2018年8月21日火曜日

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ6:30-44)


2018819日、聖霊降臨後第13主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、エレミヤ書第231-6節、エフェソの信徒への手紙第211-22節、マルコによる福音書第630-44節、讃美唱23(詩編第23編:1-6節)(松山教会での礼拝説教)

説教「あなた方が五千人の飢えを満たしなさい」(マルコ630-44

今日の福音書の出来事は、使徒たちが初めての宣教旅行から戻って来て、主イエスに、彼らが行ったことをみな報告したという記事から始まっています。この使徒たちというのは、特別な12使徒という職務の人たちを指しているのではなく、主から遣わされた者たちという意味であります。
主から遣わされて、主と同じわざをし、悪霊を追い出し、病人たちに油を塗り、彼らを癒すみわざをなして、戻って来たのであります。
そして、その間に、マルコは、洗礼者ヨハネが、首をはねられるというエピソードを入れているのであります。
それは、主イエスが、その後どのような道を辿らねばならないのか、その道が神によって定められていることを、暗示しているかのようであります。
さて、主イエスは、弟子たちに、しばらく休みを取るように、寂しい場所へ、人気のない場所へと、自分たちだけで出て行くようにとお命じになります。
もちろん、御自身も一緒に出て行くわけですが、それは、やって来た莉出て行ったりする群衆が多くて、彼らは食事を取るひまもなかったからであります。
弟子たちは、初めての宣教旅行から戻って来て、非常に疲れており、肉体を休める必要があり、主イエスはそのことを十分に察知しておられ、御自分もそうであったように、人気のない所へ行って体を休め、あるいは、父なる神と向かい合って祈る時を必要としていたのであります。
ところが、マルコは一番最初に書かれた福音書の著者らしく、他の福音書には記されていない事情を、生き生きと書き残してくれています。主イエスとって来て、主イエスの一行の行き先に、徒歩で、先に一緒になって駆け付けたというのであります。
それがどこであったかは定めることはできませんが、彼らがひそかに祈る場所を人々は察知していて、舟よりも先に、その地に着くことができたのであります。
そして、主イエスは、出て来られると、彼らが羊飼いのいない羊たちのようであるのをご覧になって、腸が痛むような思いとなられます。これは、神にのみ使われる言葉で、主は人々の有様をご覧になって「憐れまれた」と訳されていますが、ただ同情するというのではなく、共に苦しまれるという意味の言葉が使われているのであります。
そして、主は、多くのことどもを教え始められたと記されているのであります。
そして、時がだいぶたって、弟子たちが、イエスの下にやって来て言うのであります。「時は既に遅くなりました。人々を、あなたが解散して下さって、近くの村落や村里に行かせてください。そうすれば、彼らはそこで食料を手に入れることが出来ましょう」と。
ところが、主は言われます。「あなた方が、彼らに食べることを得させなさい」と。弟子たちは、「私たちが200デナリオンものパンを買ってきて彼らに食べさせよと言われるのですか」と不平を表します。
主イエスは、「どれだけ彼らはパンを持っているのか、あなた方は行きなさい、見て来なさい」と言われます。弟子たちは、行って、それを確認してきて「5つです。それに2匹の魚を」と答えます。それは、13人分の食料に過ぎません。
すると主は、それを取り、天を仰いで、賛美の祈りをしと訳してありますが、これは元の文では「ほめたたえる」あるいは「祝福する」という意味の言葉でありますが、そのようにして祈られた後、それを裂き、弟子たちに与え続けておられたのであります。
そして、弟子たちはそれを彼らに分配し、魚をも同じように彼らに分け与えられるのであります。
以上のような所作を取られる前に、主は人々を組にならせ、あるいはグループごとに、50人、100人ずつ縦の列にして、食べるために、青草の上に、あるいは黄緑の草の上に横になるように弟子たちにそうさせるように命じておかれました。
そして、5つのパンと2匹の魚をそのようにして、与え続けておられたというのであります。そして、人々は、それによってすべての人が食べて、しかも、満腹したというのであります。そして、
残ったパン屑や魚の残りを集めると12籠に一杯になったというのであります。これは、12弟子を暗示し、イスラエルの12部族を暗示し、ここから新しい神の民、教会が生まれることを暗示しているのであります。
さて、今日のこの奇跡は一体どういうことであったのでしょうか。それは、聖餐における主イエスの言葉と所作に近接しています。そこにいた、羊飼いのいない羊どもの魂の飢えを、また、心の満たされない渇きを、主イエスは弟子たちと共に満たすことができたということであります。
確かに、今の世界でも、多くの人々が飢えて、十分な食卓につけずに亡くなっております。しかし、今日の讃美唱、詩編23編が語るように、「主は、私の羊飼い、青草の茂る憩いのみぎわに伴いたもう。」その言葉が、今日の主イエスの5千人への供食を通して実現しているのであります。
私どもも、この渇きと飢えを満たす主のみ業に参加し、関わることができる。5千人の飢えを、主イエスの命令通りに行うことを通して、私たちもまた彼らに食べさせることができるのであります。

