2020年1月28日火曜日

ONE TEAM(日曜のお話の要約)

総会聖餐礼拝(顕現3) (2020年1月26日)
イザヤ8:23-9:3 Ⅰコリント 12:27-31 マタイ福音書4:12-23

 昨年は、ラクビーのワールドカップが日本で開催され、日本チームは大方の予想を裏切る素晴らしい活躍でした。その日本チームが掲げたスローガンが「ワンチーム」です。私たちの教会は今年はこの言葉の元に活動してまいります。

 ラグビーには「ワンチーム」という言葉の他に、「ワンフォーオール、オールフォーワン」という考え方があり、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために。」と訳されています。ラグビーですから、ここでいう目的とはトライです。一つの目的、つまりゴールのために全員が役割をしっかり果たすのが重要だ、ということなのです。
 イエス様も神様の命を受けて、宣教活動という目的のため、弟子を集め、ご自身のチームを作られました。
 今日の聖書箇所で、イエス様の先触れとしてヨルダン川で人々に悔い改めを促したヨハネが「捕らえられた」と書かれています。彼はヘロデ王を批判したかどで牢に入れられたのです。
 この知らせを聞いたイエス様は、ご自身がお育ちになったガリラヤ地方に戻られます。参考までに、ヨハネが洗礼活動をしていたと言われるのは、死海のすぐ上のベタニア周辺であったようです。(ベタニアは地図には二つあって、マルタとマリアの住んでいた村ではない方です)
 ここから地図のずっと上の方にヨルダン川をたどっていくとガリラヤ湖があります。
 ガリラヤ湖の西側にあるティべリアスはローマ人の保養地もあるような大きな街でしたが、ガリラヤは全体的には田舎です。ヨハネ逮捕で状況が悪くなったと見たイエス様が宣教を中止して一回田舎に撤退した、と取られかねません。しかしイエス様がエルサレム周辺に留まるのではなく、ガリラヤに戻られたことは、本日のイザヤ書にもあるように、神様のお約束だったのです。
 イエス様は暗闇に住む民の心に大いなる光を差し込ませるため、ガリラヤに戻られたのです。

 弟子集めを開始されたイエス様がペトロとアンデレをご覧になった時、彼らは湖に網を投げているところで、イエス様など見てはいませんでした。この時二人は素の自分達を晒していたわけです。
 兄弟ですから、かしこまった会話などしません。幾分荒っぽく、傷つけ合う言葉も交わしていたでしょう。自己中心の屁理屈や、自分こそ正しくお前は間違っている、そんな傲慢な物言いもあったに違いありません。
 そういう様子も、イエス様は見ておられたのです。彼らの罪だらけの日常の一場面をイエス様は見守っておられたことでしょう。

 イエス様が地上に来られたのは、この世を救いに導くためが第一の目的ですが、もう一つ、旧約時代の預言者のように、神様の言葉を預かり、王様にも民衆にも、身分の高い低いを問わず世界の全ての人々にみ言葉を伝える伝道者を育てることでした。
 そのためにイエス様が見つけ、最初に白羽の矢をたてたのが、ペトロとアンデレだったのです。漁師の兄弟の中に、イエス様は何をご覧になって弟子に招かれたのか、私たちにはわかりません。しかし使徒言行録などを通して、彼らが伝道者として命をかけていく記録を見れば、イエス様のお見立てに間違いはなかった、と思わざるを得ません。

 先週お話ししたヨハネ福音書では、弟のアンデレはもともと洗礼者ヨハネの弟子であり、ヨハネに示されてイエス様の弟子となって、その後で兄であるペトロを紹介した、となっています。
 それに対して、マタイ福音書とマルコ福音書は、声をかけられた時、ペトロもアンデレも、そしてヤコブとヨハネも、すぐに従ったと記しています。それも網を捨てて従った、自分の仕事を投げ捨てて従った、と記している。まさにこの時を待っていた、このタイミングを待っていたという感じすらします。
 どちらがより事実に近いのか、わかりません。しかし大切なのは、彼らはイエス様にお声をかけていただいた時、そのタイミングを逃さなかった、ということです。心の闇にイエス様の光が差し込んだ時、彼らは躊躇せず立ち上がりました。今の自分が弟子にふさわしいかどうかと悩んだり、こいつと一緒なら嫌だとか、そういうことは一切彼らの中になく、招いてくださったイエス様を信じ、宣教するチームの中に飛び込み、役割を果たしながら成長していったのでしょう。

