2020年4月29日水曜日

教会学校のお知らせ

心ならずも中断している教会学校
今年卒園したお友達と
今まで土曜学校に来てくれたことのあるお友達に
ハガキで通信を送ります

一人一人の上に神様の守りがあるように
そして、1日も早く一緒に集えますように、祈りを込めて


2020年4月27日月曜日

エマオのキリスト(日曜日のお話の要約)

復活節第3主日礼拝(2020年4月26日)
ルカによる福音書 24:13-21

 「こんな時代が来るなんて」。誰もがそう思いながら毎日を過ごしていることとと思います。もちろん飯田教会だけでなく、日本中、そして世界中に、「新型コロナウィルス」の影響が広まっています。
 安定していると思い込んでいた社会が、実は不安定だったと気づく時、人間は、何か確かなもの、変わらないものを求めようとします。そして宗教に助けを求めるものなのかもしれません。

 本日与えられました聖書箇所は「エマオのキリスト」と呼ばれる出来事です。
 イエス様が十字架にかかる直前まで、弟子たちは「イエス様がイスラエルの指導者になる」という夢を抱いていました。
 ここに登場する、クレオパという弟子、12弟子には属していませんが、同じようにイエス様の将来に絶大な期待をかけていたと思われます。ローマ帝国に支配されて属国となっているイスラエルを再び独立国家とし、ローマの国から自由にしてくれる、そんなリーダーを求め、その人物こそイエス様だと強く支持していたのです。
 イエス様がホサナの歓声に迎えられてエルサレムに入城した時、クレオパはどれほど喜んだことでしょう。ところがその方がユダヤ民族の指導者たちによって捉えられ、ローマ帝国の権力者に引き渡され、十字架につけられてあっけなく殺されてしまったのです。彼らが天地がひっくり返るほどの衝撃と失望を味わったのは当然のことだったでしょう。

 その時、ペトロをはじめとする中心的な弟子たちはイエス様を捨てて逃げ去りました。三日目に、勇気を振り絞ってイエス様の墓に行った女性の弟子達から、イエス様は復活したと伝言されても信じられず、部屋に閉じこもり続けるという有様だったのです。
 クレオパたちの口ぶりから、彼らもまた女性の弟子から直接復活の知らせを聞いたと思われます。しかし、やはりそれを信じることはできず、そっと隠れ家から立ち去り、エマオという村への道を歩いていたのです。
 エマオへは、エルサレムから60スタディオンの場所、と書かれています。エルサレムからおおよそ11キロ離れた村です。ここに彼らの住まいがあったのかも知れません。

 イエス様はすごい人だ、自分はその人の弟子になって、でっかいことをやるんだ、そんな風に故郷の人々に話していたかもしれません。それなのに、なんとも惨めな姿で自分の故郷に帰ることになってしましました。
 エマオの家族や友人に何をどう話そうか。イエス様という方の失敗だろうか。弟子たちの失敗だろうか。いやいや、自分達にもっとできることはなかったのだろうか。歩く道すがら、二人で論じ合う言葉はどんどん言い訳っぽくなり、そこには解決も救いもありませんでした。

 そのような二人に、復活したイエス様が近づいて一緒に歩き始めます。しかし、どうしたことか彼らはイエス様を認識できません。目が遮られていてイエスとは分からなかった、というのです。イエス様の十字架での無残なお姿があまりにも強烈で、心と頭に焼き付いて他のことが見えなくなったのかもしれません。彼らはイエス様がここにおられるなどとは想像することもできなかったのです。
 しかしイエス様はお構いなく、二人に、「今話している出来事はなんのことですか」と語りかけます。彼らは素直にイエス様のことや、自分たちが体験したことを話します。するとイエス様は「ああ、なんて物分かりが悪いんだ」とおっしゃって、旧約聖書の出来事を語り始めたのです。

 エマオへの距離から考えて、歩きながらイエス様が語られたのは、1時間か2時間ほどだったでしょう。旧約聖書は長い書物ですが、よく知っている人がテーマを凝縮して語ると、かなり短くすることもできます。
 それは、どんな苦難の中にあっても、どんな試練の時であっても、神様は共にいて救ってくださる、導いてくださる。ということに尽きます。
 神様の姿はいつも変わらず、変わるのは人間の罪の姿なのです。旧約聖書の人々は、ある時は神様を信じず、ある時は神様を軽んじ、ありとあらゆる罪を犯します。神様の御手を振りほどこうとして、むしろ苦難に陥った時も、神様は再び手を差し伸べてくださいます。旧約聖書には人間の罪深さと、それを見捨てられない神の愛が、歴史を通して描かれているのです。

