2022年9月25日日曜日

「地上の国と神の国」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第16主日礼拝(緑)(2022年9月25日)
テモテへの手紙 Ⅰ 6章17-19節 ルカによる福音書 16章19-31節


私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 私たちは自分がいつどんな形で死を迎えるのかを知りません。しかし聖書には人が死んだ後のことについてしっかりと記されています。ヘブライ人への手紙9章27節に「人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが決まっている」と記されています。ただ、ここには裁きを受けた結果、どうなるのか具体的には記されていません。裁かれた後の苦しみが細かく具体的に記されているのは、本日読みましたルカによる福音書16章の「ラザロと金持ち」の例えだけなのです。

 この譬え話では、金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたと記されています。彼は自分がいつかは死ぬ存在であるとか、神様が自分のことを見ておられるとか、そういったことをすっかり忘れて、金持ちの生活に酔いしれていました。

 実は本日のこの例え話には前段階があります。イエス様が「神と富の両方に仕えることはできない」と警告されたのに対して「金に執着するファリサイ派の人々がイエスを嘲笑った」と記されています。「金持ちとラザロ」はそんなファリサイ派の人々に向けて語られたのです。

 そもそも、ユダヤ教においても「金に執着する」ことは戒められてきました。例えば、旧約聖書の箴言30章8節から9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」と書かれています。

 これは、金持ちになればなるほど「金があればなんでもできる」と思い込んで神様のことを忘れてしまうから、貧しすぎないくらいのほどほどの経済状態においてください、と祈りなさい、ということです。

 しかしファリサイ派の人々は、先祖から受け継いだ教えをあえて無視し、自分達の教えを素直に聞いて献金をしてくれる裕福な人々に向かって「あなたが金持ちになれたのは、神様が祝福してくださったからだ」と教え、さらに献金してもらえるよう図ります。愚かにもその教えを鵜呑みにした金持ちたちは、イエス様が罪人や病人、貧しき者に寄り添い癒しの業を行っても「貧しい人々は神様に祝福されてない」と考え、関わりを持とうとしませんでした。

 本日のたとえ話は、そんな金持ちの家の門の前に、ラザロという、できものだらけの貧しい者が横たわっていた、と何やら具体的な雰囲気を漂わせています。ラザロという名前に聞き覚えのある方もおられるでしょう。ラザロはヨハネ福音書にイエス様の知り合いとして登場します。ベタニアのマリアとマルタの兄弟で、死んで墓から蘇った人として記されています。

 「ラザロ」という名前は当時のイスラエルの一般的な名前ですが、「神様が助ける」という意味を持っています。イエス様はあえて哀れな人物にご自分の友人の名前をつけて話を進められました。一方金持ちは「金持ち」としか呼ばれていません。実はここがこのお話の大切なポイントです。

 例え話のラザロは貧しさと病の中、金持ちから全く省みられないまま死にます。彼を弔ってくれる親戚縁者はいそうもないので、遺体は人の目に付かぬところにうち捨てられたのでしょう。一方、間をおかず金持ちも死んで葬られます。

 印象としては、ラザロは苦しんだ挙句に空しく死んでいき、金持ちは最後まで充実した生涯を送った、と言うところでしょう。しかしイエス様がおっしゃるには、ラザロは天使たちによって天国の宴会の席に運ばれ、信仰の父であるアブラハムのいる食卓に招かれます。一方金持ちは陰府で苛まれながら過ごしているのです。この二人に、なぜこれほどに決定的な違いが起こったのでしょうか。

 少し読んだだけでは、贅沢に過ごしてきた金持ちが地獄に行って、可哀想なラザロが哀れみを受けて天国に行った、と解釈してしまいそうです。しかしイエス様は「金持ちはみんな地獄行きだ」などとめちゃくちゃなことを語っておられるのではありません。

 イエス様がこの例えで、貧しい人に「ラザロ」という名前をつけて語り出した時、それはこの「ラザロ」は私のよく知っている友人だ、という意味があったのです。地上の生涯は貧しく、病に苦しみ、最後の最後まで良いことがなかったとしても、彼は私の友達だ、とその名前を呼ばれるのです。イエス様にその生涯を覚えられ、優しく名を呼んでいただくこと、それは「私があなたを天の国に招くから何も心配するな」という意味なのです。ラザロが何か良いことをしたからではなく、イエス様が彼を認めたが故に、ラザロは永遠の神の御国に招かれたのです。

