2019年12月31日火曜日

神様に守られて(日曜日のお話の要約)

降誕後主日礼拝(白) (2019年12月29日)
イザヤ63:7-9  ヘブライ2:10-18 マタイ福音書2:13-23

 今日の話は、有名でありながら、日本の教会であまり語られない王様が登場します。新約聖書の中のとてつもない悪役、その人の名前は、「ヘロデ大王」です。
 聖書の中に出てくる人は、どの人も神様に愛されたいい人で、悪い人なんか出てこないというイメージのある方は、その思い込みを一旦捨てて頂いて、「こんな悪い奴もおったんか」と驚き、受け止めて頂ければと思います。

 この「ヘロデ」という名前は元々はギリシャ語で「英雄」を意味する言葉で、英語の「ヒーロー」の語源です。ヘロデは当時イスラエルを支配していたローマにうまく取り入り、政治手腕を発揮して、ユダヤとローマとの協調関係を作り上げます。彼は純粋なユダヤ人ではなかったため、ユダヤ人から人気を得ようと、都市の整備に力を入れました。さらにはエルサレム神殿を大改築しました。この大改築はローマ帝国を含む当時の世界で大評判となり、ユダヤ教徒だけでなく、他の宗教を信じる外国人までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになりました。
 しかし、ヘロデ王は本質的に猜疑心が強く、自分の地位を守るために身内を含む多くの人間を次々と殺害しました。彼のそのようなしたたかな部分と、狂気じみた部分、そして闇に支配されているその様子を、マタイによる福音書は見事に伝えているのです。

 さて、聖書では、赤子のイエス様に魔の手が伸びた時、主の天使が夢でヨセフに現れて「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」とお告げをします。
 数ヶ月前、神の子を宿したマリアを受け入れ、守ると心に決めたヨセフは、なんの迷いもなく天使のお告げを受け入れ、行動に移します。マリアを守ると決めた時から、自分が引き返せない道に踏み出したことをヨセフはわかっていたでしょう。

 黄金、没薬、乳香を献げに来た東の国の学者たちの行動によって自分たちがピンチに陥ったのだと考える暇もありません。3つの宝物はあっという間に、エジプトへの逃避行の為の資金へと変わったことでしょう。

 聖書には「神の子なら自分自身を救ってみろ」というイエス様に向けられた厳しい言葉があります。歴史に「もし」はありませんが、天使のお告げがあった時、もし、ヨセフが心の中で、「この子は神の子だから何もしなくても大丈夫」と思い込んで動こうとしなかったなら、救い主イエス・キリストはあえなく2歳までの人生で終了したかもしれません。
 けれども、神はヨセフが聖書の言葉を正しく理解し、神様の守りを信じて疑わないということを分かっておられたので、この重要な局面を彼の行動力に託されたのです。
 ここではヨセフの信仰と、ヘロデ王の闇とが鮮やかに対比されています。一国を支配するヘロデと、ダビデの家系とはいえ今は庶民のヨセフ。しかし、神様は身分でも社会的立場でも金銭でもなく、ただヨセフを選ばれたのです。

 私たちの生涯において、ヨセフが味わったような、信仰を揺るがすようなピンチはいくらでもあります。劇的な不幸に襲われる、ということでなくても、世の中が不景気になって殺伐してくると、教会なんて行ってもなんの役にも立たないという声が聞こえてきます。信仰なんて適当でいいというような軽はずみな言葉に、ちゃんと神様を信じている者達が惑わされるのです。
 世の中には、表面は紳士的でも、内面はヘロデのように権力や富に固執する人々はいくらでもいるものです。そして、そのような人々に私たちは振り回され続けるのです。私たちはその都度、ヨセフのように自分がどう生きるかを決めていかなければなりません。たとえ夢の中に天使が現れることはなくても、聖書を通して常に私達の判断を導いてくださることを信じていかなければなりません。

 私たちには神の守りがあることを、私たちはみ言葉を通して知ることができます。神に従っていく、イエス様に従っていく、信仰を守るために礼拝を大切にしていく、その思いこそ神様に喜ばれることです。
 来年はどうなるだろう、と不安な思いに打ち負かされそうになるかもしれませんが、神様があなたを選んで任せてくださったのだと強く信じ、守られていることを忘れずに時を重ねてまいりましょう。