 本日は教会総会です。総会というのは、昨年1年の歩みを報告を通して振り返りつつ、今年度の歩みを確かなものとするための、重要な会議です。聖書を通して与えらえている神の言葉に耳を傾けながら謙虚に行わなければなりません。
 いつも順風満帆というわけではなく、むしろ逆風に悩まされるのが教会なのかもしれません。けれども、イエス様は私たち一人一人が心に闇を抱えていることをご存知の上で、そこに光を差し込ませてくださいました。そしてここにいる一人一人を引き合わせて、この社会の中で、救いの業を行っていくワンチームとなっていけ、と命じてくださるのです。

 神様から与えられたこの場所で、乳幼児から高齢者まで、備えられた関わりを大切にしながら、まずは信仰を持つもの同士がワンチームとなりましょう。この1年も、み国の前進の為にタッグを組んで参りましょう。



HPに掲載する教会外観写真を新しくしようと
正門前に行ってみました
いざ写真を撮ろうとすると、幼稚園の洗濯物が翻っています
これがこの教会のありのままの姿なのです


園庭で遊ぶ子どもたちはこちらを目ざとく見つけ
「いい写真を撮ってね」と激励してくれました😊

2020年1月20日月曜日

神の小羊(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝 (2020年1月19日)
イザヤ49:1-7    Ⅰコリント1:1-9 ヨハネ福音書 1:29-42

 マタイ福音書では、いきなり現れたイエス様に洗礼者ヨハネが戸惑う様子が記録されていましたが、本日の福音書では、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを、新しい時代の幕開けと捉え、神様がいよいよ人間と新しい関係を築こうとしてくださることが描かれています。
 そのキーワードがイエス様の代名詞でもある「神の小羊」です。
イスラエルの羊料理の中でも小羊というのは、柔らかくて美味とされ、かなりの御馳走になります。そこから「特別なもの」「尊いもの」を指す言葉として使われるようになりました。

 聖書の中から小羊という言葉の出てくる箇所を3箇所あげてみたいと思います。
 まず第一は、有名な「苦難の僕」とも言われる、旧約聖書の預言の書、イザヤ書53章の言葉です。ここには、イエス様が私達の罪を背負うため、私がかかるべき十字架にイエス様は身代わりになってかかってくださったことが書かれています。その昔、神様に自分の罪を赦していただくために生贄として毎年小羊を捧げていました。しかしイエス様が犠牲の子羊になってくださったので、私は赦され、生きている、という内容です。

 二つ目は、過ぎ越しの小羊としてのイエス様のことです。出エジプト記において、小羊の血を鴨居に塗っておけば、その家族で一番最初に生まれた子どもの命を奪わないという約束がありました。その出来事を忘れないために、小羊の血に意味を持たせました。

 三つ目が、世の中の終わりに現れて、世の悪を裁く「終末的な小羊」です。ヨハネの黙示録では、暴力的な国が世界を支配し、小さな国が脅かされる時、小羊があらわれ、新しい世界を用意してくださる。そのように記されています。

 洗礼者ヨハネはイエス様の中にこういった「子羊」のイメージを全て見たのでしょう。神様の救いの計画がいよいよ始まっていくのだと感じ取り、イエス様のことを「神の小羊」と指し示したのです。
 神様のご計画は、洗礼者ヨハネの想像をはるかに超えるものでしたが、イエス様に神の霊が降るのを見て、イエス様が何者であるかをはっきりと知ります。ヨハネは、イエス様は「神の小羊、神の子」であると信仰告白するのです。

