2022年8月21日日曜日

安息日の奇跡(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第11主日礼拝(緑)(2022年8月21日)
詩編103編1-8節(939) ルカによる福音書 13章10-17節(134)


 本日の福音書に登場する女性は、18年もの間腰が曲がったままでした。「病の霊に取りつかれている」とは、当時の原因不明、治療不能の難病であることを表した言葉だそうです。リューマチか、怪我の後遺症のか、詳しいことは分かりませんが、大変な不自由さと痛みを伴うものでもあったはずです。

 18年間も、病に苦しめられれば、絶望してもおかしくはありませんが、彼女は信仰を捨てたり諦めたりはせず、当然のように安息日に礼拝出席し続けました。
 過去には色々悩んだ時期もあったかもしれません。しかし、その苦しみを経て、分からないものは分からない、ただ神様の側に何らかの意味がある
のだ、という結論にたどり着いたのでしょう。

 周りの人々の同情や好奇の目、神様の罰を受けたのではないか、とあれこれ批判する声ではなく、会堂で読まれ、語られる聖書の言葉に彼女は耳を傾けました。聖書の中には自分と同じ、或いはもっと大変な思いをした人がいて、それでも神様はその人に強い導きと守りを与え続けていた。彼女はそのことを知っていたのです。 

 イエス様はこの女性から感じられる自然体の信仰に心を動かされたのでしょうか、彼女をしっかりとご覧になって、ご自分の元に呼び寄せます。そして「婦人よ、病気は治った」と声をかけられ、手を置かれました。すると、たちどころにこの女性の腰はまっすぐになったのです。彼女は驚き喜び、すぐさま神様を賛美します。「神様、感謝します!」と声を上げたのです。

 イエス様はここで「病気は治った」と言われます。この言葉には「あなたは自由になった」「解放された」という意味があります。彼女はまさにこの時、18年もの間、彼女を苦しめていたものから解放されたのでした。

 イエス様は神様の愛を伝えるために人となってこの地上にやって来られました。イエス様は苦難を負って生きる人にその眼差しを向けられます。そしてその人の内に神様の愛を受け止める信仰があると判断されると「あなたは解放される、神様はそう望んでおられる」と声をかけてくださるのです。

 ただ、そのようなイエス様の思い、神様の思いに、待ったをかける存在は必ずいます。自分こそ神様の御心をよく知っていると自負している人や、自分は指導者でありこの会衆をまとめなければならないと責任感を持っている人々です。実はこういった人々こそ苦しむ人を神様の思いから遠ざけてしまうという、不幸な出来事が起こってしまうのです。ここでは13節に登場する会堂長がまさにそのような役回りでした。

 紀元前586年、ユダヤの人々はバビロニア帝国との戦争に負けて異邦の地に捕虜として連れて行かれます。その時「元はと言えば自分たちの不信仰がこの不幸を招いたのだ」と深く悔い改め、集会所を作ってそこで礼拝し、子どもたちに信仰を伝えました。
 数十年ののち、解放されて祖国に戻った彼らは、決められた祭りの時には必ずエルサレム神殿に巡礼することを成人の義務と定め、その上でそれぞれの町に集会所、つまり会堂を作り、学びと祈り中心の礼拝を行うようになりました。その町の長老が会堂で礼拝の司会を行い、会堂長と呼ばれるようになったのです。

 ですからユダヤの人々にとって会堂とは、ユダヤの民が信仰の危機に陥った時代、悔い改め、身を寄せ合って必死に信仰を守り、神様の導きを信じ、貫いたことから生まれた、大切な集まりだったのです。


 もし、この会堂長がそれをしっかりと心に刻んでいたならば、病で苦しむ人を偏見で見ず、憐れみの心を抱きながら癒しを祈り続けたはずです。そしてその人が癒やされたなら、何をおいても共に喜んだはずです。しかし彼は一緒に喜ぶどころかイエス様の行いに腹を立て、安息日に癒しの業を行うのは律法違反だと会衆に向かってイエス様の行為を批判したのです。

 それを聞いたイエス様は、会堂長とその場にいる人々に向かって「偽善者たちよ」と静かに口を開かれました。「あなたたちは安息日であっても自分の家畜の綱を解いて水を飲ませてやるのに、18年の間サタンに縛られていた女性を放っておくのか。十分過ぎるほど待った彼女を、この上一瞬でも待たせることなく束縛を解いてやるのは当然ではないか」