 一方、この金持ちは、ファリサイ派の人々の言葉に言いくるめられて今の生活に満足し、モーセが教え、ユダヤ民族に受け継がれてきた教えを蔑ろにしました。律法全体に記されている「あなたの隣人を愛しなさい」という教えを完全に忘れ去っていたのです。金を愛し富に仕える者は旧約聖書全体をないがしろにしている。それは、救い主を拒絶することなのだ、と警告しておられるのです。

 私たちはこの例え話から、救い主を拒絶することの恐ろしい結末を知ります。しかし私は大丈夫だろうか、といたずらに不安がることはやめましょう。むしろ、私たちを天国へ導こうと必死で名前を呼んでくださる唯一の方、イエス様に素直に身を委ねることの大切さを心に刻みたいと思います。

 日本にはキリスト者の数は少なく、理解者も多くはありません。それでも私たちは、イエス様に覚えられ、イエス様を覚え、イエス様の関わりに感謝し、救われ、あらゆることもイエス様の導きと信じるのです。イエス様の教えと愛を大切にするところには、必ず神の国があるのです。イエス様と共に私たちは神の国に今も、そしてとこしえにいるのです。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。

10月1日(土)の土曜学校は
「主の業につねに励みなさい」がテーマです
この時期、運動会を控えているため
幼稚園では毎年この聖句が選ばれます
土曜学校では神様のご命令に忠実に励んだ
「ノアのはこぶね」のお話をみんなで聞いた後
牛乳パックで船を作る予定です

2022年9月18日日曜日

「信者の資質」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第15主日礼拝(緑)(2022年9月18日)
テモテへの手紙Ⅰ 2章1-5節(385) ルカによる福音書16章1-9節(140)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。

 本日は「不正な管理人」の例えからご一緒に聞いてまいりますが、このお話の一つ前には「放蕩息子のたとえ」が語られています。放蕩した挙句にボロボロになって悔い改めて戻ってきた息子を、父である神様は心から赦し、迎え入れます。一方、ずっと実家に留まって働いてきた兄息子の方は、父親の寛大さに腹をたて、「あんなやつ弟とも思えない」と怒りをあらわにするのです。

 「ごめんなさい、と言って許してもらえるほど世の中甘くない」と、兄息子の考えに同意する方もおられるでしょう。それが正しいこの世のあり方だと主張する方もおられます。イエス様はそのような考え方があることもご承知の上で、弟子達に向かって、この「不正な管理人」のたとえをなさいました。

 このお話は一度聞いただけでは分かりにくく、弟子たちがなかなか理解できなかったからか、イエス様はこの話を何度も繰り返しなさったようで、その都度弟子たちは異なるところをポイントと捉え、それをそのまま書き記しました。

 それは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢く振舞っている」という警告であったり、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事に忠実である」という教えであったり、さらには「不正にまみれた富で友達をつくりなさい」という意外な切り口であったり、複雑な構成になっています。

 私たちにもこの例えは簡単には理解できません。私たちの頭の中には、キリスト教のイメージが定着していて、なんといっても「不正」という言葉そのものがイメージに全く馴染まないように感じます。とはいえ、イエス様が私たちに意味のないお話をするわけがありませんから、イエス様を信じて、深く理解する必要があるのです。

 わかりやすいように、例えに登場する人物を整理しますと、「金持ち」とは無限の富と恵みを持つ神様のことです。そしてその神様から財産を委ねられた「管理人」とは、一人一人のクリスチャンを指していると考えられます。そして「主人に借りのある人」とは「まだ神様の恵みに預かっていない周囲の人」と理解するのがよさそうです。

 管理人は、主人の財産を無駄遣いしていると告げ口されます。ピンチに陥った管理人は、主人に借りのある人の負債を減らして恩を売り、クビになった後の面倒を見てもらおうと考え、その計画を即実行に移します。その結果、主人の財産にさら損害を与えますが、主人はその行為を咎めるどころか「抜け目ない」と褒めたのです。
 
 この例えは「神様から豊かな恵みを任された私が、自分のためだけに使っているのがバレて責任を問われたが、保身のためとはいえ他人のためにそれを使った時、逆に神様からほめられた」というストーリーになっています。これを踏まえて、少しずつ見て参りましょう。

