2023年2月26日日曜日

「悪魔の誘惑」(日曜日のお話の要約)

四旬節第1主日礼拝(紫)(2023年2月26日)
創世記3章1-7節(3) マタイによる福音書4章1-11節(7)


 本日私たちは「悪魔の誘惑」という話を聞いて参ります。これまで何度もこの聖書箇所からお話をしてきましたが、今までは「荒れ野の誘惑」とか「誘惑を受けるイエス様」というタイトルを付けてきました。説教題に「悪魔」という言葉を取り入れると、皆さんがなんとなくアレルギー反応を起こすのではないか、と思ったからです。

 しかし今回、説教準備のための黙想をする中で、「悪魔」という存在は決して抽象的なものではなく、確かに、私たちのすぐそばにいるということを聖書から学び、しっかりと捉えておかなければならないと思ったのです。

 本日は福音書の前に創世記を読んでいただきましたが、そこには人間の堕落について書かれています。神様が用意してくださった何不自由ない楽園の中で、最初の人間たちがまんまと蛇の誘惑に引っ掛かったことが記されています。後の時代に、この蛇は、悪魔の化身、悪魔そのもの、と解釈されるようになりました。


 神様と人間が仲良く過ごしていると、悪魔は嫉妬に駆られたかのように忍び寄って割り込んできます。神様に付け入る隙はありませんが、人間は隙だらけです。神様への信頼をちょっとぐらつかせるだけで、あっけなく悪魔の計略に引っかかるのです。


 聖書は蛇について「賢いもの」と記していますが、原典の意味の中には「滑稽な」とか「狡猾な」という意味もあります。注意を引くために、わざとおどけたふりをする、というニュアンスで、人間はそういった存在をあまり警戒しないので、単純な罠にも引っ掛かりやすいのです。


 創世記では、少々滑稽な姿で近づいて警戒心を解き、巧みな言葉で「この木の実を食べないように命令したのは神様の身勝手だ」と思わせるすり替えが行われているのですが、人間は気がつきません。そんな人間のシンプルさは、それ自体が罪、というわけではありません。悪いのはどう考えてもそれを利用した悪魔の方です。悪魔の目的は、神様が創られた世界を台無しにすることでしたから、その手段として、人の心に「この世界を自由にしてみたい」という思いを忍び込ませたのです。


 最初はたかが「木の実一個」に対する好奇心でした。しかしそれを自分の気の向くままに食べてみたいという欲望を抑えられず、神様の言葉より悪魔の言葉を信じて行動したことが神様と人間の間に決定的な亀裂を産んでしまったのです。


 人間はこの世界を作ってくださったのは神様から世界の管理人として選ばれたことを喜んで、ただ一つの「食べてはいけない」という神様のご命令を心に刻んでいればいつまでも幸せに暮らせたのに、神様の存在を無視して好き勝手したい、いっそ自分が神様に取って代われば良い、と考えるように悪魔は誘導したのです。


 結果としてまんまと悪魔の手に落ちた人間は楽園から追い出され、神様との関係を見失います。それからというもの、人はドミノ倒しのように間違った方向に文明を発展させていきます。武力によって強大な権力を手にしたリーダーたちは「自分こそ神だ、自分を崇めろ」と言い始めるのです。


 イエス様がお生まれになった2000年前のイスラエルは、ローマ皇帝が「私は神だ」と傲慢な宣言をし始めた時代です。そんな時代に真実の神の子であるイエス・キリストの、十字架に至る人生が始まるのです。


 本日ご一緒に読みました福音書には、イエス様が悪魔から三つの誘惑をお受けになる出来事が記されています。その最初の誘惑が有名な「パン」の試練です。悪魔の言う「神の子なら、石がパンになるよう命じたらどうだ」という誘惑に対し、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、申命記からの引用でお応えになります。このお答えの背景には、イスラエルを虐げるローマ帝国の政策があったと考えられます。


