2020年4月13日月曜日

主イエスはよみがえられた(日曜日のお話の要約)

マタイによる福音書 28:1-10
 みなさん、イースターおめでとうございます。
 このイースターの日、私たちはイエス様が復活したことだけを取り上げてお祝いするのではなく、あの十字架から復活なさったのだとが事実として受け止めてまいりましょう。

 私たちが、もし過越の祭を祝うためにあの日エルサレムにいたならば、イエス様が十字架に掛かった出来事を見ても、この人はどんな悪いことをしたんだろう、と思うだけでしょう。
 少しばかりイエス様のことを知っていた人であれば、「イエスは多少なりとも、神の愛を教え、伝え、実践したはずだが、有力者から反感をかったんだなあ、もう少し上手にやればよかったのに」と残念がったかもしれません。
 一方、イエス様に癒していただいた人々や、イエス様に社会改革の期待をかけていた人、イエス様を愛し慕っていた弟子たちや母マリアは嘆き悲しみ、恐れおののき、一体何が起こってこうなったのか、正しく把握することはとてもできなかったでしょう。
 そして、イエス様を陥れ、不当な裁判によって十字架にかけた権力者たちは、これで一安心、社会秩序を乱す邪魔者は消えた、と胸をなで下ろしていたはずです。
 要するに、あの日あのとき、イエス様がなぜ十字架にかかられたのか、そこに込められた神様のご計画を正しく理解している人間は誰一人いませんでした。そのような中で、イエス様はもっとも苦しい刑の一つとされる十字架刑を受け、肉体の苦しみだけでなく、誰にも理解されない絶望と苦しみを徹底的に味わっておられたのです。
 この苦しみと絶望があったのちの復活なのです。

 「復活」という出来事は、苦しみと絶望の十字架を通り抜けたのちの出来事であると受けとめることが何より大切なのです。
 たとえあなたが、世界中の誰からも理解されずに命を、世界中のすべての人から見捨てられたとしても、その苦しみをイエス様は知っておられる、わかってくださっている。そして神様はあなたの存在をしっかり受け止め、見守り、愛を注いでくださっているのです。
 ここにこそ、イエス様が犯罪者と並んで十字架にかけられた意味があることを心に刻みましょう。

 さて、では次に復活の出来事そのものについて見てまいりましょう。復活の朝の出来事は、福音書によって少しずつ異なっています。共通して登場しているのはマグダラのマリアが墓に行った、ということです。
 マタイ福音書では、二人のマリアが登場します。一人はマグダラのマリアで、もう一人は「もう一人のマリア」とだけ書かれています。ちなみにマリアという名前には「頑固、意思が固い」という意味があります。イエス様を信じ続けた頑固な二人の女性がおりました、とでも言いたいような言い回しです。
 この時代の墓というのは、崖の斜面にあいた洞穴を利用し、大きな石を転がして蓋をしていました。女性二人の力では到底開けることができません。しかし、この頑固者の二人のマリアは、イエス様が再三言われていた「私は三日目に復活する」という言葉を忘れることができず、周囲の人々が失望に沈んでいるのを尻目に、心を奮い立たせて出かけたと思われます。
 復活を心の底から信じていた、とは言えなかったでしょう。それでも彼女たちが自らの信仰で動いたことを神様は喜ばれました。神の使いである主の御使いが、イエス様の蘇りを証をするために、その墓の石を動かし、彼女達に「見なさい」と遺体のあった場所を示したのです。
 そして御使はさらに、イエス様の復活の予告を信じず、墓に来ようともしなかった男性の弟子たちに、この出来事を伝えるように命じたのです。
 彼女達は「急いで行け」と言われたものですから、岩だらけの墓場を走り出します。それはかなり危なっかしい状態だったでしょう。転倒すれば大怪我をします。イエス様はそれを見かねたのではなかったでしょうか。唐突に彼女たちの行く手を遮り、「おはよう」と声をかけられたのです。

 この「おはよう」、日本語ではなんだかのんびりしたように感じられますが、原語で言えば、「喜べ」の一言であります。イエス様は、彼女達に「今は喜べ」という、強い言葉で語りかけられたのです。マリア達が復活したイエス様の前にひれ伏し、礼拝した時、イエス様は、「今は喜べ」「今は喜べ」とお伝えになるのです。

 こうして、何があってもイエス様信じようとした女性達によってメッセージは運ばれました。
 マリア達からイエス様の復活を知らせを聞いた男性の弟子たちは、やがて絶望と挫折を通り抜け、希望のただ中へと歩みだしました。彼らのその後の人生は決して楽なものではありませんでしたが、喜びと力強さにあふれ、世界中に福音を広めていったのです。
 イエス様は今も、何があっても喜んで生きていけるよう、私たちを召し出してくださいます。今、苦しみに満ちた今の世界に、喜びを広げていくために、何をすべきか考える時なのです。一人一人の力は小さくても、できることは必ずあるはずです。その教え、その業を実践していくのは、神に召された私たちなのです。喜び、大いに喜べ、イエス様は、このような状況下にあっても、私たちに喜ぶよう命じておられます。

 イースターおめでとうございます。主の喜びは私たちと共にあります。
信じて受けて歩んで参りましょう。


今年は残念ながら教会学校のイースター祝会はできませんでした
せめてレゴで卵探しの情景を作って見ました
(妻が粘土で小さな卵をたくさん作ってくれました)


全体はこんな感じです
どこに卵があるか、わかりますか?


道に面した掲示板に飾っておくと
園児や保護者、道ゆく人が立ち止まって見てくれます


今年のポスターは
「ちょっとほのぼのする感じ」がテーマでした

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