2019年7月2日火曜日

愛の大きさ(日曜礼拝のお話の要約)

聖霊降臨後第3主日礼拝(緑) (2019年6月30日)
サムエル下11:26-12:13 ガラテヤ 2:11-21 ルカ7:36-50


 今日の福音書の箇所は「香油を注ぐ」という場面です。4つの福音書にそれぞれ似たような記述があります。本日読んでいただいたルカ福音書7章は、イエス様の人気が高まり始めた頃の出来事で、「赦し」をテーマとして書かれています。
 一方、他の3つの福音書においては、香油注ぎはイエス様が十字架にかかる直前の出来事として「葬りの準備」あるいは「王なるキリスト」がテーマとなっています。

 さて、ルカ福音書のこの女性のとった行動はあまりに大胆です。招かれてもいないのに、よそのうちの宴会に入り込み、後ろから近寄って泣きながらイエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐい、接吻し、香油を塗るのです。その行為を、イエス様ご自身は、周りがどう言おうとも、心からの奉仕であると理解して受け入れてくだったのです。

 当時、ローマ帝国は大きな権力を持って領土を広げていました。富み栄える場所には、あらゆる人種、あらゆる身分の人々が働き場を求めて流れ込みました。神殿と歓楽街が同居するような様子はあちらこちらに見られたのです。事情があって、罪悪感を覚えながらも歓楽街で働く人も大勢いました。一度転落した人間がまともな世界に戻ることはほぼ不可能だったでしょう。
 しかし、福音記を書き記したルカは、大伝道者パウロとともに地中海世界を宣教して歩く中で、社会の底辺に生きる女性がイエス様の御言葉によって救われ、感謝を持って教会につながっていく様子を何度も見たことでしょう。
 ルカは他の福音記者の描く「イエス様に香油を塗る女性」のエピソードに、地中海の歓楽街で働く女性の姿を重ね見たのかもしれません。そして、イエス様の招きに応じ、イエス様に委ねる者に救いは訪れるのだと示し、イエス様の救いの尊さを伝えようとしたのではなかったでしょうか。

 この日イエス様を招いたのはファリサイ派のシモンでした。彼は自分こそ神に愛されるのにふさわしい、と自信を持ち、できていない人々を心の中で見下したのです。そんなシモンにとって、彼女は絶対に交流を持ちたくないタイプの女性でしが、イエス様を試したいという好奇心から、黙っていたのです。
 そんなシモンの心を見透かしたイエス様は、一つの例えを持ち出します。借金が帳消しにされた時、喜ぶのは額の多い人か少ない人か、と問われます。シモンは当然多い方です、と応えます。
 イエス様はシモンに「あなたは彼女を見下しているがよくない」と直接注意するのではなく、「彼女は罪深い立場でありながら神様から赦されたから、非常に多くの借金を帳消しにしてもらったに等しい喜びを抱き、その感謝の気持ちを表すために、周りの目もはばからず、こうした行為をしたのだ」とお教えになりました。
 多く愛された人の感謝の気持ちはこれほど大きい。しかし少ししか愛されてないと思い込んだら感謝の気持ちも少い。あなたは私に少ししか感謝の気持ちを表してくれなかったではないか。こう言われてしまったら、シモンは返す言葉もなかったことでしょう。

 こうしたやり取りの後、イエス様は女性に向かって「あなたの信仰があなたを救った、安心して行きなさい」とお言葉をかけられます。「行きなさい」と言われて彼女の行った先はどこなのかわかりません。ただこれからの人生、何があっても安心して神とともに歩んでいくという、キリスト教の信仰の形が、ここにハッキリと記されているのです。

 「安心して行きなさい。信仰を持って」。この御言葉は私達全ての罪赦されたクリスチャンに向かってかけられた言葉です。いかなるところに赴こうとも、神が共にいてくださる、その宣言なのです。


金曜日は幼稚園の先生方と親睦会を行いました
たこ焼きとバーベキューを美味しくいただきました
H先生と妻がたこ焼きの係でした

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