明日は元旦礼拝です
2020年の初めに、共に主を礼拝いたしましょう



2019年12月26日木曜日

羊飼いたちの礼拝(イブ礼拝のお話の要約)

クリスマスイブ燭火礼拝(白) (2019年12月24日)
ルカによる福音書 2:8―20節

 みなさん、クリスマスおめでとうございます。クリスマスは救い主イエス・キリストの誕生を覚えて、感謝を捧げる日です。救い主がこの世に来られる、という約束は遠い昔から旧約聖書によって伝えられてきました。
 ミカ書の5章には、次のように記されています。「エフラタのベツレヘム。お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。」この預言どおりに、救い主はベツレヘムの町でお生まれになったのです。

 イエス様誕生の時代、イスラエルは広い領土を持つローマ帝国の一部として支配されており、徴税、徴兵のために人口調査が行われました。誰もこの調査を逃れることはできず、マリアの夫、ヨセフも故郷のベツレヘムに帰らなければなりません。イエス様をお腹に宿していたマリアも一緒でした。

 彼らがベツレヘムの町に着いたとき、すでに宿屋は一杯でした。二人はようやく、馬や牛を飼っている部屋の片隅に泊まらせてもらい、そこでイエス様が生まれたのです。
 やっとの事で生まれてきたというのに、今度は、赤ちゃんに着せる産着がありません。仕方なくありあわせの布でイエス様はくるまれました。また、赤ちゃんを寝かせるベットもありませんでしたから、生まれたばかりのイエス様は馬や牛がえさを食べる飼い葉桶に寝かされたのです。
 
 では、この夜、救い主誕生の知らせは、いったいだれに一番最初に伝えられたのでしょうか。それは野原で夜通し羊の番をしている羊飼いたちです。羊飼い、という仕事はとても辛い仕事です。この時代の羊飼いたちは羊が泥棒や獣に取られないように、夜でも外で過ごさなければなりませんでした。また羊は独特の匂いがしますから、世話する人も臭くなります。
 イスラエルでは羊飼いは長い伝統のある職業でしたが、いつの間にか「汚い、きつい、危険」という理由から、人々から敬遠されるようになっていきました。
 そんな羊飼いたちがベツレヘム郊外の野原で野宿しているところに、天使があらわれ、大いなる光で彼らを照らします。
 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。あなたがたには布にくるまって飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を見つけるであろう。」と告げたのです。
 羊飼いたちは大急ぎでベツレヘムに出かけ、飼い葉桶に寝かされた救い主に出会って、礼拝し、心から喜びました。

 もしイエス様が普通の家や立派な宿屋の一室で生まれたなら、差別されている羊飼いたちは、家にあげてもらうことができず、イエス様に出会うこともなかったことでしょう。しかし神様のご計画により、あえて不衛生な家畜小屋の中でお生まれになったからこそ、羊飼いたちがイエス様に会うことができたのでしょう。
 
 しかしイエス様が飼い葉桶に寝かされたことは、羊飼いのためだけではありません。それは私達のためのしるしでもあるのです。
 みなさんの中にも、「私は、神様の前に立つには、あまりにも汚れている。汚い心をもっている」と考えている人はいないでしょうか。
 しかし神様はだれもが、そのままの姿で近づくことができるように、イエス様を家畜小屋の中に生まれさせたのです。イエス様は誰もが尻込みするような恐れ多く勇ましい姿ではなく、あえてか弱い赤ちゃんとしてお生まれになったのです。それは誰でも私の前にいていいのだよ、という招きでもあるのです。

 イエス様は、神様と私達の間の架け橋となるためにお生まれになり、私達の心の闇に灯るともし火として、今も存在してくださったいます。わたしたちにできることは、ただ感謝して、このイエス・キリストを心にお迎えすることなのです。

 イエス・キリストがこの世に生まれた、ということはクリスマスの半分にすぎません。みなさんがこのキリストという素晴らしい贈り物を受け取る時、皆さんがご自分の人生にイエス・キリストを受け入れる時、お一人お一人にとって真のクリスマスとなるのです。


