2021年1月25日月曜日

ガリラヤ伝道(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2021年1月24日)
詩編62編6-7節 Ⅰコリント7章29-31節 マルコ1章14-15節

 聖書の世界は古く、歴史好きの方でも簡単には理解し難いものがあります。旧約聖書の一番古い記述は今から4000年も前の出来事で、イエス様がお生まれになった時代ですら2000年前です。衣食住も、気候風土も、全て違います。
 そして最も理解しにくいのが宗教観です。古代イスラエルは国民一人一人が神の民であり、一人一人が神に守られ従いながら生きる、という強い信仰を持っていました。リーダーが信仰から離れて堕落し国が衰退し、民衆が嘆きの中にあるとき、必ず新しいリーダーが神様によって起こされ、「真の救い主、メシアを待つ信仰を捨てずに生きて行こう」と呼びかけるのです。そうして国は持ち直し人々の信仰も蘇る、そんな出来事が旧約聖書には繰り返し繰り返し記録されています。

 イエス様がベツレヘムの町に誕生された頃のイスラエルは、広大な領地を持つローマ帝国の直轄地でした。ローマは支配国に対して比較的寛容で、自治も宗教の自由もある程度与えていましたが、独立心が強く、他国の神々を認めないイスラエルの中からは、異国の文化にかぶれることを嫌って革命を起こそうとする人物が度々現れ、処刑されました。
 ローマを本気で敵に回せばおおごとです。ですからイスラエルの政治家たちは聖書の教えを都合よく解釈して民衆を抑える方法を取ろうとしました。しかし、この政治家たちというのが神殿の祭司、ファリサイ人、聖書の教師であったため、宗教は腐敗していきます。真摯に信仰を貫こうとする者にとっては耐え難いごまかしであり、何とも言えない堕落した感じと抑圧感が社会を覆っていたことでしょう。イエス様より先に活動を開始していた洗礼者ヨハネは、正しく信仰に生きることを説いたため、ヘロデ王に捕らえられ、処刑されてしまうのです。
 そんな中、30歳になったイエス様は新しいイスラエル、新しい神の国を作るために動き出されます。しかし洗礼者ヨハネが処刑された直後、中心都市エルサレム近くで活動を行うのは、無謀な行動とも言えました。そこでイエス様は首都から遠く離れたガリラヤ地方を拠点として宣教を開始されました。

 ガリラヤ地方はイスラエルの北部、ガリラヤ湖を中心とする地方で、首都エルサレムから110キロ程離れており、大人が急いで歩いても2日~3日かかる距離にありました。ガリラヤ湖は漁獲量が多く、北と南を繋なぐ交通路として古くから栄えていたため、旧約聖書にも登場し、その形から楽器の琵琶を意味する「キネテレ湖」と呼ばれていました。
 しかしイエス様の当時のガリラヤは異文化が入り込んで久しく、そこに住むユダヤ人は子どもの頃から聖書を学んでいるとは言え、約束のメシアを信じて耐え忍んで待つよりも、自分たちが武力によってローマを追い出したい、と考える人も多い、血の気の多い場所でした。
 そのような土地を、イエス様は宣教の業の拠点としてを選ばれました。本日読みましたマルコ福音書14節では「ガリラヤに行き」と記されています。マタイ福音書では「ガリラヤに退かれた」と記されていますが、これは、マルコとマタイの考え方の違いです。マタイはガリラヤで宣教を始めることを「一時的な退却」と捉え、マルコは「神の御意志に従って自らの意思で行かれた」と捉えるのです。

