2023年1月24日火曜日

「人間をとる漁師」(日曜のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(緑)(2023年1月22日)
イザヤ9編1-3節(1073) マタイによる福音書4章18-22節(164)


 旧約聖書の預言の書、エレミヤ書16章16節には「漁師」について記された御言葉があります。エレミヤ書の16章16節には、このような言葉が記されています。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。その後、わたしは多くの狩人を遣わして、すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる。」


 エレミヤ書は重要な預言の書ですが、内容は時系列で並んでおらず、イスラエルの歴史を知っていないとわかりにくい流れになっています。それでも基本的な知識を得てから読むと非常に興味深い書物なのです。


 神の民イスラエルは複雑な歴史の末にエジプトの奴隷状態から解放され、神の僕モーセをリーダーとして40年もかかって約束の地に導かれました。彼らは旅に出て間も無く神様から十戒を授かり、神様の民として守られつつ生きるにはどうすれば良いか学んでいきます。この旅の中でモーセに反抗した人々は神様の怒りに触れ、自滅して行きました。


 荒野の旅の中で信仰を訓練されたイスラエルの民は、カナンの地に定住した後、12の部族に分かれて住み、士師と呼ばれる人々が時に応じて登場して人々をまとめました。しかしやがて民衆は士師に向かって、周辺諸国と同じように力強い王様が欲しいと言い出します。これは、神様だけでは物足りない、と言っているのも同じで、神様への侮辱と取れる要求でしたが、神様は王を立てることをお許しになります。


 王政は最初は成功したかに見えました。2代目の王様ダビデが強い国を作り上げ、3代目のソロモンは経済的に発展させ、神殿を建てて民の安定を図りました。けれどもソロモンの死後、国はあっという間に二つに分かれ、北イスラエル、南ユダと言うふうに分断してしまいます。 


 やがてアッシリヤという大国が台頭し、紀元前720年、北側のイスラエル王国を滅ぼし、そこに住むユダヤの民はアッシリヤに捕囚として連れていかれました。それから150年ほど経って、今度はバビロニアという国が登場し、南ユダ王国も滅亡の危機に瀕します。この時代に記されたのがエレミヤ書なのです。


 エレミヤは厳しい口調で裁きの預言を行いました。北の王国イスラエルが滅ぼされた時、自分達の国が大丈夫だったからと言って、自分達は罪がない、悔い改める必要がない、などと奢ってはいなかったか、いい加減な信仰生活を送りながら反省もせず、神様に守ってもらえると思い上がってはいなかったか。このままでは南ユダ王国もやがてバビロニアに滅ぼされる、と語るのです。


 彼は不吉な預言を語る人物として迫害され、度々命の危険に晒されます。しかし、ユダ王国は結局はエレミヤの預言通り滅亡の道を歩みます。ところが、国の崩壊が避けられないことがわかった途端、エレミヤは一転してして希望の預言を語り始めるのです。

 あなたたちはバビロニアに強制的に連れていかれるが、神様はあなたたちを見守っている。やがて帰国できる時に備えて、バビロニアで畑を作り、家を建て、結婚して子どもを育てるように、と指示したのです。エレミヤはどん底に落ちた南ユダの民に向かって信仰を持って待つことの希望を伝え続けました。


 その上で、エレミヤは名もなき漁師と狩人について語ります。「神様はあなたたちの救いを約束する。しかし再びイスラエルに連れて帰ってもらっても、以前のように神様を悲しませるような罪を犯したなら、神様は漁師に釣られる魚のように、狩人に狩られる獣のように、あなたたちを裁く。」 エレミヤは漁師を「神の裁きの使者」という意味に用いたのでしょう。


 ユダ王国の人々がバビロニアに強制移住させられからしばらくして、バビロニアはペルシャに滅ぼされます。ペルシャの王様はユダの人々が故郷に帰ることを認めたため、最初の捕囚からおおよそ70年後、人々はエレミヤの預言通りイスラエルに帰還できたのです。


 エレミヤの預言は実現した。これからは神様への信仰を一番に生きていこう。そう心に誓った彼らはバビロンから戻ってすぐさま、バビロニアに破壊された神殿を再建することに情熱を傾けたのです。そしてバビロンの地で学んだ聖書の教えを忘れることのないよう、子どもたちへの宗教教育に力を入れていきました民族滅亡の危機に晒されたユダヤの民にとって、神様の遣わされる漁師や狩人の物語は大切な学びの記憶として親から子へ受け継がれて行ったに違いありません。


 イエス様が宣教を開始された時、ご自分の最初の弟子としてガリラヤ湖の漁師、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネを招かれたのは、この教えをもう一度呼び覚ますためだったのではないでしょうか。

 この出来事はマルコ福音書とルカ福音書に記されており、特にルカ福音書には非常にドラマチックに描写されています。皆さんもよくご存知のエピソードです。一晩中働いたのに魚が取れなたった彼らが、イエス様を舟にお乗せして網を下ろした途端、舟が沈みそうになるくらい魚が捕れた、恐れ慄いた彼らに向かってイエス様が「あなたは人間をとる漁師になる」と招かれた、というお話です。もちろん目の前で大量の魚がとれたので、この人は凄腕の漁師だ、弟子になれば食いっぱぐれがない、という意味でついて行ったわけではないことはご承知の通りです。


 マタイとマルコはここまで詳しくエピソードを記してはいませんが、三つの福音書に共通して言えることは、彼らは「人間をとる漁師に」と声をかけられた時、まだイエス様が何者であるか十分知らないにも関わらず弟子となったということです。

 彼らはユダヤの民として「人間をとる漁師」とは神様の手足となって働く存在だと、知識として知っていました。ですからイエス様こそ、自分たちを神様の僕として育て上げてくださる方だと直感して従ったのです。その招きの中に神様の豊かな御計画があったのは、イエス様に付き従う毎日の中で少しずつわかるようになったことです。


 さて、私たちはきっかけこそ違いますが、それぞれに洗礼を受けてイエス様の弟子、クリスチャンとなりました。しかし初めのうちはこの時の漁師たちとと同じく、イエス様の弟子としてまだまだ何も知らないところからスタートしました。


 長年礼拝に参加していても、10年以上聖書日課を読んでいても、イエス様のことはまだまだ知らないことだらけです。自分の祈りと全く異なることが起きて傷ついたり失望したりした時「私について来なさい」の声を思い返せるかどうかは大切なことです。どんな時も「人間をとる漁師」として招かれたのだと信じ、諦めないで従っていくことだけが、私たちがイエス様の深いお考えを理解していく唯一の方法なのです。


2月4日の土曜学校の
ご案内葉書です
ヒマラヤ杉(←松科ですが)の
松ぼっくりは薔薇の花の化石のようで
とてもきれいな形です

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