 そこで洗礼者ヨハネは自分の弟子をイエス様に託そうとします。そのうちの一人がペトロの弟でのちの12弟子の一人のアンデレであった、と記されています。
 ヨハネ福音書によれば、ペトロもイエス様と会う以前に洗礼者ヨハネから洗礼を受けています。洗礼者ヨハネは、自分の弟子だったアンデレを通して、ペトロをイエス様に引き合わせるのです。あなたたちが、これから従っていくのは、私ではなく、このイエス様だと、語っているのです。こうして洗礼者ヨハネは、その中心的な働きを終えていきます。

 これから間も無く、洗礼者ヨハネはヘロデ王に捕らえられ、死刑になります。ヘロデの義理の娘が踊りを踊り、その褒美にヨハネに首を所望する、というものです。このな
ヨハネの最期はマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に記されており、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」として演じられていますので、ご存知の方も多いかもしれません。

 ヨハネ福音書には「サロメ」的な記述はありませんが、本格的に活動を始めたイエス様を見たヨハネの弟子たちが「みんなあの人の元に行ってしまう」と焦ったように報告しています。それに対してヨハネは「あの人はメシアなのだからそれが当然で、自分はあの方の先ぶれとして登場したに過ぎない」と答えます。「あの方が栄え、私は衰えるが、喜びに満たされている」とも語るのです。

 洗礼者ヨハネは神の国が近づくと宣言し、民衆の心を神様に向けさせ、準備を行いました。そしてイエス様と出会って自分の引き際を悟ると、自分の弟子をイエス様に結びつけ、役割を終えます。その引き際は見事としか言いようがありません。
 ヨハネとイエス様はまさに一つのチームとなって、人々を、そして我々を神様のもとに導いてくださったのです。



牧師館の物干し台からは毎日表情を変える山々が望めます
赤石山脈だとも言われましたが
実は私は地理がまだよくわかっていません(^^;)

2020年1月14日火曜日

主の洗礼 (日曜日のお話の要約)

主の洗礼日礼拝 (2020年1月12日)
イザヤ42:1-9  使徒言行録10:34-43 マタイ福音書3:13-17

 本日の福音書は、イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受ける場面です。イエス様が洗礼を受けられたことは4つの福音書の全てに記録されていますが、このマタイ福音書には、洗礼を望むイエス様に対し「ヨハネはそれを思いとどまらせようとして」という言葉が出てきます。

 この箇所全体をもう少し詳しく見てみますと、ヨハネはイエス様以外の人にも、洗礼を拒もうとした様子が描かれています。

 7節ではファリサイ派やサドカイ派の人々を強い口調で否定しています。
 サドカイ派というのは、神殿で神に仕える祭司や上流階級の人々で、政治家でもありました。彼らはローマと政治的な駆け引きも行わなければならなかったので、腹黒さも持ち合わせており、信仰的な想いだけで神に仕える人々ではなくなっていました。
 もう一方のファリサイ人は律法を民に教える専門家で、宗教儀式や決まり事を守ることこそ神様に喜ばれると信じており、律法を守れない人々を見下し、交流することを拒みました。思い上がったその心や態度は、神様から遠く離れていたと言えます。

 ヨハネは、こうした人々には悔い改めが無く天の国に入る資格はない、と宣言しました。ただし、その一方で、ルカ福音書においては、たとえ忌み嫌われる徴税人であっても悔い改めた人には洗礼を施したようです。ヨハネは神の代理人として、人々の心のうちを見抜いたのでしょう。

 さて、ではイエス様がヨハネの元に洗礼を受けに来たとき、なぜヨハネは授けるのを拒んだのでしょうか。
 イエス様がヨハネの元に来る少し前、ヨハネはこのように言っています。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」
 当時の社会で靴をがせるというのは奴隷の仕事でしたが、後から来られる方はあまりにも尊いお方なので、自分はその履物に触れる資格すらない。救い主に対する徹底したヨハネの謙遜が現れています。
 そしてまた、続けて言います「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」人々の中にある罪の部分を清め、悪しきところを焼き払ってくださる、容赦なく、強い救い主のイメージがあります。

