2021年12月31日金曜日

少年イエス(日曜日のお話の要約)

降誕節第1主日礼拝(2021年12月26日)

コロサイの信徒への手紙3章12-17節 ルカによる福音書2章41-52節


 ユダヤ教の世界では、今でも、女性は12歳、男性は13歳で成人式を迎えるそうです。お酒が飲めるとか結婚できるとかいうことではなく、13歳になると少年は宗教的に大人の仲間入りが認められ、聖書を自分で直接読むことを許されます。そのため、少年たちは12歳になるとその準備を始めます。


 エルサレムに神殿があった時代、年に3回開かれる大きなお祭りに合わせて巡礼に行くことも行くことも大切な準備でした。

 12歳になったイエスが両親と一緒にエルサレムに巡礼したのもそのためでした。旅は滞りなく終わり、後はナザレに帰るだけ、という時に事件は起こりました。ヨセフとマリアは気のゆるみからか、イエス様を見失ってしまったのです。

 この頃の巡礼の旅は、同じ地域から旅をする親戚や友人たちが団体となって移動しました。強盗に襲われないための知恵だったのです。ですからマリアとヨセフは自分達の近くにイエス様がいなくても、誰か近所の人か幼馴染と一緒に歩いていると思ったのでしょう。12歳といえば思春期の始まり、独立心旺盛な年頃ですから、親と一緒にいなくても平気で過ごしているのだろうと思ったかもしれません。並外れて頭の良い息子が、まさか迷子になっているとも思わなかったでしょう。

 マリアとヨセフは一体何が起こったのかわからないまま、慌ててエルサレムへ引き返したのです。利口な子と言ってもまだ12歳、どうして目を離してしまったのかと、二人は自分たちを責めたでしょう。事故に遭っていないだろうか、人攫いに攫われていないだろうか、危険なところに入り込んでいないだろうか、まる一日かかった道を、後戻りしながらイエス様を探す旅は3日に及びました。親としては生きた心地がしなかったと思います。


 ヨセフとマリアがようやくイエス様を探し当てたのは神殿の境内でした。あろうことかイエス様は何食わぬ顔で学者たちに囲まれて座り、話を聞いたり質問したりしていたのです。しかも学者たちは「こんな賢い子どもは見たことがない」と驚いていました。その光景を見たヨセフとマリアは、息子が見つかったという安堵感以上に、強いショックを受けことでしょう。

 その時の状況を想像すると、両親は「うちの息子がご迷惑をおかけしました」と何度も何度も頭を下げ、イエス様が何かを言おうとしてもそれを妨げ、あっけに取られる学者たちの前から退き、イエス様を引っ張って神殿の外に出たのではなかったでしょうか。

 一息ついたマリアは、親の勤めとして、ここは一つ叱っておかなければ、と思ったことでしょう。実際にかなり怒りが込み上げていたのかもしれません。「なぜこんな勝手な振る舞いをしたのですか。お父さんもお母さんもどれほど心配したと思っているのですか。まだまだ子どものあなたが、神殿にいる偉い先生方に生意気な口の聞き方をして、どういうことなのですか。」

 しかしイエス様はすでに神の御子としての思いが芽生えていました。神の子として今、自分が何を知っておくべきか、今の時代、律法はどのように解釈され、どのように守られているのか、地方の町ナザレにいては吸収できないことを知っておかなければならない。そのように思われたのではないでしょうか。それは両親のご機嫌を伺うよりもイエス様にとって大切なことだったのです。

 ですからイエス様は「どうして私を探したのですか」と言い返してキョトンとしています。その上、心配して三日の間、食べ物も喉を通らないくらいだった両親に向かって「私が父の家、神殿にいるのは当たり前だと知らなかったのですか?」と言い放ったのです。

 この時のことを聖書は「両親にはイエスの言葉の意味がわからなかった」と記しています。しかしマリアとヨセフの心に、イエス様は神様からの預かり物なのだという分別が蘇ってきたのかもしれません。「この子は私たちの子として育っているけれど、普通の子ではなかったのだ」そんな思いが与えられ、怒りは引いていきました。特にマリアは、「もうあれこれ言うまい、イエスがこの先何をしようとも、心の中に納めておこう」と決めました。

 両親の心の動きをイエス様も見てとられたのでしょう。それ以上何も言わず、促されるままに素直にナザレに戻り、時が来るまで親孝行な息子として過ごされたのでした。

 

 イエス様が起こした行動は、親の立場で言えば、とんでもないことですが、これも神様の計画だったのだと考えて視点を変えてみますと、神様の思いが、非常に感じられる記述でもあります。

 私たちは平穏な信仰生活を送っている時には、自分は神様に探されて見出されたものである、という意識を持ち続けることができます。しかし、ひとたび日常がピンチに襲われるとオロオロ、ウロウロ、平安が失われてしまいます。しかし私たちがイエス様を見失う時、神様などいないと心が叫ぶ時、私たちが迷うことのないように、神様は教会を与えてくださり、「ここに帰って来ればイエス様に会えるんだよ」と礼拝堂を備えてくださいました。

 今まで120年間、飯田教会の礼拝堂は幼稚園の園舎の一部として、幼児教育の場としても用いられてきました。しかし今から数年後には、自分達の礼拝堂として、いついかなる時でも心置きなくイエス様と出会い、神様と語らうことができる場所として備えられようとしています。そしてそれが実現するために、今まで以上に私たちの信仰が試される時が来ているのです。



2021年もあと数時間となりました

今年もコロナに翻弄される1年でした

明るい兆しが見えてきたかと思えば第6波の到来!?

厳しい状態に置かれている方も少なくないと思います

長い戦いが続きますが

可能な限り感染対策をしながら

この試練の先に、新しい喜びが待っていると信じて

前に進んで参りましょう

みなさま良いお年をお迎えください


1月1日は新年礼拝はありません

1月2日お会いしましょう




年明けの土曜学校
元気なみんなと会えますように


2021年12月27日月曜日

「よろこびの知らせ」 クリスマスイブ燭火礼拝(2021年12月24日)午後7時 お話の要約

ルカによる福音書 2章1-16節

 皆さんは「ブルータス、お前もか」という言葉を聞いたことがあるともいます。信頼していた者の裏切りを表す言葉として有名です。この言葉は、ローマの政治家ユリウス・カエサルが暗殺された時、暗殺者の中に友人のブルータスがいるのを知ってショックを受け、漏らした言葉です。

 このユリウス・カエサルの死後、彼の養子だったオクタヴィアヌスが初代皇帝に就任します。皇帝になった彼は「ローマの平和」と呼ばれる、約200年にも及ぶ帝国の全盛期を実現した人物として人々から称えられ、アウグストゥスという名を与えられます。