イブの夜、礼拝堂は穏やかな光に満ちていました




2019年12月23日月曜日

初めてのクリスマス(日曜のお話の要約)

クリスマス礼拝・聖餐式(白) (2019年12月22日)
イザヤ9章1-6節 テトス2章11―15節 ルカ福音書2:1―7節
 
 神様は遠い昔、救い主である神様の御子の誕生を約束してくださったのですが、実際にイエス様がお生まれになるまで、長い時が必要でした。ようやく誕生されたのがおおよそ2000年前、この救い主の誕生をお祝いするのがクリスマスなのです。
 神様の御子ならば、素晴らしい環境でお生まれになっても良さそうなものですが、当事者であるマリアとヨセフにとっては、おめでたいどころか、大変な試練を耐え忍ばなければならなかったのが最初のクリスマスの出来事なのです。

 聖壇に、小さな馬小屋セットを飾ってありますが、ここには羊飼いも博士もいません。家族だけの一番最初のクリスマスの情景があります。

 実は、イエス様がお生まれになったのは何月何日だったのか聖書には書いてありません。2月25日がお誕生日、というのはかなり後になって決められたことです。ですがこの出来事を福音書に記録したルカはこの時、「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と記しています。
 アウグストゥスはローマ国内の長かった争いを沈め、最初の皇帝になりました。広大な領地を持つローマ帝国は偉大な皇帝によって安定した状態を保っていましたが、その陰では、イエス様一家のように人口調査に振り回され苦しんだ人々もいたのです。
 しかしそれでもなお、神様はこのクリスマスを「喜べ、喜べ」とおっしゃり、マリアもヨセフも辛い体験を耐え忍び、イエス様の両親としての使命を果たそうとするのです。ここには、神様のご命令に従って懸命に、従順に生きる人々の、つまりキリスト教信仰に生きる者の、素朴な信仰の姿が描かれています。最初のクリスマスの出来事は実にけなげなのであります。

 こうしてイエス様のお生まれとともにキリスト教の歴史は幕をあけるのですが、その後の2000年の歴史を振り返りますと、決して褒められるようなことばかりではありません。ヨーロッパを舞台として血で血で洗うような戦争もしましたし、十字軍などのように明らかな間違いを犯したことも事実です。数え上げればきりがありません。
 ですから、教会もまた、過ちを繰り返さないために礼拝の門を広く開き、共に聖書を読み、祈ります。記されていることをさらに詳しく知りたいと望む方達のために学びの時も備えます。
 聖書には、この世界が神の御心に沿い、平和になるためにはどうすればよいのか記されているのです。また、自分の人生に思い悩む者には、その解決を神様自身が与え導いてくださるのです。そして、その一番の導き手こそ、イエス・キリストであり、この方が今日お生まれになったと覚えて私たちはクリスマスを祝うのです。

 先ほど、イエス様は何月何日に生まれたのか、本当のところはわからない、と申し上げました。しかしイエス・キリストの誕生を、この冬至、つまり闇の時間が一番深い時にお祝いすることは、とても意義深いと思われます。
 人間は、どれほど良い動機で始めたことでも、いつの間にか計算が入り込んで純粋さを失ったり、目的を果たすために強行突破しようとしてひどい仲たがいを起こすこともあります。人間の創り出す世界は、良い目標を持ちながらも闇を引き起こしてしまうものです。
 自分の中にある道徳性だけを基準にして何事かをなそうとしても、なかなか理解が得られず、モヤモヤと怒りを覚える時、私たち自身が闇の中に生きているのかもしれません。人を憎み、取り返しのつかない亀裂を生んでしまう前に、私達は闇に差し込む光へと導かれる必要があるのです。

 私たちがこの地においてクリスマスの光を灯す、一人一人になることを祈り求めましょう。闇の時代を後にして、光の時代を迎えましょう。闇に迷うこの私のために救い主キリストが来てくださったことを受け入れ、共に歩んでまいりましょう。
 神からの豊かな祝福が注がれますようお祈りいたします。

