2024年1月28日日曜日

「聖なる地」(日曜日のお話の要約)

 教会総会礼拝【顕現後第4主日礼拝】(2024年1月28日)

申命記18章15-20節(309) 

Ⅰコリントの信徒への手紙 8章1-13節(309)

マルコによる福音書 1章21-28節(62)


 2000年前のイエス様の時代、イエス様を取り巻くユダヤ教の世界には二つの大きな勢力がありました。一つは、エルサレムにある神殿で、その場所は国の中心であり、その場所を守るために祭司、大祭司、サドカイ派が強い権力を持っていました。

 

 もう一つが、聖書と律法の専門家、ファリサイ人たちで、各地に造られたシナゴークと呼ばれる会堂で人々に聖書教育を行なっていました。立派な神殿があるにも関わらず、会堂のような教育機関があるのは、ユダヤ人の歴史に関係しています。イエス様がお生まれになる数百年前、イスラエルは大国バビロニアとの戦争に負けて国と神殿を失います。しかし彼らは強制的にバビロニアに移住させられてから、こうなったのは自分達の信仰が浅かったからだと悔い改め、再び信仰を取り戻します。


 もともと教育熱心な民族だったユダヤの人々は、他の国の文化に囲まれてもそれに染まらず、信仰を守るための教育機関を大切にしました。聖書に基づく物事の考え方は優秀な人物を生み出し、バビロニアの中枢を担うようになったユダヤ人さえいました。


 そして、やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされ、別の王様が治めるようになった時、ユダヤ人は奇跡のように祖国に帰ることが許され、焼け落ちた神殿を再びたてあげる事も許可されたのです。


 少し話がそれましたが、バビロニアでユダヤの人々が信仰と聖書を学んだ場所がシナゴーク、会堂で、帰国後もその必要性が認められ、神殿への巡礼の義務と並行して存続し続けたのです。


 キリスト教は、当初からユダヤ教の会堂のあり方を意識していました。大きく立派な神殿に、年に数回巡礼に行くよりも、週に一回、自分達の日常と密着した場所で御言葉を学ぶことを大切にしたのです。それはイエス様や弟子たちユダヤ人がそのような形で学びを積み重ねたことを聖書を通して知っていたからです。


 さて、本日の福音書に戻りまして、注目しておきたいのは、イエス様が神様の御子として活動なさるとき、そこに汚れた霊が出て来て、イエス様を妨害する力が働くということです。


 会堂にはなぜか汚れた霊に取り憑かれた男がいて、イエス様が聖書についてお教えになったとき、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫び始めます。もちろんこれはこの男性の本意ではなく、彼に取り憑いた悪霊がイエス様が何者なのかを見抜き、神様と関わることを拒否して「放っておいてくれ」「このままにしておいてくれ」とわめいたのです。


 この男性が会堂にいたと言うことは、悪霊に取り憑かれたままでも、信仰の集まりの中に混じってしれっと過ごせることを意味しているのかもしれません。ある意味「聖なる地」である会堂でも、こういうことは起こりうるのです。


 しかしイエス様の力強い御言葉を聴いたこの男性の中に、信仰的に生きたいという葛藤が生まれます。それを察知した悪霊はもっと強い力で男性を縛り付け、乗っ取ろうとしたのではなかったでしょうか。


 全てを見抜かれたイエス様は、この憐れな男性が神様との関係を取り戻せるように、悪霊に向かって権威をもって「黙れ、この人から出ていけ」とお命じになったのです。


 神様は悪霊に対して何の譲歩もなさいません。イエス様は神様を信じ、神様に従おうとしてもがく人を大切になさり、彼が神様と新しい関係を気付けるよう、仲介してくださったのです。


 私たち自身を顧みるとき、教会で礼拝していても、自分の欲望や、不安、迷い、そうしたネガティブなものを引きずったままのことも多いのです。それはこの男性と同じように悪い霊に取り憑かれているのと同じ状況とも言えます。