 いきなりなんでローマの歴史?と思われるかもしれませんが、先程読みましたルカによる福音書の2章1節に登場する「皇帝アウグストゥス」という人物がこの人なのです。神と称えられるほどに華やかな功績を持った人物でしたが、その影には虐げられた人々が存在しました。

 イエス・キリストはこの皇帝アウグストゥスの支配するイスラエルの国のベツレヘムという町でひっそりとお生まれになります。その誕生は傍目に見れば、決して恵まれたものではありませんでした。


 身重であったマリアが夫のヨセフと共にナザレからベツレヘムへの旅しなければならず、生まれたばかりの赤ん坊を飼葉桶に寝かさなければならなかったのは、皇帝アウグストゥスが自分の支配する領土に住む住民から漏れなく税金を徴収するため、先祖の街に戻って住民登録をするよう強制したからだったのです。こうしてイエス様はローマ帝国に苦しめられるところからその誕生の物語が始まります。

 皆様もご存知の通り、ローマといえば今ではイタリアの首都として有名で、その中心にはカトリック教会の中心バチカンとサン・ピエトロ寺院があります。かつてローマ帝国の横暴ゆえに馬小屋で誕生したイエス様が、今は壮麗なキリスト教会で崇められている。驚くべき逆転劇は、不幸に見えたことの裏側に幸いがあり、人の思いを遥かに超えた神様の御計画があることを私たちに伝えているのです。


 仮に皇帝の命令がなければ、マリアとヨセフはベツレヘムに行くこともなく、イエス様はナザレの一般家庭で誕生し、親族一同のお祝いを受けていたでしょう。そうなると、クリスマス物語はずいぶん変わったものになったに違いありません。しかし、旅先での過酷な出産は、思いも掛けない人々をイエス様の元に招き寄せました。イエス様誕生の知らせを聞いて真っ先に駆けつけたのが、ベツレヘム近郊で野宿する羊飼い達だったのです。


 当時の羊飼いは24時間羊の世話をし、泥棒や獣から羊を守る厳しい労働でした。労働の割に賃金は安く、教育を受ける機会もほとんどありませんでした。働いても働いても貧しさから抜け出せる見込みもありませんでした。彼らは貧しさゆえにユダヤ教の戒律を守ることのできない下層階級の人々でした。

 イスラエルは祭司が政治も司る宗教国家でしたから、戒律を守れない羊飼いたちは神様に見捨てられた存在とみなされていました。町で暮らす一般の人々から見ても、羊飼いたちは礼拝にも行かず、神様から与えられたさまざまなルールも守れない、無知で無学で不信仰で不潔な人々に思えました。はっきりいえば、羊飼いたちは一般市民から差別されていたのです。


 しかし羊飼いたちは、むしろ素朴な信仰を持った人々であったようです。劣等感にまみれ、未来への希望も持ってはいなかったけれど、預かった羊を命懸けで見守ることには誇りを持っていました。ですから神様は同じように私たちを見守ってくださっている。そのような思いだけは失わなかったのです。その信仰は闇の中で自分を照らしている満天の星のように、彼らの心の一筋の光でした。


 この夜、羊飼い達の元に天使たちが現れたのは偶然ではなかったのです。神様の御使である天使たちは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げ、「この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」と、高らかに歌ったのです。

 神の御子がどういうわけか自分たちが会いに行けるすぐそこにおられる。いやむしろ自分たちに会うために、王宮でも普通の家でもなく、貧しい馬小屋の飼葉桶の中に寝かされているのだ。何故なら天使は言ったではないか「あなた方のために」と。これを信じないで何を信じるのだ。


 「よろこびの知らせ」というものは、どんな素晴らしい内容であっても、自分に向けられていると受け止めなければ、何の益にもなりません。羊飼いたちは神様からの知らせを自分に向けられたメッセージであると確信し、急いで行動に移しました。こうして彼らはどんな高貴な身分の人よりも先に、イエス・キリストの元に招かれ、そのお誕生を祝うことができたのです。


 この物語は、羊飼いたちががこののち革命家になって世の中を変えたとか、そういうことではありません。ただ、彼らが天使の言葉を信じて希望を抱いた、その心の素直さが福音書に記され、伝えられ、今日も闇の中で苦しむ人の心に光を投げかけ続けるのです。そして羊飼いたちと同じようにそのメッセージを受け入れた人の心にあかりが灯るのです。これこそが、神様の望まれた、民全体の、全ての人への、大きな喜びだったのです。

 私たちはこの1年、様々な出来事がありました。良いこともあれば嫌なこと、例えば病気や怪我、思わぬことに苦戦したり、闇や孤独を感じたりするようなこともあったでしょう。

 しかし、そうした中にも、神様が共にいらっしゃることを信じて今夜こうして集まりました。今、皆さんが持っておられる一つ一つの灯火は小さなものですが、かつての羊飼いを照らした星あかりと同じように、闇を照らし、生きにくい人生を歩んでいる一人一人を導くあかりとなるのです。




イブ礼拝の様子をお届けします

今回もリーベクワイヤの皆さんの

美しい音色が小さな会堂に響き渡りました


夜なのでこども聖歌隊はお休み

代わりに「おとな聖歌隊」(仮)が賛美しました










少しわかりにくいですが
今年も竹燈籠が園庭に登場しました
小さくなってしまった聖壇の蝋燭を
入れてあります


瓢箪ランプは蝋燭を入れると燃えてしまうので
LEDライトでお客様をお出迎え

2021年12月20日月曜日

クリスマス物語(日曜日のお話の要約)

クリスマス音楽礼拝(2021年12月19日)
マタイ福音書1章18節~23節 ルカ福音書1章26節~38節

 皆さんクリスマスおめでとうございます。

 先程歌った「昔ユダヤの人々は」の歌の中に「神様からのお約束」という言葉が出てきました。「約束」はとても大事な言葉です。

 皆さんも誰かと約束をしたことがあると思います。約束を守ることは私たちに必要なことなのです。でも、約束を守れなかったことはないですか?先生はあります。ここにいる大人の人もあるでしょう。人間はなかなか完璧に約束を守ることはできないのです。

 それには訳があります。神様が最初に人間をお作りになった時のこと、とても綺麗で気持ちの良い公園のような場所におうちを作ってくれました。その時は神様と人間は自由に話しができました。人間の心がまっさらでとても綺麗だったからです。神様は人間にたった一つ守ってほしい約束がある、と言われました。それは「あの木の実だけは食べてはいけない、死んでしまうから。」という約束でした。
 もし人間が「理由はわからないけれど、神様のおっしゃることを信じて食べないでおこう」と思えればよかったのですが、「多分、大丈夫」と思って、神様との約束を破って食べてしまいました。
 すると、あっという間に人間の心は汚れてしまいました。神様が「どうして約束を破ったの」と聞いた時「ごめんなさい」が言えませんでした。「私は悪くない」「あいつが食べろと言ったんだ」と人間同士で喧嘩を始めました。
 神様は「約束を破ったから、あなたたちはもうここにはいられない」とおっしゃいました。こうして人間が神様と離れて暮らすようになりました。すると人間の心の中はもっとわがままで汚くなって、約束を守れない人になってしまったのです。