 4人の漁師をするにしても、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネにあっさりと「私について来なさい」呼びかけ、彼らが素直に、すぐに従っている姿を描いています。ルカ福音書に描かれているように「魚が獲れすぎて怖れ、イエス様を崇める」というシーンは記録されていません。マルコはそういったエピソードは自分の記録には不要だと考えたのでしょう。
 ドラマ的には物足りないかもしれませんが、そこにこそ、マルコの伝えたい「イエス様像」があるように思えます。ガリラヤのような、やりにくそうな場所からあえて宣教活動を開始するというのは、ただ、神ご自身が、その圧倒的な力によって、宣教の業を始められたことを示すためだったのではないでしょうか。
 今の日本には宣教のやりにくそうな場所の方が多数存在します。古い因習に縛られている、頑固、その日その日の生活に精一杯、お金こそ全てだと思っている、神も仏も祟られない程度にちょいちょいと拝む、そのような場所です。神様の目からご覧になれば日本全体がガリラヤのように見えるかもしれません。
 しかしそんなガリラヤにイエス様は赴かれ、宣教を開始されるとすぐに主力となる弟子を見極められて召し、集められたのです。これが、神の約束、神の業、神の力なのです。

 その同じ神の働きが、私たちの集うこの飯田の町にも、飯田教会にも、幼稚園にも、そして私たち一人一人の上にも働いているのです。
 今、私たちの世界は新型コロナという病に踏みにじられ、礼拝さえ自由に行えません。神様への信仰を失い教会離れを起こす人々が、これから増えていくかもしれません。そのような時代に、私たちはイエス様の召し出しに応えて、信じるものとされたのです。
 今私たちの魂は厳しい状態に置かれ、異邦人のガリラヤに住んでいるようなものです。しかしどんな場所、どのような人にも、神は近づいてくださいます。今おかれている状況も、神様が与えて下さった道として、決してくじけず、体は別々のところで礼拝しても、心は一つにして歩んで参りましょう。



この日曜もスカイプのみのリモート礼拝でした
7人の方が参加してくださり
礼拝後は短い時間、オンラインで
おしゃべりすることもできました
これはこれで新鮮でした
もちろん直接会えるに越したことはないのですが
今はこれで頑張りましょう

まだまだ使いこなせる方は少ないので
皆さんに説教要約と週報をお送りしました
体は離れていても心は繋がっていたいですね


クリスマスに飾るために幼稚園が購入したシクラメン
クリスマス行事が一段落したところで
一鉢安く譲っていただきました
今日の飯田は晴れてとても暖か
窓辺でまだまだ綺麗に咲き誇っています



2021年1月24日日曜日


残念ながら今日もリモートのみの礼拝です
音は悪いけれどヒムプレイヤーで
賛美歌を流しますので
お家で思いっきり歌ってください


2021年1月18日月曜日

キリストとの出会い(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2021年1月17日)

サムエル上3章7-9節 詩編139章1-9節 ヨハネ福音書1章43-51節


 本日はヨハネによる福音書から、イエス様が最初の12弟子たちを招くところを読んでまいります。ペトロやアンデレに続いて今日登場する2人はフィリポとナタナエルです。

 フィリポはガリラヤ地方のベトサイダの出身でした。ベトサイダという町はローマの支配下にあって、宗教も文化も混ざり合った不信仰な町でした。しかし全ての人が信仰を捨てた訳ではなく、少数ですが、神を信じ信仰に生きようとする人が存在していたのです。そのうちの一人がフィリポだったということでしょう。

 もう一人ナタナエル(別名バルトロマイ)は、同じくガリラヤ地方のカナ出身で、フィリポの友人だったと思われます。フィリポは友人のナタナエルに、救い主イエス様に出会って弟子として招かれた喜び伝えようとしたのです。フィリポはイエス様を紹介する時「預言者たちも書いている方」と言います。これはつまりメシアのことです

 メシアが現れた、と聞いたナタナエルは一瞬喜んだでしょうが、「ナザレの人で、」の言葉でがっかりします。ナザレは旧約聖書には一度も登場せず、偉人が出るような由緒ある町ではありません。旧約聖書の知識の豊富なナタナエルは、本当のメシアがナザレから出るはずがない、と思い込んでいて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と反論します。