 まず初めに8節の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らより賢く振舞っている」についてです。「賢く振舞っている」というのは、目が開かれている、物事が良く見えている、という意味です。管理人は自分の置かれている状況を冷静に見て、自分の弱さも考えた上で、良い人間関係を築こうとします。やけになっている暇があったら利用できるものは利用する、という選択が「抜け目がない」ということです。

 9節の「不正にまみれた富」というのは、聞こえは悪いですが、世の中に流通している価値あるもの、お宝とか多額のお金と解釈できます。

 人間社会は清廉潔白に過ごすだけではお金儲けはできません。イエス様の教えを広げていくときでさえ、目的を達成するためには、お金がかかります。しかしこの世のお金は天から降ってくるわけではありません。計算高いと言われようが、なんと言われようが、融資してくれそうな人とギブアンドテイクの関係を築くのは大切なことです。

 一方だけに旨みのある事業に投資する人はいません。しかし、お互いに旨みがあるなら目的達成のためにスポンサーになってもらうことは可能です。この世で成功する人々は、そういったことをさらりとやってのけ、自分の夢を叶えたり、事業を拡大したりしていきます。ところが光の子、つまりクリスチャンは、信仰の世界にそういったことを持ち込むのは浅ましいと考えてしまって、手をこまねいてしまうのです。しかしその富やチャンスは神様が与えてくださったと受け止めるなら、同じ目的を持つ友を得て、目的を達成していくために、与えられた恵みを用いる必要があります。

 この世の中はどこからが悪で、どこからが聖なのか、きちんと線引きするのは困難です。そんな混沌とした世界に生きる私たちを、イエス様は召し出てくださいました。そして、私たちが自分の正しさにこだわりすぎず、時にはあえて闇の深いところところに踏み込んで、そこに光が差し込むように行動しなさい、と示されているのです。

 そのような時、もしかすると、この世の人々は自分の固定概念に照らし合わせて、「クリスチャンのくせに清らかじゃないなあ」と、私たちを不正な管理人を見るかのような目で見て、批判するかもしれません。けれども、私たちには御言葉を伝えていくという大切な役割があります。弟子としてやるべきことは、与えられたものをフル活用するように祈り、行っていくことなのです。

 その資質も、神様があなたに与えてくださったものです。今、この場所で、この時に、キリスト教信者として生きることを共に喜び、主の導きに歩んで参りましょう。

人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


この例え話について、興味深い説がありますのでご紹介しておきたいと思います。「主人」が神様であることは変わりませんが、この「不正な管理人」というのは「イエスさまご自身のことである」という説です。イエス様はこの世の権力者から不正をしたと決めつけられ、民衆からは「十字架にかけろ」と罵られたのです。


 イエス様は一人でも多くの人々を救うため、地上にお生まれになりましたが、人でありながら神の力を持つ、というのは確かに掟破りとも思われます。それでもイエス様は周りからなんと思われようと、ご自分の信念に基づいて多くの奇跡を行われました。


 世間から見捨てられた罪人に声をかけ、重い障害や病に苦しむ人々を癒やし、時には死者さえ蘇らせました。ある時はほんのわずかな食材で5000人を満腹にし、自然界の掟に介入して風や波を鎮められました。子どもだったら「ずるいなあ」と言いそうなくらいの超人っぷりです。ただ、それら全ては、人々の魂を神様の元に導くという目的を達成する、ただそれだけのためでした。


 しかし自分たちこそ正義だと考えるファリサイ人や律法学者、神殿の祭司たちはイエス様の行動の表面だけを見て、全くの律法違反、不正も極まりない、と考えます。伝統に凝り固まって頭の固い人々にとってはイエス様の行動は、神様の名を語り、怪しげな奇跡を行い、人々を正しいユダヤ教から異端へと連れ出しているように見えたのです。


 彼らはイエス様の目的を正しく見素人もせず、十字架にかけてそのお命を奪いました。しかし、信仰なき人の目には不正に見え、神様の恵みを勝手に利用しているだけに見えた、そんなイエス様の行いこそ、神様がもっともお喜びになる行動だったのです。


 何が「正」で何が「不正」なのか、視点を少し変えると、全く違うものが見えてきます。私たちイエス様の弟子達が常に見なければならないものは、イエス様が私たちのために、十字架に掛かってまでも見せてくださった永遠の命のある神の国なのです。