 苦しみ悩みを神様に委ねるのではなく、そういったものに気を取られたままで礼拝に集うなら、きっとイエス様は私たち一人一人の心にある悪霊に向かって「この人から出ていけ」と命じられ、ここが変わりなく「聖なる地」であり続けられるよう計らってくださることでしょう。


 不安や心配を数えるなら尽きることはありません。だからこそ私たちは、話し合い、祈りあい、事に当たってまいります。この教会に集まる者として、礼拝の恵みに預かるものとして、「聖なる地」この教会の運営について、御心として関わって参りましょう。


次の土曜学校は工作はお休み
教会員の中にお茶の先生がおられまして
↑こんな企画を立ててみました
教会員の皆さんの協力を得ながら
土曜学校はがんばります

2024年1月22日月曜日

「キリストの招き」(日曜日のお話の要約)

顕現後第3主日礼拝(2024年1月21日)

ヨナ書3章1-10節(1447) 

Ⅰコリントの信徒への手紙 7章29-31節(308)

マルコによる福音書 1章14-20節(61)


 本日の物語は、ガリラヤ湖の4人の漁師たちが、イエス様に招かれて弟子となる出来事です。舞台となったガリラヤ地方は昔からユダヤ人以外の人々も多く住んでおり、独特の方言もありました。さらにイエス様の時代はローマに支配されていて、伝統的なユダヤの雰囲気が感じられない場所でした。


 ユダヤ人は唯一の神様への信仰を大切にする民族でしたが、ガリラヤ地方に生きる人々は、その土地柄から世俗と信仰の狭間にありました。他民族との争いに巻き込まれてきたガリラヤ人は、信仰も伝統も独特でしたし、他民族に支配される屈辱に耐えきれずに過激な独立運動を展開する「熱心党」を生み出しました。


 そんなガリラヤ地方に生きる人々は、他の土地のユダヤ人たちからは軽蔑されていて、特に神殿のある中心都市エルサレムからは「異邦の町ガリラヤ」と呼ばれ、「神様から捨てられた者たちの集まる場所」というレッテルを貼られていました。


 とはいえ、エルサレムで重要視されている信仰スタイルは、実際にはかなり形骸化していました。聖書の中でしばしば指摘されるように、祭司やファリサイ人たちの言いなりになっていれば、世間的には信仰的に立ち振る舞うことができました。イエス様はそのような形骸化した中心都市ではなく、信仰的脱落者の集まりとも言えるような「異邦の町ガリラヤ」を選び、伝道を開始されたのです。


 この地でイエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」と宣言されます。この言葉を最初に語ったのは洗礼者ヨハネでした。ヨハネは「神の国が間も無く来るから備えなさい」という呼びかけでした。しかしイエス様は、元々の言語を調べますと、もっと強い語り掛けの言葉を選んでおられます。「信じているならこっちへ一歩踏み出しなさい」というようなイメージを感じさせる言葉です。イエス様ご自身が神の国の支配者、神様そのものだからこそ、力強く言い切ることができたのです。


 さて、イエス様の招きを受け入れたガリラヤの4人の漁師は、生粋のガリラヤ人です。彼らは洗礼者ヨハネの存在は当然知っていました。ヨハネに比べれば神殿の祭司たちが語る信仰が薄っぺらく見えたでしょうし、彼ら自身、自分の信仰の弱さも感じ取っていたことでしょう。


 このままガリラヤで漁師として生きていていても、食うに困ることはないし、歳を取っても何か漁に関わる仕事をしていれば、一生なんとか生きていけるだろう。しかし、それでいいのだろうか。


 このままでいい、という思いと、もっと信仰的に生きたいという思いが、心の中に渦巻いていました。そのモヤモヤこそがこの4人の男たちに与えられていた神様からの啓示だったのです。彼らの心ががまるで見えるかのように、イエス様は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられたのです。


 イエス様のお言葉は、この4人の漁師にとって、網を捨てるほどに、また、父や雇い人、そして舟を残してでも、イエス様に従うことを「良し」と思わせました。


 自分の内側に神様への、一本筋の通ったしっかりした信仰を育て、それによって自分らしく偽りなく、生きることができる。その生き方を教えてくれるのは、どこかのエリート集団などではなく、今自分の目の前にいるイエス様なのだ。そう信じたからこそ、彼らは一歩前に出てイエス様の招きを受け入れ、イエス様を信じる道へと踏み出したのです。