 フィリポは友人のそっけない言葉にむっとしたかもしれません。しかしそこは我慢して「来て、見なさい」と誘います。イエス様が神様であることを相手に十分に説明できなくても、誘う事をやめない。これは伝道の基本です。そんなフィリポの熱意に動かされたナタナエルはとりあえずイエス様にあってみることにしますが、その時すでにイエス様はナタナエルをご覧になっていました。

 イエス様は、ナタナエルを見て、「彼はまことのイスラエル人だ」とおっしゃいます。その証として、イエス様はナタナエルが、いちじくの木の下にいるのを見たからだとお答えになります。

 「いちじくの木の下」にいたというのは、聖書を学ぶものは「いちじくの木の下」で学ぶ、という当時の風習を表しているそうです。聖書に記された人間の醜い罪の記述から目をそらさずに読み、自らの罪についても思い巡らし、メシアを期待し続ける、そんな時間を進んで確保するのです。異邦人の多いガリラヤ地方でそのような生活を送っているユダヤ人は少なかったでしょう。

 イエス様が言われた「あなたはいちじくの木の下にいた」という言葉は「あなたは苦労しながら自分を律して聖書を学んでいる、わたしはそれを見ていたよ」という意味なのです。それに気づいたナタナエルは、それまでのイエス様に対する懐疑的な認識をかなぐり捨てて「あなたは神の子、イスラエルの王です」と信仰の告白をします。

 するとイエス様はナタナエルに「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」とおっしゃいます。これはイエス様が神様と人との架け橋となられる、その御生涯を予告しておられるのです。つまり、わたしが招く弟子たちはイエス様が神の子であることの証人となる、という意味です。


 本日の二人、直感的なフィリポは、自分の信じた方を否定されても、諦めずに友人を御前に誘いました。ナタナエルは聖書を忍耐強くコツコツ学んで旧約聖書の知識からイエス様に導かれました。全く違う性格を持つ二人であることがわかります。しかし大切なことは二人ともイエス様が自ら近づいて声をかけてくださった、ということです。イエス様は個性豊かな人々を選んで声をお掛けになり、ご自分の弟子となさいました。それは今の時代も変わりません。

 今の時代も、教会という群れは、信徒さん一人一人の賜物でが大切です。豊かで目立つ賜物を持つ信徒さんが高く評価されることがありますが、もちろんそれだけでは教会は決して成り立ちません。

 今、コロナ禍で様々な活動が制限されています。大きな集まりや活発な行事はできません。「なぜ神はこのようなことを許しておられるのか」と悩みムルしみ、答えが出ないような出来事が続いても、地道な働き、地道な学びをやめてはいけないのです。一人一人が知恵を尽くし、力を尽くし、真摯に取り組むその心や姿を、イエス様は見ていてくださいます。

 詩編139編には「主よ、あなたはわたしを極め わたしを知っておられる」と記されています。私たちの心の奥底まで神様が、イエス様は知っていてくださるのです。

 何より、イエス様は、私たち一人一人が「イエス様と出会った」

」:と思う前から、既にその眼差しを注いでくださっています。私たちも、どんなことがあっても、神様に見捨てられることはないと信じてまいりましょう。キリストとの出会うということは、すでに神様の目が、私たちの心を知り、招き、導かれている証なのです。 



1月17日は阪神淡路大震災の起きた日です
あれから26年
毎年この日は5時46分に
礼拝堂に明かりを灯して祈ります



10時30分からの礼拝は
スカイプによる配信のみ
ガランとした礼拝堂は寂しいものですが
カメラの向こうに聞いてくださる人がおられることを
信じて語ります


2021年1月16日土曜日

1月17日の主日礼拝中止のお知らせ

飯田市におきまして、新型コロナウイルの感染が拡大し
感染状況を6段階で示す長野県独自の感染警戒レベルが
本日5に引き上げられました
安全を考えて17日の主日礼拝を中止いたします
スカイプを通して牧師の説教を配信いたしますので
ご希望の方は電話連絡をお願いいたします

0265−22−2213(教会、幼稚園共通)
090-1243-7727(牧師携帯)


