2021年4月29日木曜日

良き羊飼い(日曜日のお話の要約)

 復活節第4主日礼拝(2021年4月25日)
詩編23編 ヨハネによる福音書10章11-15節

  詩篇23編に限らず、「羊」と「羊飼い」は聖書に何度も登場する言葉です。羊というのは、羊毛だけでなく皮も肉も利用できますから、身近な家畜としてイスラエルでは非常に大切にされてきました。民族の祖先であるアブラハムは、羊を飼い、遊牧民のような暮らしをしていましたし、イスラエル王国を統一したダビデ王もかつては羊飼いでした。

 ただ、羊飼いというのは全て羊優先ですから、定期的な休みをとることはできません。律法で「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」と決められても、礼拝に出ることもできませんでした。次第に文明が発達し、都市で暮らす人々が増えるに従い、羊飼いたちは蔑まれるようになっていきます。大抵の場合、貧しく、文字も読めず、動物に触れる汚れた職業とされ、裁判での証言も認められなかったとまで言われています。かなりひどい差別が行われていたのでしょう。


 こんな風に、現実の羊飼いは差別の対象となりましたが、イスラエルの人々には聖書から学んだイメージがしみ込んでいましたから、「良き羊飼い」が何を意味する言葉であるかは理解していました。導者たちは、かつて良き羊飼いが羊を導いたように、力強くかつ優しく民を導き、時には民衆のために命をも惜しまない「良き羊飼い」であることが理想とされました。

 しかしイスラエルの指導者たちはローマ帝国に支配されるようになってからは、国民のためと言いつつ自らの保身のために必死になりました。羊の為に命を落とす覚悟を持つリーダーは、いなくなってしまいました。民衆は、権力を持つものからは守られるどころか搾取され、まさに飼うものない羊のような哀れな状態で、希望もなく、その日その日の生活を送るしかなかったのです。


 そのような状況の中にあって、イエス様が「私は良い羊飼いである」と言われたのです。イエス様はお言葉にもなさることにも力があり、素晴らしい奇跡の数々を行われたので、民衆はイエス様に大いに期待を寄せ、「良い羊飼いである」という御言葉を聞いて救われた気持ちになり、イエス様こそ自分たちの求めたリーダーであると思ったことでしょう。

 しかし、イエス様と当時の権力者、ファリサイ派やサドカイ派の人々との関係は悪くなる一方でした。権力者達の中にもイエス様の言葉を聞いて我に帰り、正しい役割に立ち戻ろうとする人もわずかながらいましたが、大抵はイエス様に敵対し、議論を挑んではやり込められ、さらに敵意を燃やすような有様でした。イエス様の言葉が真実であればあるほど、そのお言葉は彼らの怒りを掻き立てました。彼らは自分達が責められていると思い、素直に聞き従うことも悔い改めることもできずに逆恨みしたのです。


 イエス様が彼らの計略から逃げることはなさらず、ゴルゴダへの道を歩まれた時、周りの人々は誰も彼も正しい判断ができなくなっていました。ファリサイ人と祭司たちはイエス様の罪をでっち上げ、ポンテオ・ピラトはイエス様に罪がないことを知りながら保身のために言いなりになって不当な判決をくだしました。そしてイエス様を愛していたはずの弟子たちはイエス様を否定し、逃げ去りました。

 良い羊飼いが羊を守って命を落すのは当たり前と言えば当たり前です。しかしこの時、イエス様が何ために命を捨てようとなさっているのか、直接教えを受けた弟子たちでさえ誰一人理解できませんでした。人の目には、十字架にかかったイエス様は大きな権力を前に敗北したようにしか見えなかったのです。


 しかし、イエス様という、良き羊飼いが、まるで無力であるかのように命を落としたのは、単に目の前の羊を守るためだけではありませんでした。それは羊に命を与えるためでした。聖書に書かれた全ての神様のメッセージを、真実の言葉として人間に届けるため、イエス様は唯一の方法として、この道を選ばれたのです。

