ダニエル書12章1-3節 マルコによる福音書13章1-8節
本日の新約聖書の箇所には、神殿の崩壊と終末の徴が記されています。
イエス様と弟子たちは壮麗なエルサレム神殿にやってきます。弟子の一人が「何と素晴らしい建物でしょう」と、まるでこの神殿が永遠に続く神の国であるかのように感嘆の声をあげます。ところがイエス様は「この神殿はやがて完全に崩壊する、と予告されたのでした。
長い歴史を持つイスラエル王国ですが、かつて神殿は一度戦争で消失しています。弟子達が見ていたのはのちに建て替えられた神殿です。神殿とはいえ敵国の手で焼かれることがあることは弟子達も知っているのに、素晴らしい建物を前にして、そんなことは忘れてしまっていたのかもしれません。
ユダヤ民族の歴史はおよそ4000年前に、族長であるアブラハム、その子イサク、孫のヤコブから始まったとされています。途中はちょっと省略しますが、日本でようやく弥生時代が始まった紀元前10世紀、イスラエルはすでにダビデ王の統治のもとで高い文明を誇っていました。
ダビデ王は祭司を国のトップに据え、神様を中心とした宗教国家を作ります。その息子ソロモン王は驚くばかりの豪華な神殿を建設しました。しかし国の繁栄は100年とは続かず南北に分裂、当時の大国であったアッシリヤやバビロンに征服され、素晴らしかった神殿は見る影もなく焼け落ちます。それが紀元前586年と記録されています。
神殿とともに一旦滅びたように見えたイスラエルの民でしたが、囚われ連れて行かれた外国で再び厚い信仰を取り戻します。やがて神様の奇跡的な導きにより祖国へ帰還した人々は、自分たちの生活を傍に置いて、真っ先に神殿を建て直したのです。その神殿は第2神殿と呼ばれ、紀元前521年に完成しています。
それから400年後、イスラエルは今度はローマの支配下へと移ります。ローマは属国とした国々の土着の信仰には寛容だったため、ローマから自治を任されたヘロデ王は、ユダヤの民を喜ばせるために神殿を増改築します。外観も内装も豪華絢爛な神殿に仕上がっていたことでしょう。
イエス様と弟子達が見ていたのは、この、ヘロデが手を加えた神殿だったのです。その素晴らしさは「永遠」に存在するに違いないと思わせるだけの美しさや神々しさ、迫ってくる迫力のようなものがあったのでしょう。
当時のイスラエルは、ローマの属国とはいえ、道は石畳の道で舗装され、上下水道も整ったハイレベルな都市だったようです。その道を通って国外からも立派な神殿に参拝客が訪れました。法律も、治安を守るための訓練された機動部隊も配置されていました。ローマからイエスラエル人に課される税金は高くなる一方でしたが、表面上は平和であり、このまま安泰の世の中が続くかと思えたほどでした。
その一方で、誇り高い民族であるイスラエル人たちは、しょっちゅう反乱を起こしては鎮圧され、処刑される、という状況を繰り返していました。実際には一触即発の状態が続いていました。ですから、民衆はイエス様の行われる素晴らしい奇跡を目の当たりにして、「この方こそ神様がイスラエルに遣わしてくださったまことの王様」と信じ、ローマと戦って追い出してくださるに違い無いと思い込んで大いに期待し、担ぎ上げようとしたのです。
しかしイエス様の御計画は人々の想いを遥かに超えた壮大なものでした。イスラエルという国を再建するのではなく、人々を神の国に導くという使命を持っておられたイエス様は、目の前のことしか見えない人々によって勝手に持ち上げられ、勝手に失望され、政治家をも敵に回し、十字架の上で一度命を落とされたのです。
三日目に蘇ったイエス様は、弟子たちにご自分の使命を引き継ぐようお命じになって天に帰っていかれます。その後は聖霊なる神が天から降り、弟子たちを支え導きますが、その道は苦難の連続でした。イエス様は、全ての国の人々に神様の教えを伝え、信じる者になるように宣べ伝えることを託されました。しかしそれは当時のユダヤ教の考え方と真っ向から対立するものでした。
クリスチャンと呼ばれるようになったイエス様の弟子たちは、ユダヤ教徒から厳しい迫害を受けて命を脅かされ、祖国を追われます。地中海沿岸の街々に住むようになった弟子たちは、苦労を重ねながらそれぞれの土地で福音を伝え、信徒を増やし、教会をたてあげていきました。
一方、従来のユダヤ教に留まった人々は西暦66年ごろからローマ帝国を相手に戦いを始めます。「神様は我々を守ってくださる、我々には神殿がある」と信じて戦いますが、ついには敗れ、神殿は西暦70年に火をかけられ、完全に破壊されたのでした。もしイエス様が「迫害は起こるが神様はあなたたちを見捨てない」と語ってくださらなかったら、弟子たちはとっくに絶望していたことでしょう。
イエス様は、どれほどの試練が襲っても、神の国は変わらずに存在しており、イエス様を信じるものを迎え入れてくださるとおっしゃいました。地上のものがどれほど儚くても、永遠の存在は確かに天にあるのだと弟子たちは信じました。ですからどれほど周囲から迫害されても、どれほど無理解に苦しめられても、前を向き続けたのです。
やがて神様に見出された者、イエス様に見出された者は、世界中全ての民族の中に広がっていきました。この日本に住む私たちも、永遠にかわらない神の国に招かれる存在として、イエス様を信じ、一人の素朴な弟子として、希望を持って礼拝してまいりましょう。今この時、限りある命を生きつつ、次の世代へとバトンを渡すことに集中して参りましょう。私たちはこの世の役目を終えて天国に召された時、永遠に生きるとは、どういうことかをはっきりと知ることができるのです。
先週の土曜日は恒例の土曜学校の日でした
キラキラドーム(スノードーム)を作りました
楽しいひと時ですが
まだまだコロナに気をつけながらの活動です
「気が緩んだ時が危ない」を合言葉に
活動しています
写真を撮る時だけマスクを外しています |
園芸用のボールが上手く浮かびました
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