくださる方である」ということなのです。

 著者のルカという人物はユダヤ人でもなければイスラエルに住んでいたわけでもありません。ユダヤ人宣教者パウロが地中海沿岸で伝道活動をしていたとき出会い、「異邦人クリスチャン」となった人です。そして「見出された異邦人」として聖書の教えを説き明かす人となりました。
 ユダヤ人は誰でも旧約聖書の知識があり、イエス様の御言葉の深い意味を理解しやすい立場にありましたが、異邦人はなかなかそうはいきません。しかし、そのような人々でもイエス様が神の子・救い主であることや、神様が私たちをどれほど愛しているかということを、できるだけわかりやすく理解できるように、ルカは自分の福音書に工夫を凝らしたのです。
 ルカは、イエス様の言われた「あなたを見つける」というテーマに関して、百匹の羊の群れから迷い出た一匹の羊の話だけでなく、失われた一枚の銀貨を見つかるまで探す女の人の話、そして、有名な放蕩息子の話へと、これならわかるか、これならピンと来るか、とたたみかけていくのです。

 羊にしろ、お金にしろ、人間にしろ、誰がこれほどまで熱心に探し、誰がこれほどまでに喜んでいるのかと言うと、その持ち主なのです。見つけられた側ではなく、持ち主、つまり神様がこれほどまでに喜ぶことを、ルカは伝えたかったのです。神様がイエス様を遣わしてくださり、必死で探してくださった結果として、あなたはここにいるのだよ、と強く強く伝えたかったのです。

 ところで、イエス様がなぜこの例え話をされた時の状況を、ルカは詳しく書き記しています。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」
 ここに書かれている「徴税人や罪人」というのは、ユダヤ社会においては神様に見捨てられた人々という意味があります。一緒にいると汚れが移る、だからこいつらとは一緒に食事をしない。ファリサイ派の人々や律法学者たちエリートはそう考えていました。
 「異邦人」という言葉はここにありませんが、異邦人もまた、ファリサイ派の人々や律法学者たちは一緒に食事をしませんでした。彼らにとって、それが当然だったのです。そういう意味において、徴税人や罪人と異邦人は同列だったわけです。
 この辺りをルカは意識して書いたとも考えられます。

 この姿は、そのままルカたち異邦人のクリスチャンとユダヤ人クリスチャンの図式に当てはまるのです。初期の教会において、ユダヤ人クリスチャンたちの中には、古いユダヤ人の考え方が捨てられず、異邦人クリスチャンに対して先輩風を吹かせ、上から目線でものを言ったり、差別したりする様子が随所に見られたのです。
 本当はどちらもイエス様によって見出された、大切な存在です。それなのに教会の中は民族の違いが元で一つにならずにギクシャクしているのです。ルカは指導者の一人としてなんとかしたいと考え、その思いを込めてこの記事を書いたのでしょう。
 もし私たちの教会でこの様なことが起起きた場合、一番悲しむのは、私たちを集めてくださったイエス様であることを覚えておきましょう。

 最後に、あまり取り上げられることのない「失くした銀貨」の例えに触れておきましょす。
 この女の人は死に物狂いでこの銀貨を探しています。ある注解書には、「彼女は欲しいものがあった」と記されていました。それは一点もので、他の人に買われてしまったら2度と手に入らない。それなのに不覚にも落としてしまった。ランプをつけて、必死で家中探してようやく見つかった。そんな様子が描かれています。
 もし1枚でも足りなければ、決して手に入れることができない。つまりここでは10枚はワンセットであることが強調されているのです。
 イエス様が見出し、集めてくださった私たちはワンセットであり、ワンセットでようよう神様の働きができる存在だから、一人として欠けてはいけない、という教えが込められているのです。

 教会においては一人一人、どの人も不必要な人ではないのです。能力が優先される世の中にあって、教会は決してそれに影響されることなく、私たち一人一人が神様によって探され、見つけられた者であり、見つけた時には天使たちも喜びに沸くのだ、と感じ取ることが大切なのです。
 神様の宝として見いだされた私たちは、さらに集まって、神様が願っておられるもの、地上における神の国の実現に向けて働きを続けていくのです。


