2023年11月27日月曜日

「あわれみを示す者たち」(日曜日のお話の要約)

永遠の王キリスト礼拝(2023年11月26日)

詩編 95編1-7a節(1352) 
エフェソの信徒への手紙 1章15-23節(352)
マタイによる福音書 25章31-46節(50)


 本日の福音書には、絶対的な権力を持つ王である神様が登場します。


 しかし不思議なのは、この方は王でありながら、お腹を空かせ、喉の渇きに苦しみ、旅の途中で泊まるところがなく、裸で耐えなければならないこともあり、病気にかかって孤独に陥り、ついには牢屋に放り込まれるという経験までしたというのです。まるで身分を隠して旅に出た王子様の冒険物語を読んでいるかのようです。まあ、イエス様が身分を隠して旅に出た王子様そのものなので、これはイエス様の物語、と言えるかもしれません。


 そこで、ちょっと視点を変えてみましょう。冒険物語の好きな方はなんとなく想像がつくと思うのですが、主人公の王様が、何らかの目的を持って王座から離れ旅に出たとします。


 お付きの家来たちには何があっても絶対に手出ししないように言い聞かせた王様は、人間の社会のさまざまな困難にぶつかります。冒険の旅の中で出会う人々はさまざまで、善人ぶった人に騙されて全財産を奪われたかと思うと、荒くれ者に見えた相手にピンチを救われたりしながら、冒険を続けるのです。


 つまりは、人間の中には、相手が王様だろうがただの貧乏な子だろうが、困った人間がそこにいるのを無視できない人々がいる一方、何の価値もないと判断した相手を簡単に見捨てたり食い物にしたりする人がいるのです。こうお話しすると、この箇所はわかりやすいのではないでしょうか。


 物語の最後に、荒くれ者は王様によびだされます。この人は「自分も年貢の納め時だ」と覚悟を決めて王様の前に進み出ると、以前自分が助けたことのある子どもが立派な服を着てニコニコ笑って感謝の言葉を述べるのです。これはキョトンとしてしまうでしょう。


 一方、善人ぶって王様を騙した人は、そもそも相手が王様だなんて思っていませんから、呼び出されて罰を言い渡された時、「私がいつ、あなたを見捨てたでしょうか?」と慌てて問いかけるしかないのです。


 この聖書箇所はまさに、今、私たちがなすべきことの心構え、「知らずに良いことをする素晴らしさ」をイエス様が教えてくださっているのです。


 ただし、ここには一つ落とし穴があります。この物語の裏側を知った私たちが、イエス様に評価されるために良いことをしよう、という打算的な考えに陥ることです


 とはいえ、打算があったとしても、人に手を差し伸べることは、しないより、したほうが良いのです。周囲から「お前は偽善者だなあ」「カッコつけてるなあ」と嘲笑われても、困った人を見捨てる残酷さとどっちがいいんだ、と心の中で抗うのです。むしろ私たちに必要なのは「そんなことしても無駄、無駄」という自分の心の中の声にどれほど抵抗できるか、ということなのかもしれません。



 しかし私たちはここでもう一つの問題にぶち当たります。「偽善者」と言われることに耐えながら、イエス様の導きに委ねて、必死でなすべきことをすればするほど、誰かに哀れみをかけようとすればするほど、自分の力の足りなさを知ることになるのです。あからさまに言えば、お金が無い、協力者が足りない、今の世の中で逆風だらけのように思える、そんな状況に苦しみ、達成するべき目標の遠さに涙を流すこともしょっちゅうでしょう。


 それでも、私たちは進んでいかなければなりません。ルカによる福音書9章62節には「鋤(すき)手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」というイエス様のみ言葉があります。


 鋤とは、牛に引かせて畑を耕す農耕器具です。基本的には牛の力に任せますが、操る人が集中を欠いてよそ見をしていたら、進行方向からずれてしまいます。まして後ろを振り返れば、鋤はとんでもない方向にそれてひっくり返ってしまいます。


 私たちは、イエス様に導かれ、イエス様の招きに答えてを今ここにいます。私たちの生活には優先させたいことが山ほどあるでしょう。しかし後ろを振り向かないで、イエス様に導かれた働きを共に担っていきたいのです。