 心のうちにある葛藤をどうしたりょいかわからない人々、そのような人々をご自分の元に招くことがイエス様の使命でもあったのです。


 イエス様は、立派な神殿はあるのに、救われない人の多さ、聖書はあるのに本質を捉え損ねている人の多さ、神様を蔑ろにしてサタンに囚われたようになっているこの国の人々の有様を心から悲しまれました。


 世の人々は、誤解と偏見で凝り固まり、あるいは自分を誤魔化して今の状態に満足しているふりをしています。イエス様が大声で「悔い改めて福音を信じなさい」と神の国に招かれても、素直に受け止めてはもらえません。


 すべての人々が神様の思いを真正面から受け止め、神様のみ言葉が中心となる社会を築いていくには、ガリラヤの漁師のような、迷いの中にある人々をコツコツと招いていくことが必要であると、見極められたイエス様は彼らを真っ先に弟子としてスカウトされたのです。


 イエス様ご自身の人生は、人の目から見て大成功とは思えません。それどころか懸命に人々に尽くした末に無実の罪で捉えられ、鞭打たれ、十字架にかかって命を落とされたのです。しかしそれはご自分が悩める人々の人生のお手本となるためでした。


 何かに失敗し、怒りや妬みで、与えられた人生を棒に振ってしまいそうになる人々に向けて、それでも、神様の導きはあなたにあり、あなたもまた、神様の招きを受けてますよと伝え、その業を愛をもっておこなうなら、世界が変わることをお示しになったのです。


 私たちもまた、そのようなイエス様に招かれました。私たちクリスチャンはイエス様と同じ使命を持っていて、何度挫けても、与えられた使命を投げ出さないで立ち向かっていく役割が与えられています。


 私たちが迷いの中にあるからこそ、イエス様はさらに近づいてくださいます。そんなイエス様に私たちももう一歩近づき、キリストと親しく交わり、ここに神の国を建て上げて参りましょう。そして、イエスは主であると告白する群れを形作って参りましょう。



礼拝堂に飾られた蝋梅
固かった蕾が室内に置いている間に
ほころび始めました
明後日くらいから雪の予報ですが
春はもうすぐそこまで来ています


2024年1月18日木曜日

「キリストとの出会い」(日曜日のお話の要約)

顕現後第2主日礼拝(2024年1月14日)

サムエル記上3章1-10節(432) 

Ⅰコリントの信徒への手紙 6章12-20節(306)

ヨハネによる福音書 1章43-51節(165)


 2024年がスタートして2週間経ちましたが、被災地で今も困難の中におられる方のためにお祈りいたします。


 教会ではクリスマスシーズンも終わり、小さな赤ちゃんだったイエス様が成長され、ご自身で弟子集めをなさる段階へと差し掛かりました。本日の聖書個所では、ナタナエルという人物がイエス様の弟子に招かれる様子が描かれています。最初、フィリポがイエス様に招かれ、ナタナエルにイエス様を紹介します。フィリポは「聖書で約束された救い主」と語り、イエス様の価値を強調します。ナタナエルは友人のフィリポが適当なことを言う人間ではないと知っていましたから、この言葉に目を輝かせたことでしょう。ところがフィリポは「それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」と言うのです。


 ナタナエルは、フィリポより旧約聖書に精通していたと思われ、即座にミカ書の5章1節を思い出します。そこには「ベツレヘムからイスラエルを治めるものが出る」と書かれていました。ナタナエルは「ガリラヤのナザレ出身の人物が救い主のはずがない」と失望します。


 ところがフィリポはナタナエルをイエス様へと招くことを止やめようとせず「来て、見なさい」と誘い続けます。「あなたにとって見る価値のあるお方だ、つべこべ言わずに見ろよ」と言わんばかりです。