先週の火曜日、車の点検のため恵那市に向かいました。名古屋にいた時からお世話になっていた整備士さんが恵那の車屋さんに転職したため、車検も含めて引き続き色々とお願いしているのです。

作業が終わるまでの間、近くで「田んぼアート」が見られるというので、代車を借りて行ってきました。小高い丘に登り、展望台から見下ろすと、地上で見た時には想像もできなかった歌舞伎のキャラクターがはっきりと見えました。

たまたまですが、一時間に一本という明智鉄道の車両と一緒に写真を撮ることができました。




点検を終え、「この辺りなら栗だろう」ということで、栗の甘味で有名なお店へ立ち寄りました。コロナ対策のためか、喫茶スペースは広々としています。

目玉メニューとも言うべき栗パフェはなかなかのお値段でしたが、それだけの価値はありました。




日中は軽く30度を超える真夏日ながら、一足早い秋を満喫して帰ってきました。

2022年9月11日日曜日

「人類の価値」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(緑)(2022年9月11日)
テモテへの手紙 Ⅰ 1章15-17節(385) ルカによる福音書15章8-10節(138)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 ルカによる福音書に記された「失われた銀貨」の話は、有名な「迷える羊の話」や「放蕩息子の話」と同じテーマを持っています。しかし他の二つに比べて「銀貨」はそれほど有名ではありません。羊や息子と違い、自分の意思を持たない銀貨が、ただただこの女性の不注意によって失われ、転がっていった先でじっとしたまま、見出してもらうまで埃にまみれて待つ様子にあまり面白みを感じないからでしょうか。


 イエス様がお育ちになった地方では、女性が銀貨を10枚ワンセットの首飾りとして持つ風習があったそうです。銀貨に小さな穴を開け、紐を通して結んでいたようです。その価値を、聖書の巻末の通貨表に基づいて換算すると、ドラクメ銀貨一枚は今のお金で5,000円から1万円くらいになります。しかしある本にはドラクメ銀貨1枚は60円から100円ぐらいの価値、と書かれています。どちらが本当なのか調べてみましたが、結局よくわかりませんでした。


 しかし、イエス様がこのたとえでお伝えになろうとしたのは、金額の多い少ないではないようです。仮に1枚60円の価値しかない銀貨だったとしても、彼女にとってこの銀貨には何物にも変え難い価値があるのです。


 当時の女性の立場は低く、一般の女性は自分のお金というものを所有していなかったそうです。それどころか、妻自身も夫の所有物だったのです。そんな社会の中で、ただ一つの例外がこの首飾りでした。銀貨を10枚繋げた首飾りは結婚の時の持参金であったとも、夫になる人物からの婚約指輪のようなものだったとも言われています。この首飾りだけは女性の私有財産とされており、たとえその家の全財産が差し押さえられたとしても、勝手にこの首飾りを取り上げてはならないと定められていたようです。社会的立場の弱い女性にとって、この10枚のドラクメ銀貨は失ってはならない、大切な財産でした。


 銀貨一枚が1万円なら全部で10万円、それなりの価値があるとも言えますが、もし60円かそこら、という説が正しければ、10枚セットでも600円ほどの価値しかないことになります。彼女が経済的にこの首飾りに頼るのは無理があります。


 しかし嫁ぐ娘に両親が与えた精一杯の贈り物であれば話は別です。また、婚約者から、貧しくとも幸せな家庭を築こうと誓い合ってプレゼントされたものだとしたらどうでしょう。他の人間にはほとんど価値のないものでも、彼女にとっては何物にも代え難い宝物として、人生を支えてくれる首飾り、ということになります。


 これらは私たちには珍しい風習ですが、イエス様の周囲の人々は皆知っていることでした。ですから「ある女性がドラクメ銀貨の一枚を無くした」と聞いて「それはえらいことだ」と受け止めたのです。


 ただ、銀貨を見つけた女性が友達や近所の人を呼んでお祝いの宴会を開く、ということについては同意しかねたでしょう。そこまでやる必要はない、というのが普通の感覚です。しかし、ここでイエス様が語られたのは、一般人の話ではなく、「一人の罪人が悔い改めた時、神の天使たちがどれほど喜ぶか」という例え話です。


 失われた銀貨とは、神様から離れていってしまった魂のことであり、それが戻ってくるということは、神様にとって「お祝いの宴会を開」いてもなんら惜しくないほどに嬉しいことなのだ、と語っておられるのです。