 今、私たちに課せられている働き、「最も小さい者の一人」にするべき働きは、ここにキリストの名による幼稚園と教会をたてあげることです。幼稚園に働く先生方はクリスチャンでない方がほとんどです。しかしキリストの教えに従って子どもたちを導こうとしています。


 私たちは先生方の日々の働きを祈りをもって支え、ここに集う子どもたちや保護者の皆さんに先生方が良い働きかけができるよう見守り、ここぞという時に手を差し伸べる存在であり続けましょう。


 この教会がイエス様のお名前によって建てられた宮である限り、わたしたちは「憐れみを示すもの」であり続けて参りましょう。


今日はルーテル・フィンランド宣教師ポウッカ・マルッティ、パイヴィご夫妻が幼稚園に来てくださいました。
午前中、園児たちとの合同礼拝のあとは給食も共にしてださいました。
(納豆はダメだったようです)
午後は園関係者や保護者の方々へのお話と交流でした。
フィンランドの教育と日本の教育を比較して、これからの教育のあり方を分かち合ってくださいました。

寒さに強いフィンランドの方ですが、試みにおひとりさま用のコタツを提供したところ、喜んで使ってくださいました。



2023年11月20日月曜日

昨日はこども祝福式でした

こども祝福式礼拝(赤)(2022年11月19日)

マタイによる福音書25章14~30節

説教「さあ、さんびしよう」


いつもならお話の要約を掲載するところですが

幼稚園児の参加も考えられましたので

説教もそこそこに、牧師夫人が紙芝居を演じました

いつも土曜学校でお話をしているので

子どもたちは違和感はなかったようです


演じたのはAVACOの「おはなばたけとしょくどう」でした

動物たちがタラントンの例えを再現してくれる物語です

お話の最後はこんなふうに締めくくりました


 熊のおじさんは神様のこと。

 犬のマル、猫のシロ、小鳥のチイは私たちのことです。


 私たちは神様からいろんな才能を与えられています。みんなが天才というわけではないですし、でっかいことができる人ばかりではありませんが、小さなお子さんも、歳をとった人も、病気で体や心が弱った人も、必ずできることがあります。それは「賛美」です。


 熊のおじさん、つまり神様は小鳥のチイに「穴を掘って埋めてしまわないで、その声で神様を賛美しなさい」と言いました。


 「賛美」とは、神様を褒め称えることを言います。上手な歌でなくても、どんな人の歌でも演奏でも、心を込めて賛美するなら神様は必ず喜んでくださいます。


 今朝はルーテルキッズバンドが賛美の歌を響かせてくれました。お集まりのみなさんも、ご一緒に神様を賛美してまいりましょう。



インフルエンザが猛威をふるっていたせいか

世の七五三に負けちゃったのか

キッズバンドは7名のほか、参加してくれたお友達は5人だけでした

でも来てくれたお友達は楽しそうでしたし

キッズバンドは堂々と賛美してくれました




牧師の祝福を受けて記念のお菓子を役員からいただきます




礼拝の後はルーテルマルシェでお買い物

ゆり組の教室をお借りしました



参加人数は少なかったけれど

子どもたちはそれなりに充実していたようでホッとしました


来年はもっとたくさんの子どもたちが

神様の祝福を受けられますよう

お招きの仕方など、もう一工夫必要なようです


2023年11月16日木曜日

こども祝福式礼拝のお誘いです

11月19日はこども祝福式礼拝です
私たちはみんな神様のこどもです
今、こどもの方も、かつてこどもだった方も
神様のお招きを感じたなら、どなたでもお越しください

礼拝の後、小さなマルシェを開きます
こちらもお楽しみに


2023年11月11日土曜日

「待ちに待つ」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第24主日礼拝(2023年11月12日)

アモス書 5章18-24節(1435) 

Ⅰテサロニケの信徒への手紙 4章13-18節(377)

マタイによる福音書 25章1-13節(49)


 本日の福音書ではイエス様が10人の乙女たとえ話をされ、5人は賢く5人は愚かだったと言われました。ひょっとすると賢く立ち回った5人は要領が良いけれど意地が悪いとか、愚かな5人が可哀そうだと思う方もいるでしょう。


 けれども、このたとえ話のテーマは実は「助け合い」でもなければ「隣人愛」でもありません。そこのところをきちんと押さえて聞く必要があります。でなければ、私たちはこのお話を簡単に捉え間違えてしまうのです。