 教会では伝道方法について、友人を誘う「アンデレ伝道」や「フィリポ伝道」という方法が昔から言われてきました。アンデレにしてもフィリポにしても、自分よりも実力があったり、聖書知識があったりする人物を説得したり言い負かして連れてくるのではなく、相手に馬鹿にされたとしても「とにかく来なさい、来ればわかる」と情熱を持って誘うのです。


 もしかしたら、あなたは救い主なんて必要としていないかもしれない。救い主の導きや助けがなくても、一人でやっていける人にさえ見える。けれども、私はなんとしてもあなたにイエス様と出会ってほしいのだ。言葉ではうまく説得できないけれど、とにかく連れて行きたい。そんな情熱が感じられるのです。


 そして、イエス様はご自分のもとに誰かを連れてこようとする人の情熱を無駄になさらない方です。ですからフィリポがナタナエルを自分の元に連れてきた時、その思いを大切にしてくださいました。そしてナタナエルのことを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と評価なさったのです。


 現在「イスラエル」というと良いイメージがありませんが、ここでイエス様の言われる「まことのイスラエル人」というのはもちろん褒め言葉です。そしてここで言われる「イスラエル」というのは創世記に登場するヤコブという人物に神様が直接お与えになった名前です。


 ヤコブことイスラエルは、大胆なことをやるかと思えば心弱く悩んだり、信仰深いかと思うとずる賢くなったり、複雑な性格を持っています。ヤコブは長男の権利欲しさに兄を裏切ったことから命を狙われ、旅に出て野宿する羽目になります。ところがその場所で天と地を結ぶ階段の夢を見ます。


 壮麗な階段を御使が昇り降りしているのを見て恐れ慄くヤコブに、神様は「私はあなたを見捨てない」と語りかけてくださいます。これは讃美歌にも歌われている有名な聖書箇所です。51節でイエス様が言われる「天使や人の子が昇ったり下りたりするのを見る」とは、創世記28章でヤコブが見たこの幻のことを指しています。


 現在のイスラエルの国の樹はオリーブですが、イチジクは葡萄と共に平和と繁栄の象徴です。この日、ナタナエルはイチジクの木の下で祖国のことを想い、救い主や来たるべき王のことを求めて祈っていたのではないでしょうか。


 そしてイエス様はナタナエルがどこにいたかを千里眼のように見抜いただけでなく「イチジクの下にいた」と言い添えることで、その思いまで見抜かれたのではなかったでしょうか。


 ナタナエルは驚き、「あなたはイスラエルの王です」と服従の姿勢を示します。その時イエス様から「あなたは私を通して天の国が分かるようになる」と言われます。それが「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇ったり下ったりするのを、あなたがたは見るようになる。」という言葉に込められています。


 ここで言われる「人の子」というのは、イエス様のことを指しています。先ほどお話ししたヤコブの見た天の階段の夢は、神が人のいる地上へと降り、人間と交流してくださることを示します。主イエス様は、ご自分が天と地をつなぐ階段の働きをする、つまりイエス様が、人と神との架け橋になる、と言っておられるのです。


 ナタナエルは理知的、またインテリであるが故に、自分の頭で納得しなければ動けないタイプの人だったかもしれません。しかし、フィリポに導かれてイエス様と出会い、結びつくことによって、今までにも増して神様との繋がりが強くなっていくことを次第に感じるようになったことでしょう。


 私たちは、自分の足りないところばかりが目について、引け目を感じることがあります。そして自分みたいなものは聖書を学んでもしょうがない、とか、自分よりもっと優れた人に伝導を任せた方がいい、と考えたりします。しかし、そうした思いはイエス様を、神様を悲しませるだけだと心に刻みましょう。


 むしろ、あなただからこそ「来て、みなさい」と誰かをキリストの元へ導き、出会いをセッティングすることもできるのです。こうして神の国は近づくものになるのです。



幼稚園の工事が進んでいます。

既存の建物は結構揺れます。

牧師間の食器棚の中身もカタカタ揺れています(^^;)


現在の幼稚園の裏手です
2台のショベルカーの大競演です

2024年1月7日日曜日

「全世界の救い主」(日曜日のお話の要約)

