2022年9月11日日曜日

「人類の価値」(日曜日のお話の要約)

聖霊降臨後第14主日礼拝(緑)(2022年9月11日)
テモテへの手紙 Ⅰ 1章15-17節(385) ルカによる福音書15章8-10節(138)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。


 ルカによる福音書に記された「失われた銀貨」の話は、有名な「迷える羊の話」や「放蕩息子の話」と同じテーマを持っています。しかし他の二つに比べて「銀貨」はそれほど有名ではありません。羊や息子と違い、自分の意思を持たない銀貨が、ただただこの女性の不注意によって失われ、転がっていった先でじっとしたまま、見出してもらうまで埃にまみれて待つ様子にあまり面白みを感じないからでしょうか。


 イエス様がお育ちになった地方では、女性が銀貨を10枚ワンセットの首飾りとして持つ風習があったそうです。銀貨に小さな穴を開け、紐を通して結んでいたようです。その価値を、聖書の巻末の通貨表に基づいて換算すると、ドラクメ銀貨一枚は今のお金で5,000円から1万円くらいになります。しかしある本にはドラクメ銀貨1枚は60円から100円ぐらいの価値、と書かれています。どちらが本当なのか調べてみましたが、結局よくわかりませんでした。


 しかし、イエス様がこのたとえでお伝えになろうとしたのは、金額の多い少ないではないようです。仮に1枚60円の価値しかない銀貨だったとしても、彼女にとってこの銀貨には何物にも変え難い価値があるのです。


 当時の女性の立場は低く、一般の女性は自分のお金というものを所有していなかったそうです。それどころか、妻自身も夫の所有物だったのです。そんな社会の中で、ただ一つの例外がこの首飾りでした。銀貨を10枚繋げた首飾りは結婚の時の持参金であったとも、夫になる人物からの婚約指輪のようなものだったとも言われています。この首飾りだけは女性の私有財産とされており、たとえその家の全財産が差し押さえられたとしても、勝手にこの首飾りを取り上げてはならないと定められていたようです。社会的立場の弱い女性にとって、この10枚のドラクメ銀貨は失ってはならない、大切な財産でした。


 銀貨一枚が1万円なら全部で10万円、それなりの価値があるとも言えますが、もし60円かそこら、という説が正しければ、10枚セットでも600円ほどの価値しかないことになります。彼女が経済的にこの首飾りに頼るのは無理があります。


 しかし嫁ぐ娘に両親が与えた精一杯の贈り物であれば話は別です。また、婚約者から、貧しくとも幸せな家庭を築こうと誓い合ってプレゼントされたものだとしたらどうでしょう。他の人間にはほとんど価値のないものでも、彼女にとっては何物にも代え難い宝物として、人生を支えてくれる首飾り、ということになります。


 これらは私たちには珍しい風習ですが、イエス様の周囲の人々は皆知っていることでした。ですから「ある女性がドラクメ銀貨の一枚を無くした」と聞いて「それはえらいことだ」と受け止めたのです。


 ただ、銀貨を見つけた女性が友達や近所の人を呼んでお祝いの宴会を開く、ということについては同意しかねたでしょう。そこまでやる必要はない、というのが普通の感覚です。しかし、ここでイエス様が語られたのは、一般人の話ではなく、「一人の罪人が悔い改めた時、神の天使たちがどれほど喜ぶか」という例え話です。


 失われた銀貨とは、神様から離れていってしまった魂のことであり、それが戻ってくるということは、神様にとって「お祝いの宴会を開」いてもなんら惜しくないほどに嬉しいことなのだ、と語っておられるのです。


 ここで語られた「見失った羊」、「放蕩息子」、「失われた銀貨」の3つのお話は、徴税人や罪人たちがイエス様のお話を聞こうとして集まってきた時、ファリサイ派の人々や律法学者たちがそれを批判したことから始まっています。

 彼らはイエス様に向かって「罪人と一緒に食事をしている」と不平を言い始めました。するとイエス様はエリートで常識人である彼らに向かって「あなたたちにとって徴税人や罪人たちなど何の価値もないだろうが、彼らが私の話に耳を傾け、悔い改めに導かれるのは、神様にとって天国で大宴会を開くほどに嬉しいことなのだ」と語られたのです。


 私たちは、かつて神様から離れ、思い思いの生活をしていました。そんな私たちが神様から見い出され、どのような犠牲も惜しくないほどに愛されたのです。私一人くらい神様は気にしない、と思うのは大きな誤りです。必死に探すその姿から、どれくらい愛されているかを心に刻んでいただきたいのです。

 そしてまた、イエス様は、「見つけ出した喜びを一緒に喜ぶ」ことを私たちに教えておられます。もし仲間の1枚が見当たらなくなってしまったら、神様と同じように心配し、再び10枚揃って一連の首飾りとして神様の胸元に飾られるよう祈って欲しいのです。揃わないことを単に嘆いたり、不揃いのものを排除しようとするのではなく、揃った時に、同じ価値のもの同士として喜ぶものになる。これがキリストの愛を受けているものができるキリスト者の価値なのです


 自分より劣っているものを排除し、優秀な遺伝子を残そうとするのが一般的な生き物の姿です。しかし神様がご自分の似姿として作られた人間は、優劣というものにもっと深い考えを持つことができます。社会通念ではどれほど劣って見えても、神様が愛するが故にその存在は尊いのだと信じられるのです。人類は神様の想いを汲み取って生きることができるからこそ価値があるのです。


 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と言ってくださる神様に愛されて歩み、神様にとって価値ある者にふさわしい姿へと変えられて参りましょう。


人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。


昨日は久しぶりの土曜学校でした

コロナの影響もあり、第一週の予定を急遽第二週に変更し

人数も上限10人、予約制といろいろ条件をつけたため

いつもより参加するお友達は少なかったのですが

寂しさなんて何のその

初めて参加してくれた年長クラスのMくんも

きちんと座って聖書紙芝居のお話を聞いた後

すごい集中力で、木片に色を塗って

かっこいいロボット人形を作り上げました

ご協力くださったMくんパパ、本当にありがとうございました

暑い中お手伝いくださった教会員の皆さんにも、心から感謝いたします!


初参加・年長クラスのMくんとパパ

みんなで和気藹々と


個性的なYちゃんの作品

1年生のDちゃんも頑張って完成!どことなく本人に似ています

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