 ここで語られた「見失った羊」、「放蕩息子」、「失われた銀貨」の3つのお話は、徴税人や罪人たちがイエス様のお話を聞こうとして集まってきた時、ファリサイ派の人々や律法学者たちがそれを批判したことから始まっています。

 彼らはイエス様に向かって「罪人と一緒に食事をしている」と不平を言い始めました。するとイエス様はエリートで常識人である彼らに向かって「あなたたちにとって徴税人や罪人たちなど何の価値もないだろうが、彼らが私の話に耳を傾け、悔い改めに導かれるのは、神様にとって天国で大宴会を開くほどに嬉しいことなのだ」と語られたのです。


 私たちは、かつて神様から離れ、思い思いの生活をしていました。そんな私たちが神様から見い出され、どのような犠牲も惜しくないほどに愛されたのです。私一人くらい神様は気にしない、と思うのは大きな誤りです。必死に探すその姿から、どれくらい愛されているかを心に刻んでいただきたいのです。

 そしてまた、イエス様は、「見つけ出した喜びを一緒に喜ぶ」ことを私たちに教えておられます。もし仲間の1枚が見当たらなくなってしまったら、神様と同じように心配し、再び10枚揃って一連の首飾りとして神様の胸元に飾られるよう祈って欲しいのです。揃わないことを単に嘆いたり、不揃いのものを排除しようとするのではなく、揃った時に、同じ価値のもの同士として喜ぶものになる。これがキリストの愛を受けているものができるキリスト者の価値なのです


 自分より劣っているものを排除し、優秀な遺伝子を残そうとするのが一般的な生き物の姿です。しかし神様がご自分の似姿として作られた人間は、優劣というものにもっと深い考えを持つことができます。社会通念ではどれほど劣って見えても、神様が愛するが故にその存在は尊いのだと信じられるのです。人類は神様の想いを汲み取って生きることができるからこそ価値があるのです。


 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言ってくださる神様に愛されて歩み、神様にとって価値ある者にふさわしい姿へと変えられて参りましょう。


人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


昨日は久しぶりの土曜学校でした

コロナの影響もあり、第一週の予定を急遽第二週に変更し

人数も上限10人、予約制といろいろ条件をつけたため

いつもより参加するお友達は少なかったのですが

寂しさなんて何のその

初めて参加してくれた年長クラスのMくんも

きちんと座って聖書紙芝居のお話を聞いた後

すごい集中力で、木片に色を塗って

かっこいいロボット人形を作り上げました

ご協力くださったMくんパパ、本当にありがとうございました

暑い中お手伝いくださった教会員の皆さんにも、心から感謝いたします!


初参加・年長クラスのMくんとパパ

みんなで和気藹々と


個性的なYちゃんの作品

1年生のDちゃんも頑張って完成!どことなく本人に似ています

2022年9月4日日曜日

「平静の信仰」日曜日のお話の要約

聖霊降臨後第13主日礼拝(緑)(2022年9月4日)
申命記30章15-20節(329)ルカによる福音書14章26-33節(137)


 現代社会は今コロナや戦争で閉塞感に満ち、物価の上昇も生活の苦しさに拍車をかけています。しかし、私たちはこんな時だからこそ、世の中に振り回されず、真の神であるイエス様の招きに素直に応じる決心をする必要があります。


 イエス様の招きの言葉を聞き、神様の想いの深さを理解するなら、聖書に予想もしないような厳しい言葉が刻まれていても、その中には神様の確かな理由があるのだと信じることができます。たとえ理解できないことが多くても、神様が無理難題を押し付けているのではない、と信じられるのです。


 本日ご一緒に読みました福音書には「父、母、妻、こども、兄弟、姉妹も、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」という非常に厳しい言葉が記されています。イエス様の弟子になりたいならば、家族であれ、富であれ、自分自身であれ、「これは自分のものだ」と主張してはならないと教えるのです。


 ここで使われている「憎む」という言葉は「より少なく愛する」と訳せる言葉です。全てのものの与え主である神様をあなたの持てる最高の愛で愛し、その他のものは、神様に向けるよりも、もっと少なく愛しなさい、という意味なのです。

 もし、この箇所を表面的に読むならば、「親より神様を大事にすることを勧めるとは何事か」と怒り出すでしょう。しかし、かつては支配者や権力者が、庶民に徹底した忠誠を誓わせた挙句、平気で家族を引き離し、犠牲にする時代がありました。今もそのような政治が行われている国はごまんとあります。