古いブロック塀が撤去され
新しいフェンスのお目見えです
少し濃いめのペパーミントグリーン?
全体が出来上がるのはもう少し先ですが
なかなか明るく、良い感じになりそうです


2019年9月11日水曜日

弟子の条件(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第13主日礼拝(緑) (2019年9月8日)
申命記29:1-8 フィレモン 1-25 ルカ14:25-33

 イエス様はご自分に従いたいと願う人々に、弟子の条件を突きつけられます。それはぱっと見、決して厳しい条件とは思えないものでした。どんな時も「私を選ぶか」という、ただそれだけなのであります。が、この条件をきちんと満たそうとすると、どれくらい大変か、弟子となってみて始めてわかるものなのです。

 キリスト教は誰か他人に強制されて信じるものではありませんし、「来るもの拒まず、去る者追わず」というところがあるのは事実です。しかしそこのところを自分に都合良く解釈し、すり替えてしまっているのかも知れないのです。自分の都合が良い時だけ信徒として振る舞い、都合が悪くなると信仰を引っ込めてしまう。イエス様はこういう曖昧な態度をこそ、憎めとおしゃったのです。

 憎めという言葉は、とても強い言葉ですが、元々の言語と合わせて訳してみると、「より少なく愛する」という意味になります。これは「イエス様のもとに来たなら、他に気を取られて上の空になるな」というメッセージなのです。

 「憎む」とは、人間関係や仕事関係を、全て信仰の為に否定し拒絶しろということではありません。仏教の始祖ゴータマ・シッダールタはコーサラ国という国の王子で、妻も子もありながら、全部捨て去って出家し、悟りの道に入ったそうですが、宗教に入るというと、なんとなくそういう心の状態が求められると思われがちです。
 しかしイエス様は、むしろ、普段の生活を続けながら、愛着のある者たちとの間で苦悩しながらも、イエス様に従っていくという、悩みある信仰の歩みを良しとされる方なのです。

 飯田教会は100年を超える歴史を持っています。長い歴史の中で、たくさんの洗礼者が与えられ、多くの人々がここに集いました。すでにこの世を去った方々はさておき、ご存命であるにも関わらず教会から遠ざかってしまった人々は、葛藤に負けて立ち去ってしまったという事なのでしょうか。そして今、残っている私たちは、たまたま運が良かった、ひどい葛藤に陥らずに済んだので続けて教会生活を送っているのでしょうか。
 いいえ、そんなはずはありません。誰にも、信仰のピンチはあるのです。今、こうして共に集い、礼拝していても、日々、誘惑やピンチにさらされているのです。

 では、なぜ信仰生活を続けることができるのかと言えば、イエス様の愛に応えようとする必死の思いがあるからです。この日、この時ばかりは、キリストの愛、神の愛に応えようとするあなた自身の愛が働いているからです。
 愛されていることを知っている者にとって、礼拝の懺悔の時は、1週間のうちにイエス様に従いきれなかった一つ一つを思い出して「イエス様ごめんなさい」の思いを持つことです。そのために私たちはともにここに集うのであり、その上で、改めてイエス様の愛に従う誓いを立てるのです。

 私たちは完全な愛を持ち合わせてはいません。生まれついて優しい性格の人は確かにいます。ですが、愛そうとするなら強い意志が必要なのです。私たちはその意志が時折萎えてしまうのです。自分がそういう存在であることを自覚した上で、そんな私でもイエス様が愛してくださることを信じて、気持ちを新たにして従っていくのです。
 福音書には、あんなにもイエス様を尊敬し、弟子として従ってきた12弟子さえも、そして一番弟子のペトロさえも、イエス様が逮捕された時、「お前は弟子の一人なのか」と名もなき人に咎められ、心が揺り動かされて「イエスなど知らない」と偽りの誓いを立ててしまう様子がはっきりと記録されています。
 私たち人間はその様な弱さを持っているのです。まず完全な優等生的を目指すのではなくて、自分のことを不器用で、弱いものだと認めつつ受け入れ、それでも神様の愛は変わらない、イエス様の愛は変わらないと信じ続けることが、イエス様の弟子、神様の弟子の条件なのです。

