顕現後第5主日礼拝(緑)(2023年2月5日)
イザヤ書58章9-10節(1157) マタイによる福音書5章13-16節(6)
「塩」は古代から調味料や保存料として用いられてきた、人間にとって欠かせないものです。旧約聖書においても神様に捧げる穀物の捧げ物は全て塩で味つけるように定められています。それほど重要な塩を、イエス様は「それがあなたがたである」と言われます。「地」とは、私たちが生きているこの大地、この世界のことを指しており、あなた方は世の中になくてはな らない「塩」のように貴重な役割を果たしている存在である、と言う意味なのです。
イスラエルの塩と言えば、死海の塩が有名ですが、死海に臨む山々から岩塩も採れます。ただこの岩塩は不純物が多い上に塩気の部分が溶け出してしまいやすく、塩の塊のように見えても、すっかり塩気がなくなっていることもあったようです。
昔、神学校の先生に寿司屋さんに連れて行っていただいた時、イスラエルから運んできたという赤い岩塩が置いてありました。その時、岩塩に寿司を押し当てて塩気を移して食べる、という食べ方を生まれて初めて教わりました。
寿司屋さんが言うには、岩塩は使っているうちにカスのようなものが出るのでその部分は捨てるが、岩塩から塩が溶け出して味がなくなったと思っても石鹸みたいに大きい岩塩を足すと、その塩気が移ってまた岩塩として使えるのだそうです。これは私にとって本日の聖書箇所を思い起こさせてくれる非常に興味深い話でした。
福音書では、塩気が無くなって役立たずになった塩は外に投げ捨てられる、と書かれているけれど、もしお寿司屋さんが言われるように塩気を失った塊に塩気たっぷりの大きな塊をあてがうことで、塩として復活するのなら、結局のところ捨てられるのは途中で出てくるカスのような不純物だけで、元々の存在は捨てられないのではないか、そして塩味を蘇られせくれる大きな塊というのは、イエス様のことではないか、と思えたのです。
イエス様は十字架から復活なさった後天に帰られますが、ペトロをリーダーとする弟子たちは積極的に宣教活動を行いましたので、エルサレムを中心に多くのユダヤ人がキリスト教に改宗していきました。ファリサイ人出身のパウロは初めはキリスト教の迫害者でしたが、回心してイエス様を信じて宣教者となり、地中海社会に異邦人クリスチャンがどんどん誕生する基礎を作りました。
この時期、一見するとキリスト教は大発展したかに見えるのですが、ペトロを中心とするユダヤ人クリスチャンと、パウロが基礎を作った教会で洗礼を授けた異邦人クリスチャンの間にはなかなか埋まらない溝があったのです。
ユダヤ人クリスチャンは幼い頃から旧約聖書に記された神様のイメージを強く持っていました。ですから旧約聖書をの知識があって初めてイエス様の教えを正しく理解できると考えていましたし、律法を守ることも大切なことであると固く信じていました。しかし律法には異邦人と親しく交流することを戒める掟も記されていましたから、同じクリスチャンでありながら、異邦人との交流はユダヤ人にとってなかなか超えられない壁でした。
そのような大きな欠点と苦悩を抱えるユダヤの人々に向かって、マタイは「イエス様はあなたがたは地の塩であると宣言してくださったよ」と言うのです。「地の塩になるだろう」とか、「地の塩になれ」ではなく、今現在、迷いや混乱があっても、あなたがたはすでに地の塩であると断言しておられるのです。
異邦人クリスチャンの存在という変化を受け入れられない群れは、やがて衰えて失われていきます。しかしイエス様はそのような群れさえも愛し、寄り添おうとされたのではないか、そんなふうに感じられました。
この箇所には「あなたがたは世の光である」という御言葉も並んで記されています。「塩」はぱっと見地味だけどけれど、どうしても必要な存在だとお話ししました。「塩」も「光」も私たちの生活に欠くことのできないものですが、大きく違うのは「光」は目立つということです。
ヨハネ福音書8章12節ではイエス様は自ら「わたしは世の光である」とおっしゃっています。また12章46節では「わたしは光として世に来た」とも記されています。新約聖書の言う「まことの光」はイエス様だけです。ところがそのイエス様がクリスチャンに向かって「あなたがたは世の光である」とおっしゃいます。
この世はイエス様を抜きにしてしまったなら闇なのです。イエス様の弟子達もイエス様が十字架に死なれ墓に葬られた3日の間、闇を経験しました。しかし、再びイエス様と繋がって光を見出し、イエス様に照らされることで、その人生を輝かせ、福音の使者として立つことができたのです。
イエス様のまことの光を受けるとき、私たちはイエス様の体の一部となって、イエス様と共に輝きながらこの世の暗闇を照らす存在へと成長していくことができるのです。一人一人の価値観がバラバラな、混乱した現代の日本社会で、私たちクリスチャンは無理解に晒されることが多くあります。しかし、私たちは、あえてここに会堂を作り、牧師館を作り、イエス様を中心として神様との交わりの場所、人との交わりの場所を再構築しようとしています。誰かがイエス様に関わることを喜びとし、イエス様を深く知って頂き、聖書を良く理解し、新しい共同体、新しい世界を創っていこうとする働きを託されているのです。
今の状況はピンチですがチャンスでもあります。人々が自分の欲望を満たすことを追求する社会にあって、時には「地の塩」として、時には「世の光」として立ち、神様に導かれて生きることの素晴らしさを表すことができるのです。この世の光として、この地の塩として、私たちは整えられつつ、信仰に歩んで参りましょう。
昨日は土曜学校でした 礼拝の後、時間いっぱいクラフトを楽しみました 彼女たちにとって 最後の記念写真もお楽しみの一つのようです 見ているこちらも笑顔になります |
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