2019年7月29日月曜日

マリアとマルタ(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第7主日礼拝(緑) (2019年7月28日)
創世記18:1-14 コロサイ 1:21-29 ルカ10:38-42

 この日イエス様が立ち寄られたのはマルタとマリアの住む家でした。マルタという名前には「女主人」という意味があります。マルタはこの家の女主人として、信仰を持ってイエス様を招き入れたのです。彼女は招きに応じてくださったイエス様をもてなそうと張り切っていたことでしょう。

 実はこのお話はルカ10章の続きで、一行と書かれているのは、使徒と呼ばれた12弟子の他、イエス様から派遣されて戻ってきた弟子72名が加わっていた可能性があります。もしかしたら、最大に見積もって100名近くの大所帯になったとも考えられるのです。
 マルタは初めからこの人数が来ると思っていたわけではないかもしれません。イエス様を含めて20名程度。それならマリアと二人で頑張ればなんとかなるでしょう。しかし、あてにしていたマリアは全く動かず、イエス様の前に座って話を聞き続けているのです。
 もちろんマルタもイエス様のお話を聞きたいのです。そもそもイエス様をお招きすることに決めたのは女主人のマルタなです。噂を通して聴くイエス様の教え、お語りになる言葉に共感し、この方から直接お話を聞きたいとどれほど願っていたことでしょう。
 けれども、ここに至ってマルタだけがイエス様だけのお話を聞けない状況に陥ってしまいます。ついにマルタは我慢の限界です。「私だけが思い悩むことをなんとも思わないのですか」最も丁重に扱わなければならない賓客であるイエス様に向かって、彼女は腹立たしさをぶつけてしまったのです。

 このお話がルカ福音書の前半に収録されているので、ちょっと混乱しやすいのですが、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書ではイエス様がエルサレムに行かれたのは一回だけ、十字架に向かっての旅だけ、と記録されています。そうなると、この時イエス様は十字架にかかるためにエルサレムに向かって進みつつ、その周辺で神の国を述べ伝え、「後期ユダヤ伝道」と呼ばれる最後の数ヶ月を過ごしておられたことになります。
 だからこそ、この家での滞在目的は、ご馳走を食べてのんびりくつろぐということではありませんでした。残されたわずかな時間、イエス様の話をもっともっと聞きたがる人々のために、身分の垣根も、男性や女性といった性の区別も超えて、神様の教えを説くためにここに来られたのです。

 本当に切羽詰まった苦しみの中にある時、平安を与えてくれる方がいれば、何をおいても御言葉を貪るように聴くはずです。そして与えるイエス様の方も、あなたに平安を与えたい、と願い、落ち着いて耳を傾けることを何より望まれるのです。
 この時マリアは姉妹であるマルタが疲れ果てていることも分かっていたかもしれません。しかしイエス様がマリアに向かって、「あなたに聞かせたい」「あなたに与えたい」と心から望んでおられると気づいていたからこそ、イエス様の前から動くことができませんでした。
 彼女はイエス様が今なさりたいと思われることを第一としたのです。それがイエス様への最大の敬意の表れである、というような難しいことはマリアは分かっていなかったかもしれません。ただ彼女のイエス様への信仰がそうさせたのです。

 先週私たちは「善きサマリア人の例え」において、知識だけが豊富にあっても行動しない律法学者に対し、イエス様が「行って行動しなさい」とおっしゃったのを学びました。今回は「行動しないで御言葉に耳を傾けなさい」と言われるのです。今は行動すべきなのか留まる時なのか、心が揺れます。
 このような心の揺れは、キリスト教が成立した初期の教会の時代からあったようです。そこで、奉仕は必要なことだけれど、奉仕する者は、何をおいてもまず聖書の教え、イエス様の教えを聞くことが大前提で、基本である。そこはブレないように、と教えていたようです。
 だからこそイエス様は言われました。あなたはブレているよ。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」これはイエス様に語り掛けられたマルタの目覚めの言葉でした。彼女はイエス様に叱られただけで終わったわけではなかったのです。イエス様が天に帰られたのち、弟子の一人として今のフランスに当たる地方でいくつもの教会を立てあげたと言う伝説が残っています。

 わたしたちは、彼女達に自分の性質を当てはめて自分はマルタタイプだとかマリアタイプだとか言ったりします。しかしそういうことではなく、どんな時にもまず静まってみ言葉に耳を傾け、その上でその場で何をするべきか、つまりイエス様が何をすることを最もお喜びになるか、と考えるのです。自分のしたいことや能力を活かすことを優先するのではなく、イエス様を中心に考える事が何より大切でなのです。
 イエス様のために、最もふさわしい行動を選び取れた時、仮に周りの人々から賞賛を受けなくとも、神様に用いられる喜びが私たちの心に湧き上がってくるのです。