聖餐式・主の顕現礼拝(2024年1月7日)
イザヤ書60章1-6節(1159) 
エフェソの信徒への手紙 3章1-12節(354)
マタイによる福音書 2章1-12節(2)


 本日は顕現節の礼拝、「イエス様が神様の御子として公に現れた」ことを記念する礼拝です。この礼拝では伝統的にマタイ福音書の中から「三博士のイエス様への訪問」の出来事が朗読されます。

 このとき学者たちを導いた星について、近代の天文学では、「ハレー彗星のことではないかとか」とか、「木製と火星が重なった時ではないか」と幾つかの仮説が立てられています。

 当時、旧約聖書は古代からの知恵の詰まった書物としてイスラエル以外の近隣諸国でも、広く知識人に読まれいました。ですから夜空に輝く星が現れた時、聖書に預言されたどえらい王様が誕生した、と気づいた政治家たちがいたはずです。「これは並の人物ではない、挨拶に行かねば外交問題に発展するかもしれない」と考え、お祝いの意思を表明するために学者たちを派遣した可能性があります。

 つまりはこの東の国の学者達は、ただの占い師ではなく、また好奇心に駆られて単独で旅をしたのでもなく、外交的責任を担って東の国を出発した、それなりの地位のある人々だったと思われます。そのお祝いの品が、どこの国でも宝物として通用する黄金・没薬・乳香だったのでしょう。

 ただここにちょっと興味深い仮説がありまして、派遣された学者たちは自分の国のトップから非常に重い責任を負わされています。任務が失敗した場合、政治家たちから首を刎ねられる危険性を知っていました。ですから、いざとなったら逃亡して自分の身を守ろうと、国王から託された宝物の他に、自分の資産を黄金・没薬・乳香に変えて隠し持っていたのではないか、という説です。

 さて、それはそれとしまして、当時のイスラエルはローマの支配下に置かれ、独立もままならない状況でしたから、預言通りの素晴らしい指導者の誕生はイスラエルの人々に歓迎されているはずだと学者たちは考えました。ローマから国の独立の前祝いにお祭り騒ぎが繰り広げられているに違いない、と予想したのです。

 しかし、その思い込みが彼らに道を間違えさせてしまいます。学者たちは、目を曇らせて方向を間違え、ベツレヘムではなく王宮のある首都エルサレムへと向かったのです。しかしエルサレムではお祭り騒ぎなど起きてはおらず、輝く星を見失った学者たちはエルサレムで救い主はどこに生まれたのか、と尋ね求めたのです。

 学者たちの来訪は、イスラエルを治めるヘロデ大王の耳に届きます。これはヘロデにとっては喜ばしい知らせではありませんでした。ヘロデは元々ユダヤの正当な王族ではなく、政治的手腕を発揮してローマの後ろ盾を得、イスラエルの王座についていたのです。

 彼は疑い深く残忍な人物でしたが、王様としてはユダヤ人の人気を得ようと、ユダヤ人の信仰の中心である神殿の大改築をおこないました。そんなヘロデだったからこそ、聖書に記された救い主は、非常に邪魔な存在でした。

 救い主が素晴らしい存在であればあるだけ、できるだけ早いうちにその芽を摘み取っておこうと考えたのです。そこで自分の側近たちを呼び寄せ、その星はベツレヘムにありと突き止めさせます。

 そしてエルサレムでまごまごしている占星術の学者たちをスパイのように使おうと王宮に呼び寄せます。博士たちはそんなこととは知らずにヘロデ王に接見し、東の国で見た星の話を語り、「拝みにきた」と言います。

 そこでヘロデは救い主がベツレヘムに生まれたであろうことを伝え、救い主一家を突き止めるように要求します。表面的には「私も行って拝もう」と謙虚で敬虔な言葉を述べますが、腹の内では、イエス様を殺すことだけを考えていました。