 でも神様は人間が嫌いになったわけではありませんでした。人間の世界で喧嘩や嘘や戦争が起きることをとても悲しんで、そんな世界を救うため、「尊い方」「救い主」を送るからね、と約束してくださったのです。ただし神様は「いつ頃」とはおっしゃいませんでした。
 人々は神様のお約束を長い長い間待ち続けました。待っている間に、ユダヤの国はローマという大きな国と戦争をして負け、ローマの兵隊たちが偉そうにしていて、ユダヤの人たちは毎日辛い思いをしていました。それでも「尊い方」は来てくれませんでした。

 そんなある日、ナザレという町のマリアさんとのところに天使が現れます。ユダヤの人びとが長い間待っていた方が、赤ちゃんとなってマリアさんのお腹の中に宿った、と天使は言いました。マリアさんはびっくりしましたが、神様のお約束が本当になったのだとわかって、お母さんになる決心をしました。
 同じ頃、大工をしていたヨセフさんは夢を見ました。天使が夢で言いました。「ヨセフよ、あなたが結婚の約束をしているマリアは、もうすぐお母さんになる。あなたはマリアを守って、生まれてくる子のお父さんになりなさい、そしてその子をイエスと名づけなさい。」ヨセフさんも、とても驚きましたが、神様のお約束ならば、とマリアさんと結婚し、イエス様のお父さんになろうと決めました。
 マリアさんもヨセフさんも、神様のお約束が本当になるのだ、素敵だなあ、これでみんな幸せになれるなあ、とドキドキワクワクしたことでしょう。ところがマリアさんとヨセフさんは、パッと幸せにはなれなかったのです。それどころか、ローマの皇帝の命令で、二人は遠いダビデの町・ベツレヘムまで辛い旅をしなければなりませんでした。

 やっとベツレヘムについても宿屋には空いている部屋がありません。
なんとか馬小屋で泊まることができましたが、そこは動物が寝るところです。ドロドロのグチャグチャで、動物のうんちの匂いのする場所なのです。もちろんベッドもなくて、生まれたばかりのイエス様は、馬の餌を入れる入れ物、飼い葉桶の中に寝かせるしかありませんでした。神様からのお約束の「尊い方」がついにお生まれになったというのに、ちゃんとしたお部屋にも泊まれないので、マリアさんもヨセフさんもとても大変で、とても悲しかったと思います。 

 でも、本当は一番大変だったのはイエス様だったと先生は思います。
イエス様は神様の国から来た方です。神様の国というのはきっと綺麗で明るくて暖かで、いい香りがして、天使たちが美しい声で歌っている場所でしょう。
 神様の国から地上に降りてきて、赤ちゃんになって生まれた途端、暗くて寒くてドロドロのグチャグチャの場所から始めなくてはならないのです。でもイエス様は悲しくはありませんでした。マリアさんとヨセフさんが神様のお約束を信じてお父さんとお母さんになってくれたのでとっても嬉しくて、飼い葉桶の中でニコニコ笑っていたことでしょう。
 それは今からだいたい2000年前の出来事でした。

 さて、すくすく成長して大人になったイエス様は、たくさんの人の前でお話をして、「神様はあなた方のことが大好きだよ」と教えられました。「あなたが自分のことをダメな人間だと思っていても、心を込めて神様にお祈りすれば、神様は喜んであなたの心を綺麗にしてくださる」と言われたのです。それを聞いたユダヤの人は「そうか、イエス様こそ神様のお約束の「尊い人」だったのか」と信じ、悪いことをやめました。
 でもケンカの好きな人や、嘘をついてお金儲けをする人達や、わがままな人たちはイエス様が邪魔でした。イエス様のお言葉を信じないばかりか、とうとうイエス様を十字架につけて殺してしまいました。

 もしこれでお話が終わってしまったらすごく悲しいですね。でもイエス様は十字架にかかって亡くなってからから三日目に蘇られました。そして、自分を殺した悪い人々さえも赦してくださったのです。
 蘇ったイエス様は天の国に帰っていかれましたが、神様ですから、私たちに見えないだけで、本当は今でも私たちのすぐそばにいてくださいます。私たちが悲しかったり苦しかったり寂しかったりする時、一緒にいて励まし、慰め、勇気をくださいます。神の御子「尊い方」イエス様はいつも私たちと共にいてくださる。これが神様からの二番目のお約束なのです。そしてこのお約束はこれから先、もうずっとずっと変わることはありません。

 神様の新しいお約束を信じてお祝いすることがクリスマスの一番大切な意味なのです。私たちはこれからも主イエス様と一緒に歩いて参りましょう。



皆様の教会のクリスマス礼拝、いかがだったでしょうか
飯田教会のクリスマス礼拝は
ハンドベルのリーベクワイヤの皆さん
こども聖歌with先生バンド の賛美で
楽しく行うことができました
礼拝の最後は子どもたちが再び壇上に上がり
会衆と向きあって
手話付きで「きよしこの夜」を歌いました
礼拝の後は保育室をお借りして
久しぶりに茶話会を行い
一足早くイエス様の御降誕を賑やかに
お祝いしました



ともや先生ウクレレ演奏&メインボーカルによる
「むかし ユダヤの人々は」

「マリア マリア おめでとう」


リーベクワイヤの演奏

「きよしこの夜」

「きよしこの夜」

茶話会の様子
聖歌隊の子どもたちは山盛りのお菓子に
大はしゃぎでした



イブ礼拝は24日(金)午後7時から

リーベクワイヤの演奏があります

お近くの方は暖かくして

マスク着用の上、どうぞお越しください

(終了後、茶話会はありません)


再びじわりとコロナの感染が広がる気配がありますが

「第6波」などという大変なことにならないよう

心から願っています

2021年12月13日月曜日

キリストの到来(日曜日のお話の要約)

 待降節第2主日礼拝(2021年12月12日)
フィリピの信徒への手紙4章4-7節 ルカによる福音書3章7-18節


 ルカによる福音書は、イエス様のお生まれについて書き始める前に、洗礼者ヨハネの誕生のエピソードを事細やかに記しています。ヨハネの両親の名前や、彼らに与えられた不思議な誕生の予告。イエス様の母マリアが会いに来てしばらく滞在していたこと、「ヨハネ」と名付けるまでのすったもんだ。それらのことが興味深い描き方で記されています。
 また、ヨハネが死んだ時のことはマタイ福音書とマルコ福音書に詳しく書かれています。ヨハネの死は後の時代に戯曲になるほどドラマチックです。ヨハネがどれほど重要な人物であったかがわかります。