 大国であるローマは広大な領土を支配しました。そのローマが民衆をコントロールするために編み出した政策が、無償でパンを与え、タダで見られるサーカスのような娯楽を発展させる、という方法でした。「パンとサーカス」さえあればローマ市民は満足し、政治に無関心になり、扱いやすくなる、という考え方です。「パンとサーカス」という言葉は今も物質主義への警告として使われています。


 政治家はいつも清廉潔白というわけではありません。パン、つまり今で言うならそこそこの経済的安定を与えることで、民衆が深く物事を考えない状態に留めておき、その陰で政治家自身の欲望を満たそうとするのです。


 ですから、ここで言われている「石をパンに変えてみろ」という悪魔の思惑は、人というのは毎日のパンに不自由しない時には権力者の批判もしないし物を考えなくなるのだから、救い主でもあるお前も同じように奇跡を用いてパンでも提供してやれば、苦労して神様の愛を持ち出さなくても、人は救えるだろうという提案だったのです。

 しかしイエス様はそんな悪魔の誘惑に全く動じず、神様を信じ抜くことで悪魔を追い払えることを教えてくださり、力を与えてくださるのです。


 つい最近のこと、節分の行事が街でも、またこの園でも行われていました。そのことをある園児が非常に気にして私に話しかけてきました。「この前、飯田の町中に悪魔がいっぱいいたけど、豆で追い出した悪魔はまだいるのかな、また戻ってきたらどうしたらいい?」と真顔で聞いてくるのです。

 私は「イエス様によって、出ていけ」と命令してやればいい、と教えました。私たちも心に誘惑や恐怖、もやもやしたものを感じる時、幼子のように素直になって、「イエス様によって、出ていけ」と命令し、平安を取り戻しながら共に前に進んでまいりましょう。



土曜教会学校は大抵は第1土曜日に行うのですが
3月は園の大掃除と被っているため
第2土曜日になりました
紙コップを使って動くおもちゃを作ります
最近の話題に乗っかって
パンダの姿をしています
さて子どもたちは喜んでくれるでしょうか


2023年2月20日月曜日

「白く輝く」(日曜のお話の要約)

主の変容(緑)(2023年2月19日)短縮
ペトロの手紙2 1章16~21節 マタイによる福音書17章1~8節


 今日お話しするのは新約聖書の中の「イエス様の姿が変わる」と書かれているところです。聖書にはイエス様のお姿が「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と書かれています。


 イエス様はいつもは他の人と同じ服を着て、特別に目立つ人ではありません。ところがこの日、3人の弟子を連れて高い山に登られると突然「白く輝くお姿」に変わったのです。これはイエス様の神様としての本当のお姿でした。


 光り輝く雲も現れ、その中から「これは私の愛する子」という声が聞こえました。一緒に山に登った3人の弟子、ペトロとヤコブとヨハネはそれを聞いて「神様のお声だ」と分かってとても怖くなり、目も開けられなくなりました。


 しかしいつの間にか雲は消え、イエス様も元の姿に戻って、弟子たちに「怖がらなくても良い」と優しく声をかけられます。3人はイエス様が自分たちにこのお姿を見せてくださったのはなぜだろう、と考えながら山を降りて行きました。


 ところで、イエス様が山の上で光り輝く姿になった時、モーセとエリヤが一緒にいた、と書いてあります。モーセもエリヤも、旧約聖書に登場する立派な人で、どんなに大変なことがあっても神様を信じ抜いたことで有名です。

 モーセとエリヤはなんのためにイエス様に会いに来たのでしょう?ルカ福音書は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」と書いています。つまり、彼らはイエス様がこれから十字架にかかることについて話し合ったのです。


 「イエス様、これから大変ですが最後まで我慢してください」と言いに来たわけではないでしょうが、もしかしたらそれに近い話し合いだったのかもしれません。

 イエス様はもともと神様なので、モーセやエリヤと話すとき、白く輝く本当のお姿に戻っていたのでしょう。まるで正義の味方のヒーローが悪と戦うために変身したようです。


 テレビや映画に出てくるヒーローは変身するととても強くなり、悪者を倒します。イエス様も十字架にかけられた時、真っ白に光り輝いて十字架の釘を引き抜き、兵隊を追い払うこともできました。しかしイエス様はそんなことはしませんでした。