ご近所の方から旬の桃をいただきました
産直のお店で買ったブルーベリーを加えて
夏らしいデザートにして頂戴しました
感謝です



2019年7月26日金曜日

良きサマリア人(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第6主日礼拝(緑) (2019年7月21日)
申命記30:1-14 コロサイ 1:1-14 ルカ10:25-37

 本日の福音書はイエス様の有名なたとえ話ですが、そこにはユダヤ人の「祭司」と「レビ人」と共に、「サマリア人」と呼ばれる人物が出てきます。なぜサマリア人を登場させたのか、イエス様の意図は明確でした。

 紀元前900年代、イスラエルは南北に分かれていました。北がイスラエル王国、南はユダ王国でした。北イスラエル王国の首都がサマリア、南ユダ王国の首都が神殿のあるエルサレムでした。しかし紀元前721年、北王国はアッシリア帝国との戦争に負け、滅びてしまいます。アッシリアは政策として異民族をサマリアへ移住させます。こうしてサマリアで生き残っていたユダヤ人と他民族との結婚が進みました。この人々がサマリア人と呼ばれるようになります。
 北王国が滅亡した後、紀元前500年代の後半、南王国もバビロニアという大国に占領されます。神殿は壊され、王様を始めとして能力のある人々は皆、バビロニアへ連れて行かれました。これをバビロン捕囚といいます。
 バビロニアに強制移住させられたユダヤの人々は、神様への信仰が足りなかったからだと悔い改め、自分の子ども達にも律法と信仰の教育を行い、バビロニアの宗教に染まらないよう熱心に気を配りました。
 バビロン捕囚からおおよそ50年ののち、バビロニア帝国もペルシャによって滅ぼされます。これによってユダヤの人々4万人ほどがエルサレムに戻ります。そして律法を国の中心として再建することを誓い、神殿の立て直しを始めます。
 それを知ったサマリア人は神殿建設の手伝を申し入れます。しかしユダヤ人は、混血が進んだサマリア人達を軽蔑し、断ります。すると今度はサマリア人が神殿建設を妨害し始めたのです。こうして両者は同じルーツを持つにも関わらず、関係がすっかり悪化したのでした。
 
 イエス様から「善きサマリア人」の例え話を引き出したのは律法学者でした。彼は自分の問いかけに対してイエス様が「神を敬い、隣人を愛しなさい」と言われる事を予想していましたが、イエス様は彼に「律法にはなんて書いてあるか」と問い返されます。彼はスラスラと「心を尽くし、精神をつくし、力を尽くして あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい」と述べます。
 イエス様は、まず「正しい答えだ」と言われ、その後続けて「それを実行しなさい」と言われます。そこで彼は「わたしの隣人とは誰か、改めて示してほしい」と開き直ります。そこでイエス様が話されたのが「善きサマリア人」のたとえ話だったのです。
 イエス様はこの物語を通して、あなたの心に愛はあるのか、と問いかけられたのです。
 今瀕死状態になって倒れている人がいます。その人の傍らに駆け寄り、助けようとする心を持たなかった二人の人物は通り過ぎていきます。そこに登場したのがユダヤ人と因縁の深いサマリア人だった、とイエス様は話されます。

 イエス様が登場させたサマリア人はごく普通のサマリア人で、ユダヤ人との関係性に悩むと言った人物ではなかったでしょう。しかし彼の心に、倒れている人を憐れに思う心が湧き上がった、と言われるのです。彼は倒れている人が何人だろうとお構いなく、その心に従って行動した、それが愛だ、とイエス様は言われるのです。
 神の子イエス様は、善きサマリア人の話に込めて、私たちすべてに、誰が追いはぎに襲われた人の隣人に「なった」と思うか、と問いかけます。
 イエス様は条件に合致すれば隣人に該当する、と決めてかかるのではない、と教えられます。自分が愛を向ける対象が隣人としてすでに「ある」のではなく、助けと寄り添いを必要としている人との出会った時こそ、隣人に「なる」ように、とイエス様は教えているのです。
 
 イエス様ご自身がそれを実行され、神の愛を知らなかった私達の隣人になるために、命を投げ打ってくださいました。私達がそこまでイエス様に愛されていることを確信しているならば、すべての立場を超えて、神に示された誰かを愛し、隣人になることができるはずです。