 洗礼者ヨハネのもっとも大切な役割は、神の御子がまもなく来られることをユダヤの民衆に告げ、その準備をさせることでした。ヨハネは人々に語りかけました。「自分の不信仰を周りのせいにして、今のような堕落した生き方をして神様を嘆かていれば、遠からず厳しい裁きが下る」「神の民としてのプライドを取り戻せ」ヨハネの言葉はユダヤの民衆の心に突き刺さりました。
 ヨハネ自身は荒野で極限まで質素な生活をしていましたが、迷える人々には、今の職業もそのままで、神様に忠実に生きるよう覚悟を決めなさい、とアドバイスしました。神様はヨハネを通して、体裁を整えることよりも、神の御子をお迎えする、その心こそが大事さがある、と伝えられたのです。

 「洗礼」はユダヤ教の世界には古くから儀式として存在していました。「きよめの儀式」とも呼ばれ、「神様に仕えるために身を清潔にし、神にふさわしい者となる」という意味を持ちました。ユダヤ人たち、特にエルサレムに住むインテリたちは決まりに従って、まるで風呂にでも入るように1日に何度でも沐浴しました。
 エルサレムでイエス様の時代の遺跡の発掘調査をすると、洗礼のための浴槽が、大きなものから小さなものまで、無数に発見されるそうです。この浴槽には水に降りる階段と水から上がる階段が別々に設けられています。せっかく清めた体が再び汚れないように階段を分けたのです。ちょっと度が過ぎるようにも感じます。
 実際、ファリサイ人たちの清めの意識は極端で、マルコ福音書などでも、イエス様と弟子たちがきよめを省略して食事しているのを見てファリサイ人たちが難癖をつけている様子が記されています。当時の洗礼は心のありようや信仰の問題よりも、「やったか、やらないか」という形だけ、形式だけに陥っていたようです。

 そのような形骸化した洗礼がまかり通る世の中で、洗礼者ヨハネが行った洗礼は型破りでした。洗礼の場所はきちんとした建物の中などではなく、ヨルダン川で行われ、体が清潔になったかどうかは全く問題ではなく、心を神様に向けて生き直すかどうかだけが問われたのです。
 イエス様ご自身もヨハネによって洗礼を受けておられますが、ご自分でも洗礼について言及しておられます。マタイ福音書の終わりや使徒言行録の書き出しの、復活したイエス様が天に帰られる時のお言葉です。マタイ福音書にはこうあります。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい」
 イエス様はこのように、洗礼を受けることを大切な約束として宣言されました。こうして現在に至る洗礼の形が出来上がったのです。

 ところで、この時、イエス様はこの世の終わりにもう一度来られると約束してくださいました。それから数十年が過ぎると、その約束を直接聞いた人々はどんどん少なくなっていきましたが、後を引き継いだ人々はイエス様のお言葉を忠実に守り、地中海沿岸に住む人々に伝道を続けました。相手がどこの国の人であろうと、また身分が奴隷であろうと貴族であろうと、こだわらずに伝道を続けた教会は、厳しい迫害が繰り返されても成長を続け、信徒の数も教会の数も増えていきました。
 かつてユダヤ教では洗礼という儀式が形骸化した経緯がありました。そこでキリスト教会では、洗礼を生涯に一回の出来事とし、洗礼の前には一定の学びの期間を設け、イエス様に従って生きる強い思いがあるかどうかの確認をしました。その上で、社会でどれだけ教養や身分がある人でも、教会の中においては兄弟姉妹として平等であり、私たちを愛し見守る神様こそが中心であること、それを忘れた人物を中心においてはならないことを教えました。

 キリスト教は、聖書をどれくらい知っているかとか、その教えの内容にどれくらい精通しているか、といった言ったことを競うものではありません。そうした学びをするのは大切なことですが、その目的はイエス様ご自身が私たちを愛してくださっていることをしっかりと捉えるためなのです。
 旧約聖書を読むのもそのためです。旧約聖書は人間の愚かさと神様の忍耐について記してあります。昔から人間は愚かな行いを繰り返しているけれど、神様は決して見捨てられず、時が来て、お約束の通り、独り子であるイエス様を遣わしてくださり、死を超えて天の御国に迎え入れてくださるために、あえてイエス様を十字架にかけられたのだ。この壮大なご計画を感謝して信じることができるようになります。
 神様は私たちに洗礼を授けてくださることによって、やがてイエス様が再び帰って来てくださる日に備えさせてくださいました。そのお力によって、私たちは今、イエス様は目には見えなくても共にいてくださることを信じることができています。

 私たちは日々聖書を学び、イエス様の言葉を自分のうちに取り込み、血とし肉とすることで、のびのびと自由に信仰に生きることができます。私たちは複雑なこの世にあって、常に惑わされ信仰を置き忘れてしまいがちですが、神様の恵みは決して私たちから離れることはないのです。


19日(日)はクリスマス礼拝です
25日直前の日曜日にクリスマス礼拝を行うのが
慣例なので、今年はかなり早めのクリスマス礼拝です

リーベクワイヤとこども聖歌隊が賛美してくれます
ささやかですが久しぶりに茶話会も計画しています

お近くの方はぜひお越しください






2021年12月6日月曜日

洗礼者ヨハネ(日曜日のお話の要約)

聖餐式・待降節第1主日礼拝(2021年12月5日)

マラキ書3章1〜4節 ルカによる福音書3章1〜6節


 本日のルカによる福音書にはさまざまな人物名が記されています。ここに挙げられているティベリウスは初代ローマ皇帝アウグスティヌスの養子で、第2代目皇帝に即位した人物です。その彼がローマを統治をして15年目のことだった、と伝えます。

 使徒信条に登場する「ポンティオ・ピラト」の名もあります。ローマ帝国から派遣され、ユダヤの総督として着任した役人で、イエス様の十字架刑の決定を最終的に下した人物です。


 次に、ユダヤの領主ヘロデ。この人の父親はイエス様が赤ん坊だった時、暗殺しようとしたヘロデ大王です。領主ヘロデはイエス様の死刑に深く関わりました。ですから親子二代にわたっての敵役です。


 さらには「アンナスとカイアファが大祭司であった時」。大祭司とは出エジプト記に登場するモーセの兄、アロンの家系の者が世襲で継承することになってい流、政治と宗教のトップでした。ところが、ローマの力が強まるにつれ、ユダヤ地方の統治者もしくはローマから送られたユダヤ総督が大祭司を任命するようになり、大祭司の罷免と任命が頻繁に行われたようです。ですから神様以外は何者も恐れないはずの大祭司でありながら、ローマの顔色を伺う管理職のようになってしまいました。

 そんな時代の大祭司だった「アンナス」と「カイアファ」という二人は、娘婿と義理の父、という関係です。アンナスが大祭司を退いたあと、カイアファがローマ総督の任命でユダヤ教大祭司となります。