 クリスマスおめでとうございます。

21日(土)飯田市民会館で
幼稚園のクリスマス礼拝&クリスマス会が
行われました


22日(日)、クリスマス礼拝の後は持ち寄り愛餐です
久しぶりに来られた方も
4月から飯田教会に集うようになった方も
老いも若きも園舎の一室でテーブルを囲みます


「赤いウインナーだ」と妙に嬉しそうな牧師

2019年12月18日水曜日

人生最大のピンチに

待降節第三主日礼拝(紫) (2019年12月15日)
イザヤ7:10~14 ローマ1:1~7 マタイ1:18~23

 ルカ福音書はマリアの立場から、マタイ福音書はヨセフの側からイエス様誕生の知らせが描かれています。
 ヨセフは重要な役回りの割には、なんとなく影の薄い存在です。しかし実はクリスマスストーリーの中でヨセフの体験はショッキングで生々しく、男性として「人生最大のピンチ」に立たされたと言えるでしょう。

 聖書にはヨセフについて「正しい人」と書かれていますので、信仰深く誠実な人間だったでしょう。そのヨセフの婚約者が妊娠し、父親は誰だかわからないのです。当時のイスラエルにおいて婚約と結婚はほとんど同一視されていましたから、マリアがヨセフ以外の男性と不貞を働いて妊娠したのだとすれば、単に婚約者への裏切りというだけではなく、石打ちによる死罪に値します。
 
 ヨセフは大変なショックを受けつつもマリアの罪を暴き立て、彼女を死に追いやることはできません。とはいえ、他の男性の子を妊娠しているマリアと結婚することはできません。ヨセフはどれほどマリアのことが大切でも、律法違反を犯した女性を、黙って受け入れることはできなかったのです。
 ヨセフがようやく思いついた解決方法は、マリアと密かに縁を切ることでした。公の場でなくても、二人の証人をたてて離縁状と手切れ金を渡せば婚約解消が可能でした。ヨセフは離縁を言いだしたのは自分の方であり、その賠償金も自分で払うと腹をくくります。

 しかし、ヨセフの心の中にはなお迷いがあったでしょう。マリアを離縁することで律法違反を犯した女性と手を切ることはできます。しかし、離縁された後マリアとその子はどうなるのでしょうか。マリアは言い訳一つせず、成り行きに身を任せています。そんなマリアをヨセフは突き放そうとしているのです。それは本当に正しい事なのでしょうか。

 律法を守るべきなのか、愛を選んで共に罪を犯すべきなのか。そのような苦悩をヨセフはひたすら押し殺し、ついに律法を守ることこそ、神の民の務めなのだと結論づけます。
 ところがその夜、夢の中に主の使いが現れ、ヨセフに「恐れるな」と語りかけるのです。「恐れず、妻マリアを迎え入れなさい」。天使はここに至ってようやく全てを語り、マリアの身に起こったことが神のご計画であることを告げるのです。

 ヨセフは夢から覚めて立ち上がり、この件についてあれこれ思い悩むことをスッパリと止めます。そしてマリアの身に起こったことも自分のこととして丸ごと受け止め、イエス様の育ての親となる道を選びます。こうしてヨセフの「人生最大のピンチ」は過ぎ去るのです。なんとも潔い生き方です。
 
 「人生最大のピンチ」と思われるようなことはしばしば私たちを襲います。自分を襲っている辛さや悲みが、神様から与えられた事だと、すんなり受け止められる人は少ないと思います。なぜ?と思い巡らすばかりで、前に進めなくなることもあります。そんな時、夢でもいいから、「恐れるな」という天使の声が聞こえたらどんなに良いだろう、と思うのではないでしょうか。
 しかし、実は私たちには聞こえているのです。イエス・キリストを礼拝する中で、私たちは、この礼拝においても、祝福の言葉に込められた「恐れるな」という神様の思いを共に聞いているのです。
 神様は聖書を通して、私たちに「インマヌエル」という言葉を与えてくださいます。私たちの人生には科学者にも哲学者にも説明も理解できない事柄があるけれど、人の出す答えの限界を超えて、神様ご自身が共にいて、死も不幸も超えて、私たち一人一人を幸せにすることを約束してくださるのです。

