聖霊降臨後第16主日礼拝(緑)(2022年9月25日)
テモテへの手紙 Ⅰ 6章17-19節 ルカによる福音書 16章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが私たちにあるように。
私たちは自分がいつどんな形で死を迎えるのかを知りません。しかし聖書には人が死んだ後のことについてしっかりと記されています。ヘブライ人への手紙9章27節に「人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが決まっている」と記されています。ただ、ここには裁きを受けた結果、どうなるのか具体的には記されていません。裁かれた後の苦しみが細かく具体的に記されているのは、本日読みましたルカによる福音書16章の「ラザロと金持ち」の例えだけなのです。
この譬え話では、金持ちは、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたと記されています。彼は自分がいつかは死ぬ存在であるとか、神様が自分のことを見ておられるとか、そういったことをすっかり忘れて、金持ちの生活に酔いしれていました。
実は本日のこの例え話には前段階があります。イエス様が「神と富の両方に仕えることはできない」と警告されたのに対して「金に執着するファリサイ派の人々がイエスを嘲笑った」と記されています。「金持ちとラザロ」はそんなファリサイ派の人々に向けて語られたのです。
そもそも、ユダヤ教においても「金に執着する」ことは戒められてきました。例えば、旧約聖書の箴言30章8節から9節には「貧しくもせず、金持ちにもせず わたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き わたしの神の御名を汚しかねません。」と書かれています。
これは、金持ちになればなるほど「金があればなんでもできる」と思い込んで神様のことを忘れてしまうから、貧しすぎないくらいのほどほどの経済状態においてください、と祈りなさい、ということです。
しかしファリサイ派の人々は、先祖から受け継いだ教えをあえて無視し、自分達の教えを素直に聞いて献金をしてくれる裕福な人々に向かって「あなたが金持ちになれたのは、神様が祝福してくださったからだ」と教え、さらに献金してもらえるよう図ります。愚かにもその教えを鵜呑みにした金持ちたちは、イエス様が罪人や病人、貧しき者に寄り添い癒しの業を行っても「貧しい人々は神様に祝福されてない」と考え、関わりを持とうとしませんでした。
本日のたとえ話は、そんな金持ちの家の門の前に、ラザロという、できものだらけの貧しい者が横たわっていた、と何やら具体的な雰囲気を漂わせています。ラザロという名前に聞き覚えのある方もおられるでしょう。ラザロはヨハネ福音書にイエス様の知り合いとして登場します。ベタニアのマリアとマルタの兄弟で、死んで墓から蘇った人として記されています。
「ラザロ」という名前は当時のイスラエルの一般的な名前ですが、「神様が助ける」という意味を持っています。イエス様はあえて哀れな人物にご自分の友人の名前をつけて話を進められました。一方金持ちは「金持ち」としか呼ばれていません。実はここがこのお話の大切なポイントです。
例え話のラザロは貧しさと病の中、金持ちから全く省みられないまま死にます。彼を弔ってくれる親戚縁者はいそうもないので、遺体は人の目に付かぬところにうち捨てられたのでしょう。一方、間をおかず金持ちも死んで葬られます。
印象としては、ラザロは苦しんだ挙句に空しく死んでいき、金持ちは最後まで充実した生涯を送った、と言うところでしょう。しかしイエス様がおっしゃるには、ラザロは天使たちによって天国の宴会の席に運ばれ、信仰の父であるアブラハムのいる食卓に招かれます。一方金持ちは陰府で苛まれながら過ごしているのです。この二人に、なぜこれほどに決定的な違いが起こったのでしょうか。
少し読んだだけでは、贅沢に過ごしてきた金持ちが地獄に行って、可哀想なラザロが哀れみを受けて天国に行った、と解釈してしまいそうです。しかしイエス様は「金持ちはみんな地獄行きだ」などとめちゃくちゃなことを語っておられるのではありません。
イエス様がこの例えで、貧しい人に「ラザロ」という名前をつけて語り出した時、それはこの「ラザロ」は私のよく知っている友人だ、という意味があったのです。地上の生涯は貧しく、病に苦しみ、最後の最後まで良いことがなかったとしても、彼は私の友達だ、とその名前を呼ばれるのです。イエス様にその生涯を覚えられ、優しく名を呼んでいただくこと、それは「私があなたを天の国に招くから何も心配するな」という意味なのです。ラザロが何か良いことをしたからではなく、イエス様が彼を認めたが故に、ラザロは永遠の神の御国に招かれたのです。
一方、この金持ちは、ファリサイ派の人々の言葉に言いくるめられて今の生活に満足し、モーセが教え、ユダヤ民族に受け継がれてきた教えを蔑ろにしました。律法全体に記されている「あなたの隣人を愛しなさい」という教えを完全に忘れ去っていたのです。金を愛し富に仕える者は旧約聖書全体をないがしろにしている。それは、救い主を拒絶することなのだ、と警告しておられるのです。
私たちはこの例え話から、救い主を拒絶することの恐ろしい結末を知ります。しかし私は大丈夫だろうか、といたずらに不安がることはやめましょう。むしろ、私たちを天国へ導こうと必死で名前を呼んでくださる唯一の方、イエス様に素直に身を委ねることの大切さを心に刻みたいと思います。
日本にはキリスト者の数は少なく、理解者も多くはありません。それでも私たちは、イエス様に覚えられ、イエス様を覚え、イエス様の関わりに感謝し、救われ、あらゆることもイエス様の導きと信じるのです。イエス様の教えと愛を大切にするところには、必ず神の国があるのです。イエス様と共に私たちは神の国に今も、そしてとこしえにいるのです。
人智では到底はかり知ることのできない神の平安が、私たちの心と思いとを、主イエス・キリストにあって守るように。アーメン。
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