2024年1月28日日曜日

「聖なる地」(日曜日のお話の要約)

 教会総会礼拝【顕現後第4主日礼拝】(2024年1月28日)

申命記18章15-20節(309) 

Ⅰコリントの信徒への手紙 8章1-13節(309)

マルコによる福音書 1章21-28節(62)


 2000年前のイエス様の時代、イエス様を取り巻くユダヤ教の世界には二つの大きな勢力がありました。一つは、エルサレムにある神殿で、その場所は国の中心であり、その場所を守るために祭司、大祭司、サドカイ派が強い権力を持っていました。

 

 もう一つが、聖書と律法の専門家、ファリサイ人たちで、各地に造られたシナゴークと呼ばれる会堂で人々に聖書教育を行なっていました。立派な神殿があるにも関わらず、会堂のような教育機関があるのは、ユダヤ人の歴史に関係しています。イエス様がお生まれになる数百年前、イスラエルは大国バビロニアとの戦争に負けて国と神殿を失います。しかし彼らは強制的にバビロニアに移住させられてから、こうなったのは自分達の信仰が浅かったからだと悔い改め、再び信仰を取り戻します。


 もともと教育熱心な民族だったユダヤの人々は、他の国の文化に囲まれてもそれに染まらず、信仰を守るための教育機関を大切にしました。聖書に基づく物事の考え方は優秀な人物を生み出し、バビロニアの中枢を担うようになったユダヤ人さえいました。


 そして、やがてバビロニアがペルシャに滅ぼされ、別の王様が治めるようになった時、ユダヤ人は奇跡のように祖国に帰ることが許され、焼け落ちた神殿を再びたてあげる事も許可されたのです。


 少し話がそれましたが、バビロニアでユダヤの人々が信仰と聖書を学んだ場所がシナゴーク、会堂で、帰国後もその必要性が認められ、神殿への巡礼の義務と並行して存続し続けたのです。


 キリスト教は、当初からユダヤ教の会堂のあり方を意識していました。大きく立派な神殿に、年に数回巡礼に行くよりも、週に一回、自分達の日常と密着した場所で御言葉を学ぶことを大切にしたのです。それはイエス様や弟子たちユダヤ人がそのような形で学びを積み重ねたことを聖書を通して知っていたからです。


 さて、本日の福音書に戻りまして、注目しておきたいのは、イエス様が神様の御子として活動なさるとき、そこに汚れた霊が出て来て、イエス様を妨害する力が働くということです。


 会堂にはなぜか汚れた霊に取り憑かれた男がいて、イエス様が聖書についてお教えになったとき、「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫び始めます。もちろんこれはこの男性の本意ではなく、彼に取り憑いた悪霊がイエス様が何者なのかを見抜き、神様と関わることを拒否して「放っておいてくれ」「このままにしておいてくれ」とわめいたのです。


 この男性が会堂にいたと言うことは、悪霊に取り憑かれたままでも、信仰の集まりの中に混じってしれっと過ごせることを意味しているのかもしれません。ある意味「聖なる地」である会堂でも、こういうことは起こりうるのです。


 しかしイエス様の力強い御言葉を聴いたこの男性の中に、信仰的に生きたいという葛藤が生まれます。それを察知した悪霊はもっと強い力で男性を縛り付け、乗っ取ろうとしたのではなかったでしょうか。


 全てを見抜かれたイエス様は、この憐れな男性が神様との関係を取り戻せるように、悪霊に向かって権威をもって「黙れ、この人から出ていけ」とお命じになったのです。


 神様は悪霊に対して何の譲歩もなさいません。イエス様は神様を信じ、神様に従おうとしてもがく人を大切になさり、彼が神様と新しい関係を気付けるよう、仲介してくださったのです。


 私たち自身を顧みるとき、教会で礼拝していても、自分の欲望や、不安、迷い、そうしたネガティブなものを引きずったままのことも多いのです。それはこの男性と同じように悪い霊に取り憑かれているのと同じ状況とも言えます。


 苦しみ悩みを神様に委ねるのではなく、そういったものに気を取られたままで礼拝に集うなら、きっとイエス様は私たち一人一人の心にある悪霊に向かって「この人から出ていけ」と命じられ、ここが変わりなく「聖なる地」であり続けられるよう計らってくださることでしょう。


 不安や心配を数えるなら尽きることはありません。だからこそ私たちは、話し合い、祈りあい、事に当たってまいります。この教会に集まる者として、礼拝の恵みに預かるものとして、「聖なる地」この教会の運営について、御心として関わって参りましょう。


次の土曜学校は工作はお休み
教会員の中にお茶の先生がおられまして
↑こんな企画を立ててみました
教会員の皆さんの協力を得ながら
土曜学校はがんばります

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