 それどころか鞭打たれ、唾を吐きかけられ、茨の冠を被せられ、棒でたたかれ、やりで突き刺され、傷だらけになって、十字架に釘付けにされました。イエス様の弟子たちは怖くなって逃げてしまい、イエス様を助けてくれる人は誰もいません。


 それでもイエス様はご自分がピンチから助かるために神様の姿に戻ろうとはなさいませんでした。イエス様がこの世界に来られたのは、私たちの身代わりになって十字架にかかって死ぬことだったからです。

 イエス様は私たちを愛してくださったので、私たちの醜い心が神様から罰を受けないよう、私たちをかばって身代わりになって罰を受け、死なれたのです。


 そして三日目に蘇り、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちのところに帰ってきてくださいました。弟子たちはその時、イエス様は本当に神様で、自分たちが神様に赦されたことを知ったのです。


 やがてイエス様は天国へ帰っていかれましたが、弟子たちはイエス様がしてくださったことをどんどん伝えていきました。すぐに信じてくれる人ばかりではないので、苦しいことや辛いこともありましたが、イエス様の苦しさを考えると最後まで頑張れたのです。


 山の上で白く輝くイエス様のお姿を見た弟子のペトロも、たくさんの人に「イエス様は素晴らしい神様だ」と伝えました。そして自分の見たことを手紙に書きました。「私はイエス様のお姿が変わるのを見て、神様の声も聞きました」「イエス様は確かに神様の子なのだから、苦しいことがあっても信じていきましょう」と呼びかけました。それがさっき読んでもらったペトロの手紙です。この手紙はたくさんの人に読まれ、たくさんの人がイエス様を信じました。


 こうしてキリスト教は世界中に広り、東アジアに住む韓国の人や日本の人のところにまで届いたのです。


 イエス様は今も昔も変わりなく、私たちの心の中の汚いものや醜いものを喜んできれいにしてくださいます。私たちもイエス様を信じ、イエス様と同じように雪のように白く輝く心にしていただきましょう。


 来週から「四旬節」と呼ばれる期間に入ります。これはイースターの前日までの日曜日を除く40日間のことです。イエス様が十字架にかかって命を捨てられたのは、私たち一人一人を愛してくださったからです。私たちは神様に愛されるためにこの世に生まれてきたのです。それを信じて過ごして参りましょう。




昨日は下伊那郡宮田村に短期留学している

韓国の中学生が礼拝にやってきました

中学3年生21名、通訳さん、先生、宮田村のスタッフ

総勢28名の大所帯です


コロナ禍前、一度交流のため小学生を引率して来た校長先生が

中学に転勤されて、今度は中学生を引率してきた、

ということのようです

その時は幼稚園主体で

園児との交流を楽しみ、大人しく(笑)礼拝にあずかって

帰っていったそうです


飯田周辺にキリスト教会はたくさんあるのに

なぜ飯田教会のような、建物も古く

小さな教会に来られるのか謎でしたが

校長先生は前回きっと楽しかったのでしょうね


でもまだ日本はコロナの影響下にありますから

幼稚園としては園児との交流は避けたいとのことでした

そこで教会のこども聖歌隊に参加してもらうことにして

一緒にゲームをした後、礼拝で共に賛美しました

お話をいただいてから準備期間があまりなかったので

「なんとかなった〜(^▽^;)」と言うのが

正直な感想ですが

楽しそうに帰っていかれたので良しとしましょう


それにしてもみんな中学3年生とは思えない体格の良さです

教会員一同、圧倒されっぱなしでした


こども聖歌隊「君は愛されるため生まれた」

中学生も日本語で「君は愛されるため生まれた」を
歌ってくれました

20人全員は聖壇にあげられないので
半数は会衆席で賛美してもらいました


楽しく記念撮影



2023年2月12日日曜日

「キリストの群れ」(日曜日のお話の要約)

顕現後第6主日礼拝(緑)(2023年2月12日)
コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章9節(302)
マタイによる福音書5章21-26節(7)

