2024年2月20日火曜日

「荒野での誘惑」(日曜日のお話の要約)

四旬節第一主日礼拝(2024年2月18日)(紫)

創世記 9章8-17節(11) 

Ⅰペトロの手紙 3章18-22節(432)

マルコによる福音書 1章9-15節(61)


 本日、読みましたマルコによる福音書は、「荒野の誘惑」としてマタイ福音書とルカ福音書にも記されていますが、他の二つに比べて実に短く記されています。


 イエス様が断食を終えてお腹を空かせているところにサタンがやって来たとか「石をパンに変えろ」とか「高い塔に昇って飛び降りろ」とか「サタンを拝め」と言った細かいやり取りは一切記されていません。


 あまりにもサラリと記されているので、イエス様はまるで何事もなかったようにやり過ごされた印象さえありますが、もちろん何事もなかったはずがありません。サタンの誘惑の種類が余りにも多くていちいち書ききれなかったのでしょう。


 むしろ、ここで著者であるマルコが読者に伝えたかったのは「どんな誘惑があったか」ではなかったのでしょう。イエス様を荒野に導き出したのは神様ご自身であること、イエス様はそれをご承知の上で40日間荒野にとどまり、サタンからの誘惑を受け続けられたこと。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていたこと。そのようにこの40日間の様子を伝えているのです。


 「野獣と一緒におられた」という一文は、旧約聖書を知っている者にとっては「天国」をイメージさせる言葉です。ダニエル書6章やイザヤ書11章には、獰猛なはずの獅子が、子牛や人間を傷つけることなく、大人しく、仲良くしている様子が記されています。


 これが聖書の描く神の国、天国のイメージです。本能や欲望のままに人間が支配する世界ではなくて、神様ご自身が支配されている世界。それがイエス様をとりまく世界にはあると伝えたのです。


 さて、ここには「天使たちが仕えていた」と書かれています。これは「天使たちが休みなく仕え続けていた」という意味です。マルコは他の福音書と違って、イエス様が断食して飢えていたとか渇いていたとかは記していません。原文のニュアンスでは、「天使たちが給仕していた」「給仕し続けていた」と読みとることができます。つまりは、イエス様は荒野においても、神様から必要な糧を頂き、喉の渇きを癒す飲み物も与えられていたということになります。


 荒野の誘惑のエピソードは、よく根性論と混同されてしまいます。イエス様が飲まず食わずで耐え忍ばれたことに倣って、私たちもあえて苦しい思いをすれば、神様に評価され、大きな祝福が受けられるという考え方です。しかしマルコはその考えを真っ向から否定しています。


 この聖書箇所でマルコが伝えたかったのは、「イエス様はこの荒野においても、神様が必要なものを与えてくださることを信じて疑わなかった」その1点なのです。


 みなさんは創世記の中で、最初の人間アダムが、神様から禁じられた木の実を食べてしまった記述をご存じでしょう。神様がアダムが楽園に住み続けるためにたった一つだけ提示した「これだけは食べてはならない」という約束をアダムは守れなかったのです。エバにそそのかされたとも受け取れますが、ようは自分の判断で、神様の思いから逸れてしまい、神様に逆らって罪を犯し、楽園から追い出されてしまいます。


 出エジプト記では、モーセに導かれたイスラエルの民が、荒野に歩み出した途端、パニックになりました。エジプトを脱出した時、苦労は覚悟していたはずなのに、食べ物が足りない、水がない、ないと文句を言い、挙句のはてに「こんなところで野垂れ死させる気か」と、モーセに詰め寄りました。神様が彼らを見捨てるわけがないのに、それを信じることができなかったのです。


 人間は食べる物、飲む物のことで失敗を繰り返します。生きていくために必要なものは神様が与えてくださると信じられないからです。しかしイエス様は違いました。イエス様は食べ物飲み物に限らず、全てを神様に信頼し、ご自分の命さえも神様に委ね切っておられたのです。


 これがマルコの伝えたかった究極の信仰論です。そして、これが十字架の死に至るまで宣べ伝えられたことなのです。殺されても死なない、3日後に蘇る、そして、天に昇る。私たちを信仰に導いて招くために必要だと神様がお決めになったことなら、全てを受け入れる。それがイエス様の信仰なのです。


 私たちはいつも不安の中にいます。今までの人生の中で、困難に陥った時、「不信仰な私をお許しください」と祈り、困難が過ぎ去った時、「神様が守ってくださったのだ」と感謝しても、次にまたピンチがやってくると同じことを繰り返す。これが私たちの弱さです。


 けれども、神様は、イエス様を信じる私たちには、イエス様と同じように天使がそばで仕えていて、それ以上に頼もしいイエス様がいてくださるのです。ですから私たちは心を静めて、日々、歩んでいくことがゆるされているのです。


 私たちはイエス様を信じる神の民として、何事にも動じずに祈り続け、示されたことを積み重ねていくしかありません。誰かを責めても答えは出ません。神様が私に与えた使命として歩むしかありません。神様の守りはあることを覚えて、この四旬節を過ごし、主の導きを共に見出して参りましょう。


2月25日、韓国の中学生グループが今年も

飯田教会の礼拝に来られるのですが

昨年に引き続き、天気はあまり良くないようです

礼拝後は皆さん観光に行く予定なので

雨に降られないといいですね(^^;)



韓国の中学生との交流礼拝に参加のルーテルキッズバンド
保護者のお一人が大学までホルンをおられまして
「ずっと吹いてなかったんだけど、やってみようかな」
と、持ってきてくださいました
すごく嬉しいです!
彼女は最初はベースを一から学んで
参加してくださったのですが
今はお嬢さんに譲っています
長女はドラムス、次女はベース、ママはホルン
すごいでしょ?

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