 人間の考える幸せというのは、地位であったり名誉であったり、経済的成功であったりします。しかしどれほど成功を収め、どれほど財産があっても死後の国には何一つ持っていくことはできません。人は時に不老不死を夢見て、全財産をつぎ込んだりしますが、ただ空しいだけです。全ての人はやがて死んでいきます。 

 神様はこの世に人間をおつくりになった時、幸せに暮らせるようエデンの園を与えてくださり、たった一つ、善悪の知識の木の実だけは食べないようにと命じられました。アダムとエバはただ神様を信頼さえすればいつまでも幸せに暮らせたのです。しかし彼らは神様の言葉を疑って誘惑者の言葉を信じ、結果としてエデンから追放され、汗を流して労働し、いつかは死を迎える存在となってしまいました。


 それでも神様は人間を愛し続けてくださったのです。人は死ぬことによって終わるのではない。死んだ後、神の国に迎え入れるから、私の言葉を信じなさい。長い長い間、神様はそうメッセージを送り続けてくださいました。人間はそのメッセージを受け取り損ねてきたのです。

 イエス様はその御心をはっきりと示すために、厳しい試練を耐え抜き、蘇ってくださいました。私たちの人生は楽なことばかりではなく、むしろ何もかも失った、こんな人生に価値はない、なんで私ばかりがこんな目に、と思うほど追い込まれることもあるでしょう。しかし良き羊飼いであるイエス様は、あなたは何を失っても私がいる、私に従いなさいと言われるのです。これほど心強いものはありません。


 今の時代、信仰に生きることは、時代遅れの要領が悪い生き方だと言われるかも知れません。しかし私たちが本当に豊かな人生を生きるために、命を捨ててくださったイエス様を信頼し、その導きと守りを信じ、神の国の扉は自分のために開かれていることを確信しながら、信仰の歩みを共に歩んで参りましょう。


教会の駐車場脇に細長い植え込みがあります
西陽しかあたらず
条件の良い植栽スペースとは言えませんが
西洋オダマキが今年は見事に咲きました
一昨年、教会の方からタネをいただいて
バラマキをしたものです
播種から開花まで2年かかる性質だそうで
なるほど昨年はほとんどの株が
葉を茂らせるばかりでしたが
今年は「約束はちゃんと守りましたよ」とばかりに
あちこちで綺麗に咲いてます

何色か咲いていますので
雨があがったら改めて
写真を撮ってご紹介したいと思います




2021年4月19日月曜日

救い主の弟子たち(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2021年4月18日)

使徒言行録3章12-19節  ルカによる福音書24章36b-48節


 イエス様は復活なさった後、隠れ家で怯えていた弟子達の真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と話しかけたことは先週もお話ししました。トマスが最初は信じられなかった、というところです。トマスでなくても、弟子達は恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったでしょう。イエス様の復活を簡単には信じられず、悲しみのあまり自分の頭がどうかしてしまったと思った者もいたでしょうし、死者が恨んで化けて出たと捉えた者もいたでしょう。


 イエス様が捕らえられ、十字架に架けられた時、弟子たちは強い自責の念に駆られていたことも確かでしたから頭の中は大混乱です。彼らは、イエス様の死を通して、自分の情けなさや弱さと直面することになってしまいました。ええ格好するわりには、いざとなると薄情で、自分を優先させ、裏切り行為をしてしまう。その現実を見てしまったのです。もし自分がイエス様の立場だったら、自分を赦すことはできないだろうし、化けて出られても仕方ないくらいひどいことをしたのだ。彼ら一人一人はそう思っていたのです。


 そのような有様でしたから、イエス様から「あなたがたに、平和があるように」と声をかけられても、ただただ恐ろしかったのです。

 しかしイエス様は根気強く、ご自分が肉体を持って復活して亡霊ではないとお話になり、手足をお見せになりました。弟子達の緊張は次第にほぐれましたが、まだ半信半疑です。そこでイエス様がおっしゃったのは、意外なことでした。「ここに何か食べ物があるか」と言われます。

