聖餐式・顕現後第5主日礼拝・役員就任式(2024年2月4日)
イザヤ40章21-31節(1125)
Ⅰコリントの信徒への手紙 9章16-23節(311)
マルコによる福音書 1章29-39節(62)
本日の福音書にはイエス様がシモン、つまりペトロの姑とどのように拘られたかについて記されています。本日はそこから学んでまいりましょう。
私たちは日常生活が中断するような病に襲われることがあります。命をおびやかすような重病でなくても、発熱、頭痛、胃腸炎、腰痛などは日常的に私たちを苦しめますし、不調が長引けば精神面にも影響面を及ぼして鬱っぽくなったりします。
現代は病院に行かなくてもネットを用いて調べることができますが、検索しすぎてかえって自分は重病かもしれないと心配を始める人もいます。オロオロしている姿を見ると、とにかく一刻も早く病院で診断をつけて貰えば良いのに、と思うのですが、体の不調であれこれ思い悩むのは人間特有の弱さなのかもしれません。
ましてイエス様の時代となれば、医学はまだまだ発達していいません。ペトロの姑も自分の体調の不良に不安になり、必要以上に苦しんだとも考えられます。
時期的に考えて、彼女は娘の夫が長年やってきた漁師の仕事を辞めてイエス様の弟子になったことは知っていたでしょう。今後の生活はどうなるのか、娘はどうなるのか、などと考え始めればキリがなく、寝込んでしまったとも考えられます。ペトロとしては姑の心配を少しでも軽くするために、イエス様の素晴らしさや、自分の思いを話す必要があったでしょう。しかし、彼女はそれを拒むかのように寝込んでしまったのです。ユダヤ人は「熱が出るのは神様に背いたせいだ」という考え方がありましたから、姑もペトロもどうしたらいいか戸惑う状況だったでしょう。
本来ならこの日、姑もまた会堂で聖書から神様の教えを聞くはずでした。しかし、彼女は熱で寝込んでいて、出席することはできませんでした。礼拝が終わると、弟子達は姑の状態をイエス様に知らせました。これには理由があって、礼拝のある休みの日、つまり安息日に、人はどんな業もしてはならないと定められていたからです。弟子たちとしては、イエス様なら姑を治して下さるかもしれないと思っていても、イエス様に癒しの技を行わせるわけにはいきませんでした。
ですから、日没になって、安息日が終わってからイエス様を姑のところに案内し、癒しの業をおこなってもらおうと考えたのでしょう。しかしイエス様はその話を聞くと日没まで待たず、すぐに姑のところに向かい、彼女の手にとって、あっという間に癒してしまわれたのです。
言うまでもなくイエス様は神様です。「安息日には働かず神様への思いに集中しなさい」とお教えになったご本人です。だからこそ、ご自分はその掟に縛られることなく、自由に癒しを行われたのでした。
シモンの姑は、それまで直接イエス様と話したことはなかったかもしれません。ただ、周りの噂では、イエス様は慈しみに満ちた、裏表のない優れた先生、指導者であると聞いていたことでしょう。その方が、癒しの行為を行ってはならない安息日のうちに、自分の手を取って起こし、癒してくださったのです。ここで「手を取って」と訳されている言葉は、原文のニュアンスでは、「つかまえて」という意味合いです。
マルコはイエス様が何を捕まえたのかを、曖昧にしています。熱なのか、姑自身なのか。しかし彼女はこの時、このような自由な行動を取れるのは、イエス様が神様だからだ、と理解したのです。
時間さえも支配されている自由な存在、それは神様だから出来ること、その神様が私を捉えてくださった。私の手をとってくださった方が神様である以上、私はこのかたに仕え、自分のできることをする。今できるのは、この方が連れてこられた人々をもてなすことなのだ、それが神様から与えられた私の使命だ、と受け止めたのです。
後にペトロは自分の妻と宣教の旅行を行っています。その時、この姑が自分の娘を外国に送り出すことをどう考えたかはわかりませんが、どれほど寂しかろうと、送り出すことも神様に仕えることだと分かっていたことでしょう。
さて、日が暮れて安息日が終わりを告げると、癒しを求めて多くの人々がイエス様のところにやってきます。この人たちは、神様の掟を守って安息日を守る、きちんとしたユダヤ人に見えます。彼らはイエス様が優れた癒し人だと確信してやってきましたが、イエス様を神様だと信じているわけではありませんでした。それはまるで「このパワースポットに行けばご利益があるかもしれない」というようなあやふやなイメージです。
しかもそこに連れてこられた人の中には悪霊に取り憑かれた人いました。イエス様は悪霊が何か余計なことを言って人々を混乱させることをお許しにならず、取り憑かれた人からさっさと追い出してしまわれました。それは目を見張るような光景だったに違いありません。
今の時代、教会を何かありがたいパワースポットとしか受け止めない人もいるしょうし、楽しいことがある時だけやってきて、責任を負うようなことはしたくない、恩恵だけにあずかりたいという方々もおられるかと思います。そういった社会の中で、私たちはどれほど宣教しても理解されない日々を過ごすことになりますが、心挫けないでいましょう。
「イエス様は癒し主、イエス様は神様である」ことを信じぬいて参りましょう。そのうちに私たちの教会において、世の人が「新しい共同性の創出」の場として、ここを認識することになるでしょう。そして、その中からイエス様が手にとって、共に教会員として歩みだす人が現れてくることでしょう。
今日の土曜学校はいつもの工作をお休みして「おかしとおまっちゃいかがですか」と題した茶道の入門(?)の会でした。
教会員の田口さん(裏千家・助教授)が教えてくださいました。
初めての試みで、人数が集まるか心配でしたが、「一人でも来ればやりますよ」とのお言葉に甘えてしまいました。Hさん親子は元々茶道に興味があったとのことで二人で来てくださいました。「また参加したいです」との事、嬉しいです!この企画にも期待が持てます。
緊張しながらのお茶会だったけど お菓子おいしかったよね また参加してね |
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