聖霊降臨後第5主日礼拝(緑) (2019年7月14日)
ヨナ書4:1-11 ガラテヤ 5:22-26 ルカ9:51-62
本日の福音書には「イエス様は天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と書かれています。「天に上げられる」前に十字架にかかって死なれる、ということでもあります。イエス様は強い決意を固めて弟子達と共に出発されたのです。しかし、イエス様が途中の宿泊場所として選ばれたサマリア人の村はイエス様一行を歓迎しようとしませんでした。
イエス様一行を、エルサレムの祭りに参加する熱心なユダヤ教徒だと思い込んだサマリアの人々は、敵対意識から村に入ることを拒否したのではないか、と推測できます。イエス様から「雷の子」とあだ名をつけられたヤコブとヨハネは「あんな奴ら、焼き滅ぼしてしまいましょうか」と提案します。しかし当然ながらイエス様は二人を強く戒められます。イエス様は、武力で人々を従わせるのではなく、人々に愛を持って仕えることを教えているのに、まだ理解しないのか、とお叱りになったのでしょう。
一行がさらに先へ進んで行きますと今度は3人の人物が現れます。彼らはイエス様を拒んだサマリア人たちとは対照的に、それぞれに「イエス様に従う」という思いを抱いてイエス様に近づきます。
一番目の人は「どこへでもついて行く」と言いますが、イエス様はこれから十字架の死に向かっていかれるのです。何も覚悟を決めていない人が、憧れだけでついて来られる道ではありませんでした。
二番目の人にはイエス様自ら声をかけますが「父を葬りに行かせてください」と返事が返ってきます。三番目の人は「家族にいとまごいに行かせてください」と返事をします。
せっかくイエス様から「私に従いなさい」とお声をかけていただきながら、「わたしは父を葬らなければならない」と答えるというのは、中近東において、大きな務めや責任を回避するための言い訳だったとも言われています。
私達は、肉親に何かあれば看護や介護をし、葬儀も行います。家族の用事をしながら信仰生活をしている方々が大半です。そんな私達にイエス様は優先順位を間違えてはいけない、と教えられるのです。一度イエス様を信じる決心したら、妻や夫や子どもの言う事よりも、イエス様の御言葉に従うことを優先させなさい、そこには例外はないのだから、と教えられたのです。
家族というものは多くの場合、それほど悪気もなくキリスト者を困らせます。「毎週教会に行かなくても、たまには家族と一緒に楽しく過ごそう」そう言われて嫌な気はしないでしょう。そこを振り切って「イエス様第一、礼拝第一」と自分に言い聞かせるのは並大抵のことではありません。
一方、イエス様の弟子たちは、それぞれにイエス様に従う葛藤を経験しています。ヨハネとヤコブが「イエス様に従わない民族の村など焼き滅ぼしてしまえ」と言ったのは、自分達は犠牲を払ってイエス様に従った、という自負心ゆえだったのかもしれません。ユダヤ人特有の、高いプライドを持った弟子達が、イエス様の教えを正しく学び取るのはまだまだ先のことでした。
彼らはイエス様の死というものを経験し、厳しい挫折を味わい、一度は人生の目標すら失います。しかし復活のイエス様にお会いして再び導かれた弟子達は、イエス様のメッセージを改めて、確かに、受け継いだのです。
「イエス様はどんな民族に属する人にも救いの道を開いてくださる」そう確信した遠い過去の弟子達によって、イスラエルから遠く離れた極東の国で、私たちは神様を礼拝する恵みに預かっています。そこにはイエス様に倣って、信仰の道は一本道を歩き通した人々の尊い犠牲があったのです。
イエス・キリストは、ご自分の歩む道の先に苦難があることをご存知の上で、まっすぐ歩まれるお方です。ならば、私達も苦難にあっても、キリストに倣って耐え忍びながら、神の証、神の恵み、神の愛を覚えつつ、祈りつつこの道を歩んで参りましょう。
私達がどれほど弱く脆い存在であっても、イエス・キリストご自身が「私が道である」とおっしゃり「ここを歩みなさい」と招いてくださるのです。
牧師館のベランダから見える風景です
向こうの山に雲がかかって朝に夕美しいです
何山と言うのでしょう?
詳しい方はお教えください
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