2017年11月15日水曜日

「もっとも重要な掟」(マタイ福音書第22章34節~40節)

20171112日(聖霊降臨後第23主日―典礼色―緑―)、申命記第2616-19節、テサロニケの信徒への手紙 一 第11-10節、マタイによる福音書第2234-40節、讃美唱1(詩編第11-6節)

説教「もっとも重要な掟」(マタイ福音書第2234節~40節)

 私どもは、教会暦A年の、マタイによる福音書を主たる福音として、昨年のアドベントの時から始まった一年を歩んできましたが、その一年も、間もなく終わろうとしています。
 そして、123日から始まる新しい暦の一年は、3年サイクルの聖書日課のB年として、マルコによる福音書と共に再び歩みだすわけであります。
 マルコ福音書が一番古い福音書と考えられています。そして、マタイ福音書は、かなり後になってまとめられ、教会のために書かれた、よる教会にふさわしい福音書だと言われます。
 今日の聖書個所、ペリコペーも、そのことを十分に味わわせてくれる内容となっています。
 ここでは、サドカイ派の者たちが、主イエスとの論争に、何も言えなくなって、退散し、それに代わって、やはり、ファリサイ派たちが再び、イエスを試みながら、いわば、罠に落とそうとして、一つどころに集まったのであります。
 そして、彼らの代表として一人の律法の専門家が、主イエスに尋ねるのであります。「どんな掟が、律法の中で大きいのですか、先生」と文字通りには訳せます問いかけをします。マルコでは、一番の掟は何ですかとあるのに対して、マタイは、より正確に律法において、どの掟がもっとも重要なのですかと問うのです。
 主は、このように断言なさっておられました。「主なるあなたの御神を、あなたのその心の全体において、あなたのその魂の全体において、あなたのその思考力の全体においてあなたは愛するであろう。これが大きな、そして、第1の掟である。第2も、これと同様である。あなたは、あなた自身のように、あなたの隣人を愛するであろう。この二つの掟において、かの全律法が架かっている、そしてまた預言者たちも。」
 この簡潔な、み言葉において、マタイは、主イエスの教えを要約しているのであります。
 この一年をマタイと共に歩んだ終わりの時において、マタイは、主イエスの教えともいえる、旧約聖書の完成と成就を、二つの律法のなかの命令に、要約して見せているのであります。
 主なる神を愛することとはどういうふうにして、可能になるのでありましょうか。目に見えない神を、私たちは、どういうふうにして、私たちの存在のすべてを賭けて、愛することができるのでありましょうか。
 この律法の専門家は、主イエスを、陥れるために、その質問をしたのでありますが、その答えに対して、どのような反応を取ったかは記されていません。
 マルコでは、一人の律法学者が、ただ、どの掟が1番ですかと聞いたのに対して、主イエスが、第1は、第2はと答え、それに感心して答えた律法学者を、あなたは、神の国から遠くないと賞賛なさっておられるのですが、マタイのイエスは、それを記してはいません。
 あくまでも、主イエスに敵対し、主イエスを十字架へと追いやる、ユダヤ教の指導者たちとして、見ています。
 しかし、彼らの立場と、主イエスの教えがまったく違うものであることを、明瞭に示していると言えましょう。
 主イエスは、律法をなおざりにする者として、お出でになった方ではなくて、それを完成するために来られたことを、はっきりと、今日のみ言葉の中で宣言しておられるのであります。
 全律法と預言者たちは、この二つの命令の聖句において、まっとうされ、それに架けられている。この二つの教えが守られたならば、すべての旧約聖書の命令も、守られたことになる、と言われるのであります。
 それは、十戒の要約とも考えることができます。第1の板の第2の板に記されている命令の要約であります。
 そして、あなたの主なる神を誠実に、忠誠をもって、あなたの全存在によって、愛することと、あなたの隣人を自分自身のように、誠実に、真実の愛をもって扱うこととは、一つであると、主イエスは言われるのであります。
 それはなぜでありましょうか。一つには、私どもは、神に似せられて造られた、兄弟姉妹であります。その兄弟姉妹を、敵をも含めて、自分自身のように愛することは、神を愛することであるからであります。
 しかし、私どもは、皆不完全な者でありますゆえに、この二つにして、一つの一体の戒めを、完全に行うことはできないのであります。
 そこで、そのほかの多くの戒め、み言葉にも、耳を傾けていく必要があるのであります。そして、主イエスが、御受難を前にエルサレムの神殿の境内の今日のみ言葉を語っておられますことを、想起しなければならないのであります。

 すなわち、今日の二つの戒めが、果たされるために、主イエスは、十字架におかかりにならなければならなかったのであります。 主イエスの十字架の苦しみと死、そして、その死からのよみがえり、ご復活を通して、今日のみ言葉は、その成就を見出すことができるのであります。主イエスの十字架の死を通して初めて私どもは、真に私どもの隣人を自分のように愛しうるのであります。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