 ユダヤ人がイエス様を担ぎ上げて騒動を起こすとローマに攻め込まれると思ったカイアファは、議会の席で「1人の男(イエス)のせいで国が滅びるなどあってはならない」と宣言します。この言葉がイエス様を排除する方へ人々を導いたのです。

 つまり、ここに連なる短い人物紹介は、イエス様のご生涯に大きく関わる「敵役」の紹介でもあるわけです。


 そして、そのような人物達に続いて、「ザカリアの子ヨハネ」の名前が紹介されます。洗礼者ヨハネが「荒れ野で現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」という出来事が起こったのです。

 洗礼者ヨハネがこの時人々に呼びかけた「悔い改め」というのは、単なる反省ではありません。「自分は神様を見失っていたんだ」と気づき、自分を惑わせていたものから目を切って、神様の方に向き直るのです。そして神様に導かれ神様と共に人生を歩む決心をする。これが悔い改めです。自分の心を神様の方にぐるっと向き直させる、という意味で「回心」という言葉も使われています。


 ユダヤの民衆は政治の堕落やローマの支配を「仕方ない」と諦めている人も多くいましたが、幼い頃から聖書を通して教育を受けてきた人々の中には、本当に神様を恐れ敬い、このままで良いはずがない、と考える人もたくさんいたのです。そういった人々の心に、ヨハネの言葉「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という教えは深く突き刺さりました。

 彼がここで語った言葉はイザヤ書40章から引用でした。(聖書学の世界ではイザヤ書の1章から39章は第一イザヤと呼ばれ、紀元前8世紀ごろに記されたと言われています。40章以降は第二イザヤと呼ばれ、紀元前500年代に記されたという説が有力です)


 紀元前500年代半ば、ユダヤの国はバビロニア帝国という巨大な国との戦いに敗れ、主だった人々はバビロニアに連れて行かれます。この時、エルサレム神殿は崩壊し、ダビデ王朝は滅亡しました。多くの人々が「自分の国はこれで終わりだ」と思い、深い嘆きと諦めの気持ちを抱いたことでしょう。

 その民に向けて、イザヤ(第二)は慰めの言葉を語ったのです。「我々はいずれ先祖の土地に帰ることができる、神様は我々の悔い改めの心を受け入れてくださった。だから、イスラエルの人々は卑屈になっていないで、神様に愛されているという誇りを取り戻しなさい」

 イザヤの預言は捕囚の民となったユダヤ人の心に平安を取り戻させました。神様の御心が一人一人の心に流れ込んできた時、すっと通ってくるように、心の中に通りの良い道を作り上げる努力をしたのです。


 洗礼者ヨハネがイザヤの時代から長い時を超えて「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫んだ時、人々は、自分たちの先祖がいかに勇敢にボロボロだった国を立て直したか、その信仰深さを思い出したのです。

 イスラエル国はもともと神に愛されている国なのだ。大祭司がダメだからとか、ローマが怖いからとか、ピラトが睨みを効かせているからとか、それらは言い訳にすぎない。「どうせダメだ」という心を捨て去って、一人一人が神様に向き直ることから始めよう。そう決心した人々は、ヨハネの元に集まりました。そして洗礼を受けるという道を選択します。


 ただ、ヨハネの役割はここまででした。残念ですがすが、ヨハネの言葉を受け入れ、神様に向き直るというのは、言ってみれば準備体操のようなものです。ヨハネは領主ヘロデに死刑にされるという劇的な最期で福音書から退場します。

 そしてそのヨハネの後をイエス様が引き継いだのです。悔い改めた一人一人をまことの神様と引き合わせ、天の国へと導いていくお役目は神様の御子であるイエス様でなければ果たせなかったからです。


 いくら強い決心を抱いて洗礼を受けても、日常の中で導いてくれる方がいなければその決心は長くは続きません。ヨハネによって自分のダメっぷりや心のうちの罪に気付かされた私たちは悔い改めに導かれます。そして救いを求めた時、イエス様の十字架の贖いによって罪の赦しを与えられるのです。そして日々を聖霊なる神に導かれてあゆみ、やがて神の国に帰っていく。ここに神様の救いが完成するのです。

 クリスマスを前にして、洗礼者ヨハネの言葉を学ぶ意味はここにあります。イエス様のお誕生、クリスマスを迎える前に、心の準備をしてイエス様をお迎えしなさいよ、とヨハネ語りかけてくれるのです。

 私たちは、やがてイエス様が来られるその時まで、イエス様から与えられた罪の赦しを大切に生きていくのです。死の時がくれば神の国へと導かれることを確信して毎日を過ごして参りましょう。たとえ傷だらけの人生だったとしても、キリストによって神の国で新しく命をいただくのです。 



先週の土曜日は土曜学校が開かれました
いつもですと土曜保育に来ている園児は礼拝とお誕生会が終わると
保育の部屋に戻りますが
イースターとクリスマスだけは
年中さんと年長さんも小学生と一緒に
クラフトを楽しみます
先生の準備は倍になりますが
出来上がった作品を満足気に持ち帰る姿は
なかなか良いものです

作業風景と作品をいくつかご紹介します

紙皿に木工ボンドを塗り
カラーの水苔を貼ります
次に松ぼっくりとフェルトボールを貼っていきます

仕上げに、真ん中にLEDキャンドルを置いて出来上がり
この作品は年中のYちゃんです
上手にできました

Sちゃんも年中さん
楽しい作品ができました

いつもやんちゃなMちゃん
トレーナーとお揃いの黄色の紙皿をチョイス

2年生のKちゃん、最初は「グルーガン恐怖症!」なんて言っていたのに
いつの間にか使いこなしています!

見本にかなり忠実なMちゃん

HちゃんとYちゃん
Yちゃんはくまさんの顔を作りました

これはなかなか個性的!
小学校1年生のNくんの作品



小学生のリースは最初にワイヤーで組んで
カッティングボードにグルーガンで貼りました
自由な形を楽しめたようです

近くの里山を回って
松ぼっくりを紙袋いっぱいに集めてきてくれた
K先生、本当にありがとう!