人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。


2018年8月13日月曜日

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第6章6節後段~13節)


2018812日、聖霊降臨後第12主日礼拝(―典礼色―緑―)、アモス書第7章10-15節、エフェソの信徒への手紙第13-14節、マルコによる福音書第66節b-13節、讃美唱85/2(詩編第859-14節)

説教骨子「主イエスに遣わされて」(マルコ福音書第66節後段~13節)

 主イエスは、出身地のナザレでは宣教は進まず、ナザレの人々の不信仰に、驚き怪しむと告げられている。主は、それで挫けたりなさらず、周囲の村々へと教えながら、巡り歩いておられたと、続きます。
 そして、12人を二人ずつ組みにして、彼らを彼ら自身にとっては初めての宣教旅行へと遣わされます。そして、彼らに汚れた霊どもへの権能をお与えになっておられたとあります。ご自分の持っておられる同じ権能を、弟子たちにも授ける。しかし、彼らにとってどんなにか不安な旅立ちであったことでしょうか。しかし、さらに主イエスは、彼らがパンも袋も帯の中に小銭すらも持参することをお許しにならず、下着も2枚着ることは認めず、ただサンダルを履き、1本の杖のみをお認めになるだけであります。
 この1本の杖とは何でありましょうか。それは、主イエスへの信仰を表わし、主イエスの受難の時の十字架を暗示するものとも言えるでありましょう。私たちが主イエスを宣べ伝えるのには、自分たちの業績や才能や力を誇っていては、それはできないことなのであります。
 主はさらに、このように指示なさいます。ある家にあなた方が入ったら、そこを出る時まで、そこにとどまり続けるように、そして、もしも、ある場所があなた方を歓迎せず、あなた方に聞こうとしない場合には、その場所を出るに際して、あなた方の足の裏の土や埃を彼らへの証しとして払い落としなさいと。
 弟子たちのそのふるまいを見て、あるいは、自分たちの非を気づかされ、なされた主イエスの宣教へと悔い改めるかもしれないからであります。
 そして、12人は宣教しており、病人たちには油を塗っており、そして、彼らを癒していたと記されているのであります。これは、彼ら12人だけの宣教の姿ではありません。私たちもまた、主イエスからこの同じ任務を与えられているのです。
 そして、今日の12人と同じような宣教を託されているのであり、私たちが語る言葉、生活の仕方が問われているのであります。私たちの小さな家庭での営み、職場での働き方、地域社会でのふるまい、11つを通して、主イエスの弟子にふさわしいものであるかどうか、その真価が問われているのであります。この夏、このお盆を迎える中で、私たちが主イエスの弟子として歩んでいくことを、今も主イエスが共にいて下さり、しっかり歩むようにと。アーメン。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

2018年8月10日金曜日

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)


201885日、平和の主日聖餐礼拝(―典礼色―緑―)、ミカ書第41-5節、エフェソの信徒への手紙第213-18節、ヨハネによる福音書第159-12節、讃美唱201(イザヤ書第22-5節)

説教「諸国民が一つの心となる日」(ミカ書第4章1節~5節)

 毎年、日本福音ルーテル教会、JELCでは、8月の第1の主の日を、平和の主日として、平和について、また2度と起こしてはならない戦争について、思いを凝らし、平和への決意を新たにする日として守ることになっています。
 