 学者達は、自分達が見込み違いをしたことに気づいたものの、そこで挫けることなく、新たな思いをもって導く星を見つけ旅を続けます。彼らが星に導かれたのは神殿でも王宮でもなく、ただの小さな家でした。イエス様がお誕生されてから既にある程度日が経っており、この一家は家を借りで貧しいながらも新しい生活を営んでいたようです。
 そのような一家の元に、東の国の学者たちが突然訪れ、ひざまづいたのです。学者たちは今度こそ間違えませんでした。「救い主なら立派な家にいる」という思い込みに惑わされなかった彼らの長い長い旅はようやく終わりました。彼らを導き続けた星もようやくお役御免です。学者たちは自分を派遣した王様から預かった「宝」を全て、この貧しき、幼い、イエス様の為にささげます。

 そして、先ほどもお話ししましたが、自分達の身を守るために隠し持っていた個人財産、黄金・没薬・乳香まで惜しげもなく捧げたのではなかったかでしょうか。

 学者達は、自分の祖国の安泰だけでなく、全世界の安泰、救いとは何かと深く考えながら旅をしてきました。そして星に導かれてイエス様に出会い、この幼子を通してなされる神様の業、愛の業を、信仰の目によって見ることができたのでしょう。学者達は、これからイエス様がたどるご生涯については何も知りません。しかし全世界はこの方によって救われると確信し、喜びに溢れたのです。

 私たちは、その時より2000年を超えた時代に生きています。私たちの目の前には輝く星どころか、次から次へと苦難や困難が現れ、苦渋の決断を強いられます。それでも私たちは神様によって集められたこの地にあるイエス様の弟子集団です。

 私たちは世間一般の常識では無謀なことに挑もうとしているのでしょう。しかし、2024年そして2025年が飯田教会にとって新しい飛躍の年になるために、あらゆる苦難を前に祈り、主に導かれていることを覚えつつ共に歩んで参りましょう


この土曜日は今年初めの土曜学校でした
12人のお友達が集まってくれました
松ぼっくりを使ったスキー人形を
楽しく作りましたよ

この二人は最年長のお姉さん
さすがに上手に作ってくれました

二人の後ろには、今日でお片付けをした
ツリーと、その星が輝いています





見本はこんな感じでした


2024年1月1日月曜日

「すべての人への救い」(日曜日のお話の要約)

降誕節第1主日礼拝(2023年12月31日)

イザヤ書61章10-62章3節(1162) 

ガラテヤの信徒への手紙 4章4-7節(347)

ルカによる福音書 2章22-40節(103)


 ルーテル教会では礼拝の最後に「今、わたしは、主の救いを見ました。」と歌います。これはヌンクディミティスと呼ばれ、「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という意味です。今から1500年前、キリスト教がローマの国教として認められた頃歌われ始めた曲で、ルカによる福音書2章の「シメオンの賛歌」にメロディをつけたものです。


 聖書では「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます」となっています。シメオンは「神様が与えてくださった救いは全ての人に与えられる準備が整いました、ありがとうございます」と言っているのです。


 このシメオン、そして36節に登場するアンナは普通の老人ではありません。彼らには神様から救い主の誕生を示す役割を与えられていました。特にシメオンは「メシア、すなわち救い主イエス様と会うまで決して死なない」とのお告げを受けていました。救い主がこの世に来られた時、その大きな喜びをユダヤの人々に告げる役目を果たすために、彼らは長い長い間、祈りを絶やすことなく生きてきたのです。


 だからこそ、イエス様とその家族を目にし、赤ちゃんのイエス様をその腕に抱っこした時、待ち続けた時がついに終わり、神様を信じる民が救われる時がやってきた、という確信が喜びと共に表されます。


 普通に考えれば長生きするのは喜ばしいことですが、シメオンにとって、いつ終わるともしれない重たい役目を負わされて生きるのは辛い日々だったでしょう。そこから解放され、神様が迎えに来てくださる喜びをリアルに歌ったのです。


 ただ、ここで一つ不思議に思うことがあります。シメオンが見たのは、母マリアの懐に抱かれた幼子のイエス様です。生まれて40日を過ぎたばかりの小さな赤ん坊で、こちらが手を差し伸べなければ何もできない無力な存在だったのです。