 彼らが恐る恐る魚を一切れ差し出しますと、イエス様はパクッと食べられたのです。これはイエス様のユーモアだったのではないかと思いますし、おそらく弟子たちは、イエス様の茶目っ気たっぷりなこの行動に、くすっと笑ったことでしょう。

 しかしその後に続いてイエス様が語られたお話は、無駄な言葉が一つもない、聖書全体の要約でした。イエス様が語られたのは、ご自分が苦しみを受けることも、三日目によみがえることも、罪の赦しを得させる悔い改めが起こることも、そして、この教えが世界に広がることも、実は、すでに聖書に記されていた、と話されたのです。


 あれほど痛く悲しく思く辛い思いを耐え忍ばれたのは、それらすべてが神様のご計画であり、イエス様ご自身がその計画である神の御心を先頭に立って行ったからである、と説明なさったのです。

 イエス様の弟子たちは、イエス様に出会う前、もともと平凡な漁師であったり、嫌われ者の徴税人でした。そんな彼らにとって神様の存在はあまりにも大きく偉大で、救い主がいつか来られるということは知識として知っていても、ピントは来ていなかったでしょうし、神様そのものの存在も身近に感じられませんでした。

 そんな彼らがイエス様に弟子として招かれてと3年半を過ごし学び続けたのです。イエス様を慕う気持ちは強く持っていましたが、いつの間にかイエス様を利用して自分の野心を達成しようと思うようになっていきました。イエス様に王様になっていただき、自分達は側近になって権力を握ることを夢見るようになります。


 しかし、彼らは結果として、イエス様を裏切り、十字架にかけられるのを見殺しにし、そのあとはただ引きこもり、社会との関わりも失ったかのように思えました。彼らのこの3年半はまるでジェットコースターに乗っているかのように急激に上がったり下がったり、大きな変化を経験したのです。そしてついさっきまで、つまりイエス様が戻ってこられるまで、人生のどん底にいたのです。

 そこにイエス様が来られ、聖書に書かれている救い主とはこういう存在である、とご自分の身を犠牲にして示してくださったのです。神様が遣わしてくださる救い主こそイエス様だった。弟子たちは、イエス様のお話を聞き、その壮大なご計画の只中に、自分たちが招かれ、一人の証人として立ち会ったことを知ったのです。


 頭だけでぼんやりと知っていると思っていた聖書の内容に新しい光が当たり、聖書に書いてあったのはこういうことだったのか、とストンと腑に落ちました。彼らは今こそ心から聖書の出来事を理解できるようになったのです。

 小さきもの、弱きものにこそ、神の眼差し、愛は注がれており、自分は救いようのない罪人だ、生きていてごめんなさいと思うような人にこそ、神様の救いの手は差し伸べられている。そのような人を、神様は救い、導き、用いようとなさっている。それを今、イエス様は改めて教えてくださいました。


 イエス様は、弟子たちに、改めてもう一度救い主イエス様の弟子として、歩みだすことを願われたのです。自分の弱さや、挫折を知ったあなたたちだからこそ、救われる喜びを知っている。痛みを覚えている人の救いとなるために、神の国を宣べ伝る働きに加わって欲しい。これがイエス様の願いでした。その使命を果たすために、その力もお与えになると約束してくださったのです。

 こうして弟子たちは新しい一歩を踏み出しました。情けなくて弱いものであっても、神様が招いてくださっている以上、できることがあるのだと、互いに励まし合いながらイエス様を信じる群れを作り上げたのです。神様に召し出された者の集まり、これが最初の教会となりました。

 その後の彼らの働きは使徒言行録に記されました。イエス様の弟子たちは、相変わらず悩んだり、失敗したりの連続で決してスーパーマンではありませんでしたが、自分の弱さと向かい合いながら、神様の力を受けて、その使命を果たして行ったのです。ですから、私たちがこの教会にいるということは、神様から招かれ、果たすべき使命を与えられているということなのです。この一点だけは決して譲れないのです。 