2017年11月7日火曜日

「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

2017115日(全聖徒主日聖餐礼拝―典礼色―白―)、エゼキエル書第371-14節、ローマの信徒への手紙第61-11節、ヨハネによる福音書第151-17節、讃美唱116(詩編第1161-19節)

説教「枯れた骨は生き返るか」(エゼキエル書第37章1節~14節)

 今日、私たちは、全聖徒主日を記念して集まっています。今年は宗教改革500年記念の年であります。マルティン・ルターが、時のローマ・カトリック教会の行っていた贖宥券の販売に対して反対して立ち上がったのは、15171031日であり、翌日の111日の全聖徒の日の礼拝に向けて、ヴィッテンベルクの城教会の門扉に95箇条の提題を張り出したと伝えられているのであります。
 それは、主イエス・キリストが、お出でになられ、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたとき、キリスト者の全生涯が悔い改めであることを示されたのであるという第1条から始まっています。そして、この提題が、全聖徒の日の礼拝の前日に張り出されたということには、深い意味があったのではないかと思うのです。
 今日は先に召された聖徒たちのことを思い起こす日でありますと共に、私たちの残された生涯について、思いをひそめる時でもあります。
 聖徒とは、いわゆる聖人君子というような意味ではなくて、自分が罪深い者であることを知らされて、洗礼を受け、キリスト者となったすべての人のことであります。
 今日は、第1朗読に与えられましたエゼキエル書第37章1節から14節までを通して、そこに福音を見出していきたいと思います。
 この記事、エゼキエルが見た幻がどのような時のことであり、場面でのことであったのかは、定かに記されてはいません。
 しかし、エルサレムが、バビロン帝国によって滅ぼされた紀元前587年以降のことであったのは確かでありましょう。神の民であったイスラエルの民が、神に対して罪を犯したゆえに、イスラエルの国は滅ぼされた、そして、バビロンへとエルサレムの主だった者たちは捕囚として連れて行かれた出来事が起こったのであります。それは、彼らの祖先が、エジプトに逃れたときに、そこで奴隷とされたときに、モーセによって出エジプトの出来事が起こったのに匹敵する、彼らにとっては今でも忘れることのできない挫折の出来事でありました。
 そこで、闇と絶望以外には、何も見出せない現実の中にあって、エゼキエル
に、枯れた骨の幻と主なる神からの預言の言葉が与えられるのであります。
 主の手が、エゼキエルの上に現れ、主の霊において、彼は、谷間の平地の真ん中に連れて行かれます。そして、そこは骨でいっぱいであった、しかもその骨は甚だしく枯れていたというのであります。
 どこかの戦場であったのでしょうか。丁重に葬られもせず、放置されて、その骨は、干からびており、無数であったというのであります。死は、神に背いた罪の結果であると考えられていました。神の呪いを受けたイスラエルの民の姿であったのでしょうか。
 そこに、主の霊において連れて行かれたエゼキエルは、主によって、あなたはこれらの骨が生き返ると思うかと尋ねられます。
 彼は、それはただあなたのみがご存じですと答えるしかありません。主は、これらの骨に生き返るように、預言して、霊に言いなさいと命じられました。そして、主の言われる通りに、預言しますと、これらの骨はカタカタと音を鳴らして、近づき始め、骨には筋肉がつき、その上のすべてに皮膚がかぶさったのであります。しかし、その中には霊はまだありませんでした。
 主は、彼に、四方から霊を、それらに向かって吹きつけるように預言して言いなさいと命じます。そして、その通りにすると、今度はその骨どもはしっかりと立ち上がり、その足で歩き始めます。そのとき、主の言葉がありました。
 これらは、イスラエルの全家である。彼らは、自分の希望は消え失せた、自分たちは滅びると言っている。
 しかし、私が、彼らを、彼らの墓から引き上げ、彼らの土地に連れ帰るとエゼキエルに預言して、告げられるのであります。そして、彼らは、私こそがまことに神であり、このことを語り、なしたことを知るようになると言われるのであります。

 死とは罪の結果であると聖書は告げています。しかし、その死をも、神は支配なさっておられます。土に息を吹き込まれ、霊を注がれて生きる者となった私どもは、枯れた骨となっても、命の主である神が、その霊を吹き込まれる時、死をも打ち破って、肉をまとい、霊が与えられて、新たな人間へと回復させることがおできになるのであります。それが、復活であります。 死の世界、地下の陰府の世界に降りた者は、生きる望みはないと、旧約の世界では考えられていました。しかし、エゼキエルは、そのような罪に陥って死んだ人類をも、主なる神は、命へと再び回復することがおできになることを、まことの神である主によって示され、その生かす霊に向かって、主が命じられた通り、預言しているのであります。主が語られたことは、その通りになるのであります。そのことを、私どもも信じて、主イエスが定められている善い働きにいそしむ者とされたいと思います。 人知では到底測り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。