 ところで、このお話を理解するためには、少し難しいですが「再臨」について知っておく必要があります。使徒言行録の初めに、イエス様が復活された後、天に帰って行かれる記録があります。それを見守る弟子たちの前に天使が現れ「イエス様は再びこの地上に戻ってくる」と予告しました。これを「再臨」と呼びます。


 2000年前、イエス様が天に帰っていかれた目撃承認となった弟子達は覚悟を決め、これから先何がイエス様の教えを守り大切にして、まだイエス様を知らない人々に十字架の出来事と救いを伝えよう、と決意します。そして自分の人生の終わりが来たら天国へと導かれるのを楽しみに待とう、と心に決めたのです。


 それがよくわかるのが、使徒言行録6章と7章の「ステファノの殉教」です。イエス様が天に帰られて間もない頃、教会で優れた働きをしていたステファノという弟子が、イエス様の教えを否定するユダヤの人々の怒りを買って石打の刑になるのです。


 死の直前、ステファノは「天が開いて、イエス様が神様と共におられるのが見える」と口にします。そして最期の瞬間には「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言い、また「この罪を彼らに負わさないでください」と叫びます。自分に石を投げつける人々が赦されるよう神様に祈り、死んでいくのです。当時のクリスチャンたちがどれほど熱烈な思いで天国を信じていたか、よくわかる記述だと言えるでしょう


 ところが、ステファノが殉教した後、何年たってもイエス様は天国から帰って来られません。弟子達は、ユダヤ社会から迫害を受け、ローマ帝国から睨まれます。イエス様に誠実に生きようとすればするだけ辛い目に合ったのです。こうなりますと、イエス様の再臨を待ちきれず、と嘆き悲しみ、ついには絶望して教会から離れる者も出てきたのです。


 この福音書を書いたマタイは、教会の指導者の一人でしたから、心が挫けて信仰を失いそうになる人々に読んでもらおうと「10人の乙女のたとえ話」を記します。イエス様を信じて待ち続けることの大切さを仲間達にもう一度示そうとしたのです。


 ですからしつこいようですが、イエス様の10人の乙女の例え話は、「優しさ」や「思いやり」ではなく、いつ戻ってくるかわからないイエス様を待つとき、キリスト者には困難があること、それに備えておくことを教えているのです。


 イスラエルの結婚式は、まず花婿が花嫁の家に迎えに行き、花嫁と一緒に行列となって花婿の家に戻ります。それを乙女達がともし火を持って迎え、そ結婚式が始まるのです。乙女達の役割は重要で、ともし火が消えないように万全の準備をして花婿の帰りを待つ必要がありました。


 しかし、結婚式の直前、花嫁の家族と花婿が遺産金について最終交渉をすることもあって、花婿の帰りが遅くなることもしばしばでした。この日もかなり遅れたため、結婚式の行列が戻ってきた時には、乙女達はすっかり眠り込んでおり、「迎えに出なさい」という叫び声を聞いて、慌てて支度を整え、灯火を灯そうとしました。


 ところが、10人のうち5人は油の予備がありませんでした。彼女たちは予備を持っている5人に「分けてください」と頼みますが、きっぱり断られてしまいます。「多分、おすそ分けできるほどの十分な油の量はないと思います。店に行って自分たちの分を買っておいでなさい、その方が確実です。」そんなやりとりをしている間に花嫁行列が到着します。


 予備の油を持っていた乙女達ちは、かろうじて役目を全うすることができましたが、油を持たず、役目を果たすことのできなかった乙女達は門を閉められ、結婚式に参加することは許されませんでした。しかも「はっきり言っておく、わたしはお前たちを知らない」とまで言われたのです。


 一説によると乙女達の待ち時間は、3日から1週間ぐらいは当たり前だったと言うのです。だからこそ予備の油を持っていた乙女たちは賢いと言われたのです。彼女たちは自分の役割をちゃんと理解して、結婚式を台無しにしないために、しっかり油をキープしておいたのです。


 しかし愚かと呼ばれた5人は、自分に与えられている役割を十分には理解せず、いざとなったら誰かがなんとかしてくれるだろうと準備を怠り、土壇場になって他人の油をねだります。仮に10人全員の油が足りなくなってしまえば、せっかくの結婚式は台無しになってしまうでしょう。乙女達が最優先するのは結婚式の成功です。5人の乙女はそれを危うくしました。彼女たちの失敗はそれほど大きなものだったのです。