次回の土曜学校は1月8日(第二週)
コロナの感染が広がらず
楽しく集まれることを祈ります

2021年11月29日月曜日

この闇の世界に(日曜日のお話の要約)

待降節第1主日礼拝(2021年11月28日)

エレミヤ書33章14-16節 ルカによる福音書21章25-36節


 中世と呼ばれる時代、ヨーロッパ諸国はたびたびペストに襲われました。この病によってヨーロッパの人口は30%以上減少したそうです。悲惨な出来事ですが、これによって社会は大きく発展したと言われています。

 その時代は、書物は人の

手によって書き写さなければならなかったのですが、グーテンベルクが印刷機を開発したことによって、聖書をはじめとして様々な書物が印刷でき、たくさんの人が読めるようになりました。教会でも、人々はペストを恐れて集まれない分、文書や図版で学んで行ったのです。この出来事はルターたちの宗教改革運動を大きく後押ししました。

 当時の庶民は教会に行くことが絶対でありながら、聖書を読むことは許されず、教会の言う事を盲目的に信じさせられていました。当時の聖書はラテン語で書かれていましたから庶民が読むことは不可能だったのです。しかし宗教改革によって聖書は母国語に翻訳されるようになり、印刷機の発明によって比較的安価で出回るようになります。

 これをきっかけに個人個人が聖書を読み、信仰を養う時代が訪れたのです。これによって知識や情報が一部の貴族や金持ちに独占される状況は終わり、ヨーロッパは近代化していったのです。

 結果として、この時代のペストによるクリスチャン人口の減少は、悲惨ではあったが、悪いことばかりではなかった、神様の御計画がちゃんとそこにあった、と解釈されています。もしかしたら神様は、教会が大事なことを忘れた時に、私たちが聖書からきちんと学び直すために、あえて救いの手を差し伸べず、厳しい出来事に向き合うように導かれるのかもしれません。


 さて、本日読みましたルカ福音書の記述の一段落前には「エルサレムの滅亡を予告する」と小見出しが付けられており、イエス様が弟子達に向かって、「ユダヤの人々にとって非常に悪い出来事が起こる」と予告される出来事が記されています。

 イエス様は「エルサレムが軍隊で囲まれたなら、なんとかしてエルサレムから逃げなさい。この都は異邦人に踏み荒らされるからだ」と言われます。「まもなくここに神の怒りがくだり、ローマの軍隊がやってくる。妊娠中の女性や赤ん坊を連れている女性は逃げ遅れる」そんな衝撃的なことをイエス様はおっしゃったのです。

 この話を聞いた弟子達は、自分たちは神様に守られた素晴らしい都に住んでいると思い込んでいました。神殿がある限りエルサレムは決して滅びないと思っていたのに、イエス様からこんなふうに言われたら、混乱してしまうのは当然でしょう。

 しかしイエス様は続けて、「もはやこれまで、と思うようなピンチに襲われても、身を起こして頭をあげなさい」と言われました。あなた達が自由になるのは大きなピンチの後だ、と教えられるのです。

 西暦70年、イスラエルはローマ帝国との戦いに敗れ、多くの人々が命を失い、神殿は焼け落ちます。まさにイエス様が言われた通りになりました。多くの戦争の場合と同じように「身重の女と乳飲児を持つ女」は逃げ遅れ、命を落としたでしょう。イエス様のおっしゃった通りになったのです。

 イエス様はそのような悲惨な時がまもなく訪れることをご存知でした。その上で「絶望するな」と言われるのです。それは無責任な神頼みでもなければ気休めでもなく、神様ご自身が「神を信じなさい」と言われるのです。たとえ地上の命が不幸なことで終わったとしても、神を信じるものには神の国で生きる命が与えられている、と言われるのです。神の国は、イエス様の御言葉を信じるものには常に開かれていることを約束するから希望を持ち続けなさい、と言われるのです。

 どのような人生であれ、「あなたが大切だ、あなたを神の国に招きたい」そう語りかける神様の御言葉を心に刻み、感謝を忘れない生活をするためにも、しっかりと聖書を読み、御言葉の語られる説教を聞く必要があります。クリスチャンの生活というものは、傍目には日曜日の午前中を拘束される不自由な生活に見えるかもしれません。しかし御言葉、説教を聞くことで、私たちの弱い心はこの世の雑音を振り払い、神様からの恵の御言葉を聞き取る力を養い続けることができるのです。


 2020年から起こった新型コロナ感染症の流行は、多くの教会に強いダメージを与えました。このような中で、私たちの教会は地方の小さな街にあることが利点となり、大規模な感染の波から守られ、連続して礼拝を閉じることもありませんでした。

 その一方でパソコン通信やデジタル機器の活用方法を探ってスカイプやZOOM配信を行い、そのレベルをあげ、遠方に住む方や都合で自宅に留まる教会員も礼拝に参加することができました。ZOOM会議の水準を上げることもできました。

 私たちは地方の小さな群れですが、感染症が世界を襲うこの禍いの時を通して愛を受け、些細に見えたことの一つ一つに神様の守りがあることを再認識することができたのです。

 もちろん、これからも注意を怠らず感染対策をしていかなくてはなりませんが、怯えてばかりもいられません。私たちには「あなたが大切だ、あなたを神の国に招きたい」と語りかける神様のみ言葉を、次の世代に伝えていく役割が与えられているからです。今後、感染症がもう一度広がっていこうとも、あらゆる知恵を絞ってキリストを信じる人、信じたいと思う人が、神様と出会える場所を作り上げて参りましょう。


 間もなく夜の時間、闇の時間が一番長い冬至がやってきます。神様は夜の長いこの時期が光あふれるようクリスマスの恵みをくださいました。クリスマスの本当の意味を知らない人、キリストがどなたであるかを知らない人にも、できるだけ分かりやすく伝えて参りましょう。


昨日から待降節(アドベント)に入りました

大掃除をしたりツリーを出したり

クランツを飾ったり

なかなか大忙しです


11月とは思えないような寒さに戸惑いながら

クリスマスまでの準備を進めて行きます




飯田教会には小さな馬小屋セットがあります
羊飼いも動物も東方の博士もいません
それどころかヨセフさんが持っているはずの杖もなく
天使の姿さえありません
長い年月の間に紛失してしまったのでしょう

特に高級品というわけでもないのですが
味わいが好きで
初めのクリスマスの夜はこんな風だったんだろうな
と想像を掻き立てられながら
この3年、聖卓に飾っています


ツリーもクランツも準備完了!
次は私たちの心も大掃除して主をお迎えする準備しなくては!

 

2021年11月25日木曜日

12月4日の土曜学校のお知らせ

12月も通常通り土曜学校ができそうな気配です
12月4日午前9時30分から行います

このままコロナ感染が抑えられることを祈ります

12月は今年もクリスマスらしいクラフトをご用意しました
土曜保育のお友達も一緒に工作をしましょう
園児用と小学生用の2種類を用意してお待ちしています

園のお友達は真ん中にLEDライトを置いたプレート
小学生のお友達はカッティングボードを利用したリースです


2021年11月22日月曜日

しゅイエスとともに(日曜日のお話の要約)

こども祝福礼拝(2021年11月21日)
マルコによる福音書10章14節

 突然ですが、皆さんは王様の出てくるお話や歌を知っていますか?「南の島の大王はその名も偉大なハメハメハ」とか、知っていますね。歌の中ではハメハメハ大王は美味しいものを食べたり歌を歌ってのんびり暮らしているようですが、王様というのは本当は大変な仕事です。

