2019年12月9日月曜日

洗礼者ヨハネ(日曜日のお話の要約)

待降節第二主日礼拝(紫) (2019年12月8日)
イザヤ11章1~10節 ローマ15章4~13節 マタイ3章1~12節

 自動車教習所に通い、運転免許を手にした時、無事故無違反のゴールド免許を目指す人はいても、事故を起こそうと思う人はまずいないでしょう。教習所では何のために法定速度があるのかも習いますし、安全運転の大切さも教わります。しかし運転に慣れてくると、この程度の違反なら捕まらないだろうと思うようになってしまうのです。

 話は飛躍しますが、私たちクリスチャンも似たようなところがあります。イエス様を信じ、洗礼を受けた時、適当なクリスチャンで一生過ごしてやろう、と思う人はほとんどいないと思います。特に大人になってイエス様を信じた人は、クリスチャンとしてどう生きるか、洗礼を受ける前に真剣に考えたはずです。
 しかし何年か経ってみると「そこそこ」のところで落ち着いていたりします。礼拝出席も献金も奉仕もそこそこ。大きくはみ出さなければ良いだろうと自分の中で折り合いをつける。たまに伝道説教などで情熱的なお話を聞いて「悔い改めよう」と思っても、日常の忙しさに負けて、忘れてしまうのです。

 本日の聖書箇所で、洗礼者ヨハネは「そこそこ」のユダヤ教徒たちに厳しい言葉を投げかけています。「私の宗教生活は他の人に比べてそんなに悪くない」と思っている人々に対して「お前の都合は聞いてない」「神様のお気持ちを考えたことがあるのか」と叱り飛ばしたわけです。
 民衆は厳しく叱責されることでむしろ自分達が神様から離れていたことに気づき、罪を告白し、新たに神様を信じ新たに生き直そうしました。

 しかしそこに、のちにイエス様の敵になるファリサイ派の人やサドカイ派の人々も、ヨハネから洗礼を受けようと大勢やってきたのです。これはこれはマタイによる福音書だけに書かれていて、マタイ自身がここを強調しようとしてこの一文を入れたと考えられます。
 ファリサイ派やサドカイ派の人々の多くは自分の血筋や立場、権力を利用して自分の知恵に任せて政治や宗教教育を行い、結果として神様から民衆を遠ざけてしまったのです。その行為は神様の怒りに値しました。ですからヨハネは「差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか」と叫んだのです。

 実際、マタイがイエス様に付き従って旅をしていた頃、御言葉を宣べ伝えたり癒しの奇蹟を行ったりするたび、自分たちこそ正しいと自負するファリサイ派や律法学者たちはイエス様に言いがかりをつけ、嫌がらせをしました。彼らはついには自分の立場を守るため、イエス様を十字架にかける計画を立てたのです。
 そういった経緯を全て知っていたマタイは、晩年になって自分が福音書を表すことになった際、ファリサイ派やサドカイ派がヨハネに「蝮の子(つまりサタン)」と叱責されたと書かずにはいられなかったのでしょう。

 ヨハネはファリサイ派やサドカイ派をける一方で、「神様は、石ころからでも、ご自分を正しく敬う民を作ることができる」と言いました。最初の人・アダムを地のチリから作られた神様にお出来にならないことはないのです。自分自身、徴税人出身で、石ころのような存在であったと自覚するマタイはこの一文に素晴らしいメッセージを込めたのです。

 このメッセージは私たちにとって大きな救いを伝えています。血筋でも立場でもなく、どんな功績があったかでもなく、仮に社会から石ころのように価値のない、何もできない人間と思われていても、神様がその気になって招いてくだされば、神様を崇める民の一人となることができるのです。

 ここに記されているのは、傲慢で悔い改めのないものは退けられる代わりに、心から悔い改めて神様の前に跪くなら、どのような人でもここに来て洗礼を受けて救われなさい、という熱い招きなのです。



質素ですが美しい聖家族セットを聖壇の上に飾りました
ファーストクリスマス的なイメージです


0 件のコメント:

コメントを投稿