 もはやこのイエス様のお言葉に反論するものはおらず、反対者は皆恥入った、と記されています。

 私たちはこの出来事から、学ぶことがたくさんあります。何事もなく平穏に生きている時、教会に集い、奉仕し、賛美の歌を歌うのはたやすいかもしれません。しかし思いがけない不幸が重なると「教会に行っても何も良いことがない」と思うこともあります。そしてついには「神様なんかいない」という考えに囚われてしまうことすらあるのです。

 しかしそうした苦しみの中でも、イエス様はあなたを見ておられます。一度あなたに信仰を与えられたイエス様は、あなたを決して見放さないのです。時には教会が歴史的に積み重ねてきた掟やルールも、あなたを愛していることを示すためならぶち壊すことも厭わない。そのような大胆な愛が注がれているのです。

 自分の人生にはちっとも奇跡など起きないと思っている方もおられるかも知れません。確かに、イエス様を信じて癒される人よりも、どれほど祈っても癒されず死んでいった人々の方が多いかもしれません。しかし私たちは地上の癒されることのなかった人々も、天の国に召されたことを信仰によって受け止め、いつの日か必ず再会できることを確信しています。それこそが私たちの人生に与えられた奇跡なのです。

 私たちは主の愛と眼差しと言葉に生かされながら、主に委ねつつ共に歩んで参りましょう。


少し前ですが、7月18日のこと、教会で登山を趣味としている方達にお仲間に入れていただき、百名山の一つ、仙丈ヶ岳に登ることができました。
(牧師夫人は留守番です)
日頃の運動不足を嘆きながらもなんとか目的の山小屋に辿り着き、新型コロナの感染対策をしつつ、一泊して楽しい時を過ごしました。
せっかくの信州暮らし、もう少し涼しくなったら近場の山に登って、もう少し足腰を鍛えようかと思っています。






2022年8月14日日曜日

「真の和解」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第10主日礼拝(緑)(2022年8月14日)
エレミヤ書23章25-28節(1221)ルカ福音書12章49-56節(133)


 本日の福音書には家族の対立が記されています。

 イエス様はご自分の教えを巡って一つの家族が2対3で分裂すると言われます。5人の家族がいたら、その半分しかご自分の教えを理解できない、とおっしゃっているようにも思えます。しかし、使徒言行録16章には「主イエスを信じなさい、そうすればあなたも家族も救われます」というパウロの言葉が記されています。相反するような御言葉に私たちは戸惑いを覚えます。


 しかし聖書の基本は「あなた」が「主イエスを信じること」です。そしてイエス様ご自身は、父なる神様をどこまでも信頼してご自分を委ね、その姿勢を私たちにも望まれました。神様が世界の中心におられ、全ての人々を愛しておられる。そしてこの世が終わる時には神の国に召されて神様と共に永遠に生きる。イエス様はこの教えを、命を捨てて伝えられ、天に帰られたあとは弟子たちがそれを受け継ぎました。


 イエス様はご自身の名の下に集まって祈る人々に、聖霊なる神を送ってくださり、信徒の群れが集まってキリスト教会が誕生します。キリスト教とは無縁であった日本にも500年ほど前にイエス様の愛が伝えられ、数々の教会が誕生しました。

 やがて教会には心病む人や、世の中との付き合いに疲れている人も集うようになりました。対人関係がうまく取れない人もいますので、みんないつもニコニコ愛想が良い、というわけにはいきません。しかし一人一人は、何とかして自分の関わる人々に神様の愛を知ってもらいたいと願っているのです。そのために自分の時間や能力を奉仕の業に献げますし、献金もできる限り捧げようとします。


 ところがこの世の価値観から見れば、そうしたクリスチャンの姿は時間もお金も得体の知れないものに吸い取られているように見えるようです。今マスコミは盛んに「旧・統一教会」のニュースを取り上げていますが、親しい人から見れば、統一教会もキリスト教会も同じに見えるでしょう。

 自分の家族が自分に理解できないものにはまり込んでいる時、なんとかして引き離そう、目を覚まさせよう、と思うのは、それが宗教であれなんであれ、よくあることです。そこで起きるのが家族の中での対立、というわけなのです。


 イエス様がここで言われる「地上に投ずる火」とは、聖霊なる神を意味している、という説があります。聖霊降臨祭に、イエス様の弟子たちの上に炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まります。すると弟子たちは今まで曖昧だったイエス様のお言葉をしっかりと理解できる力を与えられ、信仰に生きる力がまし加えられます。