 こんな私に何ができるというのか。何もできなくて挫折感を味わうとき、無力感に苛まれる時、私たちはイエス様の弟子たちが経験したことを思い出し、改めて聖書に学びましょう。神様があなたの心に情熱を注ぎ込んでくださったのなら、必ず解決の糸口が見つかりますし、力も与えてくださるのです。私たちは救い主イエスの弟子であることを忘れてはならないのです。 


もう二週間も前になりますが
教会から車で20分ほどの場所にある
カタクリの自生地に行ってきましたので
写真をご紹介します
気分転換にふらっと行ける場所です
コロナ自粛の続く日々にあって
近くに豊かな恵みがあることに感謝しています

今年のカタクリは他の春の花同様開花が二週間ほど
早いようです







2021年4月12日月曜日

信じる人(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2021年4月11日)
使徒言行録 4章32-35節 ヨハネによる福音書20章19-31節

 19世紀に活躍したドイツの哲学者にニーチェと言う人がいます。有名な『神は死んだ』という言葉を言った人です。ニーチェの生きた時代、キリスト教はすでに世界的に広がっていましたが、政治や商売、戦争に利用されることも多く、そもそもの信仰は、どこへ行ったのか、と思われるような有様でした。

 それがニーチェには我慢ならなかったのでしょう。やがて自分の研究してきたギリシャ哲学などをもとに「超人」と言う思想を生み出します。彼は『神は死んだのだから神の国もない。御心にかなう生き方を模索しながら生きる必要もない。』と言い、その無意味な人生を、ありのままに生きられる人間を「超人」と名付けました。しかし結局ニーチェ自身は「超人」になれませんでした。精神を病んで肺炎で亡くななったのです。

 『神は死んだ』という言葉に関して、これは私の個人的な思いですが、ニーチェが「死んだ」といい、その存在を否定したのは「イエス・キリスト」その方ではなく、文明の手垢にまみれ、権力者によってねじ曲げられた「西洋式キリスト教」だったのではなかったでしょうか。もし、ニーチェがルターのように「キリスト教」ではなく、聖書そのものと向き合ったなら、違った人生があったのではないかと思ってしまうのです。

 「キリスト教を信じる」と言うのと「イエス様を信じる」と言うのは同じようで違うのです。今日はイエス様の12弟子の一人、トマスについて書かれた箇所を読みながら、ともに聖書に聞いてまいりましょう。


 本日、与えられました福音書の箇所には、12弟子の一人、トマスが重要な人物として登場します。彼はよく「疑り深いトマス」として描かれます。イエス様が復活した日の夕方、弟子たちは、隠れ家に鍵をかけて閉じこもっていました。

 彼らはイエス様の弟子である自分たちも同じように逮捕され、死刑になるかもしれない、と怯えていたのです。ところがそのような彼らの真ん中に、いきなりイエス様ご自身が立ち「あなたがたに平和があるように」と挨拶されます。

 イエス様を死に陥れたのは、まず当時の宗教のリーダーたちでした。ファリサイ派とサドカイ派です。この二つの派は仲が良くなかったにも関わらず、イエス様が自分たちの邪魔者であるという考えでは一致していました。ですから十字架にかけることに賛成し、協力しあったのです。

 また、イエス様が最後の晩餐の後ゲッセマネで祈っていると、12弟子の一人だったユダが役人や兵士を先導してきます。イエス様は無抵抗で捉えられ、不当な裁判を受けます。ローマの役人ピラトはイエス様罪がないと判断し、釈放しようとしましたが、ユダヤ人の側から「イエスはローマに対する反逆者だ」言われ、と押し切られてしまいます。

 そしてエルサレムにいたユダヤの民衆も、十字架に掛けるように強く求めました。

 ついには、イエス様の一番弟子のペトロまでイエス様を裏切ります。イエス様の身を案じてこっそりついていきますが、「お前はあの男の弟子だろう」と咎められて、「あんな奴は知らない」と否定してしまいます。

こうしてイエス様は死んだのです。手塩にかけて教育した弟子たちに裏切られ、否定され、ユダヤ教の権力者に陰謀を巡らされ、ローマの役人のピラトも自分の保身のために死刑判決を下します。誰もかれもイエス様が十字架にかかるのに加担したのです。