 しかし、死という一点において、人間は神様を見失うのかも知れません。神様に従った結果として死が迫る時、どれほど強い信仰の持ち主でも、死んだら終わりじゃないか、本当に神はいるのか、と疑うのです。
 だからこそ、イエス様は十字架の上で死なれることによって、人間は死によって終わるのではなく、見捨てられたように見えたとしても、むしろ神の懐に入るのだということを証明されたのです。
 イエス様はそのようなことを一つ一つ、旧約聖書から引用してクレオパ達に解き明かしていかれたのでしょう。それは目の開かれるような経験だったに違いありません。彼らはイエス様とわからないまま、この謎の人物と離れがたくなり、もっと話をして欲しいと願ったのです。

 本日の福音書の終わりの部分で、「道で話しておられるとき、また聖書の説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えたではないか」という言葉を発して、クレオパ達はエマオからエルサレムに引き返します。時間も遅く、暗闇の中を、彼らはイエス様に灯していただいた信仰のあかりを失うことなく、感激と喜びを抱いて苦難の待つエルサレムへと、信仰の故郷へと戻って行ったのでした。

 聖書は、この世が終わるのではないかと思えるほどの出来事があったとしても、神の言葉は人々を励まし続けることを教えてくれます。たとえ本当にこの世の終わりが来たとしても、キリスト者はイエス様に迎え入れられるという確かな慰めがあるのです。
 主イエスは確かに復活し、神は生きて共におられる、とエマオの道で弟子達に教えられました。私たちも今、困難の途上の中にあっても、信仰を堅く保ち、この苦難の時を過ごして参りましょう。


園庭にある大きな銀杏の木と
牧師館の物干し台の間に綱を渡し
鯉のぼりを泳がせるのが
ルーテル飯田幼稚園流
風の強い土地なので
千切れんばかりに勢いよく泳いでいます

2020年4月26日日曜日

お知らせ

今朝の礼拝は
事情により牧師夫妻は自宅からSkypeで参加します
説教は信徒さんに代読してもらいます

説教要約は通常通り
明日の午後、こちらにUPする予定です
よろしくお願いします


Skype画面のスクリーンショットです

2020年4月20日月曜日

復活の主(日曜日のお話の要約)

復活節第2主日礼拝(2020年4月19日)
ヨハネによる福音書 20:19-23
 

 本日読んでいただきました箇所は、イエス様が弟子たちのところに現れ、「聖霊を受けなさい」と語りかけながら息を吹きかけられた場面です。

 聖書をよく読んでおられる方は、ここから二つの聖書箇所を思い出されるのではないでしょうか。

 一つ目は旧約聖書の創世記2章7節です。神様が最初の人間アダムを作られた時、その鼻に命の息を吹き入れられます。そうしてアダムは命あるものとなりました。
 ヨハネはこの箇所を引用したのです。よみがえられたイエス様が、弟子たちに息を吹きかけてくださったことで「彼らは再び命を与えられ、新しく生きるものとなった」、ということを告げているのです。
 この時弟子たちは、イエス様を殺したユダヤ人たちが自分たちをも殺しに来るかもしれないと恐れ、隠れ家に鍵をかけて閉じこもっていました。そのような彼らのところにイエス様は忽然と表れ、ご自分が確かに復活されたことを証しするために、十字架の上で傷つけられた、手と脇腹の傷跡まで見せてくださいました。
 その上で、彼らに息を吹きかけることで恐れを取り除き、生きる力を取り戻させ、信仰を強め、伝道する力を与えてくださったのです。怯え、傷つき、本当に土くれのようになってしまった弟子たちが、イエス様から息を与えられることによって、再び命ある、生きたものにななったのです。
 このことから、ヨハネ福音書のこの箇所は、「新しい創造の幕開け」とも言われています。

 では、ここから思い出される二つ目の出来事は何でしょう。それはペンテコステ、聖霊降臨の出来事です。ペンテコステといえば普通は使徒言行録2章4節の出来事を指します。
 ルカの著したこの使徒言行録によれば、イエス様のご命令によって、集まった人々は祈りを捧げ、イエス様が約束してくださった「聖霊なる神」が来てくださるのをひたすら待っていたのです。
 そこへ突然激しい風が吹いてくるような音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまります。この時を境に、彼らはイエス様の御言葉を広く伝えるために力強く立ち上がり、神様が導いてくださるところへ遣わされていったのです。
 ルカの記録したペンテコステの出来事と、ヨハネが記録した本日の箇所を比較してみますと、「聖霊を受ける」「イエス様に遣わされる」という、二つのキーワードが共通しています。そこからこの箇所を指して「ヨハネ福音書におけるペンテコステである」と説く研究者もいます。
 