 さて、イエス様がこのお話を通して教えられたことを、もう一度確認しておきましょう。イエス様はご自分がいつこの世に戻って来ても良いように、一人一人のキリスト者に、しっかりと自覚を持って待ち続けて欲しいとお望みになります。ただし、「決して居眠りをしてはいけない」とはおっしゃいません。人間は弱いものであることをご存知だからです。


 その代わり「あなたは私に必要とされているのだから、私を待つためにそこに居続けてほしい」と願われ、「役割が果たせるようにように私の愛の油をあなたに注ぎ続けよう」と語りかけてくださったのです。一人一人が燈を灯し続けられるよう、イエス様ご自身が信仰という油をそそいでくださるのです。


 新約聖書のテモテへの手紙第一4章14節には「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」というみ言葉が出て参ります。恵みはイエス様がイエス様を信じる者に直接与えられるのです。誰かが「私もイエス様の恵みが欲しいなあ」とぼやいても、他の人から分けてもらうことはできません。欲しいなら、直接イエス様に祈り求め、与えていただくしかないのです。


 闇が深ければ深いほど、灯火は明々と輝きます。イエス様の愛に導かれながら、夜が明けるなるまで輝かせ続け、一人一人が神様から求められている役割を見出しながら、イエス様を信じる仲間と共に祈り、寄り添い、目指すべき方向に進んでまいりましょう。



一週間遅れになりましたが、先週の土曜学校の記念写真を掲載しておきます

一人一人の満足げな顔をご覧ください(^▽^)


ちょっとお姉さんの参加者さん
どんどん作業が進むので
小さい子たちに「次はこんなふうにやるんだよ」と
教えるお役目を負ってもらいました

昨年卒園した1年生グループ

現役幼稚園児。工作大好き仲良し二人組です

こちらも現役幼稚園児!
土曜学校に来てくれるお友達はみんな器用です


 

2023年11月5日日曜日

「聖徒たちの集い」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・全聖徒主日礼拝(2023年11月5日)

ヨハネの黙示録7章9-17節 Ⅰヨハネの手紙 3章1-3節(443)

マタイによる福音書 5章1-12節(6)


 本日は召天者を記念する全聖徒主日の礼拝です。多くの教会は故人を覚えて1年に一回、このような礼拝の時を持っています。この礼拝は故人を供養するとか冥福を祈る、といったものではありません。先に死を迎えた愛する友や家族の魂が、今まさに天国でイエス様と共に恵みの内にあることを確信し、感謝する礼拝です。あの方、この方の生前を思い出し、共にこの地上を歩んだことを思い返しながらイエス様に感謝してまいりましょう。


 本日、この日に与えられた福音書の個所は、イエス様の教えの中でも有名な「山上の垂訓」、または「山上の説教」と呼ばれる箇所です。


 イエス様の語られる「幸せの定義」は自分の心に落とし込もうとすると、そう簡単ではありません。「なんでこれが幸せなのか」と疑問に思い、理解するのを早々に諦めてしまうのです。


 しかし、そんな私たちでも、自分が不幸だ、と嘆いているとき、突然発想の逆転をイエス様に与えられ、はっと気づいて「なんだ、私は幸せ者じゃないか」と気づく経験をすることもあります。イエス様の教えてくださる「幸せの定義」を今一度、聞き直し、新しい発見、新しい方向性を共に手にしたいと思うのです。


 長生きすれば幸せ、お金持ちになれば幸せ、頭が良ければ幸せ。夢を叶えられるなら幸せ。容姿に恵まれている人は幸せ。そう考えるのが一般的でしょう。


 幸せそうに見える人生の成功者のインタビューなどを聞くと、「私はラッキーでした」という方もいますし、「もちろん、人一倍努力しました」と言う答えもあるでしょう。では、成功して幸せですかと聞くと、「すごく幸せです」と答える人は案外少ないのです。「いつ、この幸せが崩れるのかわからない」「いつライバルに蹴落とされるかわからない」という不安は拭えないようなのです。


 しかし、イエス様は教えるのです。「心の貧しい人、悲しむ人々、あなた方は幸いだ」。その理由には「天の国はその人たちのものである」と、そして「その人は慰められる」と言われます。


