2018年12月29日土曜日

―最近読んだ本からー「若い詩人の肖像」          著者   伊藤整


―最近読んだ本からー「若い詩人の肖像」
         著者   伊藤整
発行者 佐藤亮一
発行所 新潮社
発行  昭和331220
        (新潮文庫 88F)
  高校生の頃であったか、大学生の頃であったか、伊藤整のこの本を手にしたことがあるように定かではないが、淡い記憶がある。大正末年から昭和初期の文学史上も、激しい変遷の時代に「若い詩人」としての評価を受けるまでの葛藤と青春の闘いを克明に記した自伝的小説である。
 まだ、著者が20代の若い時代の記録であり、彼は、叙情的詩人として、認められるまでの内面的苦悩や性の葛藤、恋愛の記憶も赤裸々に描写している。
 詩人とは、言葉に生きる芸術家なのであろう。詩人として出発してゆく彼は、その心理的描写力、あるいは街の描写や付き合ってゆく人たちの写実的描写は、正確であり、急所をつかんだ、そつのない文体で記されている。時代と制度は今と違っていてよく分からないが、彼は地元の小樽市で英語の教師をしながら、時を待ち、備える。そして、東京に、今の一橋大学であろうか、詩人として出発するために、入学して、20代の苦学へと歩みだすところで、この小説は終わっている。出会っていく文学界の人々も同時代の20代、30代の若い青年たちが中心である。小林多喜二も同郷であり、今でいう高校生の頃から知り合っている。ある意味で、大正末年、昭和初期の時代が、彼らを生み出し、伊藤整をも育てたということが出来よう。
 詩人、小説家という存在は、多くのすぐれた書物を読みながら、自分の独自の文章表現や写実力を身に着けてゆくことがわかる。そして、伊藤整の場合、生まれ持った繊細さで、自他の心理の微妙な動きを把握し、それを表現していったことが窺える。
 伊藤整の文章は、一見真似することもできるのではないかと思わせる、虚飾の少ない写実的な描写なのだが、そこまで簡潔に、むだなく、過不足なく表現するというのは、やはり一朝一夕でできるものではない。それは、長い蓄積と練磨・考察があってはじめて可能となる、描写、表現なのである。
 そして、伊藤整は、偽善や虚飾を嫌い、自分の中にある嫌らしさも正直に見据えて、忌憚なく吐露してゆく。それは、教会でなされる説教にも生かせる、学ぶべき生き方ではないか。説教者は、多くの文学者たちの宝庫からも、福音の真理を説くうえで、学ぶべきものを多く持っているのではないか。そして、そのためには、伊藤整がしているように不断に学び続ける実践しかあるまい。

2018年12月19日水曜日

―最近読んだ本からー「子どものための説教入門(信徒のための神学講座)」          著者   加藤常昭


―最近読んだ本からー「子どものための説教入門(信徒のための神学講座)
         著者   加藤常昭
発行者 日本キリスト改革派教会
    西部中会教育委員会
発売元 聖恵授産所出版部
発行  2001417
印刷  聖恵授産所 
        (定価):1,500円)
 「子どものための説教入門」、日本の説教学の第一人者である加藤常昭先生が、日本キリスト改革派の教会学校のための講習会で語られた講演や、質疑応答などで、教会学校における子どもへの説教はいかにあるべきかを、長い牧会経験や、東京神学大学で20年にもわたって説教学を教えて来られた体験をもとに、神学的にも実践的にも、丁寧に追求された入門書であるが、むしろ、説教をする者にとっての必読の書とも言えるのではないか。
 子どもは、まだ幼いので、罪とか、十字架とか復活について語るのは適当ではないのではないかとの考え方に対して、先生は、明確に否と答えておられる。
 子どもも、死を恐れるし、罪は分かるし、大人たちと同じように、罪責や、恥ずかしさなども感じているのであり、ただ、年齢に応じて理解できるような説教あるいは、その語り口が求められねばならないと言われる。確かに幼子たちにも、福音は分かりやすく説けば、彼らは理解できるのであると、私も感じている。加藤先生は、子供たちの年齢に応じて、それにふさわしい説教準備があるのであり、第1黙想から、第2黙想へと、なるべく早めの準備に取り掛か、り、一人一人の子どもたちのために祈りながら説教を準備する必要を強調されている。そして、そもそも「教会学校」という呼び方は、いかにも学校教育を思させ、適当ではなく、むしろ「子どもの礼拝」と言うべきではないかと提唱されている。現在の日本の教会学校の不振に対して、根本的な策を取ることが急務ではないかと警鐘を鳴らしておられる。役員会、教会が一体となって教会学校教師たちとの協働に知恵を絞ることを提案されている。 子どもへの説教のポイントとして、黙想と適度な注解書などを通して、集中的に、福音を説き明かすことが大事だと言われる。そして、祈りをするなら祈りも含めて、説教の原稿を書いてみる。それによって、子供に伝わる明瞭な福音を、本番では原稿はなるべく見ないで、子どもたちを見つめながら伝えるように集中するようにと奨めておられる。この書は教会学校の教師たちの研修会での講演や質問などを通して成ったものであるが、むしろ、牧師たちにも、通用する説教で求められていることを、噛んで含めるようにして説かれた「説教論」と言えよう。

2018年12月7日金曜日

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第6章24節~34節)


     2018121(土)母家族葬葬儀告別式説教 於:ルーテル松山教会

説教「明日のことを思い煩うな」(マタイによる福音書第624節~34節)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