 自分の国に悪い人たちが攻めて来たら戦わければなりません。国の中で悪いことをする人には厳しくしなければなりません。その逆に、貧乏な人や困っている人、悲しんでいる人がいたら一生懸命助けます。国民がいつも元気で明るく過ごせるようにすることが王様の大事な仕事なのです。ですから王様というのはどんな時も正しく、強く、優しくなければなりません。これはなかなか難しいことです。


 実は、私たちがいつもお祈りしている神様は、天の国の王様です。完璧な正しさと強さと優しさを持っておられます。ですから天の国はいつも平和で美しいところです。天使達が翼を広げて楽しく歌っています。神様が太陽のようにその国を照らしているので、夜も綺麗な光に包まれていて、少しも暗くありません。泣いている人がいたら、神様がその目の涙を拭いてくれるので、みんな笑顔です。

 これは先生が勝手に作ったおはなしではありません。聖書の「ヨハネの黙示録」の最後の方にちゃんと書いてあります。ちょっと難しいけれど、いつか読んでみてくださいね。

 天の国の王様である神様は、いつでも人間の国の私たちのことを見ておられました。不思議な力で私たちの様子が全部わかるのです。私たちが悲しくて泣いたり、誰かと喧嘩して怒ったりしていると、とても心配してくださいます。みんなを神様の国に呼んで幸せに暮らしてもらいたいのですが、神様が呼びかけても、人間にはなかなか聞こえません。神様のお声は心の綺麗な人にしかわからなかいからです。

 人間が幸せに暮らす方法を教えたいと思った神様は、ご自分の一人息子、つまり王子様を人間のところへ送ることにしました。ピカピカ光っているご自分が行くと人間が怖がるといけないと思ったからです。でも王子様もやっぱり神様ですから、優しい光で光っています。そのまま人間の国へ行ったらすぐ神様だとわかって怖がられてしまうでしょう。

 そこで、神様は人間の女の人を一人選んで、王子様のお母さんになってもらうことにしました。お腹の中に入って赤ちゃんからやり直すのです。人間の女の人から生まれればピカピカ光っていないので、人間の仲間として普通に暮らすことができるでしょう。そうすれば王子様は人間のすぐそばにいて、悲しい人を慰め、病気の人を治し、お腹が空いている人食べ物を与え、みんな仲良く暮らせるように、お話しすることができます。


 神様は王子様のお母さんになってくれる人を探し、ぴったりの人を見つけました。その人はナザレの村に住んでいるマリアという人でした。そうです、もうわかったと思います。神の国の王子様の名前はイエス。主イエス様なのです。

 みんなが知っているように、クリスマス夜、イエス様はマリアさんの子どもとして人間の世界に生まれ、すくすく大きくなりました。そして大人になると、神様の国のことをみんなにお話しし始めました。イエス様は、正しく優しく生きていれば神様に会えるよ、必ず神様の国に行けるよ、とお話ししてくださったのです。


 でも残念なことに、大人はそのお話の半分くらいしか信じませんでした。イエス様が生まれた国は良い王様がいなかったので、戦争ばかりしていて貧乏でした。ですから、大人の人たちは、いつ行けるかわからない神様の国のお話を聞くよりも、イエス様の奇跡の力でパッと幸せにしてほしいと願いました。その大人の人たちは、イエス様が神様の国から来た王子様だとは本当は信じていなかったのです。

 ところが、子どもたちは違いました。大抵の子どもというのは鋭いところがあるので、イエス様が神様の国から来た方だとちゃんとわかりました。それでイエス様にこう聞きました。「私たちは正しく優しく生きたいけれどまだ小さいので力がありません、どうしたらいいですか?」

 イエス様は子どもたちにおっしゃいました。「辛いことや悲しいことがあっても、神様にお祈りすれば力をもらえるよ、神様はいつもあなたたちを見守っているよ。」子どもたちはそのお言葉を信じて神様にお祈りを始めたのです。

 イエス様は子どもたちがご自分の言葉を素直に信じてくれたことがとても嬉しくなりました。子どもたちを一人一人抱っこして、頭に手を置いて、「あなたは神様に守られています」と言ってくださったのです。


 これは大体2000年くらい前に本当にあったお話です。

 なんだ、ずいぶん昔の話だなあ、と思うでしょう。でもイエス様は神様の子どもですから、今も変わらずちゃんと生きていて、2000年前と同じように子どもたちを見守っています。これは本当のお話なのです。

 ただ、2000年の間に、一つだけすごく変わったことがあります。それは長い長い間に、イエス様を神様の子どもだと信じる大人もいっぱい増えたということです。大人の人たちは聖書という本にイエス様のお言葉を書き、どんな国の人でもイエス様のお話が読めるようにしました。そしていつでもお祈りできるように教会という場所を作りました。それから、小さな子どもたちもイエス様のお話が聞けるよう幼稚園を作りました。私たちの教会と幼稚園は、100年ぐらい前に、そうやってできたのです。


 さて、今日は「こども祝福式」なので、来てくれたお友達にはプレゼントがあります。ただ、イエス様を信じて集まってくれた人は、幼稚園の子も小学生も、お父さんもお母さんも、幼稚園の先生も、おじいさんもおばあさんも、みんな全員イエス様の大切なこどもなのです。大人だから抱っこしたり頭なでなでしたりはしないけど、神様からの祝福はここにいるみんなにあります。神様はみんなを守っていてくださいます。

 みんなで力を合わせてここを正しく優しく、そして元気いっぱいの神様の国みたいにしていきましょう。これからも一緒に「主イエスとともに」「嬉しいときも悲しい時も」励まし合いながらどこまでも歩いていきましょう。



こども祝福礼拝の賛美の様子を写真でご紹介します

順不同になってしましました、すみません

リーベクワイヤの皆さんのハンドベルも

とても素敵でした


こども聖歌隊with先生バンドの賛美した曲は

「あの空はどうして青い」「主イエスとともに」の2曲です

手話を交えながら楽しく賛美してくれました


祝福式には二十人以上のお友達が来てくれました

牧師から聖句カード入りのお菓子のプレゼントをもらい

みんなニコニコ顔で帰って行きました


最年少のソウタくんはまだ年中さんですが
お姉さんたちと一緒にしっかり歌ってくれます
手話も上手です

「この空はどうして青い」のキーボードは
お子さんを二人聖歌隊に送ってくださっているゆりこさん
ことみ先生はギターデビュー
パーカッションはりか先生

ベースはなみえ先生
ドラムスははるか先生

メンバー最年長のゆうひさんに
メンバーと向き合ってもらい
手話で指揮をお願いしました


会衆の皆さんに「主イエスとともに」の手話を
覚えていただき、一緒に賛美しました
牧師夫人、真剣に指導中






だって「こども祝福式」だもの!
前奏と後奏はなずなさん、みすずさんの仲良し姉妹が
ドラムスやキーボードなどを駆使して
演奏してくれました
牧師先生は賛助出演


2021年11月16日火曜日

次の日曜日は「こども祝福礼拝」です
昨年まで、飯田教会では「児童祝福式」と呼んでいました
「みんな神様の子ども」という意味を込めて
名前を変えさせていただきました
こども聖歌隊with先生バンドも練習を重ねました
リーベクワイヤの素敵なハンドベルの響きも聴けます
礼拝終了後には全員参加のジャンケンゲームで
素敵なプレゼントが当たります
マスク着用の上、どなたでもぞお越しください!