 謎のような言葉かもしれませんが、実はここにイエス様の強い思いが込められているのです。イエス様が呼びかける人々は、心の貧しさを知っている人、悲しみを知っている人です。イエス様の言葉は単なる気休めの言葉ではありません。


 イエス様は神の子として天国で暮らしておられたのに、天国は本当にあるのだと希望を伝えるためにこの世に来られました。例えるなら、世界で最も尊い身分の王子が、その高い地位に留まったままでは人々を慰められないと、あえてその地位を捨て、最も貧しい姿になって民衆と共に生きることを選んだということなのです。


 イエス様は飼馬桶をベビーベットとせざるを得ないような貧しさの中に生まれ、幼い時に命を狙われてエジプトに難民として避難し、早くに育ての父ヨセフを亡くすという、苦しみや別離を知った方でした。だからこそ、言葉だけではない、悲しみを知るものとして「共に天の国で暮らそう」と呼びかけてくださるのです。


 そして苦しむ人々は、イエス様のお言葉の中にうわべだけでない悲しみと、それを超えた幸せを感じ取りました。そうしてイエス様に捉えられたのが、キリスト者となった人々なのです。


 多くの市民はもちろん積極的に犯罪者になろうとは思っていません。しかしこういった人でも、何かのきっかけで不幸のどん底に叩き込まれる時、自分の中に闇があることを知ります。自分の感情に任せ、闇に落ちるか、イエス様から差し出された手を握って共に歩むかは決定的な違いがあります。


 そして苦しみの中にあっても人生を投げ出さず、イエス・キリストと歩む大切さを思い出させてくれるのが、今日という日、全聖徒の日なのです。この写真の人々は、はらわたがちぎれるような悲しみがあっても、少なくともイエス様の手を握り返し耐え忍びました。そして今は天の御国でイエス様と共に幸いな時を過ごしておられる証し人なのです。


 ですから私たちは、これらの方々との別離の悲しみを通して、死の向こう側に神の国があることを堅く信じ、この世に指し示すのです。


 この全聖徒の日は、西暦600年頃から始まった「諸聖人の日」が元になっているそうです。聖人とは、キリスト教徒として良い働きをしたけれど、時の権力者の怒りを買って殉教した人々です。彼らはキリストの愛に忠実な人々で、罪人を回心させたり、貧しい家庭を救ったり、戦争でつぶされそうな男女の愛を守ったりしました。しかし教会組織は彼らの行動を規律を乱すものと断罪し、処刑したりしましたが、あとあとになって組織全体が悔い改め、処刑してしまった人々を「聖人」として祭り上げ、崇める対象としたのです。


 しかし、宗教改革者ルターは、イエス様を信じる人は全て聖人であり、神の子として良い働きをする役割が与えられていると教えました。私たちは、神様の元に平等であり、この地上でどれくらい活躍したか、などこの世の基準はまったく意味がないのです。


 私たちは、イエス様に与えられた愛の心を大事にし、イエス様を忘れないでいれば、どのような人生を歩んでも、この世の生涯を終えたなら、聖人であり、神の子であり、聖徒なのです。そして天国においては、イエス様に愛され神様に受け入れられ、「神の子」と呼ばれるようになるのです。


昨日は土曜学校でした。

連休の中日だったせいか、人数は13名といつもより少なめでしたが

楽しくもり上がることができました。

賛美は「主イエスと共に」「さあ讃美しよう」

ルーテルキッズバンドから3名が参加していたので

ボンゴとリードボーカルをお願いしました。

恥ずかしがるかと思ったら

堂々たるパフォーマンスで教師の方が感動です!


S君のボンゴはとってもいい音です
ボーカルの二人も堂に入ったもの
ハンドクリップを入れてノリノリ(死語?)で
歌ってくれました


お話は「アメリカの初めての収穫感謝祭」
適切な教材が見つからなかったので
久しぶりのなんちゃって腹話術と
紙芝居を組み合わせて
ネイティブアメリカンに助けられた
ピューリタンのお話を聞いてもらいました


工作はカボチャの飾り
幼稚園の年長さんたちもびっくりするくらい良い出来栄え
ハロウィンのイメージの強いカボチャですが
あくまで「収穫感謝祭」だよ!とアピール
ハロウィンはキリスト教の行事ではありません(笑)