 マタイによる福音書5章21節、この段落には「腹を立ててはならない」と小見出しがつけられています。「腹を立ててはならない」とはっきり記しているのはマタイ福音書だけです。信仰によって結ばれている仲間(兄弟姉妹)に腹を立ててはいけない、早く和解しなさい、と教えるのです。しかし「腹を立ててはいけない」はあまりにもハードルが高い教えだと思われるでしょう。


 先日から、マタイ福音書はユダヤ人クリスチャンを読者に想定して書かれた、というお話をしてきました。マタイ福音書だけに書かれている「腹を立ててはいけない」という教えはどうやらその辺りに関係しているようです。


 世界史でも習うことですが、イスラエルという国はかつて紀元70年に神殿もろともローマ帝国によって滅ぼされ、生き残ったユダヤ人たちはエルサレムを離れ、周辺の土地や国に散らばって行きました。基本的に勤勉で頭の良い彼らは芸術や金融業で成功する人も多くいました。しかし、クリスチャンとなったユダヤ人以外は、どこにいてもユダヤ教を捨てず独特のコミュニティを維持し続けました。ヨーロッパではそれがしばしば偏見や迫害につながったようです。第二次世界大戦の折にはヒットラーの主導でユダヤ人大迫害が起こったのは有名な出来事です。


 戦後は二度とこの悲劇を繰り返さないためにも、イギリスなどの後押しによって2000年近く前にイスラエルのあった場所に再びイスラエルが建国され、世界各地からかつてのユダヤ人の子孫たちが続々と帰還しました。しかしその土地にはすでにパレスチナの人々が住んでいましたからしばしば紛争が起こり、今でもことあるごとに揉め続けています。

 それでも彼らはこの場所こそ、神様が先祖に与えてくださった土地である、と固く信じています。そこにはかつてのエルサレム神殿の外壁がわずかながら残されており、熱心なユダヤ教徒たちはそこで今も神に祈りを捧げています。


 少し話がそれましたが、かつてのイスラエルはユダヤ教が国の中心で、神への礼拝を欠かさない国民でしたから、今もその伝統は一部のユダヤ教徒にはしっかり受け継がれているのです。

 2000年前、ユダヤ教からキリスト教に変わったクリスチャン達は、今まで自分たちが信じてきた神様は、十字架にかけられて死んだイエス様だったのだ、と信じました。しかしイエス様と敵対していたファリサイ派やサドカイ派の人々は、その教えを異端であると決めつけ、厳しい迫害を行います。ユダヤ人クリスチャンの信仰生活は危険と隣り合わせで、内部で争っている場合ではありませんでした。


 しかし、肩を寄せ合うようにして同じ信仰を守っていても、単純に「気が合わない」ことはあります。生まれや育ち、ものの考え方、能力の差なども当然あります。自分にとって安心できる祈りの群れの中に、自分をイラださせたり腹を立たせるような存在があらわれた場合は強いストレスを感じます。それが高じてついつい感情的になり、ついにはどうしても一緒にやれないところまで関係がこじれてしまうこともあったようです。これはキリストの教会にとって頭の痛い問題でした。


 マタイはイエス様の直接の弟子としてイエス様と伝道の旅をしましたが、弟子たちは時々諍いを起こす様子を見ていました。そんな時、イエス様は旧約聖書から引用して自分たちを諌めたのをマタイは思い出したのでしょう。そこで、自分の福音書を記録するとき、イエス様がお話しされたことを強調しつつ、十戒から「殺してはならない」を引用し、「殺すな、人を殺した者は裁きを受ける」と記しました。心の中で腹を立て相手の存在を否定することは、相手を殺すことと同じで、あなたは裁きを受けますよ、という教えを書き記したのです。


 ただし、ここに記されている「殺すな」とは、「無差別殺人者になるな」という意味です。そして、腹を立てる人というのは、ここでは瞬間湯沸かし器みたいに「こうでないとダメだ!」ということしか言えない人です。自分の感情を抑えられず、誰かの意見を瞬時に否定したり、理解しようともしないという態度です。これはイエス様を信じる者として相応しい態度とはいえない、と指摘しているのです。