 つまり、本日選ばれた箇所には「新しい創造の幕開け」、そして「ペンテコステの出来事」が重ね合わされてるのです。今、私たちにこの御言葉が与えられたことは偶然ではありません。

 私たちはこれから先、コロナウイルスのために、どれほどの期間、鍵のかかった家に閉じこもらなければならないのか誰にもわかりません。しかし、イエス様は会いに来てくださり、力を与えてくださいます。私たちが土くれのように希望を失っても、御言葉を通して取り戻させてくださいます。そして聖霊なる神は目には見えなくても、私たちが今何をなすべきか、導きを与えてくださいます。

  十字架に掛かられ、復活され、私たちに出会いに来てくださったイエス様は今も確かに共におられます。私たちがこのウイルスとの戦いに勝ち、再び自由になった時、イエス様に生かされたものとして、再び新しい世界を目指して、共に手を取り合い教会活動の歩みを、神の御心に沿いながら、歩んで参りましょう。その日が来ることを信じてまいりましょう。





飯田教会は市街地にありますが
ほんの数分車を走らせただけで
美しい田園風景が広がります





ここは梨畑のようです




先ほどまで強い雨が降っていたので少し傷んでいますが
花桃はまだまだ見頃です

2020年4月13日月曜日

主イエスはよみがえられた(日曜日のお話の要約)

マタイによる福音書 28:1-10
 みなさん、イースターおめでとうございます。
 このイースターの日、私たちはイエス様が復活したことだけを取り上げてお祝いするのではなく、あの十字架から復活なさったのだとが事実として受け止めてまいりましょう。

 私たちが、もし過越の祭を祝うためにあの日エルサレムにいたならば、イエス様が十字架に掛かった出来事を見ても、この人はどんな悪いことをしたんだろう、と思うだけでしょう。
 少しばかりイエス様のことを知っていた人であれば、「イエスは多少なりとも、神の愛を教え、伝え、実践したはずだが、有力者から反感をかったんだなあ、もう少し上手にやればよかったのに」と残念がったかもしれません。
 一方、イエス様に癒していただいた人々や、イエス様に社会改革の期待をかけていた人、イエス様を愛し慕っていた弟子たちや母マリアは嘆き悲しみ、恐れおののき、一体何が起こってこうなったのか、正しく把握することはとてもできなかったでしょう。
 そして、イエス様を陥れ、不当な裁判によって十字架にかけた権力者たちは、これで一安心、社会秩序を乱す邪魔者は消えた、と胸をなで下ろしていたはずです。
 要するに、あの日あのとき、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、そこに込められた神様のご計画を正しく理解している人間は誰一人いませんでした。そのような中で、イエス様はもっとも苦しい刑の一つとされる十字架刑を受け、肉体の苦しみだけでなく、誰にも理解されない絶望と苦しみを徹底的に味わっておられたのです。
 この苦しみと絶望があったのちの復活なのです。

 「復活」という出来事は、苦しみと絶望の十字架を通り抜けたのちの出来事であると受けとめることが何より大切なのです。
 たとえあなたが、世界中の誰からも理解されずに命を、世界中のすべての人から見捨てられたとしても、その苦しみをイエス様は知っておられる、わかってくださっている。そして神様はあなたの存在をしっかり受け止め、見守り、愛を注いでくださっているのです。
 ここにこそ、イエス様が犯罪者と並んで十字架にかけられた意味があることを心に刻みましょう。