 イエス様が突然ヨハネの前に現れたとき、ヨハネはこの方が何者であるのかを一瞬にして見抜来ます。とはいえ、ヨハネのイメージしていた救い主とはかなり違っていたようです。
 イエス様はこの時、世間ではまだ何者でもなく、洗い清めるべき一点の罪もない、という以外には、どこにでもいるような平凡なイスラエル人に見えました。しかしイエス様が洗礼を受ける必要などないことは明らかなのです。それなのに、悩める多くの罪人に混じってヨハネからの洗礼を希望しているのです。
 力強く世の悪を裁きを行う方のはずなのに、これは一体どういうことなのか、ヨハネはこのギャップを受け入れることができず、「イエス様、謙遜にもほどがあります」と叫びたかったことでしょう。

 そのようなヨハネに、イエス様は静かな口調で語りかけます。「今は止めないでほしい。正しいことを全て行うのは我々にふさわしいことです」

 イエス様は、ヨハネの前で罪に苦しむ無数の人々が列を作るのをご覧になりました。そして彼らと共に歩むことを望まれたのです。なんとか新しく生きなおそうともがいている彼らの姿を、高みから見物なさるのではなく、ご自分も「罪人のひとりと数えられ」、一人一人の真実の友となるために、彼らと同じ洗礼を受けることを望まれ、そこから働きを始めることこそ、神様のご計画にふさわしい正しい、と決心してくださったのです。

 ここに集まる私達の多くは、神に招かれて洗礼を受けました。しかしその後の生活はどうでしょうか。このままではいけない、という思いは心の奥にありながらも、「こんな私でも神様は愛してくださるのだから」と開き直ったり、他の言い訳を用意して神様に従わない逃げ道を作ってしまうものです。しかし、洗礼を受けた事実は、永遠に変わらない事実なのです。それがたとえ何十年前の体験であっても、洗礼とはイエス様が私と共に歩んでくださる証です。
 何一つ罪のないイエス様が私の生涯の友となってくださった事実を示しているのです。このイエス様の元に立ち返りながら私たちは信仰生活の歩みを進めてまいりましょう。


13日(月)甲信地区の牧師家庭の集まりがあり
諏訪湖に行ってきました
さぞ寒かろうとかなり厚着をしていったのですが
「これでいいのか?」と思うくらい暖かでした


諏訪湖から遠くの山々を臨む

2020年1月11日土曜日

1月の土曜学校を行いました

1月11日(土) 9:30-11:30

土曜学校(土曜日の教会学校)9回目です

2020年始めの土曜学校
礼拝の教材はオリジナル紙芝居「ちいさいころのイエスさま」
小さな赤ちゃんのイエス様が
あっという間に立派なおヒゲのおじさんになったのではなくて
みんなと同じ小さい頃があったんだよ、
怖い王様に殺されそうになって危なかったけど
神様が守ってくれたよ
そんなお話しでした

礼拝の後はお誕生会と恒例のクラフト
今回はHくんのリクエストでスノードーム

百均で購入したフィギュアをジャムの瓶の蓋に接着
グリセリンの水溶液を作って
ネイルに使うキラキラを入れました

どういうわけか溶液が濁ってしまう人と透明な人の差が出て
要研究といったところです
濁りの問題が解決したら
夏に「サマーバージョン」を作ってみるのもいいかもしれません

N.Iちゃんのドームは濁りがなく綺麗です

Yちゃん、瞬間接着剤が手について大苦戦
最後は綺麗にできました

K君、オカメインコのフィギュアを使いました
両手でそっと差し出す仕草が優しいです

Mちゃんもオカメインコ


N.Mちゃんのリス、面白いです
このドームも濁りが出ませんでした



最後は恒例の記念写真
また来月ね

2020年1月6日月曜日

神の豊かな恵み(日曜のお話の要約)

降誕後第2主日礼拝・聖餐式(白) (2020年1月5日)
エレミヤ31:7-14  エフェソ1:3-14 ヨハネによる福音書1:1-18

 本日与えられたました福音書は、ヨハネによる福音書です。著者のヨハネは12弟子の一人で、イエス様に愛された弟子と自称しています。またキリスト教が大迫害にあった時も、殉教せずに生き延びた弟子と伝えられており、かなり長生きしたようです。