 最後に一つだけ。
 こうして記された最初のクリスマス物語を通して私たちが覚えておきたいことは、「ヨセフなくしてマリアはない」ということです。
 あの重い運命の下に置かれた、まだ年若いマリアはヨセフの支えなくしてどうやって耐えることができたでしょうか。ともに担ってくれるヨセフがいなければ、マリアは生きながえることができたでしょうか。

ヨセフはマリアを受け入れることによって、神の子の誕生、救い主の誕生のための最大の奉仕をなしえたのです。

 私たち一人一人に起こる人生最大のピンチを乗り越えるためには、神様が共にいてくださることの証として、共に神様を信じる信仰の仲間が必要なのです。隣人のために祈りつつ、神様の御心に従っていくのが、私たちの役目なのです。

先日、サローマ・テロさんとおっしゃる、フィンランド宣教師の歴史について研究をしている方が飯田教会に見えました。ページェントの練習をご覧になり、「フィンランドでは、こういった行事はもう見られなくなった」と喜んでおられました。



2019年12月17日火曜日

12月の土曜学校を行いました

12月7日(土) 9:30-11:30

土曜学校(土曜日の教会学校)8回目です

土曜保育のお友達と土曜学校に来てくれているお友達
みんな一緒にクリスマスの賛美歌を歌ってクリスマス礼拝

オスカー・ワイルド原作のしあわせの王子」の紙芝居を
一緒に見て考えました
この王子とツバメはどこかイエス様と似ていませんか?
何かを感じ取ってくれたら嬉しいです

礼拝の後はお誕生会、クリスマス会、クラフトタイム
ガラポンのお誕生くじ引きの後
土曜保育のお友達は園のプログラムに戻ります
土曜学校のお友達は用意してあった三角くじで
それぞれにクリスマスプレゼントを引き当てました



伊藤先生の手作りのツリー型ケーキでクリスマス気分を盛り上げて


予告通り、自然素材を使ったリース作りに挑戦です
ワイヤーで松ぼっくりをリースの形に組み上げ
自然素材と飾りをつけます
今回はグルーガンを使用
小学校で使ったことがあるお友達も多かったので
ヤケドすることなく製作が進みました
グルーガンが使えるようになったので
次から工作の幅が広がりそうです



仲良し姉妹だけど、作品はそれぞれ個性的


Yちゃんは立体的に松ぼっくりを積み上げました
無事に持って帰れたかな(^^;)



Nちゃんは安定の仕上がり


Yくんも途中苦戦したけど素敵にできました
緑のリボンがいいね


Hくんは顔出しNGなんだそうです(^m^)



リクエストにより、1月のクラフトはスノードーム作り
ジャムの瓶を使います

次は1月11日です
みんな来てね

2019年12月9日月曜日

洗礼者ヨハネ(日曜日のお話の要約)

待降節第二主日礼拝(紫) (2019年12月8日)
イザヤ11章1~10節 ローマ15章4~13節 マタイ3章1~12節

 自動車教習所に通い、運転免許を手にした時、無事故無違反のゴールド免許を目指す人はいても、事故を起こそうと思う人はまずいないでしょう。教習所では何のために法定速度があるのかも習いますし、安全運転の大切さも教わります。しかし運転に慣れてくると、この程度の違反なら捕まらないだろうと思うようになってしまうのです。

 話は飛躍しますが、私たちクリスチャンも似たようなところがあります。イエス様を信じ、洗礼を受けた時、適当なクリスチャンで一生過ごしてやろう、と思う人はほとんどいないと思います。特に大人になってイエス様を信じた人は、クリスチャンとしてどう生きるか、洗礼を受ける前に真剣に考えたはずです。
 しかし何年か経ってみると「そこそこ」のところで落ち着いていたりします。礼拝出席も献金も奉仕もそこそこ。大きくはみ出さなければ良いだろうと自分の中で折り合いをつける。たまに伝道説教などで情熱的なお話を聞いて「悔い改めよう」と思っても、日常の忙しさに負けて、忘れてしまうのです。