2021年1月12日火曜日

イエス・キリストの洗礼(日曜日のお話の要約)

主の洗礼(顕現後第1)主日礼拝(2021年1月10日)

創世記1章1--5節 使徒言行録19章1-7節 マルコ福音書1章9-11節


 使徒パウロが伝道旅行のため地中海沿岸の都市エフェソを訪れ、そこに住んでいる「イエス様の弟子」と呼ばれる人々に会ったときのことです。パウロが彼らに「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねてみると、彼らは聖霊なる神の存在を知らず、彼らは「聖霊ってなんですか」と答えました。

 そこでパウロがさらに「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と尋ねると、彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えます。このヨハネとは、ヨルダン川で民衆に洗礼を授け、のちにヘロデ王に殺された洗礼者ヨハネのことです。


 ヨハネがヨルダン川で洗礼を始める以前にも、もともとイスラエルには洗礼の文化がありました。異邦人をユダヤ教の一員として受け入れるために汚れを清める儀式の一部として行われたのです。

 洗礼者ヨハネはこの洗礼にさらに意味を加えました。「間も無く救い主が登場して新たに神の国を建設されるが、このままではユダヤ人であろうとなかろうと神の国には決して入れない。だから今、悔い改めて神の赦しを得る必要がある」と強いメッセージで呼びかけたのです。これが洗礼者ヨハネの洗礼でした。


 しかしパウロは「洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼は大切だが、それだけではない。『自分の後から来る方、イエスを信じなさい』というのが最も大切なメッセージである。」とエフェソの人々に語りました。つまりイエス様を信じて受ける洗礼こそ大切である、とすでにヨハネは語っていたのだ、と説いたのです。

 その話を聞いたエフェソの信徒たちが「主イエスの名において」洗礼を受けた時、聖霊なる神が彼らの上に降り、霊の賜物が与えられたのです。これが今の私たちにつながる、新しい洗礼の意味なのです。


 話が前後しましたが、本日の福音書は洗礼者ヨハネがイエス様に洗礼を授けた場面です。イエス様はガリラヤのナザレから来て、首都エルサレムの近く荒野を流れるヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。イエス様が水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにイエス様の上に降ってきました。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神様の御声が、天から響いたたのです。

 イエス様は洗礼を受けられた時、そのことでいきなり神の子になったのではなく、もともと神であったお方が、いよいよこれから行動を起こされる、という印だったのです。しかしイエス様が行動を開始されたからと言って、この世の全てがいきなり魔法のようにパッと救われたわけではありません。

 イエス様は洗礼を受けた直後、荒れ野に導かれ悪魔から誘惑を受けました。その誘惑は個人的な飢え渇きにとどまらず、自分の思うように神様に願いを叶えてもらいたいとか、神様以外のものにひれ伏せばこの世の全てを与えるとか、大抵の人間なら陥りそうな誘惑でイエス様を試します。それに対し、イエス様は聖書の御言葉を引用して勝利されたのです。


 それにしても神の子なのに飢えと渇きでヘトヘトになった上で、悪魔の誘惑にさらされるというのは、随分あんまりなスタートですが、これはご苦労の幕開けにすぎませんでした。ガリラヤ地方でお育ちになられたイエス様は、権力者からは「ガリラヤから預言者は出ない」とバカにされたこともありました。イエス様が宗教学者たちを次々論破したり奇跡を行われたりして、神の御子してのお力を示されても中傷は止みませんでしたし、その働きを理解でいない家族や兄弟から頭がおかしくなったと思われ、家に戻るよう言われたりします。


 イエス様の御生涯を辿ってみればみるほどに、つらいお立場を耐えながら宣教をなさったことがわかります。最後には12弟子の一人イスカリオテのユダに裏切られて捕らえられ、十字架の上で命を落とされるのです。洗礼を受けられた時「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との神様のお声をいただき、聖霊を受けて御心のままに宣教されたのに、神様はちっとも味方になってくださらないかのように見えてしまうのです。