 イエス様は、正しく、思いやり深く、神を信じ抜いたにも関わらず、人々の嫉妬、虚栄心、保身、そういった罪の数々によって死に追いやられました。自分たちこそ神様を信じている、と自負した人々によって殺されたのです。最初にニーチェのことをお話ししましたが、ニーチェでなくても「神は死んだ」と言いたくなるような有様だったのです。

 イエス様の弟子たちは、イエス様をが神様に守られないのなら、誰が神様から守られるだろう、と思ったでしょう。まさに「神はおられないのか」「神は死んだのか」と感じたのではなかったでしょうか。

 そんな状態の弟子たちのところにイエス様が戻ってこられたのです。弟子たちは半信半疑ながら、イエス様の復活を受け入れ始めました。しかし、ただ一人イエス様にお会いできなかったトマスは受け入れることはできません。ついに「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と強い口調で言い放ったのです。それは、「私は復活なんか信じない」と断言したのと同じでした。

 しかしイエス様は、トマスのことも他の弟子たち同様愛しておられました。その日は前回から8日が過ぎていました。イエス様は、前回と同じく鍵のかかった部屋の真ん中に立たれました。そして「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいました。それから、トマスが8日前にいった言葉をすぐそばで聞いておられたかのように、ご自分の傷跡を示し、触るよう言われたのでした。


 トマスがこの後、実際に傷口を触ったかどうかはわかりません。しかし「信じない」と言ったにも関わらず、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したのです。トマスはもはや「神は死んだ」とは微塵も思いませんでした。たとえ主イエスの体は死んだとしても、神は生きておられた。そして、神はイエス様を復活させてくださり、その愛の心そのままに戻ってきてくださった。トマスにはそのことが分かったのでしょう。

 私たちは物事が思うように進まないとき、周りが敵ばかりに見える時があります。何をやってもうまくいかず、どうやっても元気が出なくて、死を選んだ方が楽かもしれないと思うことすらあります。私たちは、そのような状況になっても「神は生きている」と信じるものでありたいのです。神が生きて、愛をもって、私たちに関わり、働きかけてくださっていることを信じ、ご自分の復活を強く否定したトマスにさえも「平和があるように」と言われた、その言葉を胸に刻みましょう。


 キリスト教は時代の流れに翻弄されるものです。今でもキリスト教徒同士対立している地域もあります。「キリスト教は争いが多い」「キリストは愛を説いている宗教なのに、なぜ争うのか」「いっそ宗教なんかなくていいんじゃないか」そう言ってうんざりする方もおられます。

 しかし、私たちは「キリスト教」を信じていますが、時代や権力者によって変化してしまう部分を信じているのではありません。私たちのために十字架で死んでくださったイエス様を見つめるのです。聖書を通して私たちに語りかけてくださるイエス様、主なる神を信じるのです。私たちはキリストの弟子として、使徒として、聖書を土台とし、徳を高め、この教会の働きを通して神を信じる者としての歩みを深めて参りましょう。




土曜日(10日)は土曜学校でした
良いお天気の中
卒園したばかりの新・小学1年生も何人も来てくれて
賑やかに過ごしました

9時30分からの礼拝では
オリジナル紙芝居で
イースターについて学びました
お誕生会が終わり
クラフトの時間はイースターならではのお楽しみです
①発泡スチロールの玉子をイラストやシールで飾り
 飾り玉子を作る
②ゆで卵をお湯に浸して「エッグラップ」で包む
③出来上がった綺麗なゆで卵を
 園庭に隠してもらい
 小さい人からエッグハンティング!