 ですから聖霊をいただいてイエス様と共に生涯を歩もうと決心したなら、家族から反対されても後戻りはできせん。今は自分の家族よりもイエス様を選び、祈りを重ね、いつかは家族と共に礼拝できる日を信じて、今目の前にある分裂を受け入れ、耐え忍ぶ覚悟をするのです。


 イエス様も家族が分裂したり対立したりする苦しみを知っておられました。ご自身も愛する家族から奇異の目で見られ、宣教の現場から連れ戻されそうになるほどの屈辱的な体験をなさっておられるからです。

 イエス様が先んじてこうした家族の間の悩みと苦しみを身に負ってくださっているからこそ、私たちもこの方を信じて、一度は分裂した家族もまた、平和を得るように主が導いてくださると信じることができるのです。


 ところで、イエス様をまだ信じられない人々にとって、理解できない聖書の教えの一つに「罪人」という言葉があります。「私たちは皆罪人である」という考え方は、善良な方や真面目に生きてきた方にはなかなか理解できないのです。

 イエス様と同じ時に十字架にかかった罪人は正真正銘の犯罪者でしたが、その反応はまるで違いました。一人はイエス様を罵りますが、もう一人は「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言います。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園、天国にいる」と応えられたのです。


 イエス様は死の間際にも、神様から離れて生きてきた人を見つけ出して慈しみ、悔い改めに導きました。この出来事から、イエス様の言われる罪人とは「犯罪を犯した人」ではなく、神様に自分を委ねることを拒否した人物であることがよくわかります。世間から死刑を宣告された罪人であろうとも、悔い改めるものは分け隔てなく天国に受け入れてくださるのがイエス様です。ですからその逆もあるのです。どんなに清廉潔白に生きて来たからといって、神様を否定し、イエス様の差し伸べた手を振り払うなら、神様の待つ天国には入れないのです。


 全ての人間は、いずれ死を迎えます。死んだら終わりであるならば、誰もが好き勝手なことをして、罪に縛られた人生を送ることになります。そしていよいよ死んで初めて死後の世界があることを知り、自分が拒否し続けたように神様から拒否され、死後の世界で苦しみながら永遠に生きることになるでしょう。


 私は、そしてあなたは、命ある間に神様と和解することがどれほど大事であるか、それを一人でも多くの人に伝える事がどれだけ大事であるかを知る存在なのです。だからこそ、大切な人々には、手遅れにならないうちに神様の愛を知ってもらいたいと願い、祈り続けるのです。


 お盆を迎えて、日本的な死生観が巷に満ちる時期だからこそ、「あなたの罪は赦された、あなたは今日わたしと一緒に楽園、天国にいる」と言ってくださるイエス様と共にあって、恐れずに歩んで参りましょう。


教会墓の掃除に行った時見つけた「ねむの木」の花です
調べてみるといろいろな
花言葉がありました
「歓喜」「胸のときめき」
「創造力」
どれもなかなか素敵です
「中国ではネムノキが夫婦円満の象徴」とも記されていました


2022年8月7日日曜日

「しっかりと信仰に生きる」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第9主日礼拝(2022年8月7日)
ヘブライ人への手紙11章1-6節  ルカによる福音書12章35-40節 


 本日はルカによる福音書12章32節の「小さな群れよ、恐れるな」と言うイエス様の言葉から始まります。この「小さい」という言葉は、私たちも知っているミクロ、あるいはマイクロという言葉で、1ミリの千分の1です。まさに吹けば飛ぶような小ささです。しかしイエス様はその小さいものに向かって「恐れるな」と言ってくださいました。このところから今日は聞いて参りましょう。


 イエス様の言われた「恐れるな」とは、もともと「逃げ出すな」という意味にもとれるそうです。イエス様は「あなたはとても小さいけれど、もう逃げ出すな」とおっしゃいます。「あなたは、喜んで神の国に迎え入れてくださる神様に愛されているのだから、逃げ回る必要はない」と示してくださいるのです。


 イエス様は、わたしたちがどんな良いことしたら天国に行けるか、と教えておられるのではありません。あなたは最初から神の国に行くことが定められている、と言われるのです。わたしたちは良い意味で神様の御手の中にあって、守られ導かれているのです。人生の中の小さなことも大きなことも、神様ご自身があなたの人生を愛して計画してくださったことなのです。


