2023年1月29日日曜日

求めなさい。そうすれば、与えられる。(日曜日のお話の要約)

2023年飯田教会総会礼拝(赤)(2023年1月29日)
詩編15編(845) マタイによる福音書 7章7-12節(11)


 マタイ福音書は5章から7章まで、「山上の説教」と呼ばれるイエス様の説教が記されています。古くは「山上の垂訓」と呼ばれていたところです。5章の初めに、イエス様がご自分の教えを聞きたいと集まった群衆を見て山に登り、腰を下ろしてお話をなさったことが記録されています。そこには弟子となったばかりのペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの4人も共にいました。


 日本語では「心の貧しい人々は幸いである」と「幸い」が一番後ろに訳されていますが、原文では「幸いである、あなたたちは」と言うふうにまず「幸いだ」と語り始められているます。イエス様は一般的にはとても「幸い」と思えないような事柄について繰り返し、繰り返し、「幸せだ」と強調して語られたのです。


 マタイはイエス様から直接教えを受けた弟子の一人としてイエス様が天に帰られた後も伝道活動を続け、やがて教会を受け持ち、自分が牧会する人々に向けて福音書を記したと言われています。マタイの教会に集まった人々の特徴は、物心ついた時から旧約聖書を学んだ生粋のユダヤが中心、ということでした。


 彼らは先祖から受け継いできた神様の存在を固く信じ、旧約聖書に書かれた様々な預言書の内容を熟知していました。そこでマタイはイエス様のお言葉や行動を書き記す時「これは預言書のこの部分が現実になったのだ」というふうに引用しました。聖書を知る人々は「なるほど確かに旧約聖書に書かれた通り、イエス様は救い主だったのだ」と心を揺さぶられたのです。

 しかし、私たちを含む外国人にとっては、マタイの書き方はなかなかピンと来ません。後から旧約聖書を学んで、ようやく「そういうことだったのか」と納得できる程度です。


 一方、同じ福音書でもルカ福音書にはそういった書き方はほとんど見られません。それは著者であるルカ自身がユダヤ人ではなかったからです。

 ルカ福音書にもマタイ福音書と同じく、「幸いだ」というイエス様の教えが記されています。こちらは「山から降りて平らなところにお立ちになって」語られたので、「平地の説教」と呼ばれています。


 皆さんはパウロについて知っておられると思いますが、ルカはパウロの伝道チームの一人です。パウロはユダヤ教のエリート、ファリサイ派の出身で、イエス様の教えは神様を冒涜するものだと信じ込んで、クリスチャンたちを迫害していました。しかし劇的な改心を遂げて洗礼を受けた後は率先して伝道者となり、地中海沿岸を旅して様々な民族に宣教を続けました。その途中でルカ福音書の著者であるルカと出会って行動を共にするようになります。ルカはパウロの影響を受けながら福音書を記したとされています。


 パウロの働きでイエス様を信じる人々が増えたのは事実ですが、彼が地中海沿岸の人々に教えたことと、12弟子たちがユダヤ人に教えたこととは食い違いもありました。今後さらに教えを広めていくために会議を開いて、何が最も重要なことなのか、厳しい審議がなされました。エルサレム会議と呼ばれるこの会議は使徒言行録15章に記されており、今のキリスト教に通じる興味深い内容です。と言いますのは、旧約聖書の律法を守ることが救いの条件ではない、ということがはっきりと確認されたのがこの会議なのです。


 外国人クリスチャンを不慣れな律法で悩ませることは神様の望みではなく、イエス様を信じる信仰によってのみ救われると教えることが最も大事である、と決議されます。

 これはユダヤ教も律法も知らない外国出身の人々には朗報でしたが、ユダヤ教からキリスト教に変わったユダヤ人クリスチャンにとっては戸惑いを引き起こしました。律法が全てではないということは分かるけれど、このままでは民族の歴史をどう引き継いでいけば良いかわからない、ユダヤ人のアイデンティとも言える旧約聖書とその教えを捨てるわけにはいかない、とはいえどんなふうに引き継げば良いのか、大いに悩んだはずです。


 ユダヤ人にとって単に旧約聖書は先祖から受け継いだ書物、というだけではありません。旧約聖書には人間の弱さや身勝手さ、醜さが嫌というほど書いてあり、この世の誘惑の前に気を抜けば、どんな立派な信仰者でも堕落してしまうことが記されていました。そしてそれと同時に、人間がどんなに堕落しても神様は決して見放さず、愚かな人間に向かって「私はお前たちを愛している」と伝え続けてくださる。そして必ず救い主を送ってくださるとも書かれています。

 ユダヤ人クリスチャンは、旧約が土台となり、イエス様の素晴らしさは何倍にもなって自分達に語りかけてくると感じていました。だからこそ他の民族は旧約の神を知らないままで本当にイエス様の強い愛を信じ切ることができるのだろうか。また、そのような人々と一緒にクリスチャンとして仲良くやっていけるだろうか、と疑ったのです。


 そんな迷いの中で、彼らはこれからも神様と共に生きるために、大切にして来た何かを手放し、壁を超え、多くの人々にイエス様の愛を伝えていく時が来たのだと感じ取ったのでしょう。

 しかし結果として旧約聖書39巻は残り続けました。福音書やパウロの書簡などで形成された新約聖書29巻と共に、聖書全66巻として受け継がれました。異邦人クリスチャンの多くが旧約聖書の素晴らしさを学び、イエス様の教えを深く知るために未来に向かって受け継ぐべきだと確信したからでしょう。これこそが神様の御心だったのです。


 旧約聖書の色が濃いマタイによる福音書は、新約聖書の一番初めに掲載され旧約と新約の架け橋となりました。最初に列記されている長い系図は、旧約聖書に親しめば親しむだけ、深みを持ってさまざまなことを私たちに伝えてくれます。


 「山上の垂訓」の中にはイエス様のお言葉として「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と記されています。実際「山上の垂訓」は旧約聖書からの引用に満ちているのですが、ユダヤ人はユダヤ人として、異邦人は異邦人として、誰にでも読めるよう工夫されており、繰り返し読むことで、知らず知らずのうちに旧約の知識も増え、気付きも与えられるようになっているのです


 私たちはこれから、この地に会堂を建てて行くために、さまざまな物を神様に求める日々を送ることになります。どのような時でも、神様は、積極的に求めることを許して下さっているのです。この聖句の少し後に、「天の父は求める者に良いものをくださるに違いない」という御言葉があります。この「良い物」とは元々のギリシア語では「良いおくりもの」という言葉で、ギフトが与えられることになっていると約束してくださっているのです。この1年もイエス様の言葉を信じて、その教えを受けて歩み、求めて祈ることの大切さを知って参りましょう。この1年、与えられる喜びを感じながら、共に過ごして参りましょう。




この数日は毎日のように雪が降ります。
日中もなかなかプラス気温にならないので日陰は解け残って冷え冷えしています。
そんな中、ご近所の方が蝋梅をひと枝届けてくださいました。
なんだかそこだけ暖かい気がします。


木彫りの小鳥はカーテンを止めるパーツです
こんなふうに写真を撮ると
まるで小鳥が蝋梅をついばみに来たようです





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