また来月も元気で集まろうね


パソコンで作ったオリジナル紙芝居です
小さいお友達もしっかり聞いてくれました

発泡スチロールの玉子を
可愛く飾り付けてお持ち帰り
おうちで飾って、お家の人にイースターのお話をしてくれたら
嬉しいです


次は「エッグラップ」
用意しておいたゆで卵に
輪になったエッグラップをかぶせ
お湯に入れます

お湯にくぐらせれば3秒で可愛い玉子の出来上がり
完成した玉子をビニール袋に入れて
園庭に隠し
小さいお友達から順番に探しに行きます


Y.K君が玉子を隠すのを頑張ってくれました
全員無事ゲット、エッグハンティング終了!
最後にみんなで記念写真
さっと集まってシャッターを切る一瞬だけ
マスクを外します
コロナ禍の記念撮影は
素早さが勝負ですね(^^;)

2021年4月6日火曜日

イエス様の ふっかつ(日曜日のお話の要約)

 復活祭(2021年4月4日)/ルカによる福音書24章6節

 みなさん、イースターおめでとうございます。イースターは「復活祭」と言って、一度死んだイエス様が蘇った日です。イエス様のお誕生を祝うクリスマスと同じくらい大切です。


 イエス様は人を幸せにするために神様の国からやって来た神様の御子です。病気を治したり、水の上を歩いたり、一人分のお弁当で5000人の人をお腹いっぱいにしてあげたり、すごい力を持っていました。でも30歳になるまで、その力は使いませんでした。

 どうしてかは聖書には書いてないけど、先生が考えるのは、神様の力でなんでもするのは違う、と考えたからじゃないかな。普通の人間がどんな時に嬉しかったり悲しかったりするか、イエス様はご自分で知りたかったのだと思います。

 イエス様を育ててくれたお父さんのヨセフさんは早く死んでしまったので、イエス様はお母さんのマリアさんを助けながら働きました。そして、人間が一番悲しいのは「大好きな人が先に死んでしまうこと」だ、と知ったのでしょう。


 30歳になって、いよいよ神の子としてお仕事を始めたイエス様はおっしゃいました。「人間は病気や怪我や歳をとったりして必ず死ぬけれど、神様はみんなのことが大好きなので、天国に呼んでくださいます」。そして「神様の国があることを信じなさい」と伝えたのです。 

 イエス様は親切にお話ししてくれたので、神様が自分のことを愛してくださると信じる人がどんどん増えました。そしてみんな幸せな気持ちになりました。イエス様の周りには、イエス様からもっと教えてもらいたい人たちもやってきて、弟子ともどんどん増えました。

 ところが、心の汚い人たちはイエス様のお話が全然信じられません。嘘つきな人は、イエス様も嘘つきだと思ったのです。威張りんぼの人は、もしイエス様が有名になって偉い人になったら威張れなくなります。イエス様が邪魔だと思った人たちは、イエス様を罠にかけて逮捕して、死刑にしようと決めました。


 こんな悪い人たちは、そのままでは死んでも神様の国には入れません。神様から嫌われてしまうからです。イエス様はそれはかわいそうだと思いました。それで、その人たちの身代わりになって、ご自分が神様から見捨てられて死のう、と思われたのです。だから逃げないで逮捕されたのです。


 何にも知らない悪い人たちは、イエス様を捕まえて十字架にかけました。それは、手と足を釘で打ち付けて、死ぬまで放っておくという、ものすごく痛くて苦しい死刑です。悪い人の身代りなので、神様もイエス様を助けてはくれません。でもイエス様は「あの人たちを赦してあげてください」とお祈りしました。そして「すべて神様にお任せします」と言って、本当に死んでしまったのです。


 イエス様のお身体は十字架から降ろされ、お墓に入れられました。週報の表紙の絵を見てください。イエス様のお国のお墓は日本のお墓と違って、崖にあいたほらあなです。死んだ人の体を布に包んで、ほらあなの中に入れます。そして入り口に大きな石で蓋をします。イエス様のお身体も布に包まれ、お墓に入れられました。それは金曜日の夕方のことでした。


 イエス様の弟子たちは、悲しすぎて「神様の国があることを信じなさい」と言うイエス様のお言葉をすっかり忘れてしまいました。その上、自分たちも逮捕されるかもしれないと怖くなって、家の中に隠れました。弟子たちは金曜日、土曜日と泣きながら過ごして、やがて日曜日の朝になりました。