倒れている人をみんなで助けている様子を
レゴで作って掲示板に入れてみました
思ったよりたくさんの方が見てくださるので
嬉しく思っています



2019年7月18日木曜日

道(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第5主日礼拝(緑) (2019年7月14日)
ヨナ書4:1-11 ガラテヤ 5:22-26 ルカ9:51-62


 本日の福音書には「イエス様は天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と書かれています。「天に上げられる」前に十字架にかかって死なれる、ということでもあります。イエス様は強い決意を固めて弟子達と共に出発されたのです。しかし、イエス様が途中の宿泊場所として選ばれたサマリア人の村はイエス様一行を歓迎しようとしませんでした。

 イエス様一行を、エルサレムの祭りに参加する熱心なユダヤ教徒だと思い込んだサマリアの人々は、敵対意識から村に入ることを拒否したのではないか、と推測できます。イエス様から「雷の子」とあだ名をつけられたヤコブとヨハネは「あんな奴ら、焼き滅ぼしてしまいましょうか」と提案します。しかし当然ながらイエス様は二人を強く戒められます。イエス様は、武力で人々を従わせるのではなく、人々に愛を持って仕えることを教えているのに、まだ理解しないのか、とお叱りになったのでしょう。

 一行がさらに先へ進んで行きますと今度は3人の人物が現れます。彼らはイエス様を拒んだサマリア人たちとは対照的に、それぞれに「イエス様に従う」という思いを抱いてイエス様に近づきます。
 一番目の人は「どこへでもついて行く」と言いますが、イエス様はこれから十字架の死に向かっていかれるのです。何も覚悟を決めていない人が、憧れだけでついて来られる道ではありませんでした。
 二番目の人にはイエス様自ら声をかけますが「父を葬りに行かせてください」と返事が返ってきます。三番目の人は「家族にいとまごいに行かせてください」と返事をします。
 せっかくイエス様から「私に従いなさい」とお声をかけていただきながら、「わたしは父を葬らなければならない」と答えるというのは、中近東において、大きな務めや責任を回避するための言い訳だったとも言われています。

 私達は、肉親に何かあれば看護や介護をし、葬儀も行います。家族の用事をしながら信仰生活をしている方々が大半です。そんな私達にイエス様は優先順位を間違えてはいけない、と教えられるのです。一度イエス様を信じる決心したら、妻や夫や子どもの言う事よりも、イエス様の御言葉に従うことを優先させなさい、そこには例外はないのだから、と教えられたのです。
 家族というものは多くの場合、それほど悪気もなくキリスト者を困らせます。「毎週教会に行かなくても、たまには家族と一緒に楽しく過ごそう」そう言われて嫌な気はしないでしょう。そこを振り切って「イエス様第一、礼拝第一」と自分に言い聞かせるのは並大抵のことではありません。

 一方、イエス様の弟子たちは、それぞれにイエス様に従う葛藤を経験しています。ヨハネとヤコブが「イエス様に従わない民族の村など焼き滅ぼしてしまえ」と言ったのは、自分達は犠牲を払ってイエス様に従った、という自負心ゆえだったのかもしれません。ユダヤ人特有の、高いプライドを持った弟子達が、イエス様の教えを正しく学び取るのはまだまだ先のことでした。
 彼らはイエス様の死というものを経験し、厳しい挫折を味わい、一度は人生の目標すら失います。しかし復活のイエス様にお会いして再び導かれた弟子達は、イエス様のメッセージを改めて、確かに、受け継いだのです。
 「イエス様はどんな民族に属する人にも救いの道を開いてくださる」そう確信した遠い過去の弟子達によって、イスラエルから遠く離れた極東の国で、私たちは神様を礼拝する恵みに預かっています。そこにはイエス様に倣って、信仰の道は一本道を歩き通した人々の尊い犠牲があったのです。

 イエス・キリストは、ご自分の歩む道の先に苦難があることをご存知の上で、まっすぐ歩まれるお方です。ならば、私達も苦難にあっても、キリストに倣って耐え忍びながら、神の証、神の恵み、神の愛を覚えつつ、祈りつつこの道を歩んで参りましょう。
 私達がどれほど弱く脆い存在であっても、イエス・キリストご自身が「私が道である」とおっしゃり「ここを歩みなさい」と招いてくださるのです。