今年もミカ書第4章1節から5節の、今日与えられています第1の日課、ペリコペー、小さな聖書の文章を中心として、聖書のみ言葉から聞いていきたいと思います。

 さて、今日の記事は、その前後の記事からは、大きく隔たりのある内容となっています。さらに、この旧約聖書の中では最も有名なものの一つ「彼らは、剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって刃をあげず、人々はもはや戦うことを習わない」というみ言葉は、今日の讃美唱でもあるイザヤ書第2章2節から5節にも、ほとんど同じ言葉で記されており、どちらが古いのか、どちらがオリジナルなのかも、議論されてきました。

 イザヤ書よりもミカ書の方がより詳しく、イザヤ書がより古く、ミカ書はそれを、それをオリジナルとして、より後代になって、より深く展開したものとも考えられますが、むしろ、その2つの聖書は、そのもとになっている伝承をそれぞれの記者が用いて、今の形に編集されたものと考えられています。

 さて、ミカ書では、第3章までとは、打って違った内容が第4章1節から5節には記されています。そしてこれは、今では、モレシェトの人預言者ミカの語った預言ではないと考えられます。第3章9節から12節では、エルサレムの神殿が破壊される前のミカ本人の預言の言葉となっています。

 ミカが活躍したのは、紀元前701年のころのアッシリアがイスラエルに侵攻してくる前のことであります。そこでは、エルサレムの指導者たちの不正が糾弾されています。聞け、エルサレムの不正を働く指導者たちよ、とミカは彼らに対して不正から、悔い改めるように断罪するのであります。祭司は聖書からは離れて偽りを教え、政治家はわいろを受け取って、不正を働き、預言者たちまでも、金をとって偽りの預言をする。そして、彼らは、我々には主なる神がついているから、安心である。敵は攻めてこないと、主を頼りにしながら預言しているというのであります。

 そして、第3章の12節では、こう預言しています。エルサレムの山は廃墟と化し、シオンの丘は畑へと耕され、ところどころに木々の生い茂る荒れ野のようになると。そこには、神の家、神の神殿という表現はなく、敵国によって無残にも潰された、神不在の場所となると預言されているのであります。

 そして、今日のテキストに続く第4章の6節から8節までを読んでいきますと、そこには、私、すなわち、主なる神が、足のなえた者をアッシリアののちのバビロンによって、捕囚として、その地へ追いやったと記されています。そして、迷った羊の民、私が追いやった落ちぶれた民を、今度はその私が羊飼いとして、この地、エルサレム、シオンの丘へと連れ戻し、かつてあった、娘エルサレムの王権が、羊の塔を見張る塔、娘シオンの砦へと戻って来ると、バビロン捕囚から、その民を、私が王となって連れ戻すという、主なる神の約束が記されているのであります。

 そのようなイスラエルの歴史のただ中に、今日のテキストは入れられているのであります。その中身について、しばらく細かく内容をたどってみたいと思います。

 まず、このペリコペー、すなわち、小さな聖書の個所は、このように始まっています。「そして、終わりの日々に、主の山は、堅く据えられ、まわりの峰々よりも高くそびえるようになる。」この終わりの日々とは、この地球の終わりの時という意味ではなく、神が決定的にこの地上の歴史に介入なさるとき、カイロスの時のことであります。それは、主イエスがお出でになられたとき時かもしれません。
 しかし、ここに記されているような世界平和は、それから2000年もたった現在でも実現してはいません。それはいつ来るのでしょうか。それが完成される日とはいつ来るのでしょうか。

 さて、そのとき、多くの国民がやって来て、こう言うというのであります。我々は、シオンの家の山へと、ヤコブの神の家の丘へと上ろう、主なる神が我々を教える、我々はその神の道、旅路から学ぼう。なぜなら、律法、主の教えはエルサレムから、主の言葉は、シオンから出るからであると。

 そして、多くの国の民が、喜びながらこの丘へと流れ来たる。そして、この神は、多くの民の間を裁き、遠くの強大な国々までも調停するのであります。そして、人々は剣を打ち変えて鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦闘することを学ばないという、今では国連本部に掲げられている聖句が続くのであります。鋤を打ち直して剣とし、鎌を打ち直して槍の先とするという、古代の旧約聖書にある表現と逆のことが起こるというのであります。