 男の弟子たちは家から動けませんでしたが、女の弟子たちはまだ夜が明ける前の暗い時にこっそりお墓に行ってみました。イエス様のお身体が十字架にかかったときの血とか汗とかで汚れたままだったら綺麗にしてあげようと思ったのです。

 でもお墓には大きな石で蓋がしてあるはずで、女の人だけでは動かせません。誰か手伝ってくれるかしら、と話しているうちにお墓に着きました。するとどうでしょう!蓋をしてあったはずの大きな石は転がしてあって、お墓の中が丸見えです。お墓の中は空っぽです。女の弟子たちがびっくりしていると、そこに天使が現れて言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」


 女の弟子たちはびっくり仰天。でも天使の言ったことは本当でした。イエス様は神様の力で復活したのです。神様はイエス様が悪い人でも大切にして、身代わりになってあげたことを喜ばれました。そしてイエス様を復活させてくださったのです。復活というのは、生き返ったという意味で、教会では蘇った、とも言います。復活したイエス様は弟子たちのところに帰ってきてくださったのです。


 イエス様の両手と足と脇腹には、十字架にかかったときの傷がついていました。弟子たちはその傷を見てイエス様のお言葉を信じられなかった自分たちがとても恥ずかしく、「ごめんなさい」の気持ちでいっぱいになりました。でもイエス様は「私が十字架で死んだのは、いい人も悪い人もみんなが神様の国を信じるために必要だったんだよ」と言われました。その時弟子たちは、イエス様が痛くて辛い思いをされたのは、自分たちのためだった、と知ったのです。


 イエス様はそれからしばらくの間、弟子たちと一緒にいて、天の国に帰って行かれましたが、「いつでもあなたたちを守っているよ」と約束してくださいました。弟子たちは「神様の国がある」という言葉を世界中の人に伝えようと決めました。


 これは2000年も前のお話です。弟子たちが伝えたイエス様の物語と「神様の国を信じよう」という言葉は世界中に広がりました。イエス様は、十字架にかかって死ぬのも我慢できるくらい、私たちを愛してくださいました。そして復活されました。これがイースターのお話なのです。



イースター礼拝では

こどもたちが大活躍してくれました

まず幼児洗礼を受けているK君の

アコライトで礼拝開始

キャンドルに届きにくいので

役員のFさんと一緒です


特別賛美は「こども聖歌隊」

学年の変わり目で忙しい中

保護者の皆様のご協力を得て

6人のメンバーが歌いました

お母様たちも3人、一緒に歌ってくださいました

本当に感謝です


バックバンドは

幼稚園のメンバーと牧師夫妻

先生達、入園式の翌日で疲れていたのに

ありがとうございます


この日は年度始めなので幼稚園と教会学校の

教師就任式も行われ、ほとんどの先生が

出席してくださいました


礼拝が終わるとエッグハンティングです

外はあいにくの雨

でも副園長のS先生が

室内で楽しく出来るよう

上手に誘導してくださいました


飯田教会の小さな礼拝堂が

密にならないよう

空気清浄機を入れ、窓を開け

席の間隔も離して

聖歌隊はフェイスシールドをつけました

今の時期、感染対策をしてしすぎることはないですね

でも来年のイースターは

シールド無しで歌えますように



K君と役員のFさんのアコライトから始まりました

Sさんの詩の朗読の後
まず
「なぜなぜイエス様」

お子さん二人と参加してくださった
Yさんのリコーダーがしっとり響きます



2曲目はガラッと変わって「十字架!わが力」
手話とともに楽しく力強く賛美

3曲目「両手いっぱいの愛」も手話を交えて賛美
2部に分かれてハーモニーを作ります


お楽しみのエッグハンティング(タマゴ探し)
どの大人が持っているのかな?

みんな無事探し当てました
S先生、司会ありがとうございます

タマゴの写真を撮り忘れてしまいましたので
代わりにクッキーの写真を
このクッキーは
聖歌隊のみんなへのご褒美として
I先生が焼いてくださいました