 権力者や支配者が、自分の地位が脅かされることを恐れ、兄弟だろうか子どもであろうが、命を奪ったり地位を奪ったりすることも珍しくありません。いざ戦いになれば家族を引き裂いて主人のために生きて帰れる見込みのない戦場へ送り込むのはごく普通のことでした。日本でも、そのような歴史は遠い過去のことではありません。


 しかし「私に従いなさい」とおっしゃる神様は、最高の権威を持つかたですから、ご自分の地位を守るために人を蹴落とす必要はありませんし、気まぐれや思いつきで人々を命の危機に晒したり、何かを取り上げたりする方ではありません。

 イエス様は神の子として、人間が持っている全ては神様がお与えになったものだとご存知でした。「父、母、妻、こども、兄弟、姉妹、自分の命」そして「自分の持ち物」。それらは人間が地上を生きる短い時間の間、神様から与えられた恵みであることを知ってほしいと、イエス様は願っておられたのです。そして、ご自分の弟子となるならば、神様のその想いを知ってほしいと言われたのです。


 しかし、イエス様ご自身も、人間にとって今持っているものへの過度の執着を立つことは非常に難しいことだと分かっておられました。「神様神様」と口にしていながら、いざ人生に辛いことが起きると、「あれほどお祈りしたのに叶えてくれなかった」と失望して神様から離れてしまう。一度手にしたものへの執着を断ち切るのは簡単ではない。人間にはそのような性質があることを知っておられたのです。


 ですから、イエス様を信頼し、弟子となってついて行きたいと望みが与えられたなら、その場の衝動で付き従おうとするのではなく、あえて一度立ち止まって考えなさい、と言われるのです。イエス様は「腰を据えて計算する」「腰を据えて考える」と教えておられますが「腰を据えて」とは、自分の頭でちゃんと考え、自分の意思で行動しなさい、という意味なのです。


 神様が最初の人間をお作りになった時、人間に自由な意思を与え、自由な行動を取ることを許されました。そしてたった一つだけ、この木からこの実を食べてはならないと掟を作られました。それは神様が人を愛するのと同じように、人間もまた神様を愛し、自分で考えて神様の思いに応えてほしいと願われたからです。人間が神様を愛するがゆえに、その愛に基づいて行動するなら、たった一つの掟を喜んで守ってくれるのではないか。神様はそうお考えになったのです。


 しかしその結果は悲惨なものでした。人間は与えられた自由意志を自分の好奇心を満たすことに用いて神様を裏切り、前から言い渡されていた通り、楽園から追放されることになってしまいます。神様は嘘や誤魔化しのできない方ですから、最初に人間と交わした約束をご自分から破ることができなかったのです。


 創世記には、悲しみながら楽園を去る人間に、神様自らが皮の衣を作って着せられた、と記されています。詳しくは書かれていませんが、神様が人間を愛し、見放すことができない様子が感じられる気がします。


 神様があなたを人として作り、生かし、イエス様の存在を通してせっかくご自分の元に招かれたにもかかわらず、神様の愛を正面から受け止めようとしていないのではないでしょうか。


 私たちが神様のことを最優先にして考える時、周囲の人々から、特に肉親に近い人から、冷たい言葉を投げかけられるかも知れません。一つの宗教にのめり込むことを嫌うことの多い日本人は、彼らの考える「正しい道」に引き戻そうとあれこれ意見してくるかもしれません。一番大事なのは、神様ご自身があなたに語り掛け、あなたを愛し、導こうとなさっているその声を聞くことなのです。


 もし、身内の無理解から悲しい思いをしたとしても、それこそあなたの十字架であり、あなたの歩むべき道なのです。そして、あえてその道を選び取るとき、何にも変えられないあなたの平静の信仰が与えられるのです。


 その信仰の道を歩むのは簡単なことではないでしょう。それでも、神様に愛されていることを覚えて歩むなら素晴らしいでしょう。今私たちは良いニュースの少ない世の中に生きていますが、全てを補ってあまりある神様に愛されており、ここは信仰によってそれを確信するもの達の集まりです。この信仰を一人一人が覚え、未来に歩んで参りましょう。



教会の植え込みには3種類のホスタ(ギボウシ)があります

順番に開花し、現在3番目が咲き誇っています

大きな花と素晴らしい香りに魅了されます