母が一番、心から敬服した主イエスのみ言葉は、「明日のことを思い煩うな」でありました。私が、高校一年か、二年頃のことではなかったかと思います。当時、宇和島の書店に、講談社から、「亀井勝一郎全集」というのが出ており、どういう経過であったか、その第7巻に、親鸞聖人の伝記のようなもの等東洋の知恵の部分と、それに加えて、西洋の知恵の中に、耶蘇の言葉として、「明日のことを思い煩うな」というみ言葉があって、まだ洗礼を受けていない母親と私とが、このみ言葉に初めて触れたのであります。

 このみ言葉のある個所について、今日は皆さまとご一緒に考えてみたいと思います。それは、先ほどお読みしましたマタイによる福音書第624節から34節であります。

 まず、人は、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を余計に愛し、他方を、当然より少なく愛するということになり、一方に愛着し、他方をより軽視することになるからだというのです。私たちが、尊敬する先輩の先生を自分の先生として二人を敬う場合でも、どちらかを重んじ、それに対して、もう一人の先生はより少なく愛することになりがちであります。

 そして、主イエスは、人は、神と富、お金、財産、マモンと言いますが、それに兼ね仕えることはできないと言われるのであります。

 そして、それ故に、あなた方に言っておくと、この部分の説教を続けて言われるのであります。それゆえ、あなた方は、何を食べ、何を飲もうかと思い悩むな、命は食物に勝り、体は着る物にまさると言われます。

 そして、空の鳥を見よ、彼らは、蒔かず、刈り入れもせず、倉に集めることもしない、しかし、天の父は、それでも彼らを養っておられるというのであります。そして、あなた方は、鳥よりもはるかに価値のある者ではないかと言われます。

 そして又、これを語られたガリラヤ湖の近くで、美しい自然を見ながら語られたことでしょう、あなた方は、野の花を観察しなさい、彼らは、働きもせず、紡ぎもしないが、育ってゆく。あのソロモンの栄華と言われるソロモン王を取り上げて、そのすべての栄光におけるソロモン王も、これらの花一つほどにも着飾ってはいなかったと言うのであります。
 ソロモンは、ダビデ王の子で、ちょうどお主イエスの生まれるよりも1000年ほど前の、イスラエルの歴史では、この二人の王の時代のみ栄えた時代であったのであります。
 その花、野の百合というのは、アネモネの花などを指すのであります。荒れ野の岩陰の間からも、うっすらとピンクや紫の、日本でいえば、レンゲ草のような野の花であります。
  そして、あなた方は何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思い煩ってはならないと繰り返されるのであります。

 亀井勝一郎氏は、耶蘇について、どうしてあのような繊細な心の持ち主が生まれたのだろうかと賛嘆していますが、山上の説教の一部である今日のペリコペー、小聖書のみ言葉はそれでありましょう。

 さらに、主イエスは言われます。今日生えていて、明日は炉の中へ投げ入れられる野の草をもそのように育てておられるあなた方の天の父は、それにも増して、あなた方に良くしてくれないことがあろうか、信仰の薄い者たちよ、と語りかけられる。これは、弟子たちに向けて、信仰のほとんどないあなたたちよと申されるのであります。空の鳥を養い、野の花、野の草を見事に飾られる、あなた方の天の父は、あなた方をもっとよく良いものでよそおわれるに違いないではないかと弟子たちに諭されるのであります。

 私たちを、自分の像に似せて造られた神は、その他の全被造物よりも、もっとよくしてくださらないことがあろうかと言われます。
そして、あなた方は、まず、神の国と神の義とを追い求めよ、そうすれば、あなた方の必要なものは、すべて添えて与えられると約束しておられます。

 何を食べ、何を飲み、何を着ようかと異邦人たちは追い求めているが、それらが人間には必要であることは、あなた方の天の父は、すべてご存じであると
言われます。

 そして、最後に、あなた方は、それゆえ、明日へと思い煩うな、かの明日は、明日自らが思い煩うであろう、十分なのは、その日毎の悪、災いで十分であると言われるのです。昔の訳では、一日の労苦は、一日にて足れりとありました。

母親は、思い煩いがちでありましたけれど、「明日のことを思い煩うな」という主イエスのみ言葉を忘れずに歩んだ、それからの一生ではなかったかと思います。自分が思い煩う者であることを、よく知っていたと思います。人は皆草のようで、今日のみ言葉にありますように、今日は生えていても、明日は炉の中へ投ぜられるはかない存在であります。

 しかし、主が語ったみ言葉は確かであります。明日のことについて、                     思い煩い続けるのではなく、あなた方の天の父のご配慮、摂理を信じて、すべての思い煩いを主イエスに、そして、天の父にゆだねて、新しく生きることができるのであります。

 そのためには、この私どもを今も変わらず、とこしえに守り導いておられる神に全身全霊で仕え、弟子として忠実に従ってゆく。ひとりの唯一の主につき従い、身をゆだねてゆく道を歩まなければなりません。
  神の国と神の義とをまず第一に求めてゆく。それは、私たちの自分の力によるのではなく、賜物として与えられているみ国を、ただただその恵みを受けてゆくことが必要であります。

 母は、晩年は認知症なども進み、思い通りにはならない自己と戦ったと思います。夜、お盆などで帰省しましたとき、夜目覚めて、「キリスト様、お釈迦様、ソクラテスさま」などと独り言のように言い、また、自分の子供や                                                                                孫たちの名を忘れまいと、一人一人名前を言って呟いていたりしました。

 また、デイ・サービスにも、週に三回、四回と熱心に通い、妹たちや兄にも応援されて、無精気味なところがあったのに、喜んで人々のところに足を向け、デイ・サービスのビハーラさんのところでは、五木弘の歌を好んで歌ったりしていた様子でした。私が牧師となったのを心から喜んで、元気なときにも、私の説教テープを喜んで聴いてくれた母でした。「明日のことを思い煩うな」、この主イエスの言葉を、私も忘れないで歩む者とされたいと思います。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。