 ここでの「愚か」という言葉は、「狭い了見を持ってはいけない」という指摘です。自分の知っている世界が全てであって、自分の考えこそ神様の御心であるかのように錯覚し、他の人を愚かと決めつけ攻撃してしまう。それは最も避けなければならない、と教えておられるのです。


 イエス様はその解決策をユダヤ人たちに分かりやすいように「エルサレム神殿で捧げものをする時」と例えました。私たちの礼拝する神は自分の欲望を満たしてくれと願うために存在する神ではなく、この世界が平和になるよう、その神のみ心を実現するために、私はどうすれば良いのか、たずね求める方である。その為に、あなたたちは召されているのだから、表面だけ整えて腹の中では誰かをこき下ろしたりするような状態で礼拝に行ってくれるな、イエス様はそうおっしゃったのです。


 私たちは共に神様の平和の御心を実現するために召された者の集まりです。過去、教会が栄えた時代の方法論を振りかざすことなく、今、神の栄光を示すために、あえてさまざまな考え方や能力を持ったものが集められています。


 くどいようですが、自分が考える正しさを押し通すのではなく、神の愛を宣教する為に、あの人の行動にはそうした意味があったのか、と互いに理解する努力をして参りましょう。その実現ためにイエス様は十字架に掛かられたのです。


 イエス様の恵みを誰かに伝えたいと思う心が全てのエネルギーになります。私たちは小さな群れですが、祈りつつ、考えつつ、変化をおそれず伝道の業に取り組んで参りましょう。時には失敗することもあるかも知れませんが、互いに失望せず腹をたてず、イエス様の贖いを覚えて、共に歩んで参りましょう。



金曜日は予報通りの大雪でした
朝7時過ぎから積もり始め
夕方、園の先生たちが仕事を終えて帰る頃には
かなりの積雪で県道はノロノロ運転、大渋滞だったようです
昨日が良い天気だったのでかなり解けましたが
日当たりの悪いところは除けた雪が山盛りのまま
日向はぬかるみでグチャグチャです
元の姿に戻るにはまだ何日もかかりそうです
写真は金曜日の雪かきの合間に撮影した
教会&幼稚園の駐車場です

2023年2月5日日曜日

「地の塩、世の光」(日曜日のお話の要約)

 顕現後第5主日礼拝(緑)(202325日)
イザヤ書589-10節(1157 マタイによる福音書513-16節(6


 「塩」は古代から調味料や保存料として用いられてきた、人間にとって欠かせないものです。旧約聖書においても神様に捧げる穀物の捧げ物は全て塩で味つけるように定められています。それほど重要な塩を、イエス様は「それがあなたがたである」と言われます。「地」とは、私たちが生きているこの大地、この世界のことを指しており、あなた方は世の中になくてはな らない「塩」のように貴重な役割を果たしている存在である、と言う意味なのです。


 イスラエルの塩と言えば、死海の塩が有名ですが、死海に臨む山々から岩塩も採れます。ただこの岩塩は不純物が多い上に塩気の部分が溶け出してしまいやすく、塩の塊のように見えても、すっかり塩気がなくなっていることもあったようです。


 昔、神学校の先生に寿司屋さんに連れて行っていただいた時、イスラエルから運んできたという赤い岩塩が置いてありました。その時、岩塩に寿司を押し当てて塩気を移して食べる、という食べ方を生まれて初めて教わりました。


 寿司屋さんが言うには、岩塩は使っているうちにカスのようなものが出るのでその部分は捨てるが、岩塩から塩が溶け出して味がなくなったと思っても石鹸みたいに大きい岩塩を足すと、その塩気が移ってまた岩塩として使えるのだそうです。これは私にとって本日の聖書箇所を思い起こさせてくれる非常に興味深い話でした。