 本日の聖書箇所で、洗礼者ヨハネは「そこそこ」のユダヤ教徒たちに厳しい言葉を投げかけています。「私の宗教生活は他の人に比べてそんなに悪くない」と思っている人々に対して「お前の都合は聞いてない」「神様のお気持ちを考えたことがあるのか」と叱り飛ばしたわけです。
 民衆は厳しく叱責されることでむしろ自分達が神様から離れていたことに気づき、罪を告白し、新たに神様を信じ新たに生き直そうしました。

 しかしそこに、のちにイエス様の敵になるファリサイ派の人やサドカイ派の人々も、ヨハネから洗礼を受けようと大勢やってきたのです。これはこれはマタイによる福音書だけに書かれていて、マタイ自身がここを強調しようとしてこの一文を入れたと考えられます。
 ファリサイ派やサドカイ派の人々の多くは自分の血筋や立場、権力を利用して自分の知恵に任せて政治や宗教教育を行い、結果として神様から民衆を遠ざけてしまったのです。その行為は神様の怒りに値しました。ですからヨハネは「差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」と叫んだのです。

 実際、マタイがイエス様に付き従って旅をしていた頃、御言葉を宣べ伝えたり癒しの奇蹟を行ったりするたび、自分たちこそ正しいと自負するファリサイ派や律法学者たちはイエス様に言いがかりをつけ、嫌がらせをしました。彼らはついには自分の立場を守るため、イエス様を十字架にかける計画を立てたのです。
 そういった経緯を全て知っていたマタイは、晩年になって自分が福音書を表すことになった際、ファリサイ派やサドカイ派がヨハネに「蝮の子(つまりサタン)」と叱責されたと書かずにはいられなかったのでしょう。

 ヨハネはファリサイ派やサドカイ派をける一方で、「神様は、石ころからでも、ご自分を正しく敬う民を作ることができる」と言いました。最初の人・アダムを地のチリから作られた神様にお出来にならないことはないのです。自分自身、徴税人出身で、石ころのような存在であったと自覚するマタイはこの一文に素晴らしいメッセージを込めたのです。

 このメッセージは私たちにとって大きな救いを伝えています。血筋でも立場でもなく、どんな功績があったかでもなく、仮に社会から石ころのように価値のない、何もできない人間と思われていても、神様がその気になって招いてくだされば、神様を崇める民の一人となることができるのです。

 ここに記されているのは、傲慢で悔い改めのないものは退けられる代わりに、心から悔い改めて神様の前に跪くなら、どのような人でもここに来て洗礼を受けて救われなさい、という熱い招きなのです。



質素ですが美しい聖家族セットを聖壇の上に飾りました
ファーストクリスマス的なイメージです


2019年12月2日月曜日

エルサレム入城(日曜日のお話の要約)

待降節第一主日礼拝・聖餐式(紫) (2019年12月1日)
イザヤ2:1-5 ローマ13:11-14節 マタイ21:1-11節

 「城」というと塔のような天守閣のある建物そのものをさすイメージですが、もともとは、建物を中心に壁で囲まれた町全体のことを「城」というのだそうです。
本日の福音書はイエス様がロバに乗ってエルサレムに入られる場面です。少し前の文章などでは、イエス様がエルサレムに迎え入れられるシーンを「エルサレム入城」と表記したりしています。それはエルサレムは神殿が町の中心で、その神殿を守るように石垣があります。つまり、エルサレムは都市全体が城壁で囲まれているお城なのです。それで、「エルサレム入城」というわけで、この言葉は私にとってしっくり来ます。

 「エルサレム入城」は、弟子たちにとっても、イエス様に期待する民衆にとっても、待ちに待った出来事でしたが、エルサレムの治安を司る側にとっては迷惑な話でした。イエス様一行は勝手にパレードをして大騒ぎをしている不穏な集団とみなされました。
 しかし、この出来事は、突然何かの思いつきやノリで始まったのではありません。神様ご自身が、イエス様を神殿のあるエルサレムに迎えるためにこの日を選んで、前もって入念な準備をなさったのです。
 何よりも注目するのはイエス様が「ろばと子ろばを引いて来なさい」と命じられたところです。よく知られていることですが、この部分は旧約聖書ゼカリヤ書9章9節の実現だと言われています。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられたも者。高ぶることなく、ろばに乗ってくる。」と書かれており、救い主は普通の王様のように格好の良い軍馬に乗るのではなく、柔和な姿でロバに乗ってくる、と記されているのです。