 ただし、その中には、事件や事故、災害、病気、怪我、愛する者の死、別れという、人にとって全くありがたくないものも含まれます。絶対手放したくないと思っていたものをある日突然奪い取ることすら神様のプレゼントだというのなら、そんな神様は信じられない、そう思って嘆き悲しむこともあるでしょう。その思いは人として当然と言えば当然です。

 私たちは誰でも「絶対手放したくない大切なもの」を持っています。しかしイエス様は、あなたにはもともと神様から頂いた多くの恵みがある。何かを失いたくないあまり、一人で抱えこんだりしないで、大切なものであればあるだけ、神様を信頼して委ね、身軽になって、神様が注いでくださる新たな恵みの賜物をシャワーのように受け取りなさい、と教えてくださるのです。


 そして、このお話に続いて、イエス様は「目を覚ましている僕」の話をなさいます。この僕は結婚式の披露宴に招かれた主人が帰ってくるのを待っています。当時のユダヤの婚宴は何日も続き、一週間かかるのも珍しくありませんでした。主人が1週間も留守にすると聞くと、大抵の人は「あーしばらくの間、帰ってこないなら、少しはリラックスできるな」とばかり、戸棚に隠しておいた自分の好物のせんべいを頬張り、テレビでもつけてんのんびりしようと思うかも知れません。


 本当は主人がいつ帰宅してもきちんと対応できるように準備して待ち続けるのが仕事なのですが、それができる人の方が少ないでしょう。だからこそ、突然戻ってきた主人に、ちゃんと仕事をしているところを見られた僕は幸いだ、とイエス様はおっしゃいます。

 主人は僕の誠実な働きを心から喜び、僕たちを座らせ、自分は使用人の証である帯を腰に締め、僕のために給仕を行う、と言われるのです。2000年前の主従の関係を考えれば、現代の私たちが思う以上にあり得ないほどの悦びようです。


 イエス様はこの例えを通して、神様に誠実であることはどんなことより神様に喜んでいただけることだと教えておられます。形だけ信心深い行いをしたり、心のこもらない多額の献金をしても神様はお喜びにならない、神様はあなたの心の内をいつでも見ておられ、その誠実さを喜ばれる、と教えるのです。


 トルストイの「愛あるところに神あり」というお話をご存知でしょうか。日本では「靴屋のマルチン」というタイトルで有名です。この物語には腕の良い靴屋のマルチンが登場します。彼は妻と息子を亡くしたことから希望を失い、神さまを責め、教会からすっかり離れてしまっていました。

 しかし、ふと聖書を読み始めたマルチンは、毎晩、毎晩、夢中で読むようになります。そんなある日、マルチンは夢の中で「マルチン、マルチン。あした行くから待っておいで」というイエス様の御声を聞きます。


 翌日、マルチンが店で仕事をしながらイエス様が来られるのを今か今かと待っていますと、彼の前に次々と貧しい人々や困難な状況に置かれている人々が現れます。マルチンは自分のできる方法で彼らに手を差し伸べ、もてなしました。

 日が暮れて、イエス様は結局いらっしゃらなかったのかと思った時、イエス様の御声が聞こえます「マルチン、お前が助けた人々はみんな私なんだよ」。マルチンは夢ではなかったことを大いに喜び、その心は満たされた、という物語です。


 作者であるトルストイは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というマタイによる福音書25章40節の聖句を引用しています。マルチンは特別力むことなく、自然体で人々をもてなしますが、その人々こそ主ご自身だった、という出来事は私たちの信仰生活に喜びと同時に緊張感を与えます。


 イエス様は、2000年前、地上の役割を終えて天に帰られる際、必ず再び戻ってくるという約束を弟子達になさいました。イエス様はご自分がお留守の間、ご自分の仕事を弟子たちに託し、その帰りを待つようにとに教えられたのです。

 イエス様の弟子であるならば、イエス様がいつ帰って来られても大丈夫なように、キリスト者として誠実に生きることが何より大切です。私たちの先輩である歴代のクリスチャンたちも、「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という御言葉を心に刻んで人生を生き抜きました。


 私たちは、この時代に、この場所で、一歩踏み込んだ信仰に生き、日々与えられる恵みに感謝と祈りを捧げつましょう。恐れることなく大胆にイエス様を信じ、この世の嵐に吹き飛ばされることなく、しっかりと信仰に生きて参りましょう。