 そして、ミカ書はここで、人々は、自分のぶどうの木、イチジクの下に座って、自分の農作地を見つめながら満足する、しかもそれを脅かすなにものもないと言います。そして、なぜなら、万軍の主の口がこれを告げたから、約束したからだというのであります。人間の歴史に神が介入し、こうなると約束して下さらない限り、永久平和と軍備の撤廃は不可能であることを覚えます。万軍の主とは、戦いの神という意味ではなく、むしろ全能の主という意味であります。私たちの礼拝の終わりの祝福で、私がよく用います「全能の神の祝福が、あなた方と共にあるように」という時の「全能の神」という意味なのであります。

 さて、今日のテキストは最後の1節、すなわち、第4章の5節で、すべての国民は、彼のその神の名において歩む。にもかかわらず、我々は、我々の主の名において、今から永遠に歩むのであると、むしろ我々の神に向かって今後の誓いの言葉をのべて終わるのであります。

 この預言の言葉が記されてから二千数百年が経ちました。現状は、この言葉を書き記しました預言者の預言した通り、世界中の人々は、それぞれ自分の信じる宗教を信じ、あるいは、無宗教の生き方を取る者も以前にもまして増える傾向にあります。この預言の後、キリストがお生まれになり、新約聖書が書き残されましたが、この預言を書いた同じユダヤ教のユダヤ人たちは、キリストをメシアとは受け入れていないのです。仏教を信じる人たちは、我々が救いを得るのは、まことの仏教しかありえないと堅く信じておられる方々も少なくありません。そのように世界の宗教は、今なお、自分たちの信仰が、唯一無比と信じて、それぞれ歩んでいます。

 しかし、この預言の言葉を書き記した預言者は、自分たちは、アッシリアに攻められ、バビロンによって、滅ぼされた憂き目の中で、それを起こしたのは、自分たちの民の罪の故に、神がなさったのであり、また、そこから連れ戻し、エルサレムに王となって連れ戻して下さる神、その主の名によって、我々はここからいつまでも歩み続けるのだと決心しているのであります。

 さて、では、今日ここに示されましたような世界平和、軍備撤廃の幻は、幻でしかないのでありましょうか。世の終わりまで、地球最後の日まで、この念願はついには実現できなかった夢として終わるのでしょうか。そして、それならば、私たちは何もしないで、現状のままで手をこまねいているしかないのでしょうか。

そういうことには断じてならないのであります。今日のテキストのすぐ前には、エルサレムの指導者たちが、不正をして神を恐れないでいる目に余る現実をあばくミカの糾弾の預言があり、その結果、荒れ果てた丘となっているエルサレム、シオンの姿が預言されていました。
 それは、私たちの現在の生き方に対しても、警鐘を鳴らし続けているのであります。私たちが罪を悔い改め、そののち、キリストのご到来を通して、悔い改めを迫る福音のみ言葉を通して、私たちは、新しい生き方を示されています。
 家庭の中で、また、職場の中で、地域で生きるその生活の中で、新しい生き方をするようにと問われています。主イエスは、山上の説教の中で、祝福されているよ、平和を作り出す者たちは、彼らは神の子たちと呼ばれるであろうと語りかけられました。私たちが、身近なところで、互いに愛し合い、憎しみのある所に愛を、平和をもたらす。そのような積み重ねが、やがては世界平和に、そして「諸国民が一つの心になる日」へと向かうことになるのであります。

 さらには、私どもは、世界の指導者たちのためにも執り成しの祈りを続ける必要があります。そして、二度と世界大戦になるような轍を踏んではなりません。米ソの冷戦のさなかに起こったキューバ危機の後に、ケネディ大統領は1962年部分的核実験停止条約の調印にこぎつけました。そのような一歩一歩の世界平和の前進のために、私たちが身近なところでも何ができるかを問い続けねばなりません。それは、ある人にとっては平和運動のための署名であったり、集会や行進への参加の形をとることであったり、平和憲法の学習会に参加することであったり、新聞を隈なく読んで意識を高めることであったりしましょう。毎年持たれる平和の主日の礼拝を通して、私どもに何ができるのか、何をしていけばよいのかを、み言葉に聞きながら、模索していきたいものだと思います。・・・人知では到底測り知ることのできない神の平安が、あなた方の思いと心とを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。