 ヨハネは当時の思想の中心だったギリシャ哲学も学び、様々な学問にも触れ、影響も受けています。しかし彼は、そういったことをいくら学んでも、永遠の命や罪からの救いはない、と言い切ります。イエス様こそすべてであり、全てはイエス・キリストご自身に帰って来ると心から信じ、そう述べているのです。

 本日のヨハネ福音書の1章1節「初めに言があった」という書き出しを目にして、ピンと来る方も多いでしょう。これは旧約聖書の創世記の書き出しと同じです。創世記には「初めに、神は天地を創造された」と書かれています。ヨハネは意識して創世記の書き出しと揃えているのです。

 ヨハネを含めて、ユダヤ教を信じる人々は、神様から遣わされた救い主が自分たちの元にやって来る日を何百年も待ち続けていました。しかし実際に世に来られたイエス様と多くのユダヤ人が抱く救い主のイメージとの間にはギャップがあり、ついには完全に否定して十字架にかけて殺してしまったのです。
ヨハネはイエス様が処刑されるとき、十字架のそばで見守りました。それは胸が張り裂けそうな体験だったことでしょう。しかし確かに息を引き取り墓に納められたはずのイエス様は3日目に蘇り、ヨハネたち弟子の元に戻って来てくださったのです。

 それまでヨハネは「イエス様とは神様から遣わされた特別な存在」と信じてはいましたが、この出来事を境に「イエス様御自身が神様である」ということに気づくのです。その思いを表わすために、ユダヤ人なら誰でも知っている創世記の1章1節の御言葉と重ね、イエス様こそすべての初めである、と書き出したのです。
 
ヨハネの書き出しはギリシャ哲学に影響されているので、抽象的で回りくどく思うところがあります。ですから、いっそこの「言」ことばと書いてあるところを全部「イエス様」と置き換えて改めて読んでみたら理解の助けになるかもしれません。

 「初めにイエス様があった。イエス様は神と共にあった。イエス様は神であった。このイエス様は、初めに神と共にあった。万物はイエス様によって成った。成ったもので、イエス様によらず成ったものは何一つなかった。イエス様の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
少し飛んで、10節です。
イエス様は世にあった。世はイエス様によって成ったが、世はイエス様を認めなかった。イエス様は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、イエス様は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
この「自分を受け入れた人」(イエス様を受け入れた人)と言うのはわたしたちのことを指しています。
イエス様は神様でありながら、肉体を持って、つまり人間となってわたしたちの間に住んでくださり、神様の想いの全てを伝えてくださったのです。私たちはそれを信じ、受け入れたので、平凡な人間でありながら「神様の子」、神様に愛される存在となったのです。

 「ローマ皇帝こそ神である」と崇めたてまつる社会の中で、イエス様だけが神だ、と口にし、迫害されてもなおそれを書き記す事は信仰と勇気の試されることであったはずです。しかしヨハネは信仰を持ってやり通し、のちの時代に伝えたのです。
 それは今の日本も同じです。日本社会の中で、イエス様こそ私の神なのから、他の神様に腰を屈めることはできない、とはっきりと自覚すると、毎日の生活の中で不都合なことはたくさん出て来ます。

 日本でも、西洋のこよみに倣って日曜が休みの職場はたくさんありますが、それは神様を礼拝するためではなく、学生なら部活の練習であったり、大人なら自分の趣味や家族サービスといったことに用いられるのが普通です。そこをあえて教会に礼拝に行くといえば、周りから変人扱いされかねませんし、人間関係がぎくしゃくすることもあるでしょう。これが今の日本社会における「見えない迫害」なのです。