 「イエス様を一番に愛する」ということは、言い換えれば誰よりもイエス様に甘えるという事です。それが心のそこからできるようになることを祈りましょう。一人一人を命をかけて愛してくださった尊いイエス様の犠牲を心に刻んで、キリストの弟子として生涯をかけて歩んで参りましょう。


今月28日(土)はこども園の運動会です
応援の気持ちを込めてレゴで玉入れの風景を作って
掲示板に飾りました

2019年9月10日火曜日

9月の土曜学校を行いました

9月7日(土) 9:30-11:30
土曜学校(土曜日の教会学校)5回目です

まず礼拝からスタートです。

こども園からも担任の先生に連れられて
たくさんのお友達が参加してくれました

小学校以上のお友達は9人

礼拝後はお誕生会
9月生まれのお友達はいませんでしたが
5月から始まった土曜学校を覚えて、参加者全員で
「ハッピーバースデー土曜学校」と歌ってお祝いしました


クラフトの時間は
木片を使ったミニチュアロボット風のマスコットを作りました
先月見本を見せて予告しましたら
ぜひ作りたい!と集まってくれたお友達が9人
いつもより多い人数に
指導の優子先生はてんてこ舞いでしたが
同じような材料を使っても
みんな少しずつ違う、小さなロボット達が出来上がりました





全員の作品はFBにUPしてありますので、どうぞご覧ください

来月は朝比奈牧師の「世界一飛ぶ紙飛行機を目指そう」です



紙飛行機と侮るなかれ!よく飛ぶ飛行機には工夫と研究が必要です、とは
牧師の弁(^^)お楽しみに!

2019年9月4日水曜日

神様の招き(日曜礼拝説教の要約)

聖霊降臨後第12主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年9月1日)
エレミヤ9:22-23 ヘブル 13:1-8 ルカ14:7-14

 本日読みました福音書のタイトルには「教訓」という言葉が記されておりイエス様は「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」とお話になります。しかし、イエス様のおっしゃることはこの世を器用に渡って行くための処世術ではありません。そして、もちろん、教会の礼拝に来た時、前の方に座らない方が良い、などと指南したものでは、決してありません。
 少し話が逸れますが、牧師になるために神学校に通っていた時、学校に教えに来ていた牧師先生が、君たちは前に座りなさい、前に座りなさいと何度も何度もおしゃるのです。教会では後ろに座る人が多くて、前に座ってもらうことに難儀する、と言われるのです。
 日本人が奥ゆかしいからだ、という考え方もありますが、どうもそれだけではないようです。どんな人でも、状況が違えば前に座りたいこともあるはずです。
 以前関わっていた保育園では、クリスマスページェントなどは、教会の礼拝堂で行っていましたが、なんとかして我が子の、あるいは我が孫の晴れ舞台をスマホなどで記録しようとする方のために、後ろの席は長椅子の上に立ち上がっても良いルールになっていたようです。
 それなのに、同じ礼拝堂でありながら、日曜の礼拝となると状況が違います。説教中に牧師にうつらうつらしているところを見られたくないから、と説明する方もおられましたが、前に座ろうが後ろに座ろうが、牧師から見れば寝ている方は分かりますので、そういう心配はご無用といったところです。
 どうして礼拝堂の席は後ろから埋まっていくのかなあ、やっぱり自分の責任なのかなあ、と神の代理人とまで言われているはずの牧師はちょっと悲しい気分になるわけです。
 つまりは、目立たない場所にそっと座るからといって、必ずしもそれが謙虚の表れとは限らない、ということになります。
 私たちが通常考える「謙虚な振る舞い」というのは、自分に対して自信がない時ついつい出てしまう行動であって、なるべく恥をかかなように目立たないようにしておこう、という処世術に過ぎないことが多いのです。
 本日の福音書で、イエス様が教訓としてお教えになる「謙虚」というのとは、私たちが日常的に考える謙虚とは本質的に異なると頭を切り替えて、読み進めてまいりましょう。