 福音書では、塩気が無くなって役立たずになった塩は外に投げ捨てられる、と書かれているけれど、もしお寿司屋さんが言われるように塩気を失った塊に塩気たっぷりの大きな塊をあてがうことで、塩として復活するのなら、結局のところ捨てられるのは途中で出てくるカスのような不純物だけで、元々の存在は捨てられないのではないか、そして塩味を蘇られせくれる大きな塊というのは、イエス様のことではないか、と思えたのです。


 イエス様は十字架から復活なさった後天に帰られますが、ペトロをリーダーとする弟子たちは積極的に宣教活動を行いましたので、エルサレムを中心に多くのユダヤ人がキリスト教に改宗していきました。ファリサイ人出身のパウロは初めはキリスト教の迫害者でしたが、回心してイエス様を信じて宣教者となり、地中海社会に異邦人クリスチャンがどんどん誕生する基礎を作りました。


 この時期、一見するとキリスト教は大発展したかに見えるのですが、ペトロを中心とするユダヤ人クリスチャンと、パウロが基礎を作った教会で洗礼を授けた異邦人クリスチャンの間にはなかなか埋まらない溝があったのです。


 ユダヤ人クリスチャンは幼い頃から旧約聖書に記された神様のイメージを強く持っていました。ですから旧約聖書をの知識があって初めてイエス様の教えを正しく理解できると考えていましたし、律法を守ることも大切なことであると固く信じていました。しかし律法には異邦人と親しく交流することを戒める掟も記されていましたから、同じクリスチャンでありながら、異邦人との交流はユダヤ人にとってなかなか超えられない壁でした。


 そのような大きな欠点と苦悩を抱えるユダヤの人々に向かって、マタイは「イエス様はあなたがたは地の塩であると宣言してくださったよ」と言うのです。「地の塩になるだろう」とか、「地の塩になれ」ではなく、今現在、迷いや混乱があっても、あなたがたはすでに地の塩であると断言しておられるのです。 

 異邦人クリスチャンの存在という変化を受け入れられない群れは、やがて衰えて失われていきます。しかしイエス様はそのような群れさえも愛し、寄り添おうとされたのではないか、そんなふうに感じられました。


 この箇所には「あなたがたは世の光である」という御言葉も並んで記されています。「塩」はぱっと見地味だけどけれど、どうしても必要な存在だとお話ししました。「塩」も「光」も私たちの生活に欠くことのできないものですが、大きく違うのは「光」は目立つということです。


 ヨハネ福音書8章12節ではイエス様は自ら「わたしは世の光である」とおっしゃっています。また1246節では「わたしは光として世に来た」とも記されています。新約聖書の言う「まことの光」はイエス様だけです。ところがそのイエス様がクリスチャンに向かって「あなたがたは世の光である」とおっしゃいます。


 この世はイエス様を抜きにしてしまったなら闇なのです。イエス様の弟子達もイエス様が十字架に死なれ墓に葬られた3日の間、闇を経験しました。しかし、再びイエス様と繋がって光を見出し、イエス様に照らされることで、その人生を輝かせ、福音の使者として立つことができたのです。


 イエス様のまことの光を受けるとき、私たちはイエス様の体の一部となって、イエス様と共に輝きながらこの世の暗闇を照らす存在へと成長していくことができるのです。一人一人の価値観がバラバラな、混乱した現代の日本社会で、私たちクリスチャンは無理解に晒されることが多くあります。しかし、私たちは、あえてここに会堂を作り、牧師館を作り、イエス様を中心として神様との交わりの場所、人との交わりの場所を再構築しようとしています。誰かがイエス様に関わることを喜びとし、イエス様を深く知って頂き、聖書を良く理解し、新しい共同体、新しい世界を創っていこうとする働きを託されているのです。


 今の状況はピンチですがチャンスでもあります。人々が自分の欲望を満たすことを追求する社会にあって、時には「地の塩」として、時には「世の光」として立ち、神様に導かれて生きることの素晴らしさを表すことができるのです。この世の光として、この地の塩として、私たちは整えられつつ、信仰に歩んで参りましょう。


昨日は土曜学校でした
礼拝の後、時間いっぱいクラフトを楽しみました
彼女たちにとって
最後の記念写真もお楽しみの一つのようです
見ているこちらも笑顔になります