 イエス様はロバにまたがり、ホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城しつつ、神様のご予定が実現していく(預言の成就)事を体験し、噛み締めておられた事でしょう。
 神様がこの世をお救いになるためには、イエス様が十字架にかかって死なれることは変更できません。イエス様もご自身が十字架に架けられた後、三日ののちに復活することをご存知で、弟子達にも以前からそう告げておられました。しかし三日後に復活するからと言って、死の苦しみそのものが軽くなるわけではありません。鞭打たれ、辱めを受けた上で、最も残酷な死刑とさえ言われる十字架につかなければならないのです。
 ですからイエス様は十字架にかかる前夜、ゲツセマネの園で、できることならこの杯は受けたくない、と神様に祈られました。しかし最後には、この苦難が御心ならば、それを受けます、とおっしゃるのです。
 人々を救うために避けて通れない道を、神様があらかじめ旧約聖書で預言された通りに歩み通すことを改めて決意されたのでした。
 
 私がこの出来事の舞台となったエルサレムに行き、エルサレム城壁の周りを歩き回ったのはもう30年以上も前、まだ大学1年の時です。現在のエルサレムの街も、イエス様の時代と同じく城壁で囲まれています。この城壁は1世紀にローマによって破壊された後、長い時を経て16世紀にオスマントルコ時代に再建されたものだそうです。
 現在の城壁には市街に入る門が8つありますが、その中に誰も入ってこられないように塞がれている門が一つありました。アーチになってくぐれるはずの門は完全に閉ざされ、奇妙に思えました。この門は、ちょうど、ゲッセマネの園から目の前に見えるのです。
 あとで調べてみますと、それは閉ざされた門とか黄金の門と呼ばれている門で、イエス様がホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城した位置にありました。実際にイエス様が潜られた当時の門は2000年前に一旦壊されていますので、「これがその門です」と言えないのが残念なところです。

 再建されたその門がなぜ塞がれているのか調べてみますと、世の終わりの時、救い主がここを通る、と言われている門であることがわかりました。そして、それを阻止するために、イスラム教徒の人々はわざわざ城壁を復元した上で塞いでしまったのだそうです。
 世の終わりの時、再びイエス・キリストがここを通るとき、それは裁きの時であり、イエス様を信じない人々にとって滅亡の時です。それを少しでも先延ばししようと、門の入り口を埋め立てたそうです。それを知った時、私は「イエス様を怖がって通せん坊するくらいなら信じればいいのに」と単純に思ったものです。
 と同時に、イスラム教の人は良くも悪くも、本気で救い主イエス様の存在を信じて恐れているのだなあ、とも思いました。

 これから始める新たな年、この場所で、私たちは共に神様を礼拝し聖書と祈りを通してその御心に触れてゆきます。そして又、救い主イエス・キリストを礼拝してまいります。ここで私たちが主イエスを礼拝する時、イエス様が一人一人の心の門をくぐって入って行かれます。一人一人の心が本気でそれを喜び迎えるエルサレム入城となりますように。主に感謝を持って、クリスマスを迎える準備をしてまいりましょう。



いよいよ待降節(アドベント)に入りました
世の中はとっくにクリスマスムードですが(^^;)
教会はクリスマスの四週間前から、という
決まりを守って飾りつけます
今日は今年の礼拝堂の飾りをご紹介


今まで飾っていた小さなベルに
幼稚園から頂いた丸い飾りをくわえ
仕上げにツリーの箱の中に眠っていたリボンをくわえてみました



すっきりと素敵なクランツです

⬿

決して豪華ではありませんが
素敵なクリスマス準備が整いました
十字架の下には小さな馬小屋と聖家族
次の機会に大きめの写真を載せようと思います