 さて、では次に復活の出来事そのものについて見てまいりましょう。復活の朝の出来事は、福音書によって少しずつ異なっています。共通して登場しているのはマグダラのマリアが墓に行った、ということです。
 マタイ福音書では、二人のマリアが登場します。一人はマグダラのマリアで、もう一人は「もう一人のマリア」とだけ書かれています。ちなみにマリアという名前には「頑固、意思が固い」という意味があります。イエス様を信じ続けた頑固な二人の女性がおりました、とでも言いたいような言い回しです。
 この時代の墓というのは、崖の斜面にあいた洞穴を利用し、大きな石を転がして蓋をしていました。女性二人の力では到底開けることができません。しかし、この頑固者の二人のマリアは、イエス様が再三言われていた「私は三日目に復活する」という言葉を忘れることができず、周囲の人々が失望に沈んでいるのを尻目に、心を奮い立たせて出かけたと思われます。
 復活を心の底から信じていた、とは言えなかったでしょう。それでも彼女たちが自らの信仰で動いたことを神様は喜ばれました。神の使いである主の御使いが、イエス様の蘇りを証をするために、その墓の石を動かし、彼女達に「見なさい」と遺体のあった場所を示したのです。
 そして御使はさらに、イエス様の復活の予告を信じず、墓に来ようともしなかった男性の弟子たちに、この出来事を伝えるように命じたのです。
 彼女達は「急いで行け」と言われたものですから、岩だらけの墓場を走り出します。それはかなり危なっかしい状態だったでしょう。転倒すれば大怪我をします。イエス様はそれを見かねたのではなかったでしょうか。唐突に彼女たちの行く手を遮り、「おはよう」と声をかけられたのです。

 この「おはよう」、日本語ではなんだかのんびりしたように感じられますが、原語で言えば、「喜べ」の一言であります。イエス様は、彼女達に「今は喜べ」という、強い言葉で語りかけられたのです。マリア達が復活したイエス様の前にひれ伏し、礼拝した時、イエス様は、「今は喜べ」「今は喜べ」とお伝えになるのです。

 こうして、何があってもイエス様信じようとした女性達によってメッセージは運ばれました。
 マリア達からイエス様の復活を知らせを聞いた男性の弟子たちは、やがて絶望と挫折を通り抜け、希望のただ中へと歩みだしました。彼らのその後の人生は決して楽なものではありませんでしたが、喜びと力強さにあふれ、世界中に福音を広めていったのです。
 イエス様は今も、何があっても喜んで生きていけるよう、私たちを召し出してくださいます。今、苦しみに満ちた今の世界に、喜びを広げていくために、何をすべきか考える時なのです。一人一人の力は小さくても、できることは必ずあるはずです。その教え、その業を実践していくのは、神に召された私たちなのです。喜び、大いに喜べ、イエス様は、このような状況下にあっても、私たちに喜ぶよう命じておられます。

 イースターおめでとうございます。主の喜びは私たちと共にあります。
信じて受けて歩んで参りましょう。


今年は残念ながら教会学校のイースター祝会はできませんでした
せめてレゴで卵探しの情景を作って見ました
(妻が粘土で小さな卵をたくさん作ってくれました)


全体はこんな感じです
どこに卵があるか、わかりますか?


道に面した掲示板に飾っておくと
園児や保護者、道ゆく人が立ち止まって見てくれます


今年のポスターは
「ちょっとほのぼのする感じ」がテーマでした

2020年4月8日水曜日

受難週・集会中止のお知らせ

今週は、12日(日)のイースターを前に
イエス様が十字架にかかられたことを偲び
自らの罪を思い巡らす受難週です
そのための集会も準備しておりましたが
コロナウイルス感染拡大防止のため
休会といたします

木曜日の洗足礼拝
金曜日の受苦日礼拝
共に中止です

12日のイースターは
祝会は上記の理由で出来ませんが
礼拝の初めに聖餐式を行う予定です
ご出席の方は
受付でお名前記入後
手を洗ってから着席をお願いします

お一人お一人の行動がこれからの状況を左右します
主から知恵をいただきつつ
中止できることは中止する勇気を持って
日々過ごしてまいりましょう
来年のイースターには笑顔で集まれることを心から願っています

※毎週水曜日の聖書に学び祈る会も当分の間休会といたします


外出もままならない毎日ですが
教会の駐車場脇の植え込みでは
ハナニラが星を散りばめたように
可愛らしい花を咲かせています
別名「ベツレヘムの星」とも言うそうですよ



2020年4月6日月曜日

最後の晩餐(日曜日のお話の要約)

四旬節第6主日礼拝・主の受難(2020年4月5日)
イザヤ書50:4-9a マタイによる福音書26:26-30

 本日読みました聖書箇所は、レオナルド・ダビンチの作品でも有名な「最後の晩餐」です。ユダヤ人にとって非常に大切な「過越の祭り」での出来事です。

 過越の祭の起源はイエス様の時代より1000年以上前の出エジプトの出来事に遡ります。
 ユダヤの民はエジプトで奴隷となって生活していました。エジプトの王は何が何でもユダヤ人をエジプトから出すまいと決めていましたが、そこにモーセがリーダーとして登場します。モーセは神様がエジプトに次々と災いを起こすと告げますが王様は頑固なままです。そこでついに起きた10番目の災いは、エジプト中の長子が死ぬ、という恐ろしいものでした。