 洗礼を受けたにも関わらず、苦難の多い人生。これは私たちの人生でも珍しいことではないでしょう。せっかくクリスチャンになって新しく歩み出したはずなのに、これ以上生きていたくないような苦しみや痛みを経験することがあります。

 そこで私たちは立ち止まり、考え、もう一度イエス様の御生涯を辿るのです。イエス様は、十字架で死なれてから3日目に復活を通して、天国を指し示してくださいました。神の国があることを示してくださったのです。神に従って歩んだ苦しみの向こうに復活があり、天国へと進む道があることをはっきりと示されたことを、もう一度捉え直すのです。


 イエス・キリストのように、徹底的に神様に従って生きるということは、自分は無理だと思うかも知れません。しかしひとたび洗礼を受けたなら、聖霊の賜物は既に与えられています。神様に委ね、心を明け渡すなら、自分で自分を苦しめるような「私など無理だ」という思いを、聖霊なる神が洗い流してくださいます。そして神の民として歩む道が、キリスト・イエスと共に進んでいく道が見つかるのです。

イエス・キリストが、苦難を通して私たちに神を示されたように、私たちも苦難を通して、神を証していくという賜物が与えられているのです。



未明から降り始めた雪は一向に止む気配がなく、園庭に降り積もっています。災害レベルの積雪にならなければ良いのですが。

そう思いながら眺めていると、さすが信州っこ、先生のお手伝いで雪かきを始めました。


しかしなんでも遊びにするのが子どもたち。いつの間にか滑り台の下に雪を集め始め、ウオータースライダーならぬ、スノースライダー(?)ごっこ。でも雪を固めすぎて新雪の中にバフっと突っ込む、というイメージ通りにはいかなかったようです。



年長さんたちが室内に戻ると、入れ替わりに3歳以下のクラスが園庭に。先生に見守られながらそり遊びです。




雪は美しいけれど、恐ろしくもあります。子どもたちが帰る頃には雪が止んでいれば良いのですが。


積雪で被害を受けている地方の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

2021年1月8日金曜日

土曜学校・休校のお知らせ

新年早々残念ですが
感染拡大が懸念されるので
やむなく中止です
本当に残念、子ども達の元気な顔が見たかったです(T^T)

 

2021年1月4日月曜日

学者の心とヘロデの心(日曜日のお話の要約)

 聖餐式・主の顕現礼拝(2021年1月3日)
イザヤ60章1-6節 エフェソ3章1-12節 マタイ福音書2章1-12節


 本日顕現礼拝はイエス様がこの世に誕生されたことをハッキリと心に刻むための礼拝です。この日は、東の方から来た占星術の学者達が幼子イエス様を訪ね、探し出す箇所が読まれます。欧米などでクリスマスの飾りを外すのもこのです。


 ところで、旧約聖書では、占いは忌むべきこととされています。エレミヤ書27章9節では「あなたたちは、預言者、占い師、夢占い、卜者、魔法使いたちに聞き従ってはならない。」と書かれています。これはエレミヤが治世者に向かって、偽預言者や、そのほかの情報に振り回されないよう語る言葉です。

 旧約聖書で占いを禁じている理由ははっきりしています。「世の中は偽りの言葉が満ちていて、その中には悪霊がお前を滅ぼすために語った言葉がある。それらに振り回されるのはやめなさい。ただ神様の言葉のみがあなたを正しく導く」と教えているのです。

 旧約聖書は近隣諸国での知識層に広く読まれていましたから、異国の占星術師であった彼らもその内容を知っていたはずです。輝く星が現れた時、イザヤ書の記述に当てはめて理解し、その星の示すユダヤの国目指して旅することを決意したのでしょう。これは星占いに頼る人々肯定する記述ではありません。時代を考えると、彼らは怪しげな魔術師というより、天文学者であったとも理解できます。