牧師館のベランダから見える風景です
向こうの山に雲がかかって朝に夕美しいです
何山と言うのでしょう?
詳しい方はお教えください


2019年7月13日土曜日

7月の土曜学校を行いました

土曜学校(土曜日の教会学校)3回目です

今日も、土曜日に登園するお友達と
もう少し大きいお友達が一緒に礼拝をし
お誕生会を行いました

礼拝では星にちなんでアブラハムのお話
「天を仰いで、星を数えることができるなら
 数えてみるがよい」
「あなたの子孫はこのようになる」

肉眼で見える星というのは、目がとってもよい人が
絶好の条件で観察しても5,000個以下なのだそうです
でも、これはほんの一部にすぎません
この宇宙にはどれくらいの星があることでしょう

神様を愛している人々は星の数ほどに増えて
この日本にやってきて、この幼稚園を作ったんですよ
そうお話すると園のお友達の目が丸くなりました
どうぞ神様に愛されていることを知ってくださいね


礼拝とお誕生会の後は工作です
今日はビー玉迷路の作成です
工作に参加したお友達は二人だけでしたが
お母さんも一緒に作ってくださいました

なかなか難しい迷路ができましたよ

次回は8月
おはじきを使ったサンキャッチャーを作ります
教会の掲示板やこのページを使って予告しますから
見逃さないでね






2019年7月8日月曜日

イエス・キリスト(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第4主日礼拝・聖餐式(緑) (2019年7月7日)
ゼカリヤ12:7-10 ガラテヤ 3:23-29 ルカ9:18-26


 本日共に読みましたルカ福音書には『イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。』と書かれています。この出来事はマタイ福音書とマルコ福音書にも記録されて、どちらもガリラヤ湖の北にあフィリポ・カイサリヤ地方の出来事とされています。

 この町の名は、ヘロデ大王の息子が改名したもので、皇帝アウグストゥスを神として礼拝する神殿を建て、ローマ皇帝に自分の名も加えて、フィリポ・カイサリアと名付けたものです。ここには古くから異教の豊穣神バアルも祀られていました。
 イエス様は、そのような異教の土地に弟子たちを連れて来られ、「私は誰か」と問いかけられたのです。ペトロはこの問いに「神からのメシアです」つまり「あなたは救い主キリストです」と答えるのです。

 ペトロが「あなたはメシアです」と言った時、すぐさま、イエス様は弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じられます。それは、イエス様をメシア、救い主であると認めたことが他の人々の耳に入れば、ローマの権力に楯突く反乱者の団体とみなされ、大変なことになるのが分かっていたからです。

 この後、イエス様はメシアとはどういう存在なのかについて、改めてお話をなさいました。ペトロ達の思い描くメシアというのは、旧約聖書の時代から預言されてきた英雄的存在のことであり、武力を持ってイスラエルを力強く導き、解放する王といったイメージだったからです。
 イエス様は、ご自分は武力ではなく、神様を信じ従って福音の力で世界を変えていくために地上に来られたのだということ、そのためには、長老や祭司長から迫害され、十字架の上で命を落とし、三日目に復活する必要がある、とごご計画を打ち明けられます。
 マタイ福音書とマルコ福音書では、驚いたペトロがイエス様の身を案じ「そんなことがあってはなりません」とイエス様を諌め始めたことを記し、逆にイエス様から「引き下がれ、サタン」という強いお言葉で叱責されたことをはっきり記録しています。

 しかしのちになって、聖霊なる神に導かれたペトロ達は、イエス様が教えてくださった一つ一つの意味をしっかりと理解し、イエス様が神であることを地中海沿岸の人々に宣教して行きます。
 初めのうち、地中海沿岸の人々は、犯罪人として十字架にかかって命を落とした男を神と信じ、その上その人物が死から蘇ったと信じている弟子達を見て、とんでもなく愚かだと思ったことでしょう。嘲りを込めて他宗教の人々が付けたあだ名が「キリスト者」、「クリスチャン」だったのです。
 ですから、「私はクリスチャンです」というのは「私はキリストに結び付けられていて、命を落としてもこの方を救い主と信じる大バカものです」という意味とも言えるでしょう。

 「イエス・キリスト」という名を口にするたびに、私達は、このイエス様こそ救い主だと信仰を言い表し、そこで神のキリストを礼拝するのです。日本という国は、日曜の朝、教会に集うことに理解のある社会とは言えません。しかしそれを辛い迫害とだけ捉えずに、誇りを持って耐え忍び、勇気を持ってキリストに結び付けられていることを証ししてまいりましょう。


説教題を掲示している掲示版の中に
ブロックで「ルター博士と仲間たち」を作って入れてみました



幼稚園の保護者の方から「楽しくなりましたね」と
声をかけていただきました

2019年7月3日水曜日

7月の土曜学校(教会学校)のお知らせです

7月13日(土) 9:30-11:30 教会学校(土曜学校)

今月は第2週に行います

礼拝が終わったら7月のお誕生会
7月生まれのお友達はガラポンで  もれなくプレゼントが当たります

今月の工作はビー玉迷路
教会で用意した箱には、まん中に丸い穴(トラップ)が
あいています

この箱に自分で迷路を作って
ビー玉を入れ
スタートからゴールまで転がします

でき上がったらかえっこして
チャレンジしてみましょう

トラップに引っかからないようゴールできるかな?