 その時ユダヤの民は、モーセを通してあらかじめ神様から指示を受けていました。家の鴨居に小羊の血を塗るように、子羊の血の印があれば、災いから逃れられる、そう聞いた人々はその通り行います。その上で、明日はエジプトから脱出できるという神様の言葉を信じ、旅の支度をして、指示に従って立ったまま、子羊の焼肉と膨らんでいないパン、苦菜、というメニューで食事をしたのです。

 その夜のうちに、子羊の血を塗らなかったエジプトの家の長子は皆死んでしまいました。エジプトの王様の長子も死んでしまったのです。怒り狂ったエジプトの王はモーセを呼び出し、ユダヤ人をエジプトから追い出します。
 エジプトにとっては恐ろしい出来事ですが、ユダヤの民にとっては解放の記念日となりました。それ以来、過ぎ越しの祭りは、大切なお祭りとして代々受け継がれていきました。

 ユダヤ人はこの食事会を家族単位で大切に行ってきました。しかしイエス様と弟子たちは故郷から遠く離れたエルサレムにいましたので、仲間とともに部屋を借りてお祝いすることとなったのです。
 そしてイエス様が主人役、つまりもてなす役をお勤めになりました。
 食事が次々と運ばれてくると、主人はそれにはどんな意味が込められているのか長々と説明するのが普通だそうです。先ほどの出エジプトのお話を思い出していただきたいのですが、例えば、子羊の前脚のローストは、神の強い手と過越しの羊を象徴する、といった風で、とにかく長い食事会になるようです。
 ですから、パンが運ばれてくると「これは私たちの先祖がエジプトの地で食べた苦難のパンである」と、先祖の体験について語り、それを終えてから、パンを裂き食べていくはずでした。しかしこの夜、主人役を務めたイエス様は「これはわたしの体である」と、実に覚えやすい一言に変えられました。
 これから先、この食事をするときには、エジプトから脱出した夜のことを思い出すのではなく、ご自分の体が人々のために引き裂かれたことを思い出すように、と言われたのです。
 これは弟子たちキリストを信じる者たちへの、新しい出発の宣言でした。あなたたちは先祖がエジプトから新天地へ旅立ったよりももっと遠くへ、もっと苦難の道を、福音を携えて歩き出すことになる、しかし、神様が必ず導いてくださる、と告げられ、それを覚えておくように、とパンを裂かれたのです。
 そして食事の後掲げられた杯は、感謝と契約の印でした。イエス様は、この時もシンプルな言葉に変えられました。ご自分があなた方のために血を流すから、それを信じるものはこれを飲みなさい、と言われたのです。
 キリストの集まりで、信じてこれを飲む者は誰でも、神の国に入り、全てを相続する権利をイエス様から与えらえる、とも告げられました。どんなに小さい子どもであっても、高齢者であっても、無知な人も賢い人も、一度この契約を交わしたならば、永遠に破棄されることはないのです。

 私たちは今、イエス様の姿をこの目で見ることはできません。しかし聖餐式に預かるたびに、イエス様がここにおられること、そしてこの食事の出来事を通して、神様が祝福しておられることを思い出すのです。
 
 本日私たちはこの世界が、国が、緊急事態の時に、聖餐の糧を受け、み言葉を聞くことを許されました。本来ならば、教会員、教会学校の生徒たち、幼稚園の先生など、全員で祝福を受けたいところではありますが、今の状況では難しいことです。しかし、聖書の言葉、約束の言葉は生きています。

 これから先、さらに事態が悪化すれば、皆で礼拝に集うことはさらに困難になります。
 しかしあなたを招いてくださるイエス様の、十字架の上に裂かれたお身体と流された血潮を忘れてはなりません。私たちは祈りつつ、話し合いつつ、どれほど困難な旅路であっても、約束の地である御国に向かって歩んで参りしょう。


園に桜の枝が届けられました
入園式の日、玄関に飾られました


例年とは違って4月2日(木)に簡素な入園式が行われ、
新しい子どもたちが仲間に加わりました
コロナによって中断することのないよう願っています