 そのころのユダヤの国はイスラエルは強大なローマ帝国の属国の一つとなっていましたが、ローマから統治を任されたヘロデ大王は政治手腕を発揮して、ローマとの関係も良好に保っていました。ヘロデ大王はエドム人と呼ばれる混血の種族だったため、純潔を重んじるユダヤ社会では軽視されていました。そこで王位に就いてからはユダヤ人たちの人気取りのためにエルサレム神殿を美しく豪華に改修したり、都市を整備したりしました。しかし人格的には問題があり、猜疑心が強く、身内を含む多くの人間を殺害したことが当時の歴史の書に記録されています。

 エルサレムまで旅してきた学者たちはもちろん、ヘロデの恐ろしさを聞き知っていましたから、直接王宮に行って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこでしょう」と尋ねはしなかったでしょう。しかし彼らが来たことはすぐにヘロデの耳に入りました。

 ヘロデは「新しいユダヤ人の王」の噂を聞いて非常に恐れました。そこで律法学者や祭司長を集め、ベツレヘムの町に指導者が現れるという預言を見つけさせまると占星術の学者達をひそかに呼びよせ、彼らに聖書から得た情報を与えます。学者達をあえて泳がせ、自分に報告させ、新しい王を亡き者にしようと企んだのです。ヘロデの心は邪な思いに満ちていました。

 一方、東の国の学者たちが思い描く「新しいユダヤ人の王」はヘロデ大王とは真逆のイメージでした。その王は、愛に満ちていて、関わった全てのものに祝福を与え、心迷う人々を救いに導き出し、平安を与えてくださる方と信じていたのです。

 東の国の学者たちは異邦人ですから、旧約聖書に記されたメシアを信仰の対象とは考えていませんでした。初めのうちは、素晴らしい政治家、完璧な王様が登場した、と考えていただけだったかもしれません。

 ですから、星に導かれて到着した家の中には、王者の風格のある立派な青年がいるに違いないと思っていたことでしょう。しかし学者達がそこで見たのは母のそばにいる幼子でした。「なんだ、平凡な赤ん坊ではないか」と拍子抜けしてもおかしくないところです。しかし、彼らは喜びに満たされ、全く躊躇することなくイエス様の前に跪き、宝の箱を開けて、持てるものをみな捧げ、礼拝しました。ここには、学者たちが信仰によって、そこにいる幼子イエス様がメシアであると知ったことがはっきりと記されているのです。

 彼らの捧げた宝物は何かの象徴だろうと様々に解釈されてきました。その中で興味を引くのは、この三つの宝は学者たちが占星術に使う商売道具だった、という説です。だとすれば、彼らは自分たちの生活の手段である品物をイエス様に捧げてしまった、ということになります。

 いずれにしても彼らは自分が最も大事にしてきたものをイエス様にお捧げしたのでしょう。今までは「それがなければ生きていけない」と思っていたものを、あえて救い主・キリストに捧げ、イエス様こそ私の宝と信じて生きていく、学者達の潔さは、同じ信仰を持つ私たちに大切な心構えを教えてくれます。


 私たちの心の中では、ヘロデ大王のような自己中心的な思いと、学者たちの心に生まれた純粋な信仰が常に争っています。自分のダメっぷりに悲しんだり、どうせ私は、と開き直ろうとしたりすることも多いものです。

 しかしそのような心をイエス様はご存知の上で、悔い改めへと導き、手を差し伸べてくださいます。私たちはそのような方を王とし、何物にも代えられない宝として今年も生きていくのです。




2021年1月1日金曜日

あけましておめでとうございます

 新年は雪の幕開けとなりました
今のところ、降っては溶け降っては解け
美しい風景ですが
交通に支障をきたすような大雪にはなりませんように

新年礼拝はコロナ感染拡大の影響で
中止にせざるを得ませんでしたが
飯田市内でこれ以上の拡大が見られなければ
1月3日から2021年の礼拝を始めます

皆様、本年もよろしくお願いいたします

1月1日
礼拝堂にて