イエス様は、ご自分が幸せな生涯をお送りになるためではなく、神様の存在を示し、神様の栄光をこの地に表わすために人としてお生まれになったのです。
 しかし神様の栄光を現わすために、神様によって用意された道は、十字架への道であり、自分自身を無にするほど低くなる道でした。
 今日の福音書の10節に面目(めんぼく)という言葉が出てきます。もともと面目という言葉は、『世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価』という意味で、人の目からどのように見られているかを表すときによく使います。
 しかし、聖書のこの箇所で使われている「面目」とは「栄光」という言葉と同じ単語が使われています。「主の栄光」というと、漠然としていますが、「主の面目」と言い換えると、だいぶ捉えやすくなる気がします。「主に栄光を返す」というのは分かりにくくても、「主の面目を施した」と言い換えると、神様の評判を高めた、という意味になって、分かりやすいのではないでしょうか。
 つまりイエス様は「神様は素晴らしい、偉大な方だ」と、より多くの人々に伝えるためにこの世に来られ、そのために十字架の上で命を投げ出されたのです。

 イエス様は神様の偉大さを示すために、ご自分を小さくする道を選ばれました。偉大なのは神様であって、ご自分はその証をしているに過ぎないのだという考えをお持ちでしたから、次々と奇跡の業をなさいながらも、ご自身が教祖のように祭り上げられるのをお嫌いになりました。
 それどころか、人々を救うために、自分は罪人になっても構わないという過酷な道を選ばれたのです。もし私たちが、周囲の人々から「あなたのしていることは悪いことだ」と指摘された時、それでも自分は十字架に掛かるほど、死刑になるほどの罪は犯していないと声をあげるでしょう。
 しかし、イエス様はそうはなさいませんでした。自分が全く無実であるにも関わらず、そして全く罪が無かったにも関わらず、あえて十字架に掛かられたのです。
 それは、私たち一人一人が、神様なんていない、と神様から注がれる愛に気づかず、それを否定し、身勝手な思いや振る舞いをしたがゆえでした。それは神様の目から見れば赦しがたい大きな罪となりました。その一つ一つの罪を償うために、私たちに代わってイエス様は十字架に掛かられたのです。私の罪、あなたの罪、全ての罪を償うために、一切の罪のない方が、とことん低くなり、へりくだって、もうボロ雑巾のようにクタクタになって死んで下さったのです。
 イエス様はそうすることで、私たちがどんなひどい罪の状態の中にあっても、「私はあなたを理解できる」と手を差し伸べてくださるのです。それがイエス様のお役目だからです。私たちはこの方に感謝し、その手にすがって新しい命を生き始めることができるのです。
 ただ、私たち、特に日曜日に礼拝を守る堅実な信徒であればあるほどに、自分のことを、本心から「私は罪人に過ぎません」とは言えないものです。そこそこ良い人であると自負し、それなりの良識ある人間であると信じているはずです。けれども、私は神様に逆らってはいないが、従ってもいない、そんな生き方をしていることが、ある時ふっと分かることがあります。変な言い方ですが、自分に死んでいないことが分かる時です。
 洗礼とは、一度死に、主と共に蘇って新しい命を生きることのはずです。私たちは罪人に過ぎないものであり、土くれに過ぎないものだったのです。しかし、イエス様の呼びかけが、神様の招きがあり、キリスト教信仰の道が与えられました。新たな神様からの息を受けて悔い改めの心を知り、聖霊なる神の存在に気づかされ、日々導かれて生きているのです。この事実に胸が震える時、イエス様を通して自分を神様が招いてくださったのだと信じることができるのです。
 どれほど遠回りした信仰生活でも、今主の近くにいることを覚えつつ、主イエスの教えに従いながら、恵みの時を覚えて歩んで参りましょう。


今日から外壁のブロック塀の取り壊しが始まりました
一ヶ月後にはフェンスとして新しく生まれ変わる予定です