 さらにいえば、この日マリアとヨセフが神殿に持ってきた捧げ物は非常に貧しいものでした。それでもシメオンは心のうちに神様の「お前には分かる、この子こそ救い主なだ」と響く声を聞いたのです。シメオンは幼子をうれに抱いて祝福し、アンナも近づいてきてこの出来事を賛美すると多くの人々に救い主の誕生を知らせに出かけたのです。


 シメオンとアンナは聖霊の導きに従って、貧しく一見平凡な家族に偏見を持つことなく、この一家こそ救い主の家族であると見抜いたのです。偏見に曇らない、こういった眼を持つことは、神様の僕には何より大切な事だったのです。


 ただ、シメオンはこの家族を手放しでほめそやしたわけではありません。それどころか、母マリアに辛い言葉を伝えます。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められている」と宣言されるのです。それだけでなく、「反対を受けるしるしとして定められています。」


 これはイエス様が指導者として厳しい道を歩まなければならない、との宣言です。もし普通の家族なら、生まれたての赤子に対して、なんて言うことを言うのだと憤慨するかもしれません。しかしこの家族はその言葉を受け入れました。マリアが天使から受胎告知を受けて以来、短い間に彼らを襲った信じられないような出来事の連続に、二人はは少々のことでは驚かなくなっていたのかもしれません。


 こうしてこの家族は、このシメオンの言葉を受け止めます。ただ者ではないイエス様の育ての親として、泥臭く、挫折を味わいつつも、イエス様のために自分に与えられた役割を担って生きると決めたのです。そしてそこには十字架に続く苦難の道がすでに計画されていたのです。


 誰でも良いことをすれば報いが得られると考えたいものです。しかし、私たちも知っている通り、イエス様は生涯をかけて良いことをして多くの人々を救ったけれど、その一方で悪気や嫉妬が生まれ、善意は悪意で返され、苦難を受け、ついには十字架に掛かるのです。


 しかし、シメオンが語るのは、そのような生き方、そのような人生になったとしても、その苦難の中に神ご自身がおられ、役目を全うしたイエス様を手本にせよと呼びかけるのです。


 私たちは苦難の中にあっても、別の視点で生き方を見直す力を神様から常に与えられています。シメオンは自分の命の終わりを感じつつ、次の世界をイエス様に託し、満足したことでしょう。人々の目にはまだ何一つ始まっていないように見えても、彼の目には神様の見せてくださる光景が遥かに時を超えて写っていたのです。


 さて、先週のクリスマスには、朝も夕方も、飯田教会に関わりを持つ人が多く集まってくださいました。礼拝に出席した最高齢は私の義理の母で95歳、一番小さい方は0歳、二人は軽く握手をしていました。


 どちらもいわゆる「この教会の人」ではありません。しかし神様に呼び集められ、わたしたちの教会がはるかに世代を交代して未来につながっていく様を見せてくださったようにも思うのです。


 来年は園舎完成という喜ばしいことがある一方で、では教会はどうなるのか、という不安に押しつぶされそうな時もあります。教会完成までの道は決して簡単でないことはみなさんご承知の通りです。しかし私たちは心を一つにして、イエス様による「すべての人の救い」を述べ伝えてまいりましょう。そこに神様の祝福があることを信じて共に歩んで参りましょう。



2023年最後の日曜日は大晦日。

2024年の新年礼拝と連続して出席する人は僅かでした。

それでも日ごろ来られない方が新年礼拝に来てくださったことは

大きな喜びでした。


コロナ禍の前は、飯田教会も他の教会と同じように

帰省したお子さんたちを連れて教会に集い

ぜんざいなどを食べる風習がありました。

しかしコロナ禍が開けたら(?)親御さんは高齢化していて

教会にお子さんを引っ張ってくるパワーが出ない、そんな感じでしょうか。

牧師は一人でも来る可能性があるなら礼拝の準備をして待ちますし

ZOOM配信の準備もしています。

ご一緒に神様を賛美できる時を大切にしてまいります。

どうぞお顔を見せてくださいね。


新年礼拝の一コマ