朝比奈先生が迷路を組み込んでみました
ちょっと複雑かなあ?
小さなお友達は先生がお手伝いします


2019年7月2日火曜日

愛の大きさ(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(緑) (2019年6月30日)
サムエル下11:26-12:13 ガラテヤ 2:11-21 ルカ7:36-50


 今日の福音書の箇所は「香油を注ぐ」という場面です。4つの福音書にそれぞれ似たような記述があります。本日読んでいただいたルカ福音書7章は、イエス様の人気が高まり始めた頃の出来事で、「赦し」をテーマとして書かれています。
 一方、他の3つの福音書においては、香油注ぎはイエス様が十字架にかかる直前の出来事として「葬りの準備」あるいは「王なるキリスト」がテーマとなっています。

 さて、ルカ福音書のこの女性のとった行動はあまりに大胆です。招かれてもいないのに、よそのうちの宴会に入り込み、後ろから近寄って泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、接吻し、香油を塗るのです。その行為を、イエス様ご自身は、周りがどう言おうとも、心からの奉仕であると理解して受け入れてくだったのです。

 当時、ローマ帝国は大きな権力を持って領土を広げていました。富み栄える場所には、あらゆる人種、あらゆる身分の人々が働き場を求めて流れ込みました。神殿と歓楽街が同居するような様子はあちらこちらに見られたのです。事情があって、罪悪感を覚えながらも歓楽街で働く人も大勢いました。一度転落した人間がまともな世界に戻ることはほぼ不可能だったでしょう。
 しかし、福音記を書き記したルカは、大伝道者パウロとともに地中海世界を宣教して歩く中で、社会の底辺に生きる女性がイエス様の御言葉によって救われ、感謝を持って教会につながっていく様子を何度も見たことでしょう。
 ルカは他の福音記者の描く「イエス様に香油を塗る女性」のエピソードに、地中海の歓楽街で働く女性の姿を重ね見たのかもしれません。そして、イエス様の招きに応じ、イエス様に委ねる者に救いは訪れるのだと示し、イエス様の救いの尊さを伝えようとしたのではなかったでしょうか。

 この日イエス様を招いたのはファリサイ派のシモンでした。彼は自分こそ神に愛されるのにふさわしい、と自信を持ち、できていない人々を心の中で見下したのです。そんなシモンにとって、彼女は絶対に交流を持ちたくないタイプの女性でしが、イエス様を試したいという好奇心から、黙っていたのです。
 そんなシモンの心を見透かしたイエス様は、一つの例えを持ち出します。借金が帳消しにされた時、喜ぶのは額の多い人か少ない人か、と問われます。シモンは当然多い方です、と応えます。
 イエス様はシモンに「あなたは彼女を見下しているがよくない」と直接注意するのではなく、「彼女は罪深い立場でありながら神様から赦されたから、非常に多くの借金を帳消しにしてもらったに等しい喜びを抱き、その感謝の気持ちを表すために、周りの目もはばからず、こうした行為をしたのだ」とお教えになりました。
 多く愛された人の感謝の気持ちはこれほど大きい。しかし少ししか愛されてないと思い込んだら感謝の気持ちも少い。あなたは私に少ししか感謝の気持ちを表してくれなかったではないか。こう言われてしまったら、シモンは返す言葉もなかったことでしょう。

 こうしたやり取りの後、イエス様は女性に向かって「あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい」とお言葉をかけられます。「行きなさい」と言われて彼女の行った先はどこなのかわかりません。ただこれからの人生、何があっても安心して神とともに歩んでいくという、キリスト教の信仰の形が、ここにハッキリと記されているのです。

 「安心して行きなさい。信仰を持って」。この御言葉は私達全ての罪赦されたクリスチャンに向かってかけられた言葉です。いかなるところに赴こうとも、神が共にいてくださる、その宣言なのです。


金曜日は幼稚園の先生方と親睦会を行いました
たこ焼きとバーベキューを美味しくいただきました
H先生と妻がたこ焼きの係でした