 しかし、神様は私を、私たちを愛してくださり、関わりをもってくださり、必要なものは全て与えてくださいます。神様が私という小さな一人を選び、信仰に生きよとこの小さな群れに招いてくださいました。この世の闇に流されながら生きるのではなく、踏みとどまって光に生きよと示してくださったのです。一人一人がその御声に従い、神の豊かな恵みの年となりますように。私たちが一つのチームとなり、試練の時も仲間を信じ、神様の愛に信頼して、私たちの手でキリストの体である教会をこの地に与えられたキリストとして作り上げて参りましょう。


1月1日の新年礼拝では高校生のNさんがアコライトを
務めてくれました



2020年1月3日金曜日

時が満ちる(元旦礼拝のお話の要約)

元旦聖餐礼拝(白) (2020年1月1日(休・水))
ガラテヤ 4:4-7 ルカによる福音書 2:15-21


 新年あけましておめでとうございます。
 私は昨年4月から、この飯田ルーテル教会に赴任しました。皆さまの名前も十分に覚えられない状態で復活祭を共にお祝いしてから、振り返ればあっという間の出来事でした。

 2020年の大仕事は何と言っても、会堂や園舎の改築、もしくは、改修のための手続きです。必要な書類を提出するのがこの6月の半ば頃に迫っていますので、私たち人々一人一人、十分な話し合いをし、お互いの理解を深めていかなければなりません。
 大変なことですが、そうしなければ後になってああすればよかったこうすればよかった、という後悔が残り、せっかく皆で作り上げたはずのものが愚痴と批判ばかり、ということになりかねません。

 「日本福音ルーテル飯田教会」そして「飯田ルーテル幼稚園」という名前は長い間受け継がれてきた、唯一無二のものです。多くの先達が愛してきたこの名前を、私たちも大切にし、誇りを持って未来に手渡していく必要があります。

 本日の元旦聖餐礼拝で、もう一つ、私たちが大切に心に刻む名前があります。いうまでもなく「イエス」というお名前です。「イエス」という名前は当時のイスラエルでは決して特別な名前ではありません。しかし「神様が救ってくださる」という重要な意味を持っています。

 時折、イエスが名前、キリストが苗字と思われる方がいるようですがそうではありません。イエス様の時代は庶民には名乗るべき苗字がなかったようで、「どこそこのだれだれ」とか「誰の子だれだれ」という言い方をしていました。その言い方をするならイエス様は「ナザレ出身のイエス」であり「ヨセフの子イエス」となります。

 では「キリスト」とは何かというと、一種の肩書きで「救い主」という意味です。そもそもは「神に油注がれた者」という意味で、特別な使命を神様から与えられた人に与えられるものでした。それをイエス様の国の言葉であるヘブライ語でメシヤと言います。
 これをギリシヤ語に翻訳するとキリストとなります。ちょっとややこしいですが、聖書の中では「メシヤ」と書かれることも多いので覚えておいていただければと思います。

 イエス様は「救い主」という肩書きを持ってとこの世に生まれました。神様から、「ご自分の民をその罪から救う」という使命を持ってこの世に来られたのです。
 イエス・キリストご自身が、この使命、この救いのわざがどういうものであるか語っておられる御言葉があります。ヨハネによる福音書の5章24節です。
「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを得、また、裁かれることなく、死からいのちに移っている。」。
 イエス様が救おうとなさっている「ご自分の民」というのは決して特別な人々ではありません。
 イエス様の御ことばを聞き、遣わしてくださった神様を感謝を持って信じるなら、死んだ後も天国において永遠のいのちを与えられ、また生きている間に罪ばかりおかして悔いた者でも「地獄行き」という風に裁かれることは決してない。何という尊い呼び名でしょうか。この名のあるところに集まれることは幸せなのです。

 私たちはこれからさらに信じあい、目の前にある出来事を一つ一つ乗り越えながら共に前進してまいりましょう。 飯田教会と飯田ルーテル幼稚園の、すでに100年を超える歴史を共に恵みとして担えることを喜びとし、この1年の始まりを喜びと感謝を覚えながら歩んで参りましょう。


ちょっとピンボケですが(^^;)
元旦礼拝はオルガニストの皆さんにはお休みいただき
牧師のギターで賛美しました