次の日曜日は「こども祝福礼拝」です
こども聖歌隊も練習を頑張っています
どうぞお越しください

 

2021年11月15日月曜日

永遠に続くもの(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第25主日礼拝(2021年11月14日)
ダニエル書12章1-3節 マルコによる福音書13章1-8節

 本日の新約聖書の箇所には、神殿の崩壊と終末の徴が記されています。

 イエス様と弟子たちは壮麗なエルサレム神殿にやってきます。弟子の一人が「何と素晴らしい建物でしょう」と、まるでこの神殿が永遠に続く神の国であるかのように感嘆の声をあげます。ところがイエス様は「この神殿はやがて完全に崩壊する、と予告されたのでした。


 長い歴史を持つイスラエル王国ですが、かつて神殿は一度戦争で消失しています。弟子達が見ていたのはのちに建て替えられた神殿です。神殿とはいえ敵国の手で焼かれることがあることは弟子達も知っているのに、素晴らしい建物を前にして、そんなことは忘れてしまっていたのかもしれません。


 ユダヤ民族の歴史はおよそ4000年前に、族長であるアブラハム、その子イサク、孫のヤコブから始まったとされています。途中はちょっと省略しますが、日本でようやく弥生時代が始まった紀元前10世紀、イスラエルはすでにダビデ王の統治のもとで高い文明を誇っていました。

 ダビデ王は祭司を国のトップに据え、神様を中心とした宗教国家を作ります。その息子ソロモン王は驚くばかりの豪華な神殿を建設しました。しかし国の繁栄は100年とは続かず南北に分裂、当時の大国であったアッシリヤやバビロンに征服され、素晴らしかった神殿は見る影もなく焼け落ちます。それが紀元前586年と記録されています。


 神殿とともに一旦滅びたように見えたイスラエルの民でしたが、囚われ連れて行かれた外国で再び厚い信仰を取り戻します。やがて神様の奇跡的な導きにより祖国へ帰還した人々は、自分たちの生活を傍に置いて、真っ先に神殿を建て直したのです。その神殿は第2神殿と呼ばれ、紀元前521年に完成しています。


 それから400年後、イスラエルは今度はローマの支配下へと移ります。ローマは属国とした国々の土着の信仰には寛容だったため、ローマから自治を任されたヘロデ王は、ユダヤの民を喜ばせるために神殿を増改築します。外観も内装も豪華絢爛な神殿に仕上がっていたことでしょう。


 イエス様と弟子達が見ていたのは、この、ヘロデが手を加えた神殿だったのです。その素晴らしさは「永遠」に存在するに違いないと思わせるだけの美しさや神々しさ、迫ってくる迫力のようなものがあったのでしょう。


 当時のイスラエルは、ローマの属国とはいえ、道は石畳の道で舗装され、上下水道も整ったハイレベルな都市だったようです。その道を通って国外からも立派な神殿に参拝客が訪れました。法律も、治安を守るための訓練された機動部隊も配置されていました。ローマからイエスラエル人に課される税金は高くなる一方でしたが、表面上は平和であり、このまま安泰の世の中が続くかと思えたほどでした。


 その一方で、誇り高い民族であるイスラエル人たちは、しょっちゅう反乱を起こしては鎮圧され、処刑される、という状況を繰り返していました。実際には一触即発の状態が続いていました。ですから、民衆はイエス様の行われる素晴らしい奇跡を目の当たりにして、「この方こそ神様がイスラエルに遣わしてくださったまことの王様」と信じ、ローマと戦って追い出してくださるに違い無いと思い込んで大いに期待し、担ぎ上げようとしたのです。


 しかしイエス様の御計画は人々の想いを遥かに超えた壮大なものでした。イスラエルという国を再建するのではなく、人々を神の国に導くという使命を持っておられたイエス様は、目の前のことしか見えない人々によって勝手に持ち上げられ、勝手に失望され、政治家をも敵に回し、十字架の上で一度命を落とされたのです。


 三日目に蘇ったイエス様は、弟子たちにご自分の使命を引き継ぐようお命じになって天に帰っていかれます。その後は聖霊なる神が天から降り、弟子たちを支え導きますが、その道は苦難の連続でした。イエス様は、全ての国の人々に神様の教えを伝え、信じる者になるように宣べ伝えることを託されました。しかしそれは当時のユダヤ教の考え方と真っ向から対立するものでした。


 クリスチャンと呼ばれるようになったイエス様の弟子たちは、ユダヤ教徒から厳しい迫害を受けて命を脅かされ、祖国を追われます。地中海沿岸の街々に住むようになった弟子たちは、苦労を重ねながらそれぞれの土地で福音を伝え、信徒を増やし、教会をたてあげていきました。


 一方、従来のユダヤ教に留まった人々は西暦66年ごろからローマ帝国を相手に戦いを始めます。「神様は我々を守ってくださる、我々には神殿がある」と信じて戦いますが、ついには敗れ、神殿は西暦70年に火をかけられ、完全に破壊されたのでした。もしイエス様が「迫害は起こるが神様はあなたたちを見捨てない」と語ってくださらなかったら、弟子たちはとっくに絶望していたことでしょう。


 イエス様は、どれほどの試練が襲っても、神の国は変わらずに存在しており、イエス様を信じるものを迎え入れてくださるとおっしゃいました。地上のものがどれほど儚くても、永遠の存在は確かに天にあるのだと弟子たちは信じました。ですからどれほど周囲から迫害されても、どれほど無理解に苦しめられても、前を向き続けたのです。


 やがて神様に見出された者、イエス様に見出された者は、世界中全ての民族の中に広がっていきました。この日本に住む私たちも、永遠にかわらない神の国に招かれる存在として、イエス様を信じ、一人の素朴な弟子として、希望を持って礼拝してまいりましょう。今この時、限りある命を生きつつ、次の世代へとバトンを渡すことに集中して参りましょう。私たちはこの世の役目を終えて天国に召された時、永遠に生きるとは、どういうことかをはっきりと知ることができるのです。



先週の土曜日は恒例の土曜学校の日でした

キラキラドーム(スノードーム)を作りました

楽しいひと時ですが

まだまだコロナに気をつけながらの活動です

「気が緩んだ時が危ない」を合言葉に

活動しています



写真を撮る時だけマスクを外しています








今回は洗濯糊5:精製水5の割合で作りました
園芸用のボールが上手く